鋏で迷いなく布地を裁ってゆく。 ダンジャは作業の過程で依頼主を思い出した。メモの類はない。サイズや要望はすべて頭の中に入っているのだ。必要な時にこうして思い出すのみである。 この調子ならば今週中には渡せるだろうか――そう考えたところで視線を感じた。 ダンジャが仕立て屋として働くこの店は小さなレンガ通りの中にある。外から見ると洒落た雰囲気の黒いドアの右にショーウィンドウ、左にそれと同じくらい広がった大きな窓があり、ダンジャはその窓の向こうの小部屋を仕事部屋にしていた。 布が日に焼けてはいけないため部屋の中を更にカーテンで区切っていたが、日の当たる通りをここから眺めると気分が良い。手狭さは苦にならなかった。 (まあ、これが初めてじゃないし仕事を見せる意味もあるからいいけれど……) ちらり、と窓の方に目をやると、案の定そこには誰かが居た。 歩きながら眺められることは数あれど、ここまでじっと凝視されたのはいつぶりだろうか。 顔見知りはこの窓越しにダンジャと会話していくことがある。しかし見たところその人物は初対面だ。 子供にしては整った顔つきの少年だった。黒髪に白い肌。色のせいかダンジャとは正反対といった印象を受ける。 何か用かと話し掛けようと口を開いたものの、言葉が出る前に少年はぎょっとして逃げてしまった。 「……ばれてないつもりだったのかね」 肩をすくめ、ダンジャは仕事に意識を戻した。 受けた仕事はスーツの仕立て。 翌日も作業に打ち込む。途中、また視線を感じた気がして顔を上げた。 少年と目が合う。昨日よりは長い時間迷った後、少年は走り去っていった。 その翌日は急ぎの仕事としてワンピースの注文が入った。なんでも数日後にある娘の誕生日に贈るはずだったものが手違いで手に入らず、慌てて仕事の早い仕立て屋を探したのだという。 スーツの納品日はまだ先。若干予定は狂うがダンジャはこれを受け、可愛らしい花柄の布に針を通していた。 「………」 視線。 不快ではないが不思議だった。だからこそダンジャは無視せず口を開く。 「何か用かい」 顔を上げず、そのまま窓越しに話し掛ける。びくりとした少年が逃げてしまう前にもう一言かけた。 「気になることがあるならそこのドアから入っといで」 「……いいの?」 「怒られるとでも思ったのかい?」 手を止めて顔を向け、歯を見せて笑ってみせる。 少年は迷うように視線を彷徨わせた後、窓の前から姿を消した。 ――……ぎぃ 聞き慣れた軋む音をさせてドアが開く。 それを聞き届け、ダンジャは腰を上げた。 ● 少年は自分のことを詳しくは語らなかったが、名前を尋ねるとユルクと答えた。 「こういう仕事に興味があるのかい?」 ダンジャがそう問うとユルクは何かを即答しかけ、しかし言葉になる前に呑み込んで首を横に振った。 何か訳ありだろうか。そう考えながらもダンジャは顔に出さず、不思議そうに続ける。 「おや、けれど飾ってある商品じゃなくてあたしの手元や布を見てたろう。もしやと思ったんだけれどね」 仕事を依頼したいのならば、小さな子供であったとしても客は客、ダンジャは受けるつもりでいた。 しかし少年が熱心に見ていたのは結果ではなく過程だったのだ。 ユルクは唸るような声を漏らした後、一度だけダンジャの目を見てから言った。 「……お針子は男の仕事じゃないって言っていたんだ」 「誰がだい」 「お、お父さん」 ぼそりと答える。 「本当は……本当は俺、布から服を作っていくこういう仕事に凄く憧れてるんだ。お母さんも上手かったから。けど……」 父親はいわゆるオールドタイプの人間で、男はこの仕事、女はこの仕事と頭の中で区切っているようだった。 世の中には女性の多い仕事がある。しかしそれを自分の仕事にしている男性も少なくはない。 そんな男性を見るたび、父親は怪訝なような不機嫌なような顔をしていた。 「俺、お父さんにあんな顔されるの嫌だ」 でも、と続けかけてユルクは時計を見た。門限だったのだろうか、慌てて出入り口へと向かう。 「ま、また来ていい?」 最後に問われ、ダンジャは片手を上げた。 「ああ、いつでも覗きにおいで」 それから数日、ユルクは仕事部屋の特等席でダンジャの仕事を見ることが出来た。 机の隣に木の椅子を置き、そこへ座ると手元がよく見える。飽きもしない様子に本当に好きなんだなということが窺えた。 「どうすれば定規も使わずにそんな真っ直ぐ切れるの?」 「慣れだね」 言葉に詰まるユルクだったが、すぐに気を取り直して言う。 「じゃあ今度ハサミの上手い使い方を教えてくれる?」 「そうさね……あたしの手伝いを最後まで出来たら考えてあげるよ」 「手伝い?」 まずは、とダンジャは奥にあるカーテンの方を見る。 「あの向こうから今使ってるのと同じ布を持ってきてくれるかい?」 「……! うんっ」 ユルクの背中をダンジャは見守る。にやにやと。 数秒後、膨大な布の数に頭を悩ませるユルクの姿がそこにはあったという。 ある時ダンジャがコーヒーを飲んでいるとユルクが小さな声で話し始めた。 初めて会話したあの日、話の中に出てきた母親のことだった。 「お母さんも沢山服を作ってた。小さい頃は何が楽しいのか分からなかったけれど……」 ユルクは目を伏せる。 「お母さんが死んで、部屋でノートを見つけたんだ」 数年前に流行り病でこの世を去った母親。若くして死んだ彼女の部屋は落ち着いきと溌剌さが同居しており、人物像を想像するのに時間はかからない場所だった。 そんな母親の机の引き出し。 そこから出てきたのは、ユルクのために作ってきた服や小物類の製図ノートだったという。 間には型紙も挟まっており、そのどれもが手作りだった。 「なるほど、ね」 ダンジャはコーヒーを置いて頷く。 母親は服を作るのが好きだった。しかし、それ以上に愛する息子のことが大好きだったのだ。 「俺、誰かのために何かを作れる人になりたい」 なれるさ、なんて無責任なことは言わない。 ダンジャはユルクの頭を撫でる。 「そうかい、ならおなり。……技術の方はあたしが教えてあげる。その代わり気持ちの方はあんたが見つけるんだよ」 誰かに何かを教えるのも面白い。 久しく感じていなかったその心をダンジャは楽しんでいた。 ● 気分転換にと馬に乗る練習をした翌日、嬉々として振り返り話に花を咲かせるのだろうと思っていたダンジャだったが、ユルクがなかなか来ない。 特に示し合わせたことはないが、いつも夕方の決まった時間になると顔を出していた。 「ふむ」 そういえばコーヒー豆もそろそろ買い足さねばならない。 買い出しがてら周囲を回ってみよう。ダンジャは居ない間にユルクが来た時のために書置きを残し、店を後にした。 「な、なんだよ」 ユルクが呼び止められたのはいつも通っている道の端。 振り返ると同年代の少年たちが立っていた。 普段から子供と遊ぶことが少ないユルクは知らなかったが、少年たちはここでよくユルクの姿を――このまま仕立て屋の中に入っていくユルクの姿を見掛けていた。 育ちの良さそうな顔。高そうな服。楽しげな様子。 彼らはユルクに恨みはない。 しかし子供らしい羨みはからかいとなって口から出た。 「お前、よくあっちにあるでかい窓の店に入ってるよな」 「……そうだけど」 「とーちゃんの服でも作ってもらってるのか? こーんな襟のさ!」 大仰な動きで大きな襟の形を作ってみせる少年に周りの少年がどっと笑う。 何が言いたいのかわからず、まだからかわれている自覚もないユルクは眉だけ寄せた。 それが気に食わなかったのか、少年は更に続ける。 「へへへ、ほんとは知ってるんだぜ。針子の真似事してるんだろ」 「男のくせにカッコわりぃよなー、昨日父ちゃんに言ったら笑ってたぜ?」 ユルクは目を見開く。 真似事……そう、真似事だ。真似事程度でしかない。 かっこ悪いと自分と同じ年恰好の少年に言われると、いやに胸に突き刺さった。 そして、父親が笑っていた。 やはりお針子とは世の父親に笑われてしまうものなのだろうか。 ユルクはあの仕事が好きだ。しかしダンジャの元へ通っていることは家の者全員に内緒にしていた。比較的仲の良い者も含めて、だ。 それは心のどこかで「男が服を縫うこと」を恥じていたのではないか――そう思うと何かに心が掻き乱された。 恥ずかしい。見られたくない。こんな言葉をかけられたくない。そう思ってしまうことがダンジャに申し訳ない。けれど、けれど。 「ちっ、違うっ!!」 いつの間にか大声が出ていた。 「……違うなら何だよ?」 「無理やり手伝わされてるんだ! お、俺があんなことしたがる訳ないだろ、男だぞ!」 「その通りさ」 熱した頬をさっと冷気が撫でた気がした。 とんでもないことを言ってしまった。興奮が一気に後悔に塗りつぶされる。泣きそうな顔でユルクが振り返ると、そこには表情ひとつ変えないダンジャが立っていた。 大人の登場に少年たちは素早く散り散りに逃げ出した。 「ダ、ダンジャ」 「しょうのない子だね」 ダンジャは背中を向け、振り返って笑った。 「もう来なくていいよ」 怒っていない。 許してくれている。 しかし一瞬、かけられた言葉の意味を理解することが出来なかった。その間にダンジャは歩き去る。 「…………」 本心ではないと言いたかったが舌が動かなかった。何か言えば更に望まない言葉を耳にすることになるかもしれない、と思うと行動に出ることが出来ない。 そんな臆病心が憎かった。 勇気を出してごめんなさいと言う機会を無くしてしまった。 だがそれは自分のせいだ。臆病なのも自分。愚かなことを言ってしまったのも自分。 「ダンジャ、ごめんなさい」 もう誰も居なくなった道に小さく言う。 数日後、いつの間にかダンジャはこの街から去っていた。 ● ――名を知られるようになってからどれだけの時が経っただろうか。 ふと普段は縁の薄い酒を飲む気になってバーに入る。先客はひとりだけ。 酒を待つ間、壮年のテーラーは自分の両手を見ていた。長い指。細かなことをするのに適した手だ。そういえば記憶の底に沈む女性もこんな手だったなと思い出す。 そう、たとえば……隣に居るこの女性の、 「……ダンジャ?」 よう、な。 思考が止まりかけた。名を呼ばれた女性は一瞬驚いたような素振りを見せたが、思わずといった風に笑う。 「知り合いに似てたかい?」 「ああ……いや」 テーラーは落ち着こうと口を手で覆った。 「昔、子供だった私に大切なことを教えてくれた人が居てね。恩人だ。その人にそっくりで驚いてしまった」 「子供……じゃあそれはあたしのばあさんかもしれないね、もしくは他人だろう」 はぐらかすような声音にテーラーは目を伏せ、もう一度彼女を見る。 若い。記憶の中の女性と同じくらいだが、それは別人だという証明でもあった。 しかし不思議なひとだった。 そう――つい非現実的な可能性を思い、子供のような考えをしてしまう程度には。 数え切れないほどの黒服の人間が列を作って並んでいた。 それを遠くから眺めるダンジャは普段通りの服装で、彼の死を悲しむ様子はなかった。 ただ、ただ、そこから見守る。 ダンジャは沢山の死を見てきた。無事昇れるよう見守るのは慣れている。 それでも遠い昔に会った少年の顔をふと思い出して首を振った。 「あのっ!」 「……なんだい、土地の者じゃないから道は」 振り返り、言葉の続きを言うのを一瞬忘れる。 子供にしては整った顔つきの少年だった。黒髪に白い肌――デジャビュを感じ、今自分が何年の何月何日に居るのか見失いかける。 「ダンジャさん、ですよね」 「……」 「あっ、答えなくていいです。祖父から見た目は聞いていたので。……その代わりこれを」 少年は箱を差し出す。その上には手紙が一通。 それを手渡すと少年は足早に去っていった。 『私の成功は貴女のお陰です』 手紙はそう始まっていた。 そして少年の日の過ちを詫び、そこから自分の成してきたこと、思ってきたことが綴られている。 箱を開けると、そこに収まっていたのは上質な布で作られたシャツ、ベスト、ズボン。 『私は大好きな人へ服を作れる人間になれました』 手紙の最後にはすべての想いが込められていた。 『ありがとう』
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