外見上は穏やかなようにも見える、“万象の果実”シャンヴァラーラである。 ロストナンバーたちの活躍により、『電気羊の欠伸』内黒の領域における茨封獄の暴走は解除され、至厳帝国皇帝の側近でありながら行方をくらませていた――正確には囚われていた――ロウ・アルジェントは救出された。 しかし、心を得たがゆえに己が責務を拒否し、本体でもある黒羊によって茨塔へ封じられた黒の夢守は未だ戻らず、世界計のかけらをその身に呑み、悲痛なまでの大願を抱くカイエ・ハイマートは未だ帝国軍部の最高司令部に在って、各【箱庭】を血に染めるべく暗躍を続けている。 責務を果たせぬ夢守を、黒羊プールガートーリウムは再度『白紙』へと戻すことを決めた。 シャンヴァラーラ内に現存する【箱庭】の大半の、その深部――トコヨとも称される、この世ならざる場所――に潜む《異神理(ベリタス)》。密やかに育ち、発芽し、【箱庭】を砕いてしまうそれの活動を鈍らせるには、たくさんの血を――ヒトの命を大地に吸わせるしかないという。 シャンヴァラーラは今日も、静かに、悠々と、訪れるものたちを受け入れる。 しかし、それがいつまでも続くものではないことを、ロストナンバーたちは肌で感じ取っている。 それが滅びの絶望となるか、新しい世界を構築するために乗り越えるべき壁となるかは、まだ判らない。 *「帝都へ向かってくれ」 赤眼の強面司書、贖ノ森 火城がチケットを差し出す。「世界計の破片の所持者、カイエ・ハイマートが大々的に軍を動かすという予言が出た。彼を打ち倒すことがシャンヴァラーラにとってよいことなのかは判らないが、少なくとも世界計の破片をそのままにすることは出来ない」 至厳帝国皇帝クルクス・オ・アダマースを敬愛し、世界の滅びを回避するために死と怨嗟を巻き続け、それゆえに死のにおいを――予兆を感じさせる彼を救うべく暗躍しているのがカイエである。 クルクスが世界全体の救済を願い、己ひとりを犠牲にすることも厭わないなら、カイエはたったひとりを救うことだけを欲し、そのために無数の犠牲を捧げることになっても悔いはしないのだ。「カイエは精神を操り、魂を視る。その他にも、対多数にも有利な、攻撃的な能力を保持しているものと思われる。――厳しい戦いになるかもしれない。覚悟と準備をしてくれ」 火城の言葉には緊迫感がある。「ゴウエンが先行しているし、現地にはロウもいるから、補助が必要なら彼らに頼んでくれればいい。それ以外の、行動にせよ方法にせよ、あんたたちにすべて任せる。何が世界をうまく回すのか、今の段階で俺に言えることは何もない。なら、あんたたちが、己の心に従った結果というものを信じてみようと思う」 調査であれ戦闘であれ説得であれ、思うままに行動してほしい、と言ったあと、ただ、と火城は付け加える。「前回の報告書を読んでくれたか? おそらく彼にも逆鱗のようなものがある。――いや、違うな。信念を持って進む者ならば口にすべきではない言葉がある。無論わざとそれを言うことで隙をつくろうという案を否定はしないが……正直、あまりいい予感はしない」 『導きの書』を繰り、火城は思案を言葉にする。「きっと、絶対の正しさなんてものはどこにもない。誰も、持つことは出来ない。だからこそ」 それゆえに、必要とされる配慮がある。 それは、敵対者ではなく、むしろ、任務に従事するものたちを護るだろう。「――だが、それも、あんたたちの采配の範疇だ。どうか、くれぐれも気を付けて。無理はしないでくれ」 そう言って、火城は、ロストナンバーたちを、気遣いの眼差しとともに送り出すのだった。 * カイエ・ハイマートはひとり、瞑想にふけっていた。 鍛え上げられた上半身をさらし、脚を組んで座り、背を伸ばして、数多の事象へと思いを馳せる。 フラットな思考は、意識をクリアに、覚悟を鮮明にしてくれる。 たったひとりのために、数万、数十万、数百万の命を犠牲にする。 それは、カイエの、正常な意識がなそうとしていることだ。カイエは狂っていないし、絶望してもいない。他者の命を道具の如く扱うことを決めてから、自分自身の命にも執着していない。 ただ、己よりも絶対であると定めたひとりのために、カイエは怨嗟と血にまみれた道を行く。それだけのことだ。 ふと、意識の片隅を、予兆のひとしずくがかすめてゆく。「……来るか。そうだな……ならば、身体で語るのみだ」 ゆっくりと立ち上がり、凝り固まった筋肉をほぐすように首や腕、肩をまわす。「生でも、死でも、構わない」 考え得る限りの策は講じた。 打ち得る限りの手は打った。 あとは、それらの行く末を見守るだけのことだ。 ふ、と息を吐き、カイエはシャツと上着へと手を伸ばす。 ――もしもそこに、誰かがいたとしたら、そして彼の身体を目にしたら、驚愕しただろう。カイエのすらりとしなやかな身体に起きている変質に、目を瞠り眉をひそめただろう。 左手の指先から、肩、首筋の近くまで。 そこはすでに、人間の肌の色をしていなかった。 肩口に、水晶を思わせる、あおく透き通った破片が突き立っている。 銀と白金と水銀、サファイアとアクアマリンとカイヤナイト、それぞれを均等に混ぜ合わせて流し込んだような、ゆらりとゆらめくごとき光沢のある、うつくしいかけらだ。 これこそが、シャンヴァラーラにおいて顕現した世界計の破片、0世界より飛び散ったもののひとつである。 そしてその破片を中心に、彼の身体は破片と同じ、あおい透明へと変化しつつあるのだった。 それは、今もじわじわと――確実に、彼の身体を『別の何か』へと変えつつある。カイエのすべてが、『別の何か』へと変わるのは、そう遠い未来ではあるまい。「時間は限られている。ならば……出来ることを、やる」 しかし、カイエに恐怖はない。 この力を得たおかげで、彼は機会を与えられた。「陛下。あの時のご恩……必ずや」 己が力に囚われ、すべてのできごとを認知の外へと置かれ、クルクスは眠っている。 その不敬は、死に値する罪だとも思う。 しかし、もはや後戻りはできない。 皇帝は、虐げられた彼の一族を、『死ぬことにのみ意味がある』とされた――彼らの血には、不老長寿の効能があると信じられていたのだ――ほぼ『最後の』といって過言ではなかったごく少数の生き残りを救ってくれた。 権力者たちは、一族の骸を踏みにじり、その臓物や肉片、血と戯れて悦に入った。この子たちだけはと涙ながらに懇願する一族の女と、その幼い子どもらが、当時の王によって無残に縊り殺され、身体を裂かれて粉々に砕かれるさまを見た。 あの地獄から、カイエの愛する家族を掬い上げ、居場所を与え、幸いの何たるかを見せてくれた皇帝を、世界のためなどという理由で喪うことを、カイエは是としなかった。 ――そのために、駒として動かされる兵士たちが死ねば、嘆き哀しむであろうあまたの家族をつくりだすという、矛盾を知りつつも。「振り返らない。後悔しない。これが、あなたの望まれぬ、自己満足と知っていても、私はあなたを」 こうべを垂れ、つぶやき、それからカイエはシャツを、上着を纏う。 晶化しつつある左半身はそれで隠される。 あとはもう、『何ごともそつなくこなす有能な側近』であるところのカイエ・ハイマートが立っているだけだ。* *大切なお願い* *『【電気羊の欠伸】Love and Will Symphony』と『【至厳帝国ムンドゥス・ア・ノービレ】聖骸の反逆者 三ノ幕』は同時系列のできごとを扱っております。同一PCさんでの、双方への同時エントリーはご遠慮いただけますようお願いいたします(万が一エントリーされ、当選された場合は、どちらかもしくは双方の描写が極端に少なくなる可能性がありますので、重ね重ねご注意くださいませ)。また、なるべくたくさんの方に入っていただければという思いから、人数枠を多めに設定しておりますので、エントリーは1PLさんにつき1PCさんでお願いできればたいへんうれしいです。わがままを申しますが、どうぞご配慮のほどをよろしくお願いします。
1.AURA ジュリアン・H・コラルヴェントは、微苦笑めいた表情で、白亜の巨城アルバウェールスを見つめている。 「世界計の欠片は回収しなくてはいけない、よな」 それは、自分に言い聞かせるようでもあった。 「……困ったな。僕には、剣を向ける以外の方法がない」 つい先日にも、ロウ・アルジェントを救出に訪れたそこは、今、明らかに雰囲気を変えている。 否、外見上は何も変わらない。帝都は今日も、いつも通り、活気ある平和の中ににぎわっている。 しかし、旅人たちには判るのだ。 帝都の中枢、かの巨城に、至厳帝国皇帝クルクス・オ・アダマースを飲み込み、人々の意識を捕らえ操って、シャンヴァラーラという世界すべてに血の宴を催そうともくろむ黒幕がいることを。その黒幕は旅人たちに気づいていて、今にも戦いが始まろうとしていることを。 けれど、旅人たちは知っている。 その黒幕には私利も私欲もなく、ただただ、生きてほしいと願うたったひとりのために発露される、悲壮な献身だけがあるのだということを。 「滑稽だろうか。僕のような人間が、彼の願いを打ち砕こうとするなんて」 それはジュリアンの独白だったが、傍らにいたハルカ・ロータスは確かに聞いていて、小さく首を振った。 「俺には判らない。人それぞれの想いが、正しいか正しくないかなんて」 ハルカの、紅玉のような眼差しは、帝都へ先行した相棒を見送るかのように、まっすぐに帝城を見つめている。 「俺は、カイエを助けたい。あの人を死なせたくない」 「可能だと思うかい、それ」 「難しいのは、判る。でも……カイエにも幸せになる権利があるし、義務があるって、俺は思う。カイエが幸せになることで救われる人間が、確かに存在するはずなんだ、ここには」 「カイエの言うことには一理あるよ。それも判る。事実、僕たちは未だ、あの棘に抗し得るすべを手に入れてはいないんだ」 だからといって世界計の破片を放置し、世界に血の惨劇を引き起こすことを許すわけにはいかない。しかし、この世界が危機に瀕していて、現在確立されている有効な手段が『それ』しかないこともまた、事実なのだ。 「……トコヨの棘を、俺の力で『分解』することは出来ないかな」 「『分解』? ああ、君の特殊能力?」 「うん。それに、俺より強い力を持つロストナンバーなんて山のようにいるわけだし」 「それは判る。ただ……」 「ただ?」 「最後の一手がまだ詰め切れていない、そんな気がする。パズルに必要なピースの、最後のひとかけらが、まだ僕たちの前に現れていない、そんな気が」 ジュリアンの眼は、帝城を映しつつ、ここにはない何かを見ている。 ハルカもまた、何かの予兆を感じている。相棒のように強い精神感応の力を持たない彼に、それが何を意味するのかまでは判らない。ただ、静かで強い決意があるだけだ。 「出来ることをやりたい。誰かを助けたい」 独白し、ハルカは拳を握り込む。 その傍らでは、ユーウォンが、カイエに会って話がしたい、だから力を貸してほしいとゴウエンに頼み込んでいる。 「おれは荒事だの隠密行動に従事できるたぐいじゃないからね」 「構わぬが……何を話す? 見たところ、戦いは不得手の様子だ、相手を激昂させて攻撃を受ければただでは済まぬぞ。それとも、この局面を打開するような言葉があると?」 ゴウエンが言うと、ユーウォンは首を振った。 「おれの言葉で留められるなんて、思ってないよ」 だから、それはとても危険で分の悪い賭けだと知っている。もしかしたら、その危険が命に直結することすらあるかもしれない、とも。 「彼の強い意志と信念に太刀打ちできるものは持ち合わせていないもの」 しかし、それでも、どうしても言っておきたいのだと言葉を重ねるユーウォンに、ゴウエンは興味を惹かれたようだった。 「理由を尋ねても?」 そこに受諾の響きを感じ取り、ユーウォンはかすかに笑ってみせる。一歩間違えば死地になりかねない場所へ赴こうとしていながら、ユーウォンには緊張も、気負いもない。 「だって、おれは大きな渦の世界から来たユーウォンだから」 その言葉ですべてが伝わるとも思えないが、それ以外に言いようもない。 彼の故郷では万物が変化する。変化せずに留まることは出来ない。そして、実のところ、それは、彼の故郷の話だけではないのだ。 そこへ、 「私もカイエさんにお会いしたいですぅ」 川原 撫子が手を挙げる。 「たったひとりのために世界を敵に出来る、彼の切実な思いが判りますぅ。だからこそ、伝えたいことがあるんですぅ」 撫子の脳裏には、覚醒して出会った、カイエが皇帝に対して抱くのと同じような、『かけがえがない』と断言できる人たちの顔が浮かんでは消えている。彼女自身の絶対が、撫子に、前へと進む力を与えてくれる。 「……ふむ」 思案顔のゴウエンが顎を撫でる。 「アキの様子見がどうなるか判らぬが、それが一段落したところで向かうのはどうだ。聴く耳も持たぬようならば、戦うしかなかろうが」 ゴウエンの言葉を受けて、撫子がハルカを見やる。 「ハルカさん、アキさんは何か言ってきましたかぁ?」 「ん? いや、今のところ安定してカイエに向かってるみたいだから、このあとすぐに向かっても大丈夫な気がする。もう少ししたら仕掛けるつもりでいるみたいだけど、」 「じゃあ、ゴウエンさん、そんな感じでお願いしますぅ」 「判った」 こうして、段取りが決められてゆく中、 「カイエさんにとっては、皇帝陛下の望みと覚悟の通り、たとえ世界が救われたとしても、たったひとりの絶対がいない世界は無意味なんですね」 ヒイラギは、噛みしめるように言葉を紡ぐ。 「何が正しいかは置いておくとして、俺には彼を非難することは出来ません」 彼にもまた、大切な主がいる。 喪ったと思い込み、自暴自棄の日々を送り、つい先日縁あって再会できたとうとい存在だ。 その彼が、カイエの『絶対』と同じような立場に陥ったとして、その死を回避できるなら、何を犠牲にしても、どれだけ血と涙が流れることになろうとも、 ヒイラギは間違いなく同じことをするだろう。 「おそらく、真実彼を責め得る人は、この世のどこにもいない。誰もが、カイエ・ハイマート足り得る。――だから、俺は、出来ることなら彼を説得したいです」 そしてなぜか、それこそ、世界が大団円を迎えるための重要なファクターであるように、ヒイラギには感じられるのだ。 「私も」 声を上げたティリクティアもまた、カイエを責めることは出来ないと感じている。 「私は故郷のために生きて死ぬって、そう決めているわ。でも簡単に死ぬつもりなんてないし、いつだって、最後まで全力で頑張るとも決めている」 命はいつでも、容易くこの掌を滑り落ち、そのまま二度と戻ってはこない。喪われたものへの哀惜は、時に、残る人々をもひどく、惨く損なわせるだろう。皇帝もカイエもそれを理解している。理解していて、選ぶ道は違ったが、彼らが選んだのは結局のところ同じものなのだ。 「クルクスの、我が身を犠牲にしてでも多くの命を救いたい、護りたいという気持ちが判るわ。同じくらい、カイエの気持ちもまた」 それは、先だっての救出依頼で、他者の事情、カイエの胸中に想いを馳せることなく断罪めいた言葉を口にしかけた彼女の、自分なりのけじめのつけかたなのかもしれなかった。 「正しいことなんてない。それは、ひとりひとりによって違うものだから。私は、そう知ることが出来たから」 だからこそ、彼女は彼女の全身全霊で、なすべきことをなそうと思うのだろう。 「ねぇ、ゴウエン」 「どうした」 「お願いがあるの……クルクスを目覚めさせることは出来ないかしら。彼を本当の意味で止められるのは、クルクスしかいないとも思うの。無理だというのなら、ルーメンにクルクスを目覚めさせることは出来ないかしら」 ゴウエンは幼い巫女姫の言葉を黙って聞き、 「ルーメンは、やめておけ」 そう、ぽつりと言った。 ティリクティアが首をかしげる。 「なぜ」 「あれも、観ているところはクルクスと同じだ」 「それは、死ということ?」 「いいや」 「……?」 「世界計の呪縛か。それならば、俺にも斬ることが出来るだろう」 ゴウエンは多くを語らず、ただ、クルクスを救出し目覚めさせることへの協力を約束する。疑問を残しつつも、今、拘泥すべきことではないので、ティリクティアは話題を変えた。 「あとは、カイエに気づかれずにクルクスのもとへ行く方法ね。何かないかしら」 不用意に行動して阻止されるようなことがあれば、そこでまた手も時間も取られる。誰もが思うのが、猶予のなさだ。速やかに行動し、速やかに成功させねばまずい、と、足元から迫る危機感が彼らを急がせる。 「私は、気づかれない気がします」 ぽつり、と言ったラス・アイシュメルもまた、アルバウェールスを見つめている。 「根拠は?」 「アキさんが先行している」 「囮、ということね」 「ええ。カイエさんに話をしに行きたい人も多いようですし、会話や戦闘で意識を惹きつけることが出来れば」 「アキが、精神の防御網をつくっていってくれたから、俺たちの動きは感知されにくい。全員がすみやかに動けば、充分間に合うと思う」 どの道、他に動きようもない。 速やかにそれぞれの行動がリスト化され、手早く打ち合わせが行われる。 「なら……始めましょう。どちらにしても、きっと、時間はあまりないわ」 厳かに告げるティリクティアの、意識の片隅を、ちりちりとした感覚が滑り落ちてゆく。それは、安堵の表情を浮かべるカイエの姿を映し出していた。 (これを、運命という川に幾重も存在する、ただの流れのひとつにはしない。この未来を、確定させてみせる) 少女の決意とともに、行動は開始される。 * そのころアキは、カイエ・ハイマートその人と向き合っていた。 場所は白亜の巨城アルバウェールスの天辺。アキもカイエも、双方、宙に浮かんでいる。アキのそれは念動によるものだが、カイエは空間を歪曲させてのことであるらしい。 アキたちの故郷で言えば、空間関係を得意とするESP能力者はごくわずかだったから、カイエの持つ能力が非常に厄介であることが判る。たかが欠片で、普通の人間にこれほどの力を与えてしまう世界計とは、かくも強大な代物なのか、と感嘆に近い感情を抱きもする。 「あんたの想うたったひとつが俺にも理解出来るから、俺はあんたを何ひとつ悪くは言えねぇ」 とはいえアキに気負いはない。 自分が、死なない身体の持ち主だからというだけではなく。 「だけど、俺のたったひとつは、あんたが血の犠牲として捧げようとしてる類いの命なんだ。だから俺は、あんたと戦わなきゃいけねぇ」 所有能力の観点からしても、アキは、カイエを凌駕し得ない己を理解している。 しかし、アキはひとりではない。 彼には、信じるに足る仲間がいる。たとえ己が斃れようとも、誰かが必ず責務を果たすだろう。それが判るから、いつでも全力を尽くすという自負を持つだけで済む。 「君は、ひとに恵まれたのだな」 「あんただってそうだろ」 アキが返すと、カイエはまぶしげに笑った。 そこに、何の偽りもはかりごとも、アキの優秀な精神感応力は感じ取ることができない。あまたの犠牲を大地へ吸わせようとしている黒幕から、アキはいかなる邪悪も見出すことができない。 殺すためではなく止めるために戦う。そのつもりでアキは来た。 どうしても怒りや憎しみの感情をカイエに抱けない。 「出来れば死んでほしくねぇ。だってあんた、皇帝のこと、大好きなんだろ」 しかし、戦いを完全に回避できるとも思っていないのだ、実を言うと。 彼は耳にしていないが、奇しくもジュリアンが言った、『最後のピース』がまだはまりきっていない、大団円のために必要な要素が揃い切っていない、そんな感覚が彼にはある。 そして、その要素を見つけ出すためには、今はひとまず戦うしかないことも、アキにはよく判っているのだ。 「……始めるか」 気抜けしそうなくらい普通の声でアキが言えば、頷きが返る。 アキはある種の囮、目くらましだ。彼が戦う間に、やるべきことのある連中が、それらをなすだろう。 「せいぜい、退屈させねぇように励むとするかね」 言葉尻には、奇妙な親しみがにじんだ。 2.其の名は不穏 皇帝のもとへはティリクティアとゴウエンが向かうことになった。 カイエのもとへは、ゴウエンの力を拝借したユーウォンと撫子、ヒイラギが向かう。 そして、残りの三人、ハルカとジュリアン、ラスは、ロウとともに帝国の『深部』へと来ていた。 ひんやりと静かな、どこか畏怖を感じさせもするそこを、連れだって、足早に歩く。 「棘の対処法を確立するという意味でも、皇帝には目覚めてもらわないと」 ラスはその大局を見ている。 「なんにせよ、手持ちの情報が少なすぎる」 こと、トコヨの棘に関して言えば、もっとも近しい当事者であり、もっとも詳しいであろう人間と言えば、クルクス以外の名は上がるまい。 「カイエをどうしようとも、棘の問題は解決しない、そうですね」 「ああ」 「ロウさん、棘の状況はどうなんですか?」 「今のところ大きな動きはない。俺に感知できる限りは、だが」 「……そうですか」 ラスは考え込む。 「どうした、ラス」 「いえ……棘がその状態であるとして、カイエさんが急に動いた理由はなんだったのか、と」 ラスの独白に考え込み、 「……何らかのタイムリミットがある、ということか?」 ジュリアンがつぶやく。ラスはうなずいた。 「どこで聞いても、彼の悪評を見つけることはできなかった。私が彼を見た限りでは、彼の中にあったのは、皇帝への深い想いだけでした。何かのきっかけがなければ、このような行動には出なかったはずです。では、それは、何なのか?」 「……世界計の破片を得たこと? いや、それだけでは、あの行動をとる理由としては弱いかな」 「じゃあ……破片の力を得て、トコヨの棘の在り方や、一時的ではあれ棘を沈黙させる手段を知ったから?」 「ただ、それが、クルクスを哀しませると判っていて、何万何十万もの兵を生け贄として死なせることにつながるかどうかだな。あいつとはそう長い付き合いじゃないが、カイエほどクルクスを想い、敬愛している奴はそうそういない」 「……と、なると」 ラスは『深部』の奥を見据えながらつぶやく。 「タイムリミットがあるのは、カイエさん自身なのでは」 彼の言葉に、ロウが沈黙する。 「心当たりが?」 「いいや。ただ……そうだな。へまをしてあいつにとっ捕まった時、妙な波動を感じたんだ」 「それは、どんな」 「なに、と具体的に説明するのは難しいが。まるで、人間ではないかのような、奇妙な気配を、感じた」 確かなことは何ひとつ判っていないに等しいが、何かが起きていることもまた確かなのだ。 それとてカイエと見えれば判明するだろうと、ひとまず、ロウの案内に従って、ひたすら奥へ奥へと進む。彼らの見つめる奥からは、冷え冷えとした空気と、身体が重くなるような威圧感が漂ってくる。 「血……いや、命、か。それを捧げずにすむ方法は、確立できないんでしょうか」 しかし、ロウは首を振る。 「世界計の破片は、世界の真理を見せただろう。カイエは聡明だ、俺なんかよりよっぽど。そのカイエがこれしかないと判断したんなら、おそらく、『戦いによって流された血と落とされた命』にしか、発芽を留めるすべはないんだ」 彼の言葉に、ラスは再び考え込む。 「なら、やはり、皇帝に心酔しているはずのカイエさんが、唐突にクーデターめいたことを引き起こすに至った事情の背後には、何らかの『急がざるを得ないタイムリミット』が発生したためと考えてよさそうですね」 ラスはずっと、カイエと皇帝のことを考えている。 ふたりとも、誰かのために、自分を顧みず、世界を救おうと様々な方法を考え、実践してきた。彼らの対処法は、現状のままであれば同じだが、それはどちらも、ひとりで行った結果だ。 「ロウさん、私は」 足元を這い上がる冷気を振り切るようにラスはつぶやく。 「今まで存在しなかった要素、つまり世界計の破片とロストナンバーという要素を踏まえて、皇帝やカイエさんが対処すれば状況は変わる、と思っています」 「……そうだな」 彼らは愛情深く、誇り高く、我が身を省みず、己が死も恐れることなく、滅びというものと向き合った。しかし、彼らはひとりだった。 「ひとりで打てる手はすべて尽したとして、誰かを巻き込んで打つ手はまだあるはずです。私は、絶対に諦めない」 ラスの言葉に、ロウは微笑んだ。 「……ラスは、ずいぶん変わったな。余裕のようなものが見える」 ラスは、唇の端を緩めた。 自分は変わったとラス自身思う。それは、受け止めて、受け入れて、気遣ってくれる人が出来たからだ。そして、だからこそ、カイエを慮ることが出来た。 「変わったことを、厭ってもいない自分がいます」 やがて四人は『深部』の最奥へと辿り着く。 光源があるわけでもないのに、ほのかな明かりによって照らされたそこには、見ているだけで気持ちが暗く沈んで行くような昏い赤の色をした突起状のものが、突き立っていた。 大きさで言えば一メートルほどだろうか。 「ここの棘は『憤怒』を司る。下手に近づけば、怒りに支配されて取り込まれるぞ、気をつけろ」 棘は、不気味な拍動を見せつつも、未だ目覚める様子はない。 「いるか、ドミナ・ノクス」 ジュリアンが呼ばわると、 「ええ、あなたが呼ぶのなら、どこにでも」 夜女神ドミナ・ノクスの分体が唐突に顕れる。 今さらそれに驚くような可愛い精神はしておらず、ジュリアンはすぐさま本題に入った。時間がない、というカイエの焦りは、しかし同時に、世界そのものの言のようでもある。 「ゴウエンが言っていた。この棘に、旧きモノの気配を感じると。君たちに、その心当たりは?」 「判らないわ。おそらくコレが来ったのは、五百年前の『あの日』なのでしょうけど……私たちには、察知することが出来なかった」 「逆に言えば」 ジュリアンは言葉を継ぐ。 「五百年前、世界が粉々に砕けて分裂し、今の形状になった原因は、この棘の大元である『何か』にしか求められない、とも言える」 「棘の正体は、ディアスポラした、ものすごく強い神様、ってことなのかな……?」 「そうだな、その可能性は高い」 「でも、だとしたら、なぜあんな棘に? 神様本体はどこに行ったんだろう?」 ハルカが首をかしげる。 ラスは、気味の悪い赤をした棘を凝視している。 「あの棘に真理数を見出すことはできませんね。ということは、あれは、この世界の存在ではない。けれど同時に、ロストナンバーでもない」 「ええ。何より、ソレの覚醒が五百年前と考えるなら、図書館にも所属せず、帰属もしていなければ、消失の運命を免れることはできないわ」 「帰属はしていない?」 「この世界のものとなったなら、いかに上位存在であろうと、気づくはずだもの」 「俺のサイコメトリで読むのは……無理かな。残念ながら、あまり強く発現している能力じゃないから」 ハルカが言うと、ロウは少し考えるそぶりを見せ、ジュリアンとラスを交互に見やった。 「あんたたちは皆、精神感応に近い能力を有しているな。あんたたちの感覚をつないで、俺とドミナ・ノクスでそれを増幅すれば、あるいは……?」 試す価値はある、と皆の意識をつなぎ、循環させ、大地の、世界の抱える深い深い記憶へと沈んでゆく。 かちり。 何かが巧くはまったような不思議な音を、彼らは確かに聞いた。 ――そして、彼らはそれを見た。 最初は、光の点だった。 それは高い位置から堕ちてきて、シャンヴァラーラの『中』へと――物質的な意味ではない――めり込んだ。 それは驚いたようだった。 なぜなら、故郷でのそれは、ひとつの世界を意のままに弄ぶような存在で、思い通りにならぬことなどこれまでひとつもなかったからだ。 それなのに、シャンヴァラーラに堕ちてきて、世界の内面とでもいうべき、時間の概念すら存在しない深い部分にめり込んでしまったそれは、世界そのものに絡まり、取り込まれてしまい、脱出することや、己が力を揮うことどころか、身動きさえできなくなってしまったのだ。 当然、それは怒った。憤ったし激怒した。 ちっぽけな異世界ごときがと侮蔑し、嘲笑し、唾棄した。 しかし、どうあっても、それは、世界の奥に取り込まれたまま、出ることはできなかった。 それは憎悪したようだった。悲嘆し苦悩し、諦めては足掻き、苦痛に悶え、泣き叫び、精神の上でのた打ち回って、動かせぬ手で空虚を掻き毟ったようだった。声にならぬ声で怨嗟を吐き、狂い笑い、呪い、絶望したようだった。 しかしやはり、それは、そこから出ることはできなかった。 そして『その時』がやってくる。 それは永遠にもひとしい感覚の中、身悶え、暴れては脱出を試みていたようだ。 故郷では誰もが畏怖し、血の犠牲をささげ、せめて世の平らかならんことを祈った己が、このような無力に苛まれていいはずがない、などと思ったのかもしれない。 それはいつものように身じろぎし、身悶え、暴れ、力を揮おうとした。 半ば諦めつつも、半ば惰性でそれを行った。――世界の基盤に、もはや限界が来ていることには気づかぬまま。 結果、世界は割れた。 世界に光る筋が入る。 すべてが、神と呼ばれる小守護者を中心に分断され、光る膜によって覆われて、小さな世界へと――【箱庭】へと転じてゆく。 しかし、それは解放されなかった。 すでに世界と同化しつつあったそれは、世界が割れた瞬間、肉体も精神も力も、すべてが粉々に砕けて、シャンヴァラーラの……今や無数の【箱庭】となった世界の『中』へと紛れ、しみこんで行った。 そして出来上がったのが『深部』であり、『棘』なのだ。 世界には『それ』の怨嗟が、呪いが、恨みが、憎しみが、版画のように刷りこまれ、残った。 だからこそ、トコヨの棘に、正の感情は存在しないのだ。 3.対峙、慟哭 捻じ曲げられ塊と化した空間そのものに激突され、吹っ飛んだアキを受け止めるようなかたちで彼らはそこへ到着した。 「おや……第二陣かな」 カイエは涼しい顔をしている。 「あーくそ、欠片だけでこの力って反則だろ……」 対するアキは汗だくだ。 異様な回復力を誇る彼であるから、傷そのものは見受けられないが、衣装のあちこちが破れたり焼け焦げたりしていて、彼が繰り広げた戦いがどんなものであったのかを物語っている。 「さて」 カイエは疲労すら伺わせぬ声と表情で三人を見やった。 ゴウエンから借りた飛行能力で少し飛び、ユーウォンは一歩、前へ出る。 「次は、君か?」 首を横に振り、 「精神を鎧う術も思いつかぬ、愚かで非力な竜は邪魔にもならないよ。話だけ聞いて欲しいな。笑い飛ばしていい」 ユーウォンが言うと、カイエは空中に浮かんだまま先を促した。 「聞こう」 ありがとう、と返し、ユーウォンは言葉を選びつつそれを声に載せる。 「おれの故郷には、人を食う植物がいる。そいつは、飢えれば動き出す。餌がたっぷりなら、その餌でぎりぎり養えるまで静かに株を育て殖える。そして、飢えていようがいまいが、『その時』が来れば姿を変え、花を咲かせたり種をつくったりする」 「ふむ。この世界にも、そういう生き物はいる。それで?」 「――トコヨの棘が、そうではないと言える? 平穏は伸ばせるかもしれない。でも何年伸ばせる? 数年の平穏の代償に支払うものが本当は何になるのか、誰にも判らないだろ。棘については誰より詳しいヒトでも、護ろうとしたものが結果としてその平穏の代償にならないと言い切れるかい?」 ユーウォンの言葉に、カイエの眉がぴくりと動く。 それが同意なのか拒絶なのか判らないまま、ユーウォンは言葉を継ぐ。 「本当に命を延ばすなら、世界がすっかり変わらなくちゃならないと、おれは思う。どう変わるべきか大急ぎで探さなきゃならないと、おれは思う。今の平穏は消えるだろう。上手く行くかも判らない」 ユーウォンの世界では、常にそうだった。 「でも、生きているものは……ヒトでも、世界でも……どうしたって、変わっていくんだ。変われないのは、不幸だよ」 おれが言いたいのはそれだけだ、ユーウォンがそう締めくくると、 「君の言いたいことは判る。君や、旅人たちが、私を説得したいのだろうというのも。だが……君は、ひとつ忘れている」 カイエはかすかに笑った。 「それが失敗した時、死ぬのは、君ではない」 そこには憤りや断絶はなく、ただ事実を言う口ぶりだけがある。 「今、発芽間近な棘が無数に存在するこの現状において、確実に発芽を抑えられる唯一の方法を前に、具体的な代替案のないそれは、受け入れられない」 「……それは」 「君の言うことはもっともだ。私も、出来ることならそうしたい。世界には変わってほしい。否、皇帝陛下が変えてくださるだろう。だから私は、あの方が世界を変えるための時間稼ぎをする。――そういうことだ」 「待って、なぜそんなに急ぐの、きみは」 性急さの中に焦りを感じ、ユーウォンが思わず問うと、カイエはにじむように微苦笑を浮かべた。 「私には時間がない」 ヒイラギはそこへ、声をかけた。 「次は、君か。旅人たちとは、つくづくお人好しが多いようだ」 「お人好しなんかじゃありませんよ」 ヒイラギは苦笑する。 「ここを訪れたのは初めてですので、貴方のたったひとつの絶対がどんな方かは判りません。すべてを踏みにじってしまうだろうこと、知った時に哀しむだろうことも、すべて承知の上で選択し行動するほど……そうするしかないほど大切で、他の何とも変えられないことは判ります」 言葉を紡ぐたび、脳裏をよぎるのは、やはり彼の主のことだ。 再び巡り会うことが出来たからこそ、その思いは強い。 「けれど、あとで何が起きたのか、すべてを知った時、貴方にこの決断をさせた自分自身を責め憎むのではないですか? たとえ身体は護れても、心が護れるかどうかは判らないですよ」 どうにかして思い留まってほしい、説得したいという思いからの、ヒイラギの言だったが、その言葉に、カイエは微笑んだ。 そしてひとこと、 「あの方を、見くびるな」 鋭く厳しく、断じる。 先ほどとは違い、そこに断絶のごとき冷ややかさを感じ、ヒイラギは眉をひそめた。 「ならば君の主人は、君が私と同じことをした時、己を責め憎み壊れてしまうと? 君の覚悟と切実な思いを慮ることなく、ただ悲嘆と後悔の中に生きると?」 彼らには、ヒイラギの知り得ぬ絆があるのだろう。 「己のなそうとしていることの残酷さを知っている」 それは、皇帝の肩に、更に重い荷を載せることだ。 「同時に、あの方が応えてくださることも、知っている。醜い打算だ。そんなことは、知っている」 しかし、それはつまり、彼も皇帝も――彼の主も、結局、我が身より他者を選び、尽くすことでしか生きられないのだと、思い知らされて、 「ですから」 思わずヒイラギは口にしていた。 「トコヨの棘は、絶対に破壊できないわけではありません。それはご存知でしょう? 取り除く方法を探すためにも、旅人に助力を求めてみては? 旅人たちの多彩で強い力のことも、ご存知のはずですよね?」 「そうなんですよぉ!」 そこへ、声を上げたのは、撫子だ。 声が大きかったもので、カイエが驚いたように彼女を見やる。撫子は「てへッ☆」とばかりに笑ってみせ、すぐに本題へと入った。 「こんにちはぁ。殴り合いを始める前に、どうしても貴方とお話ししたくてぇ」 「ふむ。続きを」 「ロウさんを喪えば皇帝が哀しむっていうカイエさんなら、貴方を喪えば絶対皇帝さんが哀しむと思いますぅ。信じ合っている人同士が哀しむのいやですぅ、皇帝も貴方も幸せになって欲しいですぅ」 直截な言葉にカイエが苦笑し、 「だから、私たちの力を信じてもらうためにも、戦ってほしいんですぅ」 継がれたそれに、驚いた顔をする。 「私も、友人や大切な人のために世界を敵に回せる人間です。けど、私の恋人は世界を護りたいって言うんです」 言葉を重ねるうち、撫子の口調は素に戻っていく。 朴訥で不器用な想い人の、世界への献身が脳裏をよぎる。 撫子は彼のようにはなれない。しかし、彼の願いを汲んで、彼の願う世界の在り方を構築する手伝いならば、出来る。 「だから私は、両方手に入れるために自分の出来る死力を尽くします。そう決めたんです!」 それに、と彼女が継いだ言葉に、 「偶然でも、私たちは異神理を壊した実績があります。夢守さんも異神理が見えるかもって言ってました。私たちが手を取り合えば、貴方や皇帝さんにばかり頑張らせないで済む世界が絶対来ます」 カイエが目を見開く。 「私たちの力を貴方に信じてもらいたい、だから私たちがどこまで出来るか貴方に知って欲しいんです。私たちが勝ったら、私たちを信じて一緒に異神理と戦って下さい」 撫子の言葉を、カイエは反芻している風だった。 彼女の隣に、ハルカが立ったのはその時だ。 「俺たち旅人は、通りすがりの存在かもしれないけど。故郷を持つ身として、この世界にも幸せになってほしいと思うよ」 じゃあ、やろうか。 軽やかですらある風情でハルカが言うと同時に、彼の傍らをジュリアンが駆け抜けていった。ダメージから回復したアキも、それに倣う。 ジュリアンは完全に思考を閉じていた。 それは、心を読まれないようにすることではない。ジュリアンが考えている、たったひとつのことだけが読まれるようにすることだ。 ゴウエンからはさまざまな能力を借りてある。 帝城の屋根の上を統べるように飛び、キューブで錬成した専用武器を展開する。彼が手を振ると同時に、光る無数の粒が解き放たれ、ジュリアンの周囲を舞った。 武器の名は、《エコー》。 硬度と形状を、ジュリアンの思うまま自在に変化させる銀砂である。 ジュリアンのためにつくられたこの武器は、彼の能力を繊細に反映し、効果範囲を拡大する。また、他の能力者に制御を奪われぬよう、ジュリアン以外の精神を通さないつくりとなっている。 これは、能力に明確な限界があるからこそ、その使い方を工夫し、相手の技や行動に対して柔軟に対応する戦術を取るジュリアンにとって、非常に使い勝手のよい武器なのだった。 《エコー》を足場に替え、カイエの頭上へと駆け上がる。 カイエが体勢を整えるより早く《エコー》を解除、瞬時に鞭へと変化させ、頭上から揮う。回避され、弾かれることは予測済みだ。すぐに銀砂は鋭い無数の金属片へと姿を変え、矢のように解き放たれてカイエを襲う。 その間にジュリアンはカイエへと距離を詰めている。 「ジュリアンの戦い方は、とても参考になる」 ハルカが純粋な感嘆を載せ、 「まあ、俺たちは基本、力押しだからなあ」 アキが正面からカイエへ突っ込みつつ言う。 どこかほのぼのとした強化兵士ふたりのやり取りに微苦笑し、彼らがつくってくれた隙をもとにカイエの懐へと飛び込む。 トラベルギアの刃が鋭く輝きながら彼の胴へと吸い込まれてゆき、――それは、カイエの操る力に阻まれて、粉々に砕け散った。 「ここからが本番だ」 ジュリアンの言うとおり、砕け散った刃はぐるぐると渦を巻き、凶悪に輝く嵐、竜巻となってカイエを襲った。 「……派手だな」 「自分で制御できれば、もっとよかったんだけどね」 アキの素朴なつぶやきへ苦笑を返し、銀砂を剣へと変化させて、戦闘を続行させる。 (どうして) 刃の嵐にさらされながら、次々と繰り出される超能力者組三人や、試すようなヒイラギの攻撃を防ぎながら、カイエの眼差しはずっと凪いでいる。弾丸のように突っ込んで行った撫子の拳を受け止め、やんわりと距離を取りながら、彼の眼は、刻みつけようとでも言うように帝都を映している。 それらを見るたび、次から次へと疑問は湧きいずる。 (どうして彼は一途にただひとりを想える。己を犠牲にできる。批判を恐れず意思を通せる。選択を悔いない) カイエの過去を知っても、 (いや、だから、か……?) ジュリアンの抱く疑問は強まるばかりだ。 (彼になりたいとも、なれるとも思わない。しかし、僕と彼の何が違う? 何が彼をかくかたちづくり、ひた走らせる?) そこには僅かな憧憬がある。 剣が鈍ることはなかった。むしろ普段より激しいほどだ。 揺れる心の一部を他人事のように脇へ避け、冷静さを保ち戦う己を嘲笑う。 (こんな弱い男が立ち塞がるのは冒涜だろうか) 思いつつ、揺らぎもせずに放たれた、 「それでも僕は、君の敵だ」 ジュリアンの言葉に、カイエは笑った。 どこか無邪気にも見える笑みだった。 「――君は、強いな」 ジュリアンは眉をひそめる。 「冗談でも、よしてくれ。笑えない」 「本気だ。君は強い」 「……どこが」 返った言葉は、晴れやかですらあった。 「弱い自分を知っている」 それはやはり、私利私欲のために命を、人心を弄ぶ、強欲な為政者の顔ではなかった。 カイエの潔さに、ハルカは死を見ていた。 虐げられた存在である強化兵士として、彼の出自や過去は共感するに余りある。彼が皇帝に抱く思いも痛いほど判る。だからこそ、ハルカは彼に死んでほしくなかった。 「カイエ、死んじゃ駄目だ」 思わず口にすると、ラヴェンダー・ブルーの眼が、なぜ判ったとでも言いたげに見つめてくる。判らないはずがないと苦笑し、 「あんたは皇帝陛下に叱ってもらうんだ。ひとりで背負うな、頼れ、って」 ハルカは念動を塊にしてカイエにぶつける。 当然それは、空間を動かすことさえ出来る破片の前に蹴散らされてしまったが、ハルカにとってそれは、大きな問題ではない。 「皆で笑える世界を創ろう、カイエ。俺たちも、手伝うから」 伝えるべきことを伝える。想いは率直に、偽らず、そして相手のことを慮りながら。ひとを説得することは、とても難しい。しかしそれは、他者の、そして自分の心に、丁寧に寄り添うことでもあるのだった。 アキもまた、同じように言葉を、心を尽くそうとしている。 否、カイエ自身、判っているはずだ。 己を説得しようと言葉を重ねる人々が、皆、自分を心底案じ、行く末を祈っているのだということを。 「もしかしたら、皇帝とロウだけじゃ荷が重いかもしれねぇ。帝国には、これからもあんたみてぇな人材が要る」 アキに、カイエを否定するつもりはない。彼の悲痛な想いを、自分のはかりにかけて断罪したくない。 「それに俺は、あんたを喪ったあとの、皇帝やロウの悲痛を唯々諾々と受け入れたくもねぇんだ」 「私も思いますぅ! まだすべての方法を試したわけじゃないのに、それを選択するのもいやですぅ!」 ギアで恐ろしい水流をつくりだし、カイエのいた辺りを薙ぎ払いつつ撫子が言う。アキは頷き、再びカイエと向き合う。 「皇帝もそうだけど、それと同じくらい、あんただけが背負う必要はねぇだろって思うんだよ、俺は」 「君たちは……まったくもって、度し難いお人好しだ」 こぼされるそれは嘆息めいていた。 人々の言葉は、想いは朴訥だ。殺す心算で剣を揮うジュリアンですら、怒りや憎しみでは戦っていない。そこには共感があり、思いやりがあった。 それらをつぶさに見つめつつ、 「ボクは、カイエとは戦えない」 ラスの手は、だらりと下がったままだ。 超能力者組がカイエと渡り合っている間も、彼の双眸は、カイエだけをじっと見つめていた。 彼の取ろうとしている手段は非情で、非道だ。 しかし彼は、過去の実績から確実な手段を選んだだけで、世界を滅亡から救い押し留めるという意味で言えば、間違っていたとは思えない。 ――あの時、垣間見た過去はラスと似ていた。 一方的に搾取されるしかなかった境遇と、たったひとりのお陰で救われた、心の在り方が。だからこそ、ラスは、皇帝をすべてで支えようとするカイエを憎むことができない。ラスも、きっと同じことをするだろう。そんな確信がある。 けれど、同時に気がかりなのは、カイエの心だ。 「でも、それでいいの? それで最期は笑って死ねる? 皇帝に謝って死ぬんじゃないの?」 ラスの、第一の疑問はそれだった。 大好きな人に謝るしか出来ない最期など、ラスには想像がつかない。 しかし、返る答えに迷いはなかった。 「構わない」 カイエの言葉に、哀しみと同量の、嘘も偽りもない本気、甘受を感じ取った瞬間、ラスは防御も考えず、カイエの懐へ飛び込んだ。込み上げる激情が涙を連れてくる。瞼が熱い。 「何でだよ……何でだよ!」 カイエは攻撃してこなかった。 ラスに胸ぐらをつかまれるまま、彼を見つめるばかりだ。 「そんなこと言うなよ……せっかく救ってもらったんだ! それなら最期まで救われたまま死になよ! もっと考えてよ! 頭いいんだろ! ひとりで無理なら誰かを利用しなよ!」 握った拳で、カイエの胸を叩く。 「このまままた理不尽な何かに負けるのかよ! そんなのあんまりじゃないか……諦めないでよ!」 走査の力を発動させずとも、カイエの想いが、拳を通じて伝わってくる。 「結局救いがないなんて、ボクは嫌だ! そんなの、絶対に嫌だ!」 カイエの胸元に顔を突っ込むようにして、いつしかラスは泣いていた。 号泣、慟哭と言っていい。 心を隠すようなことはしなかった。 すべて、自分の心情であることを伝えたくて、精神的な壁はすべて取り払い、カイエにさらしていた。 「……すまない」 カイエが詫びる。 「謝るくらいならボクの言うこと聴きなよ! ボクは間違ったことなんか言ってない……カイエは皇帝と生きなきゃ駄目だ! ここでおしまいなんて、絶対に駄目だ……!」 仮にも敵の前で泣きじゃくり、駄々をこねるラスに、カイエは苦笑したようだったが、彼は首を横に振った。 「だが、もはや皇帝陛下に合わせる顔はない。私は、あまりにも不遜で、不敬だった。陛下とて、私を許すわけには――……」 「そうじゃないわ!」 不意に響いた声は、ティリクティアのものだった。 彼女は、ゴウエンから借りた力で宙を飛び、カイエの前へと舞い降りる。 「クルクスがあなたを許さないなんてあるはずがない。それどころか、あなたを責められる人間なんて、どこにもいない」 「……そうかな」 「臆病なのか大胆なのか判らないわ、あなた」 ティリクティアは溜息をついた。 そして、まっすぐにカイエを見つめる。――本題はここからだ。 「お願い。クルクスとちゃんと話して……お互いの気持ちを、意思を伝えあって。クルクスか民か、ではなくて、別の道をいっしょに、どちらも生き残る道を探しましょう」 「先ほどの彼にも言われたな。君たちはそれを可能だと?」 「ええ。そんなに簡単ではないということも判っているわ。もしかしたら、他に方法はないのかもしれない。だけど、私たちも協力するから。まだ希望がゼロと決まったわけではないでしょう?」 問いの体裁を持ちつつ、ティリクティアの言葉には強い確信がある。 「君はなぜ、そんなにまっすぐに希望を信じていられる?」 「私は未来を視ることが出来る。未来というのは無限大の可能性なの。諦めない限り、掴みとれるものだと私は信じているわ……そして、それを決めるのはひとりひとりの行動なのよ」 無限の可能性の傍らには、常に希望がある。 ティリクティアはそれを知っているし、いつでも信じている。 その信念が彼女を進ませたし、今もなお、ティリクティアの道をつくっているのだ。 「どうか……お願い、カイエ。貴方自身もまた、クルクスとともに生きる未来のために、世界計の欠片を渡して。お願いよ」 それが、ティリクティアの思いの丈だった。 しかし、カイエは首を振った。 「無理だ」 「なぜ……!」 ティリクティアの哀しい眼差しに、カイエは笑う。 そして、軍服の前をはだけ、静謐で神秘的な青へと変質しつつある己の身を、彼女やロストナンバーたちに示してみせた。 「……それは!?」 「完全に融合している。そして、融合は進みつつある。あと一年……いや、数か月もしないうちに、私は、私ではない何かになるだろう」 「だからあなたは急いだの。自分が死んだあとに何を遺せるか、皇帝のために何ができるかと考えて?」 「ああ。過去の資料から、どれだけの血と命を注げば、どれだけの時間『棘』が眠るのかが算出された。――あとは、行動するだけだ。そうだろう?」 命の、存在としてのタイムリミットが、彼にこの道を選ばせたのだと知って、ラスが震える指先を伸ばす。触れた先で、カイエの肌は、人間のそれとは思えぬほど硬く、そして冷たかった。 「本当に助からないの? カイエは消えちゃうってこと?」 「だろうな。いろいろと試してみたが、効果はなかった」 「そんな」 では、結局彼は理不尽な力の前に喪われてしまうのか、と、ラスが思わず言葉を失った時だった。 「ならば、その解決方法も、探そう」 静かで深い、声が響いた。 カイエが、ラヴェンダー・ブルーの双眸を見開く。 4.解放、そして 「皇帝陛下」 どこか呆然とカイエが呼ぶ。 クルクスの眼差しは穏やかで、そこに自分を操った者への怒りはない。 「まさか……君たちが?」 「そうよ。当人たちに話をさせることが、一番確実で手っ取り早いもの」 だからちゃんと話をして。 ティリクティアが、愛らしい唇をきりりと引き締めて言う。 「し、しかし」 躊躇するカイエに、クルクスが微苦笑を向ける。 「……私の至らなさが招いたことだ」 「違います!」 先ほどまでの達観した冷静さが嘘のように、カイエが首を振った。それはどこか、少年のような瑞々しい感情を伴っていた。 「死に値する不敬と知って、これをなそうとしました。あなたを傷つけ、苦しめ、絶望させるかもしれないと知りつつ、あなたなら受け止めてくださる、私の遺すものを無駄にはなさらないと思ってこれをなそうとしました」 「ああ……知っている」 皇帝が頷くと、カイエの顔がくしゃりと歪んだ。 「私は、あなたが死ぬのは嫌だ。もう二度と、想う人を亡くすのは嫌なんです!」 込み上げるままに吐き出された激情に、ラスが目を見開き、カイエを見上げる。カイエはラスを見つめ、穏やかに、やわらかく微笑んだ。そして、ラスを、力いっぱい突き飛ばす。 「カイエ!」 「これで終わりに。それが、一番いい結果を生み出すはずだから」 驚愕の声が上がる中、欠片の力を解き放ち、カイエがこちらへ突っ込んでくる。 死ぬつもりなのかと誰かが息を飲んだ。 それと同時に、あまりにも静かなその眼差しから、その死さえも彼の思惑の範疇であるように思われて、このまま彼を喪わせてはならないという危機感に駆られる。 そんな中、飛び出したのは、ジュリアンと強化兵士コンビだ。 「君たち、何か策が?」 返事の代わりに、ジュリアンの脳裏へとイメージが送り込まれる。 「……なるほど」 ジュリアンは頷き、《エコー》を発動させ、展開させた。 楔状の金属片へと姿を変えたそれらが、いっせいにカイエに襲いかかる。 それは先ほどの比ではなく速く、鋭くて、カイエは――破片の所持者は、防御を強化せざるを得なくなる。 おかげで、強化兵士組の仕事はやりやすくなった。 「ハルカ、判るな?」 「うん。カイエの、ひとの部分を残そう。俺とアキなら、出来るよ」 彼らの眼は、ESP能力を通して、カイエの『内部』を見ている。 カイエの肉体に潜り込んだ世界計の欠片は、彼の中に根を張り、少しずつ肉体と精神を取り込んで成長し、変質している。 「最後のピースは、きっとこれだ」 ジュリアンが独白し、 「――……行ってくれ、ふたりとも」 ギアの刃嵐と《エコー》、双方をカイエへと向ける。 その間に、ふたりは彼の懐へと飛び込んでいる。 「腕の変わりは、皇帝がつくってくれるよ、きっと」 最初に、カイエに触れたのはアキだ。 解放された力は、特殊ESP能力『静止』。 対象の時間を完全に止める力である。 『静止』がカイエの時間を止めている間に、ハルカの『分解』が発動する。 手で触れてさえいれば、いかなる物質もエネルギーも消滅させてしまう特殊異能『分解』を、ごくごく小規模に、まさに針のごとき規模でカイエの左肩に展開し、腕と世界計の欠片の境目を消滅させる。 「そういうことか」 機械の精密さで出力を調整し、『分解』し続けた結果、世界計とカイエは完全に切り離される。カイエとのつながりを失った左肩口から先が、ごとり、と音を立てて堕ちた。 あとには、人間の気配のみを残したカイエがいるばかりだ。 「……感謝する」 深くリンクしていた世界計と切り離されることは衝撃だったのか、意識を失ってぐらりと倒れ掛かったカイエを抱き留め、通信機で医療班に連絡を入れながら皇帝が言い、 「ありがとう」 ロウもまた、安堵の表情を浮かべていた。 「クルクスに救われたって意味で、こいつは俺の弟みたいなもんだ。弟をなくすのは、キツいからな」 カイエに事情を訊くのは、彼が落ち着いてからでもいい。 まずは世界計の破片を回収しようと、ヒイラギやティリクティアがそれに歩み寄ろうとした時、唐突に、空間が歪んだ。 ぐにゃりとしたそれの向こう側から現れたのは、 「……一衛?」 アキが呼ぶ通り、『電気羊の欠伸』の守護者、黒の領域を司る夢守だった。 それはどこか茫洋とした目で眼下の彼らを見下ろし、 「え、真理数……」 誰かがいぶかしげな声を上げるのにも気づかない体で、カイエの身体から切り離された、世界計の欠片と人体がまじりあった、あおいあおいそれを見ていた。 それから、 「印を、世界に」 短い言葉とともに、世界計へと手を向ける。 瞬間、くるくると回転しながらそれは宙に浮かび、そして、まぶしい光を発するとともに、粉々に砕け散った。砕け散ったそれらは空の彼方へ消え、または地面へと沁み込んで消えた。 「!?」 驚愕が辺りを席巻する。 夢守は、現在何が起きており、これから何が起きるのかを理解している風情で、光の行く末を見守っている。 ――現存するすべての【箱庭】、その『深部』に存在する棘が、シャンヴァラーラに住まう『普通の』人々にも認識できるようになったこと、そして手順こそ必要だが人々の手で『回収』できるようになったことが伝わるのは、そこからほんのわずかな時間が経ってのちのことである。
このライターへメールを送る