小暗い悪意うずまくインヤンガイ。しかしそんな世界にも、活気ある人々の暮らしは存在する。生きている以上、人は食事をする。実は、インヤンガイは豊かな食文化の花咲く世界であることを、旅人たちは知っていただろうか――? インヤンガイのどの街区にも、貧富を問わず美食を求める人々が多くいる。そこには多種多様な食材と、料理人たちとが集まり、香ばしい油の匂いが街中を覆っているのだ。いつしか、インヤンガイを冒険旅行で訪れた旅人たちも、帰りの列車までの時間にインヤンガイで食事をしていくことが多くなっていた。 今日もまた、ひとりの旅人がインヤンガイの美味を求めて街区を歩いている。 厄介な事件を終えて、すっかり空腹だ。 通りの両側には屋台が立ち並び、蒸し物の湯気と、焼き物の煙がもうもうと立ち上っている。 インヤンガイの住人たちでごったがえしているのは安い食堂。建物の上階には、瀟洒な茶店。路地の奥にはいささかあやしげな珍味を扱う店。さらに上層、街区を見下ろす階層には贅を尽くした高級店が営業している。 さて、何を食べようか。●ご案内このソロシナリオでは「インヤンガイで食事をする場面」が描写されます。あなたは冒険旅行の合間などにすこしだけ時間を見つけて好味路で食事をすることにしました。このソロシナリオに参加する方は、プレイングで、・あなたが食べたいもの・食べてみた反応や感想を必ず書いて下さい。!注意!インヤンガイではさまざまな危険がありますが、このシナリオでは特に危険な事件などは起こらないものとします。
賑やかな通りに入って数分。 夕凪の足は様々な店に向かったが、その手に食べ物はひとつもなかった。炊き立ての米の香りや香辛料の匂い、焼けたソースの香ばしいが鼻腔をくすぐるが購入資金がないのだ。 インヤンガイの飯は美味いと0世界でも評判だが、これでは食べ歩きも出来ない。 しかし腹は減る。どうしようもなくぶらつきながら香りを楽しんでいた夕凪だったが、額に痛みを感じてひっくり返った。 「ッいてて」 額を押さえながらふらふらと立ち上がろうとするが、激突の衝撃で気力まで吹っ飛んでしまったのか足が重い。そのままごろりと寝転がり、夕凪は空を仰いだ。 腹が減っている上にインヤンガイはまだ少々肌寒い。 寒さは手先を麻痺させたが空腹までは麻痺させてくれなかった。 「この前飯食ったの依頼前だからいつだっけ。2、3日前か?」 すでに食事の記憶もおぼろげである。 ふと鞄にポテチが入っていたことを思い出し、手を突っ込んでまさぐるが途中で思い出した。そうだ、この間なくなったのだ。 一度空腹を強く意識するとなかなか他のことを考えられない。 ぐうと鳴る腹を押さえながら道端の木を見る。 (木の根って食えなかったっけ……) 視線を移すと飲食店のゴミ箱が見えた。 (残飯……いやいや露店からちょろまかしても) いつの間にやら無意識に見るものすべてを「食べれる」か「食べられない」かで判断していた。 通行人がちらちらと寝たままの夕凪に視線をやりながら行き来している。その中に値踏みするような嫌な視線を感じて少し唸った。 (……いい加減起きねーと身ぐるみ剥がされっかな) それでも立つだけでカロリーが消費される気がして、しばらくごろごろとする。 目を閉じてぼーっとしていると目の前で誰かが立ち止まる気配がした。 「おい、どうした」 声に反応して瞼を開け、見上げてみる。 立っていたのはサングラスをかけた男だった。黒髪は短く刈り込まれているが、後ろだけ伸ばして鼠の尻尾のように縛っている。 「あ~? 誰だようっせーな、オッサン……」 「オ、オッサ……俺はまだ二十代だぞ」 男が動揺している間に手早く読心する。 なんだ、探偵か――と思ったところで、その男の手にあるものに視線が行った。パックに入った焼き餃子である。 ほど良いニンニクの匂いが鼻に届き、意識する前に腹が鳴る。 「良いもん食ってんなー」 「なんだ、もしかして腹が減って倒れてたのか? 行き倒れは珍しくないが随分目立つ場所で倒れたな」 「いや、行き倒れてたっつーか……」 ぼそぼそと返しながらじーっと凝視する夕凪。 もちろん男を、ではなく餃子を、だ。 「…………」 「…………」 「……おい、急に黙っ」 「あーもー! 腹減っててしょーがねーのに目の前で美味そうに食いやがって憎い!!」 がばっと上半身を起こして吠えるように言う。 しかしすぐに元の表情に戻り、視線を無理やりといった風に餃子から男の顔へ移した。 「とか思ってねーし、全く全然、きっと多分」 「めちゃくちゃ嘘くさいんだが」 「この世に完全な真実なんてあるのかね」 「なにを突然哲学じみたことを……」 ぐううう、と夕凪の腹が横槍を入れる。 しばし無言で考え、夕凪は作り笑いを浮かべた。 「あ~、そこのカッコイイオニイサン。おれに何か食わせてくんねー?」 視線は獲物を狙う目に変わっていた。言外からも重圧を感じる。 「しかし生憎手持ちがだな」 「見なかった振りして見捨てるとかとかいわねーよなー?」 「いや、だから」 「なー?」 男は立ち止まったことを後悔しつつ眉間を押さえた後、夕凪に向かって手を差し伸べた。 「……安い店しか行かないぞ。ほら、まずは立て」 男はチャン・ジンと名乗った。 どうやら何度か旅人と接触したことがあるらしく、パスを見せた後は身元に関して何も聞かれることはなかった。 どこの店が安いかわからないから任せると夕凪が告げると、チャンは普段自分がよく行く店へと彼を案内した。安価でがっつり食べることもデザートを楽しむことも出来るのだという。その代わり材料の質はあまり良くなく、店員も店長の娘が一人だけである。 椅子に腰掛け、足をぶらぶらさせながらメニュー表に目を通す。 夕凪は視線を走らせるのと同じスピードで注文し始めた。 「炒飯とラーメンと肉まんと餡まんと胡麻団子と酒……は要らねーからメロンソーダとー」 「ち、ちょ、ちょっと待て、どれだけ食うつもりだ!?」 「腹減ってんだから仕方ねーじゃん」 「まずどこにそんなに入るんだ!」 夕凪は自信ありげな顔で自らの腹を叩く。 唸りながらチャンは黙った。いくら横暴とはいえ、相手は腹を空かせた子供である。しかも服の上からでも痩せているのがわかる上、肌は青白く放っておいたら死んでしまいそうに見えた。だからこそ思わず立ち止まったのだ。 (ここまで口が達者とは思っていなかったが……) 「あっ、焼き豚も追加!」 「……俺の夕飯は抜きだな」 そんな呟きも何のその、夕凪はラーメンを片手で持つと汁を吸いながら麺を掻き込み始めた。コクのある汁にネギの香りが混じり、食欲を刺激する。 箸はちゃんと使えるのだろうか、と横目で見るチャンに夕凪は口をむぐむぐさせながら言う。 「へーきへーき、食えっから。良い店知ってんだな」 肉まんは割ると中から肉汁が溢れてきた。夕凪はそれを熱さと戦いながら一気に食べ、2個目に移る。 チャンは茶だけ頼んでサングラスを黙々と拭いていたが、たまに夕凪に声をかけた。 「急いで食いすぎるなよ、喉に詰めるぞ」 「だってうめーんだもん」 「それでもよく噛め、何日食ってないのか知らんが胃に悪いぞ」 「へえー、ほー、なあなんで飯が宙舞ってるのにおっこちねーの?」 「綺麗に聞いてないな!」 老婆心も好奇心には勝てない。 厨房で舞う炒飯に感心した様子の夕凪にチャンはそう思ったという。 「ごちそーさん」 半時間ほど経ったろうか、目を瞠るスピードで注文した品を平らげた夕凪は両手を合わせた。 満腹感が体を包み込んでいる。久しぶりにもう団子の一つも入りそうにない。 店を出ると影が伸び、辺りはオレンジ色に染まっていた。 「あっ、そーだ。小銭ある?」 「なんだ、土産もほしいのか」 反論せず既に観念した状態になっているチャンである。小銭を受け取った夕凪は小さな店に走り寄り、紙コップをひとつ持って戻ってきた。 「んっ、礼にこれやるわ。変わった色してておもしれーから」 「……!? そ、そうか、ありが……いや待て、元は俺の金じゃないか!?」 思わずツッコむチャンにコップを押し付け、夕凪は道の向こうに走り出す。 「おれ、そろそろターミナルに帰るから。またごちそうしてくれよな!」 安価でも食べたものはみんな美味しかった。たしかにインヤンガイの飯は美味い、と夕凪は腹をさする。 その背を見送りながらチャンは頬を掻いた。 弟が居たらこんな感じなのだろうか。なんとなくそんなことを思いながら視線を落し――また眉間を押さえる。 「変わった色だな、本当に……」 コップになみなみと注がれたジュースはそれはそれは綺麗な蛍光紫をしていたという。
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