薄暗い石廊に小さな足音が響いた。 篝火が爆ぜ、ゆらゆらと不安定に揺れては少女の影を薄く伸ばしてゆく。 腰元まで真っ直ぐに伸びる艶やか黒髪に、蒼硝子の眸。まるで上等なビスクドールのような姿のその少女は、真剣な表情のまま石廊の先へと向かい歩きゆく。 視線の先には厳重に封された大きな扉、そして厳つい門兵。少女がその目の前で足を止めると、瞬きのひとつもせずじっと視線を返してくる。 「ルイーゼ・バーゼルト。準備はいいか」 「はい」 こくと小さく頷いて返せば、彼もまた小さく顎を引く。同時に傍らに立っていた別の男が扉の錠に手をかけた。 低く軋む音色と共に、ゆっくりと扉が開かれる。 開け放たれた扉の向こうから、人々のざわめきが流れ込んでくる。反響し波打つように響くその音に、ルイーゼは一度だけ瞳を瞬いた。 静かに一歩、足を踏み出す。 開けた視界の向こうで、緩く弧描く石壁がぐるり囲うように広がっていた。 点々と灯された光は怪しく揺らめき、そこかしこに歪んだ薄い影を落としている。 扉を閉じる重苦しい音が背後で響く。 『ルイーゼ・バーゼルト!』 彼女の名を告げる男の声が、高々と響き渡る。 ざわめき囃し立てる声はより一層場を満たし、ルイーゼの耳を打つ。 彼女はひとり、頷くように顎を引いた。 向かいの扉が開かれ、誰かが歩み出る。 顎に髭を蓄えた、がたいのいい一人の男。 意識せずぴたりと合わせられた眼。その鋭い視線にぴりと電気のようなものが肌を這う。 手練だと、ルイーゼは直感した。 長い年月を戦いの為捧げてきたであろうことが、その強い光宿す双眸から伺えた。 『ラング・ハンセル!』 歓声と共に迎えられたその男は剣を佩き、堂々場内に足を踏み入れた。 どうやらこの場所――闘技場でもそれなりに知れた名であるらしく、彼を応援する声がそこかしこに響いている。 『ルールの確認を行う。制限時間は無制限、其々得物は自由。ダウン後十秒以内に立ち上がらなければ敗北となる。尚、不正な行いをした者は、本闘技場にて厳正に処罰する』 闘技場の中央、二人の間に立った男が其々へと視線を投げる。 二人が頷いたのを確認すると、男は翳した手を勢い良く振り下ろした。 『――始め!』 「どうぞよろしくお願い致します」 「此方こそ、よろしく頼む」 ざりと足先を滑らせ、男は剣を低く構える。 礼の姿勢から身を起こしたルイーゼは、素手の侭向き合った。 「どうした、武器を取れ」 間合いをはかるように足を運びながらも、男は怪訝な表情でルイーゼを見る。 「いいえ、私は……今の自分の力量を知りたいのです」 ルイーゼは盟主たる者に仕える身。 護衛にとって必須ともいえる戦闘能力。その向上をはかることは、従者の責務といっても過言ではない。 主の平穏な生活の維持せんが為、能力の鍛錬も職務の内だとルイーゼは考えていた。 そして――町の守護者に仕える一族の者として、その血筋に恥じぬ力を身につけたい。 無論主は、ルイーゼを遥かに上回るほどに強い。 けれどその強さが、どんな相手でも、どんな場面でも、絶対で在り続けるという保障はないのだ。 彼独りでは対処不能な事が起こる可能性だってある。 いつか、どこかで――そんな時に少しでも、大切に思う主の力となれたなら。 そう思うと同時、ルイーゼの中には武芸者として、どこまで強くなれるのかを試したいという思いもまた存在していた。 自己を高めるための制約。 この戦いでは武器はおろか、生命力吸収や変身を行う心算もなかった。 「ですから、今日はこれで……」 すっと低く腰を落としたルイーゼに、男は眸を細めた。 「なるほど」 そう呟くと構えを解き、無造作にがしがしと髪を掻き回す。 「どうにも、俺は剣士なんだがなぁ」 「武器を使って頂いて結構です。これはあくまで私自身の鍛錬の為で……」 「だがお前さんは格闘家という訳でもないだろう」 そう云って、男は構えを解いた。 無言の侭じっと視線を向けてくる男に、ルイーゼは姿勢を起こし向き直る。 「……で、お前さんは目の前の敵に全力であたらず何の力を知りたいと?」 「全力であたらせて頂きます」 「素手でかな?」 「はい」 「そうか」 剣を鞘に収める音が響く。 ルイーゼが顔をあげると、男は鞘と柄とにぐるり紐を巻きつけ抜けぬよう縛っていた。 「俺も素手で構わんかね」 「……はい。あの」 「あぁ、これは……剣士の性とでも言うべきか、もし咄嗟に斬りつけては拙いだろう」 怒らせてしまったのだろうか。 そう言葉を紡ぎかけたルイーゼに、男はふと微笑んでみせる。 「勝負はフェアで往かねばな。本日は格闘技戦だ……では、改めて始めよう」 「はい、どうぞよろしくお願い致します」 「よろしく頼む」 柔く緩んだ唇の動きに反し、その双眸は最初に目にした時のような鋭い光を取り戻していた。 ――恐らく、持久戦に持ち込むのは拙いだろう。 ルイーゼは素早く地を蹴り男へ肉薄する。 「おっと……見かけによらず猪勇派か」 速攻を仕掛けるルイーゼに、男はほんの少し目を見開いた。 繰り出した右の拳が眼前に迫るのを、男の腕が受け止める。 無論フェイク。 ノーガードの右脇腹に蹴りをぶち込む。 「うぉっ」 怯んだ隙を突き、容赦なく拳を叩き込む。 反撃の隙すら与えず押し切ってしまうのがルイーゼの戦闘スタイルだ。 防戦一方となってしまった男は、次々繰り出されるルイーゼの攻撃を凌ぎながら、時折防ぎきれず急所を目掛け突っ込んでくる一撃を、身を捻り何とかそらしてやり過ごす。 自分に対し武器を握らぬといわれた瞬間、男はルイーゼに嘗められていると感じたに違いない。 だからこそ逆に相手を見下す気持ちが生まれ、それが仇となったのだ。 「これは中々……しかし」 だが、端から窮地に追いこまれたにも関わらず、男はにぃと口の端を引き上げた。口元に生やした髭が、その形を辿るようにゆるゆる弧を描く。 ルイーゼはその笑みに悪寒を感じ、咄嗟に彼の腹を蹴り飛び退いた。 続け様に地を蹴り距離を取ろうとしたルイーゼの首元へ、驚くべき勢いで男の手が伸びてくる。 払おうとしたその手を更に払われ、胸倉を掴まれる。 力任せの、抉るような一撃が腹を突き抜けた。 胃の奥底からこみ上げる吐き気をぐと堪え、ルイーゼは続け様に襲い来る男の膝蹴りを右の腕と足とで受け止める。 ガードを突き抜け襲い来る衝撃に、ぐらりと身が揺らぐ。けれどルイーゼはそのまま反撃に転じた。 胸倉を掴まれ押さえ込まれたままでは、相手にいいように殴られ続けるだけだ。 まず、この手を何とかせねば。 胸倉を掴む男の手に手を伸ばし、その太い指の一本を力の限りに握り締める。 「……む」 「離して頂けますか」 そのまま捻ろうとした瞬間、指ごと掴みこまれより深く捻られる。ルイーゼはその痛みに僅かに眼を歪ませ、男の肘目掛け一撃、二撃、右の拳と左の膝を繰り出した。 ぐっと声を詰まらせ男の手が緩む。 その隙に手を振り解き、ルイーゼは素早く地を蹴り飛び退いた。 「中々粘る」 男の顔が再び柔い笑みを纏う。 けれどやはりその双眸はより深く鋭い光を湛え、ルイーゼを射抜くようにすと細められた。 あれだけ打ち込んだというのに――ルイーゼは男の打たれ強さに舌を巻く。 「どうしたんだ、もう終わりかな?」 「いいえ、まだです」 乱れた息を整えるように大きく両の肩で息を吐く。 焦りは敗北を招く。 懸命に心を鎮めようとするルイーゼに、けれど男は考える間を与えない。 「とてもそうは思えないが。其方が来ないなら、今度は此方から行こう」 ドンッと地を蹴り男が迫る。 ルイーゼは歯を食いしばると、力任せに地を蹴り真横へ飛んだ。 間髪容れず風が頬を撫で、男の足先がぶぉっと豪快な音を奏でて空を斬る。 地面に手をつき一回転。 実に身軽に飛び起きたルイーゼに、男は更に追い縋る。 「まったく身軽で羨ましい」 「お褒めに預かり光栄です」 風を切り叩き込まれる一撃。 それを交わそうとしたところで、僅かにルイーゼの動きが鈍る。 先に腹に受けた一撃が効いている。 その真芯を捉えるはずであったろう叩き下ろすような一撃が、彼女の肩口へと叩き込まれる。 その強烈な一撃に、ルイーゼの足はがくんと折れそうになった。 圧力に負け強制的に畳まれそうになる膝を震わせ、ルイーゼはまた横へ飛ぶ。 「くっ!」 そのまま逃れるように見せかけ、蹴り飛ぶ軸足を変えて男の懐へ突っ込んでゆく。 「うぐっ」 脇腹へ叩き込まれた一撃に、男が怯む。 ――追討ちをかけるなら、今しかない。 ルイーゼは続け様に蹴りを放ち防がせると、更に拳を繰り出した。 「覚えておくといい。お前さんのようなタイプの奴はな、掴まったらそれで終わりなんだ」 「なっ」 伸びきった手を引く前に、男がルイーゼの手首を掴んで身を翻す。 反転。 気づいた時には、肺から空気を叩き出される様な衝撃に見舞われていた。 深淵の闇を湛えたような闘技場の天井。 瞳に映ったそれが、ぐにゃりと思い切り歪んだ。 手首を掴まれた其の侭、抗いようのない射程で拳が振り下ろされる。 抉るような衝撃。 腹に加えられた圧に、ごぼりと血を噴く音が胃から気管へ湧き上がる。 それに反し吐き気だけが咽喉元から伝わってくる。 抗う間もなく、またしてもルイーゼの世界は反転した。 力任せに引き起こされ、宙へ放られる。 跳ねて、跳ねて、転がり落ちる。 それでもルイーゼは――否。最早彼女は、無心のままに立ち上がろうとしていた。 無造作に放り出された腕を、ずるりと引き寄せる。 頬を、額を、地面に擦り付け身体を起こそうとする。 ――負けられ、ない。 圧倒的な力差。 幾度叩きのめされても、体力が尽きても、あまりの痛みに手足の感覚を失っても。 それでもルイーゼは、懸命に足掻こうとした。 けれど。 もう、だめだった。 懇親の力を込めて、地面を突き飛ばす。 それでも立ち上がることは出来ず、ルイーゼはどっと肩から落ちた。 もう、力が入らない。 身を支えることも出来ず、ずるりと腕を滑らせる。 そのままごろりと仰向けに倒れ、ルイーゼはぎりと奥歯を噛み締めた。 上体を起こすことは元より、腕も足も、指の一本すら動かすことが出来なかった。 カウントが響く。 もう既に何秒がカウントされたのかもあやふやなまま、ルイーゼはどこか遠くに居るような感覚でその声を聞いていた。 『勝者、ラング・ハンセル!』 勝者宣言に、わっと歓声が湧き起こる。 囃し立てる声が酷く遠い。 まだまだ力不足だ。 ルイーゼは痺れた掌を、それでも力の限りにぎゅと握り締めた。 まずはこの試合内容を踏まえた自己分析を行い、更に精進せねば、と。 「立てるか」 そういって手のひらを差し出され、ルイーゼはこくと頷き手を伸ばす。 男はそれ以上は上がらぬと見て取ったか、震える手を取りぐと引き上げた。そのまま引き摺られるように立ち上がり、ルイーゼはせめて倒れぬようにと、震える膝を押さえる。 握手を交わすように握り合った手に、ぐと力が込められた。 「少々嘗めていた、その非礼を詫びよう。……実に有意義な闘いだった」 「いいえ。此方こそ、とても有意義な時間を過ごさせて頂きました……次はきっと、負けません」 ルイーゼのその言葉に、男はふっと口の端を引き上げた。 「残念だが、その頃には俺はもっと強くなっている」 「それでも必ず、勝ってみせます」 「負けんよ」 互いに笑みを浮かべながら、二人はその眸に真剣な光を宿してじっと見詰め合う。 ぶつかり合う眼と眼。 握り合う手のひらに、どちらともなく力がこめられる。 「実戦の時はくれぐれも、武器を持った相手に素手で立ち向かうような真似はせんようにな」 「はい」 益々笑みを深めた男は、剣の紐を解き腰へ差し直すと、一礼。 そのまま背を向け歩き出す。 「お手合わせ、ありがとうございました」 「まぁまずは体力を付けることだな」 男はそういって、ひらり肩越しに手を振った。 ルイーゼは彼の背に礼をしたまま、もう一度だけ、ぎゅっと掌を握り締める。 ――必ず、強くなる。 そう深く、心に誓いながら。
このライターへメールを送る