ターミナルの一角に在る小さなカフェ。 その窓から射す穏やかな光は、静かにカップを傾ける新生の黒髪にじわりと滲んでは煌いていた。 橙、鶸に銀鼠。翡翠に猩々、重ねの秘色。 多様な彩を宿しては温かに揺れ、視線が合うたび彼が零す温和そうな笑みを惹き立てている。 チェンバーによって構築されたこの区画の天候は、概ね好ましいものだった。少なくとも、先の依頼の地――迷路のように並ぶ建造物の通り、複雑に入り組んだ空。そこから注ぐ細切れの光を追って歩いた、薄暗いインヤンガイのものよりは、ずっと。 あの陽の光をわざと遮るような煩雑な街並みには、随分と戸惑わされたものだ。 「やっぱり向こうよりもこっちの方が落ちつくねー」 「カンタレラもそう思う」 「便利な物は多かったけど、空気は悪いし、ガラが悪いのも多いみたいだしねぇ」 「あぁ、まったくだな」 カンタレラはこくりと頷くと、倣うように持ち上げたカップにそっと口付けながら、新生の様子を窺った。 茶の香に満ちたこの空間の中に在っても、ふと鼻先を掠める煙草の匂い。その香りの元を探ってみれば、必ずと云っていいほど目の前のスーツ姿の男の元へと辿りつく。 依頼先でも携帯灰皿を片手に紫煙を燻らせていた彼は、恐らくへヴィスモーカーなのだろう。 今は気を使っているのだろうか、煙草を取り出す様子は見せない。 (あぁ……左眼に、泣きぼくろがあるのだな) じっとみつめながら、カンタレラはそんなことを思う。 新たな来客を告げるベルの音に、赤味の強い鳶色の瞳が其方へと流れる。 店の入り口へ視線を流す彼を、彼女は尚じっと見詰めていた。 その鳶色の瞳が、何かに気付いたようにふとカンタレラの方へ戻される。 ――まずい。 そう思った時には既に遅く、深紅の瞳は確りと捉えられていた。 何か話さねばと半ばまで口を開きかけるも、カンタレラの唇から言葉が紡がれることはない。 仕方なく無言のままカップの中へと視線を落とせば、琥珀色の鏡が彼女の紅い瞳を映し出している。 微かに立ち昇る湯気が、その瞳の奥へじわりじわりと広がってゆく。 (誘っておきながら、難だが) そろそろ良いだろうか、と恐る恐る視線を上げれば、当の新生はどこか興味深そうに彼女の顔を見詰めていた。 「……む……」 「ふふっ」 溜まらず、といったように笑みを零した新生に、カンタレラは俄かに頬を染めぎこちなく視線を逸らす。 (い……一体、何をどう話せば良いのだ?) 人見知りをする類の人間が、誰かをお茶に誘おうとする行為自体がそもそもの間違いであったのだろうか。 カンタレラは持ち上げたカップに齧りつくように口付けると、頭の中をぐるぐるとさせた。 お礼の、つもりだった。 依頼先でちょっとした失敗から危機に陥ったカンタレラを、新生はさり気なく手助けしてくれた。 彼のおかげでカンタレラはその窮地を切り抜けることができ、無事今回の依頼を成功させることが出来たのだ。 依頼中は他のロストナンバー達もいたし、中々彼と接触する機会を持つことはできなかった。 何か切っ掛けが欲しかったのだとも思う。 だから――というだけの理由ではないけれど。 カンタレラは感謝の意を込めて新生をお茶へと誘った。人見知りの気がある彼女にとっては随分と思いきった行動ではあったのだが、その意図が彼に伝わっているかどうかは定かでない。 二人きりでカフェに入れば、こういう状態になることは容易に想像できたはずだった。 けれど、仕方がないのだ。 それでもカンタレラは、彼に興味を惹かれてしまったのだから。 「カンタレラくんは紅茶党かな、珈琲は嫌いかい?」 「否、嫌いではないが」 「それは良かった。珈琲は匂いも嫌いっていう人が時々いるんだよねー」 「そうなのか、カンタレラは大丈夫なのだ」 彼女は僅かに俯けられた新生の瞳をちらと盗み見た。 その瞳は酷く穏やかで、温かな色を宿している。 小さなティースプーンを摘み、カップの中に緩やかな弧を描く。 とても大きな手だった。 そもそもが背の高い男である。彼を目の前にすれば、普通サイズの物など皆小さなものにみえてしまうだろう。おまけに武術を嗜むとあって、彼はスーツの上からでも見て取れるほど、よく鍛え上げられた確りとした体つきをしていた。それが彼の身の回りの物の小ささをより際立たせているように思われた。 しかしその仕草はとても落ち着いていて、優雅とさえ取れるものだ。 大人の余裕が滲み出ている、とでも言うべきか。 けれどカンタレラは、そこに別の感慨を抱いていた。 (やはり、似ているな) カンタレラは、そう思う。 姿形が、ではない。 纏う雰囲気が似ているのだ、と。 「お腹は空かないかい? 何か好きなものがあったら、遠慮せず頼むといいよ」 ふと上げられた視線に、カンタレラは僅かに動揺したように視線を揺らした。 「む……カンタレラは串団子が好物なのだ」 「おや、メニューにあったかなぁー?」 そういいながら、新生はメニューへと手を伸ばす。 ぱらりぱらりと頁を捲る音が響く度、珈琲の湯気が舞い踊る。 ふわりと香る湯気の向こうでメニューに視線を落とす新生を、カンタレラは再びじっと見詰めていた。 彼は変わらず、のんびりとした空気を纏っている。 独特の雰囲気のある、穏やかな人だ。 カンタレラの胸に、俄かに懐かしさが込み上げてくる。 ――主もまた、穏やかな人だった。 ふっと、新生が視線を上げる。 ぴたりと瞳が合うと、新生はただ静かに微笑んだ。 自分が今何を考えているのか、気付いているのかも知れない。 カンタレラはどうしてか、そう思った。 途端、胸に込み上げた懐かしさ中に、新生に対する申し訳なさが入り混じる。 けれどそれを謝るわけにもゆかず、カンタレラはただ黙って、視線を落とした。 「それにしても今回の事件、本当に無事解決できて良かったよねぇ」 「あ、あぁ、そうだな」 微かな動揺を気取られまいと、カンタレラもまた確りと頷いてみせる。 「カンタレラくんの囮役も立派だったよー」 「あ……いいや、あれは皆に迷惑をかけただけだろう、本当に申し訳なかったのだ」 「あぁ、確かにあれは僕も少し焦ったけれどね……」 カンタレラがひどく申し訳なさそうに謝罪の言葉を述べると、新生は小さな笑みを零した。 インヤンガイのとある区画にて、イニシャルに『R』を持つ女性が大量に失踪していた。 失踪者の多くがある通りで誰かに名を呼ばれ、その直後に姿を消しているということをつき止めた彼らは、囮役とその友人役を置き、直接犯人を捕捉することにした。 カンタレラは自身の特技を活かし、囮役から目を離さず護衛する役割を担っていたが、犯人が囮役の名を呼んだ瞬間、反射的に誰よりも早く振り返ってしまった。 そのせいで犯人は囮役でなく、物影に身を潜ませていたカンタレラをRの名を持つ者として連れ去ろうとしたのだ。 「本当の名前なんてのはどうでも良くて、一番に振り向いた人を連れていくなんて、横着な犯人だったねー」 囮役だけでなく、仲間内の誰もが『Rの名を呼ぶ者』を警戒していたのだから、カンタレラの運が悪かっただけとも云える。 逸早く気付いた新生が、事態に動じることなく的確に犯人を狙撃した。 その一発の弾丸が、カンタレラと被害者たちを窮地から救い出す布石となったことだけは確かだ。 「護衛の立場に甘えて、カンタレラはカンタレラ自身の事に無頓着すぎた。それが皆の作戦を狂わせてしまったのだ。反省している」 「うん、現場に立つ以上、僕達は自分が想像する以上の色んな事態に巻き込まれるだろうね。だからどんなことにも確りと気を引き締めて臨まないといけない。だけどね、どんなことにも失敗は付き物だよ。失敗しても、それを補ってくれる仲間がいるんだから、そんなに独りで気張る事も、落ち込む事もないんだよ」 「あぁ、それはそうだが……」 しゅんとした様子のカンタレラを元気付けるように、新生は優しい言葉を紡ぎ続ける。 「それに、反省は独りでする物じゃあない。次を補い合えるように、皆でするものだよ。今回は皆であれこれ考えたけれど、犯人が別の人を狙った時の事までは考えが及んでいなかったから……僕も反省しないとなぁ」 カンタレラがカップに落としていた視線を上げると、新生はふっと笑みを零した。 「まぁ、最終的にはカンタレラくんも皆もちゃんと無事だったし、ちょっと囮役が摩り替わっただけで結果オーライだったんじゃないかな。最後の件なんかは僕が手を出す隙もなかったしねぇ……」 「うっ……否、それは置いておいてだな。その……兎に角だ、おまえが手助けしてくれなければ、皆が皆無事というわけにはいかなかったのだ。感謝している」 「はは、そういわれると何だかちょっと照れるなぁ」 新生は照れ臭そうに笑うと、手にしていたメニューを見てぱっと表情を明るくした。 「お……あったあった」 首を傾げるカンタレラにメニューを見せながら、新生は指先でその一角をとんとんと叩いた。 「カンタレラくん、ここここ」 「む」 嬉しそうに笑う新生が指差した箇所には、彩り豊かな三色串団子の写真が入っている。 「この店は珈琲の味もいいし、美味しいかも知れないよ。頼んでみようか?」 「あぁ、そうしよう」 こくこくと頷くカンタレラに目を細めて微笑むと、新生は店員に追加の注文をした。 心地好く、穏やかな一時はあっという間に過ぎてゆく。 「あれ、もうこんな時間かぁ」 ふと時計に視線を向けた新生が、ぼんやりとそう呟いた。 釣られて視線を上げたカンタレラもまた、驚いたように瞳を瞬く。 「む……本当だ」 「じゃあ、そろそろ行こうかー」 「あぁ、そうしよう」 会計を済ませた二人が店をでる。 カンタレラの背を押すように、からりとベルが鳴り響いた。 「小さいけれど、中々雰囲気の好いお店だったねぇ」 ゆっくり歩き出した新生の後を追うように、カンタレラもまた歩き出す。 「そうだな、落ち着ける好い店だった」 新生はカンタレラが追いつくのを待つようにのんびりと歩みを進めていたが、一向に追いつく気配のないカンタレラを案じたように振り返った。 「カンタレラくん、どうかしたのかい?」 「否、問題ないのだ」 ふるりと首を振るい、カンタレラは視線を落とす。 新生は小さく首を傾げ、そう、と静かに微笑んだ。 また前を見てゆっくりと歩き出した彼の背を、カンタレラはじっと見詰め続ける。 ゆっくりと、その足跡を辿るように踏み締めて――それから。 カンタレラは、思い切って彼の背に声をかけた。 「……また、誘ってもいいか?」 「うん?」 新生は肩越しに振り返ると、カンタレラの顔を見た。 彼女が足を止めれば、彼もまたその歩みを止める。 互いの視線がぶつかり合う。 けれどカンタレラは今度こそ、その視線を逸らしはしなかった。 「あぁ、構わないよ」 柔らかに微笑んだ新生に、カンタレラは安堵の表情を浮かべ――そうして、静かに、静かに、笑みを零した。 「そうか……よかった」 二人は揃って歩き出す。 ターミナルの空が映し出す、穏やかな午後に包まれて。 こつり、こつり。 二人の足音が響き合う。
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