世界図書館で得られないものを求めて世界樹側についた。 単純明快な理由だったが、それは今この樹海で息を潜める2人の共通点となっていた。敗戦後ここへ逃げ込んで数ヶ月経過したが、それでも尚生存していられるのは1人ではなく2人であったことが大きい。 黒に身を覆った男はエダム・ブランク。世界司書の殺害失敗後、共に行動していた黄龍、ノアの2人とはぐれてここへ逃げ込んだ。 万全の状態ならば……と今でも悔しさに歯噛みする。そんな彼の右腕は途切れて無い。 片方はまだ若い少女。 頭から生えた羽根が特徴的な彼女は見た目だけならば快活な美少女といった、まるで暗い部分を感じない外見をしていた。 名前はタミャ。その昔、仲間と共に新人ロストナンバーを保護するためにヴォロスへ赴き、そこで旅団と衝突し「連れ去られた」とされているロストナンバーだった。 旅団へ来てからは生来の特殊能力で他人の意識を乗っ取り、ワームを操って他の世界へ影響を及ぼしていた。インヤンガイで爪フェチの殺人鬼を唆したこともある。 一対一なら強力な力だが、生憎タミャの能力は個にしか効かない。 対してエダムは数人同時に可能。それぞれの長所を活かし、偶然樹海で会った2人は今まで生き延びてこれた。「ここが身を隠すのに適していて良かったってつくづく思うよ。けどやっぱりそろそろ……」「今までの生活が懐かしい、と?」「そりゃそうさ!」 眉を寄せてタミャは言う。 暴走したワームから逃げ延びたのは何日前のことだろうか、木に引っ掛けたり土で汚したりと様々な要因で服が汚れるのが彼女には苦痛で仕方ないのだ。「せめて川くらい見つけられたら良いんだけれどね、運ばせた水を洗濯や体を拭くのに使うのって勿体なさすぎるでしょ」「そういうところは……いや、なんとも、庶民的な」「こういう状況だから仕方ないの!」 ばさばさと羽音がした。 タミャが空を見上げる。その視線の先には鳥の姿をしたロストナンバーが居た。「よしよし、ちゃんと持ってきた?」 虚空を見つめたままロストナンバーは背負っていた荷物を下ろす。 詰め込まれていた飲料水やパンを取り出し、タミャは頬を膨らませた。「もう、また服がないじゃん!」「……やはり精度が落ちてきているようですな」「し、仕方ないでしょ。あたしの能力は繊細なんだから」 精神状態、及び健康状態が万全なタミャに操られた対象は細かな仕事を難なくこなすことが出来る。 それに操る際に精神を壊し侵食するのがタミャのやり方だ。最盛期ならばこんなぼうっとした状態ではなく、廃人同然に出来たものだが。「ほら、もう一回行ってきなさい。他のロストナンバーに尾行されたら承知しないからね」 ばさりと飛び去る背中を見送り、タミャはその場に座ってパンを齧り始めた。「……あんた今日も食べない気?」「食欲がないもので」 エダムの返事は胡乱だ。 腕はノアに応急処置されたものの、適切な治療は結局受けられなかった。数ヶ月経ったとはいえ腕から毒が発生しているように感じる。表面上傷は塞がったように見えるが、見た目だけだとエダム自身知っていた。 熱が引かない。喋っていないとこのまま闇に落ちそうだ。「それなら寝たら? あいつが戻ってきたらまた移動するよ」「……同じ残党と合流出来れば良いのですがな」 残党、という言葉が頭に響く。 そう、自分達は負けたのだ。● 自分には父の面影が強い。母とは耳と鼻だけ似ていた。 物心ついてそんなことが分かるようになった頃、父が自分の力を利用していることに気付くようになった。 ――あいつらは悪いことをしたから、恐ろしい夢を見せてあげなさい。 ――こいつはうちの家族を莫迦にした。だから、こいつを不幸にしなさい。 父に言われるまま、おぞましい幻覚をいくつも他人に見せてきた。 幻覚を見ている間、その人間は全くの無防備になる。 父は時たまそんな人間に刃を突き立て、全身を傷口だらけにした。自分は幻覚を見せるという行為にこそ酔うくらい恍惚感を得るものの、父のその行為を真似したいと思ったことは一度もない。 母は父に言いなりだったが、普通の母親と同じように自分を愛した。 しかしそんな母の顔も、血のにおいを纏わりつかせて帰ってきた父子を見るたび曇っていく。 プライドの高い父はいつしか周囲の人間を些細なことで憎むようになっていたらしい。たまに母に聞かされる過去の父は今とは似ても似つかない。 ある時、わざわざ戦地に赴いた父と自分は両軍の人間を皆殺しにした。 幻覚で相打ちさせ、自分で命を絶たせ、戦意を奪い、時には父自ら殺して回る。 ……母が戦に巻き込まれて死んだ二週間後のことだった。「私は殺人鬼だ。そしてお前も殺人鬼だ」 様々な人間を殺して殺して、ついに悪行が周囲にばれて殺されかかった時、父はそう言った。 刃物を使うのは苦手だ。人にそれを刺したことなど一度もない。 けれど幻覚では何度も人を苦しめた。刺すなんて生温い、死んだ方がマシと思うほどのこともした。 そう、儂は殺人鬼だ。 自分で人を刺せもしない弱い殺人鬼だ。 ただ単に苦痛に歪んだ人の顔は見たくない。不快感すら覚える。しかし自分の幻覚で苦痛を与えることは酒を呷ることのように楽しい。 毒のような欲だった。 そういえば――この欲はいつからあったのだろうか。 黒いものが自分の中で渦巻くのを感じる。 右腕が疼いてうっすらと目を開けた。回想のような夢から覚めたと自覚する。が、渦巻く感覚が収まらない。(そう、この欲は儂の兄弟のようなものでしたな) まだこの世へ生まれでる前に父が植え付けた、もう1つの「子供」。 父は魔術師であった。その父が我が子を制御するために植え付けた呪い。 その呪いを初めて目にした気がする。 欲を抑えつけられ宿主の弱った呪いは目に見える形で顕現し、宿主のことなどどうでも良いかのように暴れ始めた。 黒い奔流が地を這う。 自らの身体をも覆ったそれは、ひどく冷たかった。●「エダム・ブランクとタミャという少女を撃破、もしくは捕縛してほしい。どちらも元図書館のツーリストだ」 二人ともそれぞれ違った理由で図書館を裏切り、旅団側についた。 エダムは他者を幻覚で苦しめたいという欲のため。 タミャは暴力的な方法で自分好みの生活を送るため。 旅団が負けて図書館に合併した後も樹海に潜み、0世界から脱出する機会を窺っていたのだという。「どうやらエダムの能力は暴走状態にあるようだな。向かってもらう者は……よくない幻覚を見ることになるかもしれない。覚悟をしておいてほしい」 世界司書ツギメ・シュタインは苦々しい顔で言う。「二人の生死は問わない。各人で直接会い、判断してくれ」 エダムは欲の根源である呪いをどうにかすれば更正の余地はあるかもしれない。だが性格に染み付いた衝動が消えない可能性もある。 自分の手で人間を殺したことはないとしても、多くの者を不幸にしてきた事実は変わらない。 タミャは幼い頃から私利私欲のために生きてきた、中身だけは立派な悪女だ。しかしまだ年齢は子供と言って差し支えない。 子供といえども人間を何人も殺したことがあり、図書館に居る間はそれを隠して生活していたが、自分の思う生活をここでは出来ないと知るや否や迷うことなく図書館を裏切った少女だ。 対応する者により重視する部分は違う。許される可能性も、許されない可能性もある二人だった。「そもそも説得を聞ける状態かどうかもわからないが、な」 ツギメは二人の資料をロストナンバーたちに手渡す。 開始時刻はすぐそこだ。
晴れない黒色の霧が木々の間を漂い、緑を覆い隠していく。 エダムの呪いそのものと言って差し支えないそれは30mほどにまで広がり、今もなおテリトリーを広げていた。霧は濃く一寸先は闇をそのまま再現している。 その暗黒を前にジューンは出発前に見たツギメの顔を思い返していた。 「ツギメ様は……できれば二人とも救いたいとお考えですか。そう仰っているように聞こえます」 そう問い掛けるとツギメは口元に少し固さのある笑みを浮かべた。 「自分の手では何も出来ない私が言うのは憚られるが……そうだな、許し助ける要素が少しでもあるのなら、とは思った。だが」 現場に向かい判断するのはロストナンバーたちである。 そのロストナンバーがそれぞれ判断し、その結果どうなっても――たとえ二人が死んだとしても、皆が間違ったことをしたなどとは思わない、とツギメは答えた。 昔は割り切っていたが、考え方が徐々に変わり甘くなってしまったのだという。 ジューンはあのツギメの顔を思い出すと二人とも救いたい気持ちになったが、下した結論は救えるとすれば片方のみというものだった。 それでも。 「可能であれば全員助けたいと考えます。あとは皆様の意見に従います」 振り返り、ジューンはそう口にした。 その時たしかに霧の前に立っているのは三人のロストナンバーのみだった。 まばたき一つした瞬間、その間近にやけに鮮やかな青色が現れて三人の顔を大きな瞳に映す。 「おや、みんな顔揃えて何してんの」 「イテュセイ様……?」 突然樹海に顕現したイテュセイはきょとんとした顔をした。 何の前触れもなく現れた彼女に面食らっていた三人だが、一人増えればそれだけ戦力になるのは誰にでもわかる。ジューンらが事情を説明し、一緒に任務に当たってくれるよう頼むとイテュセイはすぐさま笑顔を向けた。 「なるほど、落ち武者狩りね! それじゃあ早速GOー!」 そして止める間もなかった。 まるでどこかへ遠足にでも行くかのような軽い足取りで霧に突っ込んでいったのである。 「……いいのか、あれ?」 霧の危険性を理解しているルンはイテュセイの豪快さにそう漏らす。 ここはすでに死後の世界だと思っているルンに焦燥感や恐怖はない。あるのは戦いに対する緊迫感のみだ。しかしイテュセイの行動は彼女にそんな言葉を漏らさせるのに十分すぎるほどの唐突さだった。 「どうせここへ入らないことには奴には会えないんだろう」 眼鏡越しに鋭い眼光を向け、ファルファレロ・ロッソが足を進める。 「幻覚は」 「そんなものに俺が負けると思ってるのか?」 そのまま迷うことなく霧へと踏み入っていった。 すぐさま背中が闇に溶けるように見えなくなり、異物の侵入に揺らいでいた霧も動きを止める。 「ルン様は如何なさいますか」 「……まず人形遣い」 エダムとその幻覚も厄介だが、タミャを放置する訳にはいかない。 彼女の姿はまだ確認出来ていないが、きっとまだこの周辺に居る。 エダムを見捨てて逃げられる前に仕掛ける、とルンは弓を握った。 「では私もそちらの対応へ。先にタミャ様を倒さねば操られてしまいます」 「二人、危険減る?」 「はい。どちらか片方が操られてもまだ対処可能です」 ジューンは頷く。 本来なら三人ほど居た方が戦力的にも安定するのだが、エダムへの対応が一人だけというのもまずい。半々が妥当だろう。 ルンが頷き返したと同時に、二人は走り始めていた。 ● 世界司書の話を聞いた時、すでにファルファレロの中で銃を向けるべき相手は決まっていた。 悪女は好きだが、タミャは今の彼にとってどうでもいい存在だ。タミャが死のうが捕らえられようがファルファレロには知ったことではない。彼女に対してどうすべきか訊ねられたところできっと何も言わないだろう。 だから余計な話になる前に足を進めた。 目指すのはエダムの居る場所。 エダムの血に浸り闇に染まった生い立ちはファルファレロと似ている。殺人鬼なのも一緒、父親似なのも一緒。 そしてエダムにも、ファルファレロにもどす黒い欲がある。 その似通った点がファルファレロに彼を殺せと告げていた。同属嫌悪とはまた違った、生きる先にどうしようもないものがあると知っているからこそ今殺してやろうという哀情にも似た感情。 (――だから殺す。俺が全て終わらせる) 殺人鬼の後始末は殺人鬼がやる。引き金を引くことに躊躇いは一切ないだろう。 ファルファレロの黒い瞳が見覚えのある部屋を映した。 誰かが居る。何かを感じる前にファルファレロは銃を構え、それに向けて発砲していた。 聞き慣れた発砲音と火薬のにおい、そして真新しい血液の温かな滴りと香り。重い音をさせて倒れた人物は頭を庇う動作すら見せない。 胸部に空いた穴から血が溢れるたび、室内の温度が上がるかのようだった。 ファルファレロは隣にしゃがむ。念のためとどめを刺そうと髪を引いて頭を持ち上げ、口内に銃を押し込もうとしたところでそれが娘であることに気が付いた。 自分に似た憎まれ口を叩く娘。 何だかんだ言いつつ毎日自分の世話を焼く娘。 驚くよりもまず先に思考が停止し、ゆるゆると立ち上がる。しばらく立ち尽くしたまま娘の亡骸を見下ろしていた。 見つめている間、娘は一度も動かなかった。 イテュセイは今、この上ないほど涙目である。 人ならざる者であるイテュセイだが、人間のように目を潤ませ泣くことが実は多い。 むしろ目の保湿になるからと心にストッパーをかけずすぐに泣く方だ。昨日もドキュメンタリー映画を見てわんわん泣いた感動屋だった。 「だめだめだめだめぇぇぇーー!!」 しかし彼女が今その大きな目に涙を溜めているのは、他でもない恐怖によるもの。 カラスが、ニワトリが、トンビが、コンドルが、ダチョウが、スズメが、ありとあらゆる鳥が自分に向かってきていた。 頭を目指して足を突き出してきたハトを払い、縦横無尽に逃げ続ける。 「あたし鳥はダメなのよ! ダメって言ってるでしょ来ないでよ!!」 走っても走っても鳥を追い払えず、イテュセイはいつしか逆切れしていた。 が、足元に追いついたヒヨコを見てすぐヒッと飛び退く。 「寄るな恐竜の末裔ー!」 ジグザグ走行をしながらスカートをつつくエミューを引き剥がして爆走する。 ばさばさという羽音から一向に距離が開かない。鳥独特のにおいがし、嘴が髪を引っ張り肌を傷付ける。 呪いを纏った黒い鳥が先導してイテュセイを攻撃し、嗤う。楽しげに嗤う。 後方に鳥、前方に延々と続く空間。 どれだけ走っても、向かう先に終点がないかのようだった。 視野が広くなった感覚に任せ、ルンは周囲に目を走らせる。きんと研ぎ澄まされた集中力が耳に悲鳴を拾わせた。 「……一つ目神?」 「はい、99%の確率でイテュセイ様です。幻覚を見ているのでしょうか」 「神も幻を見るのか」 ほうと感心したような声を漏らし、ルンは視線を元に戻す。 ルンとジューンは周囲で一番高い木の上に居た。そこから視覚を頼りにタミャを探している。 霧の影響かにおいを頼りに動くのは不安定だった。大きく掻き乱されている訳ではないがどうにも感じ取りにくい。 「生体サーチ及び構造物サーチ起動。……さすが幻を人に与える霧ですね、計器が乱れます」 ですが、とジューンは西を向いた。 「方角ははっきりしました。ルン様、あちらに何か動くものは御座いますか?」 短く答え、ルンはジューンの指し示した方角を凝視する。 タミャはきっと少しずつでも移動しながら様子を見ているはずだ。 霧は今もなお広がり続けている。それでもエダムを見捨てるかどうかまだ結論を出せていないのだとすれば、霧から逃げながら離れすぎない場所に居るはず。 「……いた」 葉の間に見え隠れする大型の羽根。恐らく同行している鳥型ロストナンバーのもの。 ここから狙うには木々が邪魔だった。ルンには遠くのものを射抜く才能も技術もあったが、0世界の樹海はあまりにも隙がない。 「止むを得ません、接近しましょう」 木の枝を蹴って飛ぶジューンとルン。 科学の申し子と原始の申し子が向かう先には……獲物が居る。 ● いつの間にか眉間に深いしわが寄っていた。 ファルファレロは床に広がる黒髪を根元から先まで視線を流すように見た。鏡で見慣れた自分の黒だ。そこに鮮烈な赤が纏わりついている。 いつか、こうなるとわかっていた。 自分に関わった女は碌なことにならない。今までそういうものを見てきたからこそわかっていた。 (なのになんで一緒に居た) 突き放さなかった。 一緒に住み、一緒に昼夜を過ごした。 (情が移って?) まさか、と首を振る。自分にそんな情などあるのだろうか。 (……そうだ) 突き放したじゃないか。普通の娘なら泣いてしまうほどのことも口にした。それでも押し掛けて住み着き、強気な言葉を向けてきたのは他でもない娘だ。 そんな娘が―― 「……俺に殺されるようなタマか」 とんだ茶番だと笑いが出る。 「質の悪い幻覚だな。俺の娘が俺如きに殺られるわけねーだろが!」 パァンッ! 引き金を引くと景色が歪んで霧散し、散り散りになった。 予め周囲の木々に撃ち込んでおいた弾丸が呼応し、結界が戦慄く。 そのまま圧縮された結界は霧を巻き込みながら輪状に縮まり、霧の発生源――エダムを縛り上げた。 距離がある。だが届かない位置ではない。頭と心臓、それぞれ弾をぶち込む場所は見えていた。 しかし幻覚から解き放たれたのはファルファレロだけではない。 「タンマタンマ! ちょっと待ちなさーい!」 鳥から解き放たれたイテュセイがエダムの真後ろから顔を出す。 「どけ。弾は有り余ってるんだ、一緒に撃たれたいか」 「あたしタミャは成敗するつもりだけれど、エダムは救ってあげたいと思ってるのよねー」 「こいつを救う? どうやって? 力を封じて?」 引き金から指を離さずファルファレロは怒気を孕んだ顔でイテュセイを睨みつけた。 「いいかよく聞け。こいつを救う手立てなんかねえ。ここまで来て、ここまでやっといて……他人を許さなかった人間が他人に許されちゃいけねーだろが」 いざとなれば結界でイテュセイを隔離してしまえば良い。 邪魔するならこの場から消すだけだ。 イテュセイは赤紫色の瞳をファルファレロに向けたまま、仄かに笑みを浮かべた。陽気な微笑みとはまた別種の笑み。 「知っているよファルファレロ、きみも他人に許されている」 「……何の話だ」 「受け入れてくれる者、受け入れようと苦心する者。それとも気がついてないのかな?」 イテュセイはぐったりとしたエダムを脇に抱える。 「生きてても地獄、死んでも地獄、それがきみの人生なんだろうね。何度もお先真っ暗だったんだろうね。けれど今隣にある暖かなものを忘れちゃいないかい?」 「黙れ! ……知った口を叩くな。そいつは殺すと決めた。この俺が決めたことを覆す気はない」 「この子もきみも見えてないものが多いみたいね。あたしみたいに大きな目があればいいのに」 イテュセイはエダムを抱いたままその場から飛び退き、幹を盾に逃げ始めた。 タミャは焦りながら霧を見ていた。これに触れればどうなるかわからない。幻覚を見る、という情報を持っていない彼女にとって得体の知れないものだった。 「こいつにエダムを回収してきてもらう? ううん、ストックがないのにそんな賭けは出来ない」 しばらく霧を観察していたが、時間が経てば治まる類のものではないらしい。 これだけ広範囲の霧だ、ぐずぐずしていたら誰かに見つかるかもしれない。 もしくは、もう近くに。 「っ!?」 そこまで思考が辿り着いたところでタミャの背中に寒気が走った。 素早く周囲に目を走らせる。自分の身を守るようにロストナンバーに羽根を広げさせ、一歩退いた。 その何気ない一歩は偶然だった。胸のリボンが矢に引き千切られ、破れた布が幹に縫い止められる。 「ひっ……」 遠くに爛々と光る金色の瞳を見つけ、タミャは足をもつれさせながら逃げ出そうとした。 茂みから飛び出したジューンがバチバチと電撃を帯びた右腕を伸ばす。 その凶悪な空気の振動を避けようとしたタミャが転び、間にロストナンバーが割って入り剣を抜く。 主を守る。そんな命令だけが頭の中にあるそれは尋常でない早さで剣をふるった。 鼻先すれすれのところで斬撃を躱し、ジューンは相手の懐に入った。咄嗟の判断か柄で後頭部を殴られたが、一般人ほどの衝撃はない。 「失礼致します」 そのまま押し倒すように体重を乗せて電撃を食らわせる。 焼き尽くすのではなく気絶させるための電撃。嘴を大きく開けたままロストナンバーは痙攣を繰り返す。 彼の下敷きにならないよう飛び退いた勢いのままタミャは逃げ出した。 その背を追う目が二つ。 「望みは、叶えるもの。ぶつかれば、戦う。あれらも、同じ」 そこに手加減は存在しない。 まるで吸い込まれるかのように、放たれた矢がタミャの背中に突き立った。背面から右肺を射抜かれたタミャは掠れた声を出して転がる。 絶叫しようにも空気が上手く取り込めない。パニックに陥った彼女に他の誰かを新たに操るという考えは浮かんでこなかった。 「片肺無事、1時間は保つ」 獣のように四足走行で距離を詰め、ルンはタミャの襟首を掴んでジューンに投げる。 霧に放り込み無力化を試みるつもりだったが、気付けば霧は溶けるように消え失せていた。きっとイテュセイかファルファレロが何かしたのだろう。 タミャを電撃で気絶させ、ジューンは再度生体サーチを試みた。 「エダム様はまだ生きていらっしゃいます。しかし……」 「こっち、来る」 刹那、弾丸を避けながらイテュセイが飛び出してきた。抱えられているのはエダムに間違いない。 「そいつをこっちに寄越せ」 「だからあたしに任せてってば!」 追うように……否、追って出てきたファルファレロが再度発砲する。 予想はしていたが意見が大いに割れたらしい。ジューンがイテュセイと並走しながら言う。 「イテュセイ様ならあの呪いを吸い込めるのではないですか? 以前、他空間と繋げて空気を吸い出したと伺ったことがあります」 「ふっふっふ、あたしに出来ないことはないからね!」 得意げな顔の真横を銃弾が走っていった。 「ファルファレロ様、どうか気をお治めください。話があります」 煩いと一蹴するファルファレロ。ジューンは立ち止まり、両手を広げる。 「許せない何かがあるのかもしれません。けれど、我々は彼を生かそうと考えています」 「その先に地獄が待っていてもか」 「地獄とは何ですか?」 「業だ。ここで生き残ったところで一生そいつはそれを抱え続ける。人にどうこう出来るもんじゃねえ」 腕を避けて弾丸が放たれ、エダムのマントを貫通した。腕に命中したようだが致命傷ではない。 チッという舌打ちに被せるようにジューンが言う。 「罪は償えるものではないのですか」 「贖罪なんざ知った事か。殺してきたなら殺される覚悟も負え……それだけだ」 「許したい人間が傍に居てもですか」 ファルファレロは黙って三人の女を睨む。情の深い女は面倒だと眉間に力が入った。 許す、許したい、と簡単に口にするが、それがどういうことかわかっているのだろうか。そう苛立つ。 「……儂を」 小さな声がした。「ん?」と気付いたイテュセイがエダムのフードを捲る。 汗を流し苦しげな顔をしてはいるが、エダムの目は開いていた。 「……お嬢さま達は、何故、如何様な理由があって庇われるのですかな」 「お前は、悪くない」 だからだ、とルンは言い切った。 きっとエダムを許さない人もごまんと居る。けれどルンは本心から彼のことを悪くないと思っている人間だった。 他人が何と言おうが彼女の考え方でエダムを見ると「悪くない」のである。 「生きるは、戦い。お前は、まだ戦うべき」 「きみ、もう少し別の生き方にチャレンジしてみてもいいと思うのよね~」 よいしょとイテュセイはエダムを下ろして座らせる。 ルンがしゃがんで抱き締め、子供を相手にするような声音で言った。 「お前、死にたいか? それとも生きたいか?」 「……死は、いつも隣にあった。生まれた時からそれはもう沢山の人間にそれを与えてきた。それでも……それでも、怖いもの、ですな……」 「大丈夫だ。なら生きていい。呪い、業、分けろ。そんなもの、薄めればいい」 初めて言われた言葉だった。 意味はわかるのに自分に言われている実感がなかなか湧かない。エダムは項垂れ押し黙る。 「おい、目玉女」 ファルファレロは銃口を向けたままイテュセイを見た。 「一体お前に何が出来るんだ」 「なんならこの場で見せるわよ。でもきみを殺したくないから、撃たないでね?」 イテュセイはエダムの前に立つ。そして子を守るようなルンに視線を向けた。 記憶も力も奪いまっさらな人間として生まれ変わらせるつもりでいた。けれど。 「……こっちの方が面白いかな?」 ぽかんっとエダムの頭を殴る。 結界に圧縮され、エダムの周囲で蠢いていた呪いがこの世のものとは思えない断末魔を上げる。その余韻が消えぬ内に黒い砂のようなものになって地面に散らばった。 「これで、きみは自分の意思で欲をコントロールする一人の人間になった」 エダムに言い、 「で、この子が自分の意思で悪い事をしたら、今度こそ殺せば良いんじゃなーい?」 ファルファレロに言う。 幻覚の力も道連れに記憶を消せば辛さは消え失せるだろう。しかしルンの言った生きることが戦いというのは結構面白い。 彼本来の力を使う先を無理やり決めていた呪いは消した。そこからエダムが足掻き、人を苦しめるだけだった幻覚の力をどう使っていくのかしばらく見ていてもいいかな、とイテュセイは思う。 しばらく返答のない静かな時間が続いた。 「……肯定はしない。こいつらの邪魔がなくなったら殺しに行く。覚えてろ、殺人鬼」 何分経っただろうか、ファルファレロが銃を下げ、背を向けて歩き始める。 殺したかった相手はここでは殺せない。自分がどうなろうと弾丸を撃ち込もうと考えていたが、許す、という単語がちらついて思考を乱すのだ。いつだったか娘を庇った時のように、それはファルファレロの理性とは別の場所にあるもののようだった。 ならば、いつか殺せる時を待つのみ。 その表情は見えなかった。 完全に無力化されたタミャは草の上に転がっていた。 エダムと保護したロストナンバーをジューンとルンの二人に任せた後、イテュセイはタミャを拾ってくると言って歩き始める。 人の近づく気配にタミャはうっすらと目を開けた。 「っく……!」 逃げようとすると激痛が走る。あまりの痛みに痙攣するタミャの頭羽根を掴み、イテュセイはその大きな瞳で顔を覗き込んだ。 「きみのこと知ってる! たしかインヤンガイでもおなじ風にどきゅんしたやつがいたわね」 「な、なにさ、殺しに来たの?」 「ご名答!」 イテュセイの返答にタミャは顔を引き攣らせた。 本気でした問いではない。わざわざ気絶までさせたのだ、このまま捕縛されるものと思っていた。いや、思いたかったのかもしれない。 危機感がタミャを襲う。この一つ目の娘は自分を気絶させた者とは別なのだ。 「自由には責任がつきまとう。己の所業に対する咎を背負うのだ。背負わない者は神か大ばか者なのだ」 「あ、あたしは悪くない。人に言われてやったことだもん」 空気の足りない中、震える声で言ったのはそんな言い訳。 必死になって言いたかったことがそれなのか、とイテュセイは失望する。 「結局アナタも生きたがりなんだ、ガッカリ」 「な、な、なによ、本当だって!」 「あたしはエダムを生かすつもりでいた。あの子は咎を背負うことを放棄する気がなかったから。アナタは殺すつもりでいた。咎を人に擦り付けて生きたいと願っていたから!」 手に力が入る。 恐怖に染まった顔をしているタミャに対して、イテュセイは笑っていた。 だが目は、笑っていなかった。 「器のない者が己の快楽のために好き勝手力を行使するとは実に愚か! 神になろうと天へ上った創造物は皆等しく死すべし!」 死すべし! 死すべし!! 死すべし!!! 「――どこの世でも、神を怒らせると怖いのよ?」 命乞いする声はもう聞こえない。 報告がちょっと面倒かな、とイテュセイは笑った。 ● エダムはルンに抱えられ、空を見ながら意識を繋ぐ。 葉が邪魔をして影になってもじっと見続けていた。 「あの男は儂に自分自身を見たのでしょうな」 ふとあの恐ろしい殺気を思い出し、口を開く。 「ファルファレロ様ですか……?」 「自分を許せぬ者は、自分に似た者をも許したがらない……そこを突いて他者を貶めたことが何度もある」 その時のことを思い出して心の乾きを潤したこともあった。 しかし不思議と今は何の感情もない。 「あの目は儂の存在を心底許していなかった……」 「きっと、我々の知らない過去をお持ちなのでしょう」 決して他人に話せない過去。 そこに何があろうとジューンらは止めるつもりであったし、現に止めたが、ファルファレロの経験してきたものを否定する気はない。 ただ、彼も誰かに許されるといいなと思った。 「お前、これから何したい?」 意識を繋ぐ糧になればとルンが話を振る。 「……難問ですな」 エダムにとっては途方もない質問だった。 呪いが消え、今は悪い影響は出ていないがこれからどうなるかはわからない。ジューンに処置はされたが、腕の状態も悪いままだ。残った腕も撃たれたせいか痺れが強い。 そもそも呪いに背中を押されず、自分の本当にしたいことを出来た経験が少ない彼にとっては想像も上手く出来ないことだった。 「なら、これからすることは考えること。沢山考えるといい。お前、一人じゃない」 「気の長い話、ですな……。……けれど長い話ならば退屈しますまい」 木々が途切れ、広い青空が顔を覗かせる。 ずっと避けていた人々のざわめきが、とても近かった。
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