陽が暮れて、部屋に明かりが灯る。 ふわと吹き抜けた風は、ほのかに夕餉の香を纏っていた。 時折零される微かな笑い声が、撫でるように耳をくすぐる。 それはごく平凡な家族が暮らす、小さな家だった。 慈しみ会う壮麗の男女と、背が高く確りとしていそうな若い男性。 そして目尻に深い笑い皺を刻んだ、人の良さそうな老人が一人。 四人家族なのだろう――今は。 有馬春臣は温かな光零す窓をちらと見遣り、ふと視線を戻した。 ほんの少し距離を置いた場所に、セーラー服姿の少女がじっと佇んでいる。 何時間も、何時間も。 彼女――氏家ミチルは、只じっとその光景を眺めていた。 その横顔は、微かに微笑んでいるようにも見えた。 此処が彼女の生家だという話だけは聞いている。 彼女は春臣と同じ楽団に所属する楽団員だ――とはいってもごく最近入団したばかりのひよっこなのだが、春臣は特に関わりを持ったこともなく、上からの指示を受け付き添っているに過ぎなかった。 だから春臣は彼女のことをよく知らないし、彼女が抱える問題にも一切関知していない。恐らくそれが理由で同行役に選ばれたのだろう。 同行といえば聞こえは良いが、万一彼女が逃亡をはかった際それを阻止する為の見張り役だ。不正を嫌う彼自身の潔癖な性格を鑑みても、適任だったということなのだろう。 不意に、ミチルが立ち上がる。 春臣はその動きを視線で追った。 けれど彼女はその視線に応えることもなく、独り静かに背を向ける。 ゆっくりと闇に呑まれるように立ち去る彼女の背を見守りながら、春臣は――何も言わなかった。 何も、言ってやれることはない。 本人も実家へ行きたいと申請した時に、再三言われたことだろう。 友人や家族らとの接触は一切禁じられている。 唯一できることは、こっそりと彼らの様子を窺い見ることだけだ。 春臣は、もう一度ほのかな光を零す家の小さな窓へと視線を向けた。 時折動く人の影が、褪せた土の上をするりするりと往き来する。 彼は深く静かな溜め息を零すと、ゆるりと立ち上がった。 弓なりに曲がった背が、樹々の影と重なり闇へ闇へと伸びてゆく。 彼女はあの温かな場所に在る何もかもを捨て、もう二度と戻れぬ場所へ来てしまったのだ。 けれど全てを手放すには彼女は未だ幼いと、春臣は思う。 縁側の扉をがらりと開く音が耳に届いて、彼はふと視線を流した。 夕暮れ色に染められた縁側に、背を弓なりに曲げた白髪の老人がゆっくりと腰を下ろす。 痩せているせいか、酷く小柄な老人だ。 春臣はほんの少しの逡巡の後、小さな吐息を零した。 夕焼け色の尾を引く闇の中へ一歩、ひょろ長い男の影が踏み出した。 こんなに近くに居るというのに――もう二度と、会えない。 ミチルは嘗て自身が住んでいた家と、共に過した家族のことを想った。 ころころとよく笑う優しい母。 厳格で温かな父。 二人の血を継ぎ、生真面目ながら優しかった兄。 常に笑顔を絶やさず、自分のことを可愛がってくれた大好きな祖父。 ほんの少し前には自分もあの家で、彼らと共に過していたというのに。 今はもう、それが信じられない。 父も、母も、何事もなかったかのように過していた。 兄も、祖父も、何の違和感もなく過しているように見えた。 もう、居なくても大丈夫なんだろう。 もう、忘れてしまったのかもしれない。 あの中に、自分が居たことを。 子であり、妹であり、孫であり――家族であった筈の、自分を。 ミチルには、あの場所に自分が存在した事を証明出来なかった。 あの日を境に、何もかも綺麗さっぱりと消し去られてしまったように感じた。 別に、泣いていて欲しかったわけではない。 必死に探し続け、窶れていて欲しかったわけでもない。 皆で元気に、笑って過していればいいと、本心からそう思っていた。 けれど。 まるで本当に、何事もなかったかのようで。 まるで本当に、最初から居なかったかのようで。 こんなにも容易く、自分の存在は忘れられてしまうのだろうかと、そう思ってしまった。 自分など、最初からいなくてもよかったのだと――そんなことはないと解っているのに、それでも。 そう思ってしまう自分がいる。 あぁ、何を考えているのだろう。 全てと引き換えにしてでもと、そう願ったのは自分なのに。 幾度も左右へ首を振るってから、ミチルはふと顔を上げた。 気付けばいつの間にか、木立の影にひょろりと背の高い男が立っていた。 「……有馬さん」 「こんな所に居たのかね」 同じ楽団員で、今日まで特に関わりを持つ機会のなかった人物だ。 何を考えているのかわからない、不気味な男だった。 ぐにゃりと曲がった猫背に、いつも妙な薄笑いを浮かべている。 この男が付いてきて居なければ、自分は家族に声を掛けたかも知れない。 ただいま、探したでしょう、心配をかけてごめんなさい。 そう声を掛け、自分の存在とその価値を確かめたい衝動に駆られ、悪魔との約束を違えていたかも知れない。 ミチルは僅かに顎を引くことで彼の問いに答えると、薄く伸びるその影へ視線を落とした。 逃げるつもりなどはなかったが、何も言わずに立ち去ったのだ。きっと探しに来たのだろう。 けれどそのことを謝るような気分にもなれず、ミチルはじっと押し黙った。 「待たせてしまって済まなかったね」 「え?」 「少しあの家のご老人と話をしていたのだがね、いやはや昨今のご老人というものも随分と元気なものだ」 悪びれる様子もなくそういう男に、ミチルは戸惑うように瞳を瞬く。 「ん? どうしたね」 「あ、あの……接触は禁じられてるはずッス」 「あぁ、我々は友人や家族に会う事を禁じられている。彼らは私の知り合いではないからね」 このくらい構わないだろう。そう肩を竦めてみせる男に、ミチルは閉口する。 「方便ッスよ」 その言葉に春臣が口の端をきゅと引くと、普段の薄気味悪さが微かに和らいだ気がした。 ミチルはいいかけた言葉を呑み、春臣を見上げた。 夕暮れの色に染まった春臣の瞳は、どこか優しく温かな光を抱いているように感じられる。じっと自分を見詰める彼の顔はよく見れば中々に整っていて、普通にさえしていれば美形と称されるべき外見を持っているのだと、ミチルはこの時初めて気が付いた。 「行方不明の孫が居るそうだ……大層心配している様子だったのだがね、どうも途中から自慢話の方が多かった」 何でもいつも元気で明るくて、美人で、その上家族想いで優しい孫なのだそうだ。 ――幾らなんでもちょっと褒めすぎだと思わないかね、君。 そういって、春臣は半ば呆れたような顔をしてがしがしと頭を掻き回す。 ミチルは自身の胸に、微かな温もりが灯されたような気がした。 ふと、知らずミチルの唇から笑みが零れる。 今度は其れを見た春臣が、幾度か緩く瞬いた。 「大好きなおじいちゃんです」 「ふむ、そうなのかね」 あんなにも自分を大切に思ってくれていたのだ――忘れられるはずが、なかった。 どうして自分は、一瞬でも疑ったりなどしたのだろう。 ミチルは歪みそうになる口元を必死に堪えて、ふと俯いた。 祖父は小さな事故で足を折ってから、暫く寝たきりの状態が続いていた。 その頃からだ――祖父に認知症の症状が、出始めたのは。 ささやかな変化。 けれど次第に大きくなっていく違和感は、次第に祖父を支え続けようとする家族の心をも乱していった。 必死に介護を続けても、日々祖父の病状は悪化してゆく。 限界が、来ていた。 今まで普通だったことが、普通でなくなってしまった。 祖父は己の日々を忘れ、大切だった物を忘れ、家族の顔までをも忘れるようになり――やがて、皆の顔から笑顔が失われていった。 「それで、あんたはどちらさんだったかね」 本当に不思議そうな表情を浮かべながら祖父がそういった瞬間を、ミチルは決して忘れることが出来ない。 知っているはずの人が、大切な人が、自身の目の前でどんどん変わってゆく。 自分のことを知らないと、平然と口にする。 時折まったくの別人として自分のことを語りだした時には、本当に堪えられなかった。 涙を零しても、その理由を理解してもらうことなど叶わない。 それは自分の事なのだと教えても、馬鹿なことを言うなと窘められ、時に叱られ、怒鳴りつけられる。 虚しさを感じた。 恐怖を感じた。 辛くて、辛くて、とてもではないけれど、耐え続けることなど出来ないと思った。 だから――だから氏家ミチルは、悪魔を呼んだのだ。 音楽家と契約する悪魔の噂は知っていた。 だから必死に、全身全霊を込めて歌い続けた。 悪魔を呼ぶための、歌を。 『待っていたよ、氏家ミチル』 懸命に、懸命に歌う内、噂通り――本当に、目の前に悪魔が舞い降りた。 悪魔を目にしたその瞬間、ミチルは救われるのだと思った。 祖父も、家族も――そして、自分も。 次々溢れる出る涙を拭うこともせず、ミチルは悪魔へと願った。 祖父、そして家族が抱える全ての病と、怪我の快癒を。 家族が健康でいること。 それが何より大切で、何より幸せなことなのだと、そう思い知ったから。 「後悔しているのかね」 不意に春臣が零したその問いに、ミチルははたと瞳を瞬いた。 まさか、そんな筈は莫い。 ミチルは無心で首を横へ振った。 「心配かけてるのは申し訳ないッスけど、おじいちゃんが完治したんだから絶対に後悔はないッス」 自ら確認するように、ミチルは胸に在る思いを言葉に変えた。 そうして、一度だけこくりと力強く頷いてみせる。 「うん、……間違いないッス」 「そうなのかね」 「そうッス!」 今度こそはっきりとそう応えたミチルに、春臣はどこか複雑そうな視線を返した。 彼は何か言いたげに口を開いたが、それは決して音となることはなく、躊躇うように空を食むだけだった。 少しの間を置いて小さな吐息を零すと、春臣はふむと鼻を鳴らした。 「今更……か」 その呟きに、ミチルは不思議そうに首を傾げる。 春臣は僅かに首を振って、只一言だけ、小さく零した。 悪魔とは、何より狡猾なモノなのだ、と。 ミチルは益々首を傾げ、春臣は只々苦笑した。 緩く吹き付ける風が頬を撫で、二人は視線を彷徨わせる。 夕焼けの向こうに零れる影は、もう決してその手に届くことの莫い日常へと繋がっている。 戯れるように巻いた風から、幸せな家族の、微かな笑い声が聞こえた気がした。 僅かに瞳が歪む。 幾度風が吹けど、ミチルの胸に募る寂しさは決して攫われぬままだった。 瞼を下ろし深く俯いた彼女に、春臣は静かに呟いた。 「ふむ、どうやら久しぶりの日本に触発されたようだ」 取り出した三味線を手に、撥を構える。 三味線を弾く間は、没頭するあまり何も見えず、何も耳に入らない。 ついでのようにそう付け足すと、春臣はすらりと背を伸ばし、凜と夕陽に向き合った。 べいん、と弦を弾く音が空を震わせる。 幾つも、幾つも、滑らかに動く春臣の指先から音が溢れだす。 斜に走る音の波に揺られるように、ミチルの瞳から涙が零れ出た。 堪えることも出来ず、心に蟠る想いの全てが堰を切ったように次々溢れては零れ落ちてゆく。 自分で選び、此処へきた。 自ら進んで、全てを悪魔に捧げた。 後悔はない。 ならば、涙など一滴たりと流すべきでない。 わかっている。 わかっているのだ。 けれど、それでも。 このひとは今、そうすることを赦してくれている。 だから――これで、最後だ。 氏家ミチルは、頬を伝う涙を決して拭いはしなかった。 抱くようにかき鳴らされる音色に揺られるまま、噎び泣いた。
このライターへメールを送る