その館にはかつて楽団員たちがたくさんいた。館は音で満ちていた。 ここちの良い音、調弦の音、ちょっと調子の外れた音……ルサンチマンの、音楽を愛する主に捧げられていた。 だが今は楽団員達の半分が去り、半分がこの館に残った。主の、音楽を愛する悪魔はいない。 ルサンチマン――ルサンチマンとひとくくりで呼ばれる者達は、邸内の手入れを欠かさない。毛足の長い絨毯はいつでもふかふかであるように、調度品は埃が被らないように。 残った音楽家たちの世話も黙々とこなす。居心地が悪くならないように、音楽家たちが音を奏でるのに集中できるように。 ルサンチマンとは、外見こそ老若男女や人種、体格の差はあるが、個人ではない。全体で一つの『ルサンチマン』なのだ。 意識と情報を共有する彼らは、無感情で機械のように働くのみ。 その『彼女』も『ルサンチマン』だった。 主の為に、彼が戻る日の為に、館で働き続けていた。 昨日も今日も明日も、そのはずだった。 *-*-* 「……」 気がつけば、そこは館ではなかった。水の上――いや、水に浮かんだ大きな浮石の上だった。 「……?」 あたりを見回してもこんな場所に心当たりはない。今まで来たことのない場所だ。ほとんどが水にの上に浮かんでいる状態で、非常に不安定なイメージだった。水をすくって匂いを嗅いでみる。淡水のようだった。 『――、――?』 なにか声を掛けられたような気がして、警戒して振り返った。すると飛び石をぴょんぴょんと器用に飛びながら近づいてくる生き物がいた。二足歩行のライオンだろうか。のほほんとした表情からは殺気が感じられず、危害を加える気がないということは肌で感じられた。ルサンチマンは警戒を解き、豊かな肢体を無駄なく動かして立ち上がった。 「ここは?」 『――、――、――?』 問うてみたが、ライオンの発している言葉が理解できない。言葉が通じない。いよいよここが自分の知っている世界ではないということがルサンチマンにも明確にわかりはじめた。 『――、――!?』 ライオンが心配そうに顔を覗きこんでくる。言葉は通じぬが、悪いライオンではないということはわかる。だが言葉が通じないからこそ、上手い返答ができない。おそらくこちらの言葉も通じていないのだろう、ライオンは困ったように眉尻を下げた。 「………」 ルサンチマンもどうしていいのかわからない。ここがどこであるのかも、館に帰る方法も、言葉が通じなければ尋ねようがないのだ。 「あっ!」 「……!?」 『……!?』 その時聞こえた声に、ルサンチマンもライオン反応した。飛び石の、ライオンが飛んできたのとは別の方角に数人の人間がいる。 なんだこの世界にも人間がいるのか、そう思ったルサンチマンはふと、その数人の人間の言葉に耳を澄ませた。間違いない、言葉がわかる。 「別のパーティの人かと思ったけれど、違うみたいね」 「ノートで司書に連絡してみたけれど、おそらく覚醒したばかりのロストナンバーだろうって。見つけられたのは偶然みたい。とりあえず連れて返ってあげてだって」 「俺、あそこまで行ってくるよ」 数人の人間の中から一人の若い男が飛び石を飛んでルサンチマンとライオンのいる浮石にやってきた。 「彼女は俺達が連れて行くから、心配するな。ありがとな」 『――、――!』 男はライオンに声を掛け、その頭を撫でてやった。するとライオンは嬉しそうに笑い、男とルサンチマンに手を振って飛び石を飛んで帰っていった。男がルサンチマンに向き直る。その視線がルサンチマンの全身を舐めるように動いた。 「キミ、大丈夫かい? 俺の言葉がわかるよね?」 「……はい」 若干警戒しながらも返事をしてみれば、男は頷いて。とりあえず向こう岸にいる仲間のもとに行こうといって彼女の腰を抱く。 言葉が通じる、だからルサンチマンはその手を払わなかった。従うことにした。そのまま共に飛び石を飛んで岸へとたどり着くと、数人の女性達が口々にいたわりの言葉を駆けてきた。 「覚醒したばかりじゃ心細かったでしょう?」 「言葉も通じないもんね、ひとりじゃ不安だよね。でも、偶然見つけられてよかった!」 彼女達の口にした言葉にはわからない単語がいくつかある。 「おいおい、一気に話しかけたら彼女も混乱するだろう? 事情、説明してやろうぜ」 先ほどルサンチマンを浮石まで迎えに来た男が、盛り上がる女達に苦笑しながら声をかける。彼がこの一団のリーダーのようだとルサンチマンは冷静に分析していた。 彼女達は親切にかわるがわる説明してくれた。 ディアスポラという現象。ルサンチマンは元いた世界を放逐されてしまってこの世界へと飛ばされたこと。 彼らは世界図書館という団体に属していて、ターミナルと呼ばれる拠点に言って手続きをしないと消失してしまうこと。 ターミナルで手続きをすれば、異世界の者とも言葉が通じるようになるということ。 今のところ、元の世界に帰る方法はまだわかっていないこと。けれども皆、元の世界を探し続けていること。 「とりあえず、0世界まで一緒に行こう。俺達も、丁度依頼が終わったところだったんだ」 「……」 ルサンチマンは仮面姿のまま頷いた。言葉が通じるなら、そして拠点へと受け入れてもらえるならば、館に帰る方法が見つかるまでの間付いて行くべきだと思ったのだ。消えてしまうというのは避けなければならなかった。従者は主以外のために消えてはならない。 *-*-* ロストレイルと呼ばれる不思議な列車に乗って、ルサンチマンは0世界と呼ばれる場所へと連れられてきた。ターミナルと呼ばれるそこは、ひとつの大きな街をなしているようだった。 (ここは……) ルサンチマンは仮面の下でわずかに目を見張った。 (ここは微かに主の匂いがする) 不思議だった。けれども、館に戻れない、主の帰還を待つための仕事ができない絶望は薄らいだ。 「俺が連れて行くよ」 「そう? じゃあまたあいましょうね!」 ルサンチマンが主の匂いに反応している間に相談がまとまったのか、リーダーの男以外は三々五々に散っていく。 「これから旅客登録をしに行こう。これをしてパスホルダー貰わないと、消失の運命からは逃れられないから」 男は言う。ルサンチマンは他の仲間との接続を試みたが、それも出来なかった。主の匂いがするとはいえ、その制約は不安定だ。館にも帰れない。 (どうする?) 自分に問う。だがすぐには答えが出せそうになかった。ゆっくり考える時間が合ったほうがいい気がした。 「覚醒したばっかだもんな、混乱するよな」 黙って動かないルサンチマンを混乱していると判じたのだろう、男が優しい表情で彼女の肩を抱いた。 「良い案があるんだ」 「……?」 男は彼女の肩を抱いたまま、路地裏の暗がりへと入っていく。そこで彼女の背を壁に押しつけるようにして立ち、うっとりと見つめる。 男のねっとりとした視線は彼女の細い首筋、豊満な胸元、くびれた腰、艶やかな肢体、順にまとわりついて。その青銅色の肌もまた、彼の食指を動かすようだった。男の節くれだった指が、彼女の首に触れて胸元に触れて、そこからだんだんと下へと降りていく。 「俺は動いているよりも、動かなくなった後のほうが燃えるんだよねぇ……」 うっとりと言葉を紡ぐ男。 「キミ、いいカラダしてるし、珍しい肌の色だ。大切にしてやるから、さ。俺のモノになれよ」 それは恋情のこもった誘いではない。男の両手が、そっとルサンチマンの首を覆う。 「俺の死体コレクションの中に加えてやるからさ」 男はネクロフィリアだという。欲望にギラつく瞳でルサンチマンを見つめる男。そんな男をルサンチマンはじっと見上げる。 「ここまで連れて来さえすれば、後はなんとでも言い繕える」 なにせ0世界まで連れてきたという証人はいるのだから。旅客登録の前に居なくなったとしても、理由はいくらでも付けられる。だから。 「大丈夫、傷つけずに上手く殺してやるよ」 男の手に力がこもる。彼女の細い首が、締め上げられていく。息が、詰まる。 ――従者は主の為以外に壊されてはならない。 その不文律がルサンチマンの頭のなかをよぎった。 と、彼女は男の身体を掴みあげ、怪力をもってして放り投げた。 「うわぁっ……」 男は声を上げた。だが壁にたたきつけられ、地面に崩れ落ちるとそのまま動かなくなってしまった。 「……?」 男が動かなくなったことに首を傾げるルサンチマン。ゆっくりと歩み寄って男だったモノを見れば、どうやら頸骨を骨折している上に顔も潰れているようだった。 だから。 小さくたたんでゴミ箱に片付けた。 *-*-* ルサンチマンはまるで先ほどの出来事などなかったかのように、元の世界にいた時のように0世界を闊歩する。 そういえばパスホルダーとやらを貰わないと消えるらしい。だが、能力が制限されるとも聞いた。 どうするべきか。 だが答えは明らかだった。先程よりも明確に、答えはルサンチマンの元へと降りてきた。 (おそらく私は主に呼ばれた。制約が緩んだのは、主に何かあったからではないか?) ならば、能力を制限されてでも、ルサンチマンは存在し続けなくてはならない。 主を探して仕えるためにも、ここで消えてはならない。 「どこに行けばパスホルダーを貰えますか?」 適当に、すれ違った人に声をかけてみた。その人は親切に図書館の建物まで案内してくれた。自分の世界を見失って色々あるかも知れないけれど、頑張ろうねと優しく言葉をかけてくれた。 一応礼を言い、ルサンチマンは図書館の建物へと足を踏み入れる。 主の為に。 主を探すために。 主に仕えるために。 この場所でも、ルサンチマンにはきちんと仕事があった。 【了】
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