小鳥の囀りが響く。 窓から吹き込んだ穏やかな風がまだあどけない少女の頬を撫で、淡い緑の香が鼻先を擽る。 緩く瞬く葡萄粒のようにつぶらな瞳には、何かしらの希望に満ちた光が溢れているようだった。 期待、或いは好奇。 新たな世界への一歩を踏み出す、決意と覚悟。 瞳に映る景色にはぴかぴかに磨き上げられた白くて大きな机。その上には手入れのゆき届いた細かな道具が並ぶ。 まな板、包丁、ボールに泡立て器、菜ばしに軽量カップとスプーン、おたま。 傍らには銀のシンクに、炎の環を描く焜炉、フライパン。 先ほどまで冷蔵庫の中で冷やされていたであろう材料たちもまた次々に並べられてゆく。 コケは思わずほうっと吐息をついた。 調理器具を目の前にするだけで、どこかわくわくとした気持ちが込みあげる。 コケは料理経験は浅かった。今までは食べるのが専門だったし、そもそも光合成で栄養を賄っているのだから料理を学ぶ必要はなかったのだ。けれど彼女は今、それらを学ぼうと心に決めていた。 「……楽しみ」 ささめき広がる楽しげな気配にぱんぱんと手を叩き、講師と思わしき人物が前に立つ。 おっとりとした優雅な雰囲気を持った、けれどその瞳には知性の光を宿した女性だ。 「あらあら皆さん、今日はわたくしのお料理教室にお集まりいただき有り難うございます。たくさんの方に来て頂けて、とても嬉しいわ」 一人ひとりの顔を確かめるように視線をうつし、講師は柔らかく笑む。 彼女は品ある笑みを零したままフライ返しを手にとると、先端を生徒たちへ向けびしりと構えを取った。 「さぁ、皆さん。まずは火の扱いとお料理の楽しさを知るために簡単なお料理からはじめましょう!」 ――見掛けに寄らず熱血系らしい。 講師はふと我に返ったように瞳を瞬くと、自らの傍らに立つ青年にちらと視線を向けて微笑んだ。 「あぁ、そうそう……お料理といえばやはり殿方に作って差し上げるのが醍醐味。というわけで今日はアシスタントの先生もお呼びしておりますから、質問から味見にお手伝いまで、何でも遠慮なく声をかけてくださいね」 「はは、どうぞお手柔らかに」 少し頼りない、困ったような表情を浮かべて青年が笑う。 「あらまぁ先生、お台所は女の戦場でしてよ?」 「……はは、どうぞお手柔らかに」 「あらまぁ先生ったら。さて、今日の一品目はホットケーキです。手際よく参りましょうね」 講師が笑みを深めて目の前の小さな生徒に視線を落とす。 コケは視線に応えるようにこくりと首を頷けた。 「ん……コケ、頑張る。沢山料理覚える」 「ええ、その意気ですよ」 コケはエプロンを手に取ると、手早く身体に纏い―― 「……最初の難関」 一生懸命背中に手を回した。 懸命にエプロンの紐を手で手繰り結ぼうと試みるが、どうにも上手く結べない。 肩越しに手元を見ようとするけれど、まるでいつもと逆になったような手の動きに翻弄されてしまう。 「ゆっくり、ゆっくり、もう一度最初からよ、コケさん!」 「むむ……コケ、頑張る」 コケの後ろにしゃがみ込んだ講師は自らを戒めるかのようにその手をぐっと握り締めると、コケが背に回した手を動かすたびに、うーん、うーん、と呻きながら応援してくれている。 ボールを手に傍らを通りかかった青年が、ひょいとコケの背を覗いて瞳を瞬いた。 「あぁ、エプロンを結ぶのは最初は難しいよね。少し横で結べばいいんじゃないかな?」 「おぉ……そっか」 「あぁっ……嘆かわしい!」 コケが腰もとでせっせとエプロンの紐を結ぶ間、すぱんと小気味好い音が響いた。 エプロンを結び終えたコケがふと顔を上げると、青年は何故か頬を押さえながら、はははと乾いた笑い声を零している。その傍らで、講師は口元をおさえ涙ぐみながら、手に握りしめたフライ返しを細かに震わせていた。 その手元をじっと見詰めてから、コケは不意に水道へ向かう。 「ちゃんと手、洗う」 「はは、そうだね。清潔を保つのは料理で一番大切なことだね!」 蛇口を捻ろうと懸命に伸ばした手の先に、コケよりも二回りも三回りも大きな手が伸びてきて、水が零れ出す。コケが感謝を述べて手を水にひたすと、青年は淡く微笑んだ。 「あぁっ嘆かわしい!」 すぱーんっ! 傍らに響いた物音にコケが視線を上げる。 「……はは、気にしないで」 青年はまたも頬を押さえていた。 「ん……気に、しない?」 コケは小首を傾げながらざぁざぁ零れる流水で泡を流す作業に没頭した。 その背後では。 「先生さっきから意味わかんないです何すんですか」 「わたくしはっこの小さくて愛くるしい彼女の頑張りをもっとじっと堪能したいのです!」 「……は?」 「それには貴方が邪魔なのですよ」 「ちょ、何いってんですか先生。今日オレを無理矢理呼んだのは先生じゃないですか! 嫌だっつったのに!」 「それでも貴方が邪魔なのです……あぁ、なんと恨めしい! あぁっ嘆かわしい!」 「恨めしいはこっちのセリ」 すぱーんっ! ――妙な会話の遣り取りがされていた。 「さぁ、まずは材料の下拵えを始めましょうね。必要な分だけ卵を割っていきますよ」 柔らかに微笑む講師に頷いて、コケは卵を手にとった。 「コケ卵割るの初めて」 教えてもらった要領で机の角に軽く打ち付ける。 こんこん、かしょん。 「ちょっと楽しい」 こんこん、かしょん。 こんこん、かしょん。 ……かしょん、かしょん、かしょん。 「あの……コケちゃん、割り過ぎ」 「……え? 割りすぎ?」 手を止めボールの中を覗くコケに、青年は微かに笑う。 「でも上手だったね、もう卵割りはマスターだよ」 「コケ、卵割り覚えた」 「それじゃあ次は粉の準備だね」 「ん……粉の準備、する」 こくこくと頷くコケに青年が微笑む。彼が自らの背後に渦巻くどす黒い気配に気づくのは、コケが計量に夢中になった後のことだ。 ふと気付けば青年と入れ替わるように後ろに控える講師に、コケは僅かに首を傾げた。 「あぁ、そうそう。今日は小麦粉で作りますけれど、計量に手間をかけるほど時間のない時や、自分の味付けに自信のない人はホットケーキミックスを使うのも一つの手ですよ」 「ホットケーキ、ミックス?」 「えぇ、そうです。お店で買える、簡単にホットケーキを作ることのできる魔法の粉ですよ」 「おぉ……世の中、便利……」 「そうです、世の中便利なのです。けれど時間があるのなら手作りが一番ですよ。手間隙かけて愛情を注ぐのがお料理を美味しくする一番のコツなのですからね」 「愛情……?」 「えぇ、相手を想う大切な気持ちですよ」 「……コケ、頑張る」 「あらあらまぁまぁ」 こっくりと頷くコケに、講師は笑みを深めた。 出来上がった材料を温めたフライパンに落とすと、俄かに空気の泡がぷつぷつと浮かびあがり、生地を彩っていく。 「さ、これをひっくり返したら、出来上がりですよ」 手渡されたフライ返しを受け取ると、コケはじっと視線を注いだ。 「火傷しないように、気をつけて」 「ん……コケ、気をつける」 フライ返しを手に生地をひっくり返そうと頑張るコケを、小皿を並べながら青年が見守る――柔らかなバターの匂いに、解けるような甘い香りがじわりと広がっていく。 コケは思わず感嘆の声を零した。 思わず洩らしたその声には郷愁が込められている。 それは、彼女の故郷にもこれとよく似たものがあったから――もっと薄くて、緑色だったけれど。 「……懐かしい」 仕上げのシロップを垂らしながら呟いたコケに、傍らの講師と青年が僅かに首を傾げ、そして微笑んだ。 「さぁ皆さん、二品目にとりかかりますよ!」 講師がびしりとフライ返しを構える。 「二品目の麻婆豆腐は初心者の方には少し難しいかもしれませんけれど、その分わたくし達がよりしっかりとフォローして参りますのでご安心くださいね」 熱の入った様子の女性講師。その隣に立つ青年の顔はどこか蒼褪めている。 何かあったのかと首を傾げるコケに、青年は乾いた笑いを零しながら、大丈夫、まだ大丈夫だから……と力なく返した。 受講生達の家へ持ち帰れない類の恥ずかしい失敗作を、味見と称したらふく食べさせられたなどという理由があることはコケには知る由もない。 「今回は材料を切るのに包丁を使うことになります。手など切らぬよう取り扱いには充分に気をつけてくださいね」 講師が手際よく作業を進めては手を止めて、受講生たちの手元を確認していく。 コケは包丁を手に集中した様子で豆腐とにらめっこをしていた。 柔らかな豆腐は包丁の刃をあてるだけでさくりと切れてしまうから、他のものを切るよりもずっと気遣いがいるように感じられる。 すこん、と抜けるような音が響いて、コケは腕で額をぬぐった。 「……豆腐切るだけ。なのに難しい」 特に表情は変わらない――そのはずであるのに、コケの背にはなんだか哀愁が漂っていた。 ブロック状に切るはずが若干豆腐ミンチになっている。 ぐっちゃりと手についた豆腐を取りながら、コケは首を傾げた。 「あはは、まぁ最初は仕方ないと思うよ。湯引きすれば少しは崩れにくくなるんだけどね……あとは練習いっぱいと、慣れかな?」 「慣れ……練習、頑張る」 「うんうん、頑張ろうか」 時間の経過で少し胃袋が軽くなったのか、青年が血の気を取り戻した顔で優しい笑みを零した。 「コケちゃんは、辛いのは得意?」 「ん……辛さは、控えめ」 「そっか、それじゃあこれが辛さの元ね。この香辛料の量で辛さを調節できるから、少し控えめに入れるといいよ」 「おぉ……辛さの元」 示された小瓶の中には、燃えるような赤い色をした香辛料が詰まっている。 コケはそれを手に取ると、かぱりと蓋を開けてスプーンでひと掬いした。 「いつか食べてもらいたい人、まだあまり無理させられない体。安心して、美味しいって言ってもらえる方が、コケ嬉しい」 静かに、そう囁いた。 コケは自身の言葉にはにかんだように口を噤む。 「……」 「……」 「……」 表情は変わらない。 けれど伝わってくるのはくすぐったいような、どこか柔らかく、あたたかな空気で――講師と青年とその他受講生たちが、思わずぽっと頬を染めた。 「…………」 「お……おぉ……!」 「あら……あらあらあら! まぁまぁまぁ!」 先生が葱を刻む速度がアップした。 すたたたたんと小気味好い音が室内に響き渡っていく。 「やっぱり、自分のためだけじゃない料理、楽しい」 講師を見習って葱に刃を当てながら、コケは懸命に包丁を動かしていく。 すかすかすかっすこんっ! ある意味小気味好い音を立てながら、コケはふぅ、と小さな吐息を零した。 「コケ、いつか凄く上手くなりたい……あの人に沢山、喜んでもらいたいから」 完成した熱々の麻婆豆腐をお皿に盛り付けたコケは、講師の合図と共にホットケーキをつまんだフォークをお皿の上に滑らせる。 「ん……」 するんっぽてんっ! 「む……」 つるんっぴたんっ! 「…………食べれない」 むぅ、と小さく呻ったコケに笑って、青年が席を立つ。 「あはは、それじゃあ食べ辛いね。こっちでどうぞ」 フォークの代わりにとスプーンを手渡す青年に礼を述べ、コケは麻婆豆腐を口へ運んだ。 熱々の麻婆豆腐のぴりりとした辛味が口の中に広がっていく。 控えめに入れた香辛料の程よい辛さがひくと、まろやかな風味が口の中に残った。 「……美味しい」 そう零したコケに、青年は微笑む。 「それじゃあ、今日のお料理は大成功だね」 「ん……大成功」 もうひと口、コケがスプーンで掬った麻婆豆腐を口へ運ぶ。その間に講師が口元を覆い、涙ぐんだ瞳で青年に襲い掛かった。 「な……な、嘆かわしいっ!」 「いやグーはないです先生」 「お黙りなさい助手! 叩かせなさい!」 「ちょ、アンタ自分で何いってるか解ってんですか先生」 渡す相手のないスプーンを手にした講師の哀愁の右ストレートをしっかと受け止めて、青年はどこか虚ろな視線を返した。
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