0世界のどこかにある、小さな食堂。しかも看板も小さい。しかし、そこからはなんとも言えない美味しそうな匂いが漂ってくる。そう、そこがカレーとスープの店『とろとろ』である。 ここでは壱番世界でいうカレーやスープが楽しめる。オーソドックスな物からちょっと珍しい物まで、店主である世界司書、グラウゼ・シオンが作ってくれるのだが……。「よー、いらっしゃーい。よく来たな!」 貴方を出迎えたのは、和装のツーリスト、イェンである。出身世界で『料理』を食べた事がなかった彼は時々ではあるが、ここでグラウゼに飯をたかりに来ているのである。 そんな彼が何故かカウンターの内側にいる。しかもたすき掛けして袖をまくり、エプロンもつけている。不思議に思っていると、イェンが口を開いた。「グラウゼのおっさんなら今、報告書制作に追われててさー。俺が店番なんだよ」 簡単なものなら作れるよ、とイェンは言うのだが……心配だ。非常に心配だ。 貴方は逃げてもいいし、チャレンジしてもいい。若しくは一緒に作ってもいいだろう。 ともあれ、美味しい時間が送れるだろうか……?
『とろとろ』で食事を取ろうと思った坂上 健はカウンターにいるイェンの姿を二度見してから……困惑気味に問いかけた。 「な、なぁ。俺の記憶が確かならば、あんた全然料理できない喰うだけ男じゃなかったか……?」 「最近、それじゃダメだって思って練習してるんだ」 イェンはえへん、と腕組みして言うが健としては物凄く不安だった。 「作れる料理は?」 「ホットケーキとか、卵焼きとか……あと、野菜炒めができるようになったぞ! 時々味がないって言われるけど」 「……任せられねぇ……」 背伸びをしている子供のような笑顔で言うイェンに、思わず項垂れる健。彼はぐっ、と拳を握り締めると気合を入れ直した。このままイェンに任せておけない。何かが沸々と沸き立って、健は思わず叫んでいた。 「あぁ、もう! 俺は小学生の頃から家族の夕飯作ってるお料理男子だぞ!?」 「しょ、しょうがくせいって何だ?」 「ともかく、ガキの頃からやってるって事だ! イェン、俺が一緒に作ってやる!」 不思議そうに首を傾げるイェンの言葉を遮り、健がどこからともなくエプロンとバンダナを取り出し、厨房に入る。そして手を綺麗に洗うと、きょとん、としているイェンにきっぱりとこう言った。 「まずは玉ねぎをあるだけもってこい! 男なら玉ねぎ微塵切りにしろ、あるだけ全部な!!」 健に言われたとおり、店中の玉ねぎを持ってきたイェンはごろごろと台の上に乗せる。そして、2人そろって黙々と玉ねぎの皮を向くと、健はまな板の前に立った。 「まずはこうして、こうだ!」 そう言いながら玉ねぎに切り目を入れていき、細かく刻んでいく。イェンも横にまな板を持ってきて、見よう見まねでみじん切りを始めた。暫くの間包丁の音と刻まれる玉ねぎの音だけが響いたが、ややあって鼻を啜る音が混じり始めた。 「目がああ! 目がぁあああ!」 「ぐすっ、男が泣いていいのは玉葱切る時だけだ!! うわーんっ」 玉ねぎの成分によって涙が止まらなくなったイェンが目をしぱしぱさせながら奮闘し、健もまた痛む目を堪えて刻み続ける。背の高い男性二人が並んで(玉ねぎを刻みつつ)泣いている光景は、はっきり言って異様だった。 玉ねぎをあるだけ全部微塵切りにしてしまうと、次はフライパンを用意。十分熱するとサラダ油を適量広げ、玉ねぎを入れる。 「次は炒める! 飴色になるまで十分に炒めるぞ!」 「おーっ!」 イェンも真似してやってみる。焜炉の火に注意しながら、大量の玉ねぎをどんどん炒めていく。それだけでもいい匂いがしてお腹が空いていくが、まだまだ工程は残っている。 「炒めたらこっちのバットに広げるぞ。十分冷ましたら小分けして冷凍保存しておくんだ」 「ん? どうしてだ?」 首をかしげるイェンに、健は真面目な顔で答える。 「こうしとけば、何にでも使える。ここカレー屋で回転速いし暫くあんたが1人で店番するなら手間のかかる物は先に作っておいた方がいい」 健はそう言いながら器用に木のしゃもじで玉ねぎを広げる。その手際の良さに感心しながら、イェンは健の真似をしながら、「なるほどなー」と感心していた。 その次は人参一本をみじん切りにしたり、マッシュルームの缶をあけたり……と2人並んで材料を準備していると何気なく恋の話になっていた。健は最近色々あって、とある女性に告白したらしく、現在は返事を待っているのだという。彼はボウルに卵を割り入れながらそう言っていた。 「それで妙にそわそわしてたのか」 「気にすんなよ。こういうの初めてなんだよ……」 今までは告白した瞬間玉砕していたから、と苦笑する健に、イェンができていたカレーから具をとってお湯で伸ばしつつ相槌を打つ。 「で、その相手はどんな人?」 「そうだな、何ちゅうかすげぇ凛としてて可愛い人」 卵をときながら、健は答える。その頬が少し赤くなり、優しい眼差しになったのを見てイェンがにこり、と笑い……更に赤くなって言葉を続ける。 「出来れば彼女と一緒に生きていきたいって思う。けどさ、こればっかりは相手のある話だからな」 恥ずかしくなったのか、そこで少しそっぽを向いてイェンはどうなのか、と問えば彼は苦笑した。 「さっぱり。第一に、こっちにくるまでそんな気すら起きなかったし」 「どういう事さ?」 健がきょとんとしていると、イェンはあっさりと言った。 「出身世界じゃ俺のような異能力者は『手駒』だから死ぬまで主のモノでね、恋愛は御法度だったからさ。俺の主人は女だったから、夜伽もあったし」 あっけらかんと言うイェンに言葉を失いつつも健はひき肉を炒め始める。イェンは気にしないで言葉を続ける。 「ナラゴニアでも、ある男の下で工作員をやってたからな。恋愛してる暇ないぐらいにこき使われてねー」 今は精神的な軛も無くなったから恋愛する精神的な余裕もできた、と笑うイェンに健は少しだけ安堵する。一瞬だけ張り詰めた空気が和んだような気がした。 「ま、旅の途中で誰かに惚れたら……、その時は向き合おうと思うよ」 イェンは少し照れたような笑みで呟き、健は「おう」と小さく答える。そうしながら、玉ねぎや人参等を入れて欲しい、と頼むのだった。 健が手際よく炒飯を作る。ぱらぱらになった所で器に盛りつけ、今度は薄焼き卵を作る。綺麗に広がった卵を見、イェンの目が輝いた。 「なぁなぁ、これってオムカレーって奴になるのか?」 「そうだ。男2人ならこんなもんだろ。あんたオムライスってイメージだしさ」 「そうなのか? どの辺りがさ?」 訳がわからない、とでも言うような眼差しを受けつつ、健は器用に2枚の薄焼き卵を作る。そして、ふわりと炒飯に乗せるとイェンがカレーをかけて完成する。 「「よっしゃーっ!!」」 なんだかんだ言ってハイタッチする2人。程よく胃袋が空になったので早速食べようとカウンター席へと運んだ。ついでに水とサラダも用意して、早速席に着く。 「なー、健! 早速食べようぜ~!!」 「そうだな。それじゃあ……」 と、2人でいっしょに「いただきます」と言おうとしたその時。健が何かに気づく。そしてノートを開いて……顔を真っ赤にした。 「どした?」 「悪い、イェン」 耳まで赤くなった健が、徐にノートを閉ざすとそのまま席を立つ。 「それ、全部食っといてくれ。頼む」 「えっ? どういうこと、それ!? ガチで全部食べるぞ? いいんだな?」 「いいから!」 それだけ言って走り去る健の背中を見送り、イェンはなんだったんだろう、と首をかしげた。そして一人で食事を取りながら「青春かねぇ」とひとりつぶやいた。 健が飛び出した理由は、その告白した相手からお礼のメールを貰った為だ。まだ返事をもらったわけではないが、ドキドキは止まらない。 (あー、あれ。イェンなら全部食べそうだな) そんな事を思いつつも、彼は愛しい人の元へと走っていった。 (終)
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