からり。 乾いたベルをの音を響かせれば、古びたカウンターの奥で白髪交じりの男が一瞥を呉れた。 カウンターチェアにどっと腰を下ろし、早速一杯目の注文をする。 白髪交じりの男は只静かに首肯し、山と並ぶボトルの中から迷うことなくその一本を掴んだ。 身体に染みついているのであろうその動きには、一切の無駄が莫い。 程無く小さな音を立て目の前に置かれたグラスに、遠慮なく手を伸ばす。 よく冷えたグラスを一気に呷れば、ひやりと冷たい雫が咽喉を潤してゆく。それは熱を払うと同時に、咽喉を焼きながら身体の芯へと深く沁みこんでいった。 駆け抜けた熱の後には、痺れるように甘い香だけが残る。 グラスの底を湿らす琥珀の色が、薄暗いバーの灯りに煌と瞬いていた。 「お隣いいかしら?」 「ああ、空いてるぜ」 手にしたグラスの縁に映り込んだ深い明け色の影に、ファルファレロ・ロッソは口端を引き上げる。 彼の浮かべた不適な笑みに、女は艶やかな唇をきゅっとひいて魅惑的な笑みを返した。 これは然して特別な出会いではない。 一杯引っ掛けながらの女遊び。これはファルファレロにとって、いつも通りの『ただの時間潰し』に過ぎなかった。 明け色の唇を引いては誘うように笑う女と下らない言葉遊びを交わしながら、ファルファレロは二杯目の酒を呷る。 女の腰へ手を回したところで、ふと端の席に腰掛ける女の黒髪が目に入った。 忽ちファルファレロの中で、その女の瞳が気の強そうな紅い瞳へ掏り替わってゆく。 「どうしたの?」 女は不思議そうに首を傾げ、動きを止めたファルファレロの視線を辿った。 視線に気付いた黒髪の女がふと笑い、揶うように手を振ってくる。 誘うように瞬く緑青の瞳。 ふと我に返り顔を顰めたファルファレロの脇腹を、明け色の女が突いた。 ――一仕事を終え部屋へ戻ると、ヘルウェンディ・ブルックリンは灯りも点けずベッドに横になっていた。 よく見ればカーテンも閉じて居らず、時折揺らぐ外の明かりが室内を暗く浮き上がらせている。 チェンバーによって与えられる夜は、彼が嘗て居た壱番世界のものと然して変わりなかった。 ほんの少し静かで、ほんの少し顔見知りが少ない。 ただそれだけのことだ。 「こんな時間から何くたばってやがる」 「……ちょっと、具合が悪くて」 どこか息苦しそうに吐息をつくヘルウェンディを、ファルファレロは小馬鹿にしたようにハッと嗤う。 「また何か変なモンでも作って喰ったんじゃねぇのか」 嘗てヘルウェンディに喰わされた珍妙な料理を思い出し、ファルファレロは口の端を歪めてみせた。 無造作に髪を掻き、ネクタイを掴んで首元を緩めた彼は、床に転がる瓶を引っ掴んで一口飲み下す。 ひどくぬるい酒だった。 「……そんなんじゃないわ」 少し遅れて言い返してきた言葉にも、いつものような覇気はない。 気怠そうな表情とは対照的に、その頬は熟れた林檎のように赤く、熱を孕んでいた。 ――風邪か。 ぐったりとベッドに沈むヘルウェンディを一瞥し、ファルファレロは舌を打ち鳴らす。 「めんどくせえ」 何か云いたげに、熱に潤んだ眸がじっとファルファレロを睨み据える。 いつものように咬み付く気力もないという訳か。 無造作に髪を掻き上げると、手にした瓶をわざと床の上へ放り投げてやる。 「俺に伝染すな」 そう吐き棄てて背を向けると、ファルファレロは一度も振り返ることなく部屋をでた。 背後で病人を寝かしつけるに凡そ似つかわしくない派手な音を立てて扉が閉じられる。 反響してそれっきり、しんと静まり返る扉にちらと一瞥を呉れ、ファルファレロはいつものように夜の街へと足を向けた。 歩きながら、ファルファレロはふと自分が妙な違和感を感じていることに気が付いた。 足を止める。 砂利が啼る。 ぬるい風が頬を撫でる。 「……よっぽど静かでいいじゃねえか」 思い切り顔を顰めて、また歩き出す。 ――いつもなら、キャンキャンと喧しく喚き立てる声が嫌でも耳に飛び込んでくる。 しんと静まり返る扉を一瞥した、あの時。 あの一瞬。 自分は一体、何を思っただろうか。 わからない。 それは言葉で表せるような類の物でなく、もっと漠然とした――。 そこまでを考えて、ファルファレロは思い切り顔を顰めて舌打ちをした。 「……Che palle!」 吐き捨てるファルファレロの首に、しなやかな腕が絡みつく。 「なあに、どうかしたの?」 「なんでもねえよ」 皮肉るように口を歪め、ファルファレロは明け色の女の肩を抱いた。 夜が明け、目映い陽射しが降り注ぐ。 眼鏡を外しながら欠伸を零したファルファレロは、僅かに影のついた自身の目元を擦る。 傍らで昨夜の女が小さな寝息を零していた。 眼鏡を取った手をそのままに、ファルファレロはどこか疲れたように腕を額に押し当てた。 小さく零した吐息には、僅かに苛立ちの色が混じっている。 ファルファレロは静かにベッドを抜け出すと、シャツを羽織り手早く身支度を調えた。 メッセージを残すわけも莫く、其の侭部屋を出る。 歩きながらネクタイの結び目に指を突っ込み無造作に引き伸ばすと、微かに夜埃の舞う路地を抜けてゆく。 朝の街は人影も碌に莫く、静かなものだった。薄く目映いばかりの光が、抜け切らぬ酔いを刺激してはファルファレロの頭に鈍い痛みを走らせる。 「頭痛え……少し飲み過ぎたか」 舌を打ち、額を押さえる。 人気の少ない小さな路地に、低く鋭い男の足音だけが響いていた。 自身の塒へと帰り着いたファルファレロは、扉に手をかけたその時漸く、自分が鍵も掛けずに出かけたことに思い至った。 扉を押し開き、部屋へ入る。 後ろ手に鍵を閉めたファルファレロは、室内を見回し微かな違和感を感じた。 一歩、二歩、部屋の中へと歩みを進める。 誰かが入り込んだ形跡があるわけではないし、妙な気配がするわけでもない。 カーテンも昨夜出た時と同じように開いたままだし、放った瓶もそのまま。ぼんやりと呆けたように床の上を転がっていた。 どこもおかしなところなどない。 ファルファレロは自身が抱いた違和感に、此れが普通で当然の事なのだと思い出す。 ヘルウェンディと同居するようになってからは、どれだけ汚そうが散らかそうが、翌日には嫌味かと思うほどきれいさっぱりと片付けられていた。 足音を忍ばせベッドへ歩み寄る。 ヘルウェンディは昨日とほぼ変わらぬ様子で、ぐったりとベッドに身を押し沈めていた。 苦しげに息を吐きながら、時折零れる呻き声。 ファルファレロはそっと手を伸ばそうとして、何かに制されでもしたかのようにぴたりと動きを止めた。 「……ママ」 夢うつつにそう零す娘に、ぐと押し黙る。 「ッたく……どうしろってんだ」 ぐしゃりと手を握り締め、引っ込める。 これが自分なら、酒でも飲んで転がって居ればその内治る。 具合が悪かろうが何だろうが、やることなど普段と大して変わらない。 第一、体調を崩して倒れたからといって、それを他人がどうこうできるものでもないだろう。 そう思いながら、苦しげに歪むヘルウェンディの顔へ視線を落とす。 癖のないまっすぐな黒髪が、今は汗の浮く額にくしゃりと張り付いている。 ヘルウェンディの零す弱々しい吐息に、ファルファレロの脳裏をふと過るものがあった。 ――ねぇ、大丈夫? あの日目に焼き付いた、鮮烈な紅を思い出す。 伸ばされた柔らかな手のひら。 じわりと滲みゆく温もり。 暴力と怒号。ただ只管に奪い合うばかりの人生で、生まれて初めて与えられた安らぎの日々。 ファルファレロは何かを振り払うように緩く首を振った。 鈍い頭痛に吐息を零せば、入れ替わりにここ数ヶ月の苦い記憶が呼び起こされる。 手作りの不味いメシを喰わされ、狭っ苦しいベッドで背中合わせに眠る日々。 当然の如く毎日顔を合わせ、毎日のように喧嘩を繰り返した。 煽れば煽っただけヘルウェンディは思いきり噛み付いてくる。警官の『パパ』を持つだけあって、自身の中に正しいことと正しくないこととがはっきりと色分けでもされているのだろうか。 理解できないこと、赦せないこと、単に気に入らないこと。 ファルファレロ本人を目の前に、悉く反抗的な態度を押し通せる者などそうは居ない。 クソ生意気で、クソ真面目で、嗤えるほどに反抗的なガキ――どが付くほどにうざったく不愉快な存在であるはずなのに、時にそれが堪らなく愉快だとすら思う。 それだけ啀み厭う相手であれば、傷つき倒れでもした折にはさぞ気分も好いに違いない。 けれど何故だろう。 依頼、喧嘩。 ファルファレロが怪我をして帰る度、ヘルウェンディは文句をいいながらも手当てした。 ――うるせェな、放っとけよ。 冷たく払い除けられた手を、それでもヘルウェンディは伸ばすのだ。 放っておけるものなら放っておく。 けれどそれでは気がすまないから、と。 邪魔で、目障りで、鬱陶しくて。 互いにそう思っていることは明白で、偽り様のない事実だというのに。 それなのに、どれだけ突き放しても寄ってくるのだから、理解に苦しむ。 ――むかつくけどほっとけないわ。 そっと伸ばした指先で、汗で額に張り付く髪を辿る。 じわり伝わる温もりは、痺れるような熱を伴い沁みてゆく。 ふと思う。 自分には、何もない。 優しさ、温もり、労わり――何ひとつ持ってはいない。 誰かが望み求めるようなものを、何ひとつ知らぬのだと。 他人の面倒など見きれない。 看病の仕方など分らない。 けれど――。 「ウェンディ」 小さくそう口に食み、娘の額へ唇を落とす。 地獄を意味する名ではなく、娘自身が呼ばれたがっていた愛称。 触れた唇を、ふと離す。 遠く未だ幼かったあの頃。 悪夢を払うように、クラリッサがしてくれたまじない。 あの日感じた静けさと温もりが、手繰るまでもなく蘇る。 たった一雫、静寂な水面に波紋を広げるように――。 不意にファルファレロは身を起こすと、我に返ったように顔を顰めた。 「くそ……なんで俺がこんなことを」 毒づき、立ち上がる。 眠る娘を決して起こさぬよう、そっと。 静かに立ち去る父親の背を、ヘルウェンディはぼんやりと開いた瞳でじっと見詰めていた。 ――早く元気になって。 父の姿が、祈るように額に口付ける母の姿と重なった。 ぱたり、静かに閉じられた部屋の扉に、緩く瞼を落とす。 熱を孕む瞳にじわりと何かが沁みてゆく。 その日見た父の姿は、ヘルウェンディの瞳に深く焼き付いた。 日々変わりゆく日常。 喧嘩とすれ違いばかりの日々。 近付いたと思えば遠ざかり、いつの間にかまた、近付いて。 そんな毎日を幾度となく繰り返しながら、少しずつ――二人の距離は、縮まってゆく。
このライターへメールを送る