淡々とロストレイル内にアナウンスが響く。 ヒイラギはゆっくりとした動作で立ち上がり、これからのことに考えを巡らせた。 自分は、一体、どうしたいのだろうか? ――顔色が悪い、どうかしたのか この世で最も恐れ、敬愛する主から気遣わしげに声をかけられて咄嗟に戸惑ってしまった真実にヒイラギは憂鬱になった。 胸のなかにある言葉に出来ない気持ちをぶつけるなどできるはずがない。ましてやその理由を語るなど。 主は自分の力がどうして在るのか知っている。けれどその経緯を――自分はヤナギを見殺して、そして――考え方が柔軟で主と笑いあうことが出来たヤナギの顔が、主の笑みと重なって言葉を封じる。 真実を知った主が自分をどう思うのか。それを考えることが恐ろしくて平気なふりをしたが、結果ますます心配されてしまい、己の汚さに吐き気すらした。 心優しい主に見送られて、ヒイラギは自分自身のために旅立った。 自分が行ったことを見るために、インヤンガイへ。 御面屋は望みを果たした。 狂った暴霊から深い憎しみによって鬼と化したシロガネに殺されて、満足したのだろうか。きっと、満足したのだろう。 しかし、それを自分は止めたかった。 命が重い、軽いということではない、シロガネと自分は似ていると感じたからだ。 双子だったこと。彼女は姉に常に負けていたこと――面の技術でも、男性にも選ばれたのも姉だったこと。それゆえに嫉妬し続け、自分は不要だと罪悪感にまみれて生きていた女。 自分も同じだ。ヤナギは主に好かれていた。では、自分は? なにもかも同じなのに。主の横で笑えない。ああはなれないのだと理解するからこそ気が狂いそうになるほどに激しい嫉妬が心を支配した。その嫉妬から自分は見殺した、のかもしれない。 シロガネは姉の死を願い――偶然か、奇跡か、祈りはインヤンガイの神に聞き届かれてしまった。 ヒイラギは生きて主の傍にいて、気を向けてもらえている。シロガネは姉になりかわった。けれど、 二つあれば、選ばれるのは一つしかない。 そしてようやく選ばれても心は休まらず、安寧からはほど遠い。自分も、そして絶望に溺れた彼女も。一度の祈りが、抱えていた願いが、生きたまま地獄に自分を落としてしまった。 そんなつもりではなかったなんて言い訳だ。 駅がある大通りは賑やかだ。物売りたちの声、遊びまわる子ども、掏りや恐喝やらと腹黒い人も多い。それを横目にヒイラギは進む。 ふと路地の片隅に置かれたバケツに飾られた銀花に目を奪われた。一瞬どうして気になったのか自分でもわからなかったが手になにも持っていないのだと気が付くとゆったりとした足取りで屋台の花屋に近づいた。 「この花は?」 「シロガネですよ」 「シロガネ?」 「ええ、こっちはイバラギでね、姉妹花ですが、イバラギのほうが見栄えがよくてね、シロガネは残っちまうんで、まとめてバケツにおいてるんですよ。こんな花、気にするなんて珍しいですね」 小さく可憐な、まるで翼を広げた蝶のような花だった。その横にあるイバラギは細く長い薄青の花弁をたらした百合に似た花で人の目を引き付ける美しさがあった。 「男前さん、女性に花だったら、イバラギのほうが見栄えもいいし、安く」 「いえ。シロガネをください。ここにあるバケツの分をすべて」 一本だけを選ぶにはヒイラギは、頑固すぎた。 花店の主に頼んでうまい酒場の場所を聞きだし、曲がりくねった道を進み、ようやく一軒の店についた。戸をひくと薄暗い店内に店員がいた。 「なにをお求めで?」 「酒を、一つ。お任せしてもいいですか? 出来れば、お墓にもっていくものなんですが」 ヒイラギの言葉に店員は心得たように頷くと、お待ちの間、どうぞあいている椅子に、とすすめられて素直に腰かけると店員は数分ほどして白紙に包まれた酒瓶をもってあらわれた。 「ルイシャです。別れの酒と言われています」 「別れの」 「別れたものが折り合いをつけるためにある酒です。さぁ、この一杯はまずあなたがお飲みください」 「しかし」 「そういう習わしなんです」 「……わかりました」 酒瓶から小さな器に注がれた透明な酒をヒイラギはゆっくりと流し込む。喉を焼くような強烈な喉越しだが、するりっと自分のなかに堕ちてきた。 「さぁ、どうぞ」 「ありがとうございます」 酒瓶をヒイラギは受け取った。 あのとき、絶望したシロガネの手をとることが出来ればよかったのか? それとも、あのとき、御面屋を強引にも連れてかえればよかったのか? それとも、もしくは……「もしも」という可能性が頭をちらつきつづけた。 自分は常にその場、その場で最善を掴みとる努力をし続けてきた。しかし、ここにきて自分は本当に関わるべきだったのかと後悔が頭をもたげた。 自分が選んだ行動がなにもかも裏目、裏目に出てしまい、こうなってしまった。まるで疫病神だ。 シロガネに関わったのは彼女の境遇、いや、抱えていた罪悪感が己と似ていたから、美龍会に肩入れをしたのもそのためだ。 救ったら許される? ちがう。そんなものは求めてはいない。 ただ―― ただ? ヒイラギの底にある黒いそれが笑う。普段は心の底に隠しているのに、ルイシャを飲んだあとから――酔ったのか? 珍しい。判断力の低下するような僅かな陶酔が心を覆う。 はやくみとめちまえよ、お前は救われたかったのさ。なかったことにしたかったのさ。 と うるさい黙れと言い返しても、それは黙らない。むしろ、ヒイラギが聞きたくないことばかり口にする。珍しく感情が高ぶり、制御が出来ない。いけないと必死に冷静な己が自制する。 ここはインヤンガイだ。油断すれば頭から飲み込まれる。 だんだんと人の数が減っていき、とうとう建物だけになってしまったのにさらに進むと黄色いテープが通路に貼られ、そっけない文字で【封鎖】と書かれた紙が貼られていた。 ヒイラギはまわりを見回すが、見張りなどはいなかった。 街が滅んでからまだあまり日は経っていないのに、美龍会、鳳凰連合の生き残り、もしくは街から逃れた者がいれば暴行される可能性は考慮していた。主ため以外では死ねない。しかし、傷は、許されるはずだと言い訳をした。 しかし。 覚悟したようなことはなかった。 あっけないほどになにもなかった。 それがヒイラギに罪を思い知らせる。 インヤンガイが街ごとに独立性を高めたのはいついかなるとき街に災いが降りかかっても逃れられるためだ。 滅んだ街は周囲の街によって閉鎖され、捨てられて、忘れ去られていく。 インヤンガイは死にゆくものを覚えているほどに慈悲深くはない。悲しみに溺れている者が生きていけるほどに生易しくもない。だから街には忘れてしまうための明るい陽があるのだ。 ヒイラギが求める、咎めを親切に与えるほど、インヤンガイの人間は暇ではない。 これは自分のものなのだとヒイラギは改めて再確認する。 痛みも、苦しみも、己の作った道なのだ。誰かに許しを願っても、それは叶わない。シロガネは死んだ。美龍会も、鳳凰連合の者も、 ほら、おまえせいじゃないか! お前が下手をうったから、残念だったなぁ? 誰もお前を責めちゃくれないぜ? そろそろ、主に泣きつきに帰るかい? 黙れ! ヒイラギは千里眼で街を見回し、建物のひとつに転移した。 本当は境界線までと思ったが、動いていた。幸いにも結界が張ってあっても己の能力があればなかにはいることは不可能ではない。 滅んだ経緯を思えば暴霊の危険はある。すぐに自分を中心に異能阻害を、どれくらい気休めになるかわからないが。 そっと優しく降り立ったのは高層ビルの屋上。街のすべてが見渡せる。 死んだ街は静かで、まるで死人の腸のように冷やかだ。風が吹き髪を揺らす。燃える太陽の茜色が世界を染めて、沈む。傷ついた人が流す血のように赤く、激しい憎悪と絶望をかためような朱に、泣いても泣いても終わらない涙のような橙に。 ヒイラギも染められる。持っていたシロガネの花が風に揺れて散っていく。 さらさらと。 手を伸ばして止めようとしても間に合わない。 生きるとは、こうして流れていくようなもの。 花びらのように散ってしまう。間に合わなくて、とどめたいと思っても出来ない。 後悔は自分一人で抱えるしかない。人生には間に合わないことが多多ある。ヤナギを見殺したように、シロガネの手を掴めなかったように。 だから、それを背負うしかない。自分を苦しめ、何度も立ち止っても。それを誰かが引き受けてくれることもなければ、許してくれることもないのだから。 シロガネの花びらはすべて散り、空のなかを漂って街のなかに降り注ぐ。 街の果てに太陽が完全に消えるのを見届けてヒイラギは再び転移して、死闘を繰り広げた現場に訪れた。 壺は割れてしまった。そして鬼となったシロガネ。あのままほっておけば彼女はもっと人を殺しただろう。 出来るだけ後悔が少ない道を、選ぼうとして失敗する。 別れの酒を杯に注いでゆっくりと地面に置いた。 どこかで声がしてヒイラギはぎくりと振り返った。慎重に進んだ建物の奥に微かに気配がして覗き込むと黒い世界に不似合な明るい着物の娘がいた。 「あなたは」 しゃくりあげていた少女が顔をあげた。疲れ果て、飢えた目に警戒が浮かぶ。ずいぶんと無理をしているらしく、壁に支えられて座っているのがやっとのようだった。ヒイラギは歩み寄り、そっと頬に触れた。冷たい、けれど生きている。 悪霊かと考えもあった。以前、それで主ともどもひどい目にあったが……違うようだ。 「死に、たい……もう、なにもないの、みんな、死んだ、みんな」 「……」 ヒイラギはゆっくりと少女を抱き上げた。驚くほどに軽かった。少女は暴れはじめる。弱弱しく。それでも確かに痛かった。 「私が、この街に災いをもたらしました。貴女には私を恨む権利があります。それを理由に生きていただけませんか? 無理なことを言っているのはわかっています。私の自己満足です。けれど、生きてください。死んでしまったら、なにもかも終わってしまうんです」 ヤナギが失われたあの日から自分が抱えているこれは自分のもの 主のために生きて死ぬと考えるのもまた自分のもの 自分のことばかり だから 願う。 エゴでも 災いでも 「後悔ばかり、苦しいばかりかもしれません。けれど生きてください。お願いです」 声は返ることはない。衰弱がひどすぎるらしいのにヒイラギはさらに急ぐ。腕のなかの少女の視線に気が付いて顔を向けると彼女は静かに泣いた。 「くるしい」 「はい」 「つらい」 「……はい」 「生きたいのは罪じゃないの? みんな、いなくなったの、もうなにもないのに」 「罪ではありません。私の、せいなんです。ですから」 「じゃあ、どうして、あなた、泣いてるの? 私のこと、たすけ、ようとするの?」 「……」 言葉をなくしてもヒイラギは進む。もうすぐ廃墟は終わる。人のざめわきが聞こえ始める。そのなかには後悔も、絶望もまるで小石のようにごろごろしているだろうが、 「私は何度も失敗しました。けれど責任から逃げたくないんです。自分のしてしまったことから、これからのためにも」 やめちまえ、やめちまえ。自己満足だろう! また災いをふりまくのか! また下手をうつのか? 耳障りな声を振り切って進む。 ああ、そうだ。自己満足だ。だから、最期までそれを貫く。主へのこの気持ちも、シロガネや関係者に抱いた気持ちも……ヤナギへの気持ちもすべて背負って。 過去は変えられないから、未来を選ぶ。間違えようと、明日がまた裏切っても。それでも、明日は来るから、信じるしかない。 廃墟を進む。 小さな命を抱えて。 後悔を抱えて。 苦しみを抱えて。 背負って生きていく。
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