森間野・ ロイ・コケはロストレイルから降りると顔なじみの探偵事務所を目指してすたすたと真っ直ぐに進む。 界隈を抜けて、ようやく訪れた二階建ての建物。階段をのぼって、事務所の前。ドアノブを手に取ると、ひんやりと冷たい感触がする。 「あれ?」 かちゃかちゃかちゃ。 金属のこすれる音がむなしく響く、押しても引いてもドアは開かない。鍵がかかっているのだと悟ったコケは腕組みをした。困った。このままでは入ることができない。思い切ってドアをノックしてみるが返事はない。ドアには呼び鈴のようなしゃれたものもない。たたいていた拳が痛くなったのにコケは眉根を寄せるとちょっといけないと思ったがそっとドアに耳をあてたが防音が施されているのか、音という音は一切聞こえてこない。 「いない?」 ずっと前に来たときはドアは開いていて、あっさりと入れたことを考えると、そうとしか思えない。 「んー」 コケは葡萄のような琥珀色の瞳を曇らせる。 「待つ? ……待つ!」 ぐっと拳を握りしめて、コケは決意する。 「こそ泥、死にたくないならさっさと去れ」 底冷えするような声にコケの肌は鋭い針で突つれたような痛みと恐怖に泡立った。 ゆったりとした白い生地に金糸で鳥の刺繍されたチャイナ服に身を包ませているのは、首ほどの長さの見事な金髪を一つにくくりつけた、青目の男だった。人形のように表情のない顔でコケを見下ろし、片手のなかに生み出した赤黒い炎が揺れている。 コケは目を見開き、まじまじと相手を見つめる。 「フェイ?」 コケの知るフェイは仮面をつけていたはずだ。 「……客か。悪いがもうここは何もしていない。帰ってくれないか」 「フェイ、コケ!」 フェイは足元にまで笑顔で駆けてきたコケを見下ろすと手の中でうごめいている炎を握りつぶした。 「先ほども言ったように、ここはもうなにもしていない、俺が探偵を辞めたことは以前来た旅人たちに言っておいたはずだが?」 「やめた?」 コケは目を瞬かせる。そんなことまったく知らなかった。 「俺の状態を説明しておいたはずだが……連絡がいってなかったのか? あなたたちのところには報告の義務があるとも聞いていたが、まぁ格別、誰かに報せてほしいとは言ってなかったからな」 頬に手をあててふぅとフェイはため息をついた。 「知らないでここにいたとしたら申し訳ないことをしたな。ここには忘れ物をとりにきただけなんだ」 「フェイ、いま、別のところに住んでる?」 フェイはその声を無視してふらふらとした足取りでドアに近づくと、鍵を開けてなかにはいる。 「コケ、あがってもいい?」 「水道も電気も止まっているから、おもてなしはできないけれど、どうぞ」 フェイはまるで風に吹かれて戸惑う弱弱しい蝶のように不安定で、頼りない足取りで部屋の奥にある机の前に来ると引き出しをあけて何かを取り出すと口元に笑みを浮かべ、それをポケットにしまいこんだ。 部屋のなかはコケがこなくなったときのままだ。唯一変わったところといえば埃臭いことぐらいだ。 「コケ、掃除する!」 「掃除?」 「ここ、フェイの家、たまにだけど、帰るなら、掃除したほうがいい」 「いや、もうここには帰らないからその必要もない」 フェイはゆっくりと首をかしげた。 「そう、もう帰ることはない」 頭の上にある葉っぱもふわふわと揺らしたコケはフェイに微笑みかける。 「フェイ、フェイは、いま、どこに暮らしてる? コケ、そこに遊びに行くのだめ?」 「……そういえば、棚に羊羹があったんだ。アレはまだ食べれたはずだから座っているといい。飲み物を買ってこよう」 コケが返事する前にフェイは棚から一口サイズの羊羹を二つほど取り出すと、それをテーブルの上に置くと外へと歩きだす。 「飲み物、コケが」 「いや、構わない。あなたはお客様だから、羊羹は二つとも食べておいてくれ」 「コケ、ここに来ない間にいろんなことがあった」 甘い羊羹を両手に持って口に頬張りながら、フェイが購入してきた缶ジュースを飲むコケはソファに腰かけて、前に座っているフェイにはにかんでおしゃべりする。 「怖い人と戦ってた。あんまり役に立てなかったけど」 「大変だったのだね」 「フェイ、羊羹食べない? コケ、あーんする?」 「悪いけど、食べれないんだ」 フェイは口元に笑みを浮かべて首を横に振った。 「残念」 コケの頭の上にある葉はしょんぼりと落ち込む。それをフェイは黙っいたが、ふと首をかしげた。 「あなたが良いというなら食べようか」 「本当? 食べて。あーん」 コケが差し出した羊羹をフェイは屈みこんで一口齧ると咀嚼して嚥下した。 「悪くて、怖い人と戦っている間、いろんなことを考えた。人の役に立ちたいことも、コケ、コケなりに結論を出したつもり」 コケは自分のなかにあるつたない語彙を集めてみるが、うまく自分の気持ちを説明できそうになくて必死に語る。 「これからフェイとの時間を大切にする! どこか行こう」 「……ゴミを片づけてしまうから、あなたは先に出いって、待っていてくれないか」 「うん」 コケはご機嫌に葉っぱを振りながら出ていくのにフェイはゆっくりと立ち上がり、部屋のなかを見回すと黙って頭をさげ、すぐに部屋から出ていきながら歌うように囁いた。 「キサ、キサ、キサ、ああ、キサ、キサ、キサ……キサ」 コケがフェイを連れていったのはこの地区では最も大きな遊園地だ。どの乗り物も大きく、きらびやかで、派手で、人がいっぱい溢れて、活気がみなぎっている。 場内に流れる陽気な音楽にコケはわくわくとした顔でフェイを見た。フェイは黙って首をかしげる。 「フェイ、どれに乗る!」 「俺はいいから、あなたが好きなものに乗っておいで」 「けど」 コケは胸の前で両手をもじもじさせる。 「見ているほうが楽しいから」 「うん! わかった。あのジェットコースター……はやめて、メリーゴーランドに乗ってくる!」 ジェットコースターには心惹かれたが、入り口の前にたてられている指定身長はどうみても自分よりも高すぎることを悟ったコケは何事もないように、けれど頭の葉っぱだけしょんぼりとされながらメリーゴーランドに目を向けた。 並びながらコケはそわそわと振り返るとフェイは乗り物の前にあるベンチに腰かけ、手を振った。コケも手を振りかえす。 不意にフェイは動きをとめて懐から携帯電話を取り出して画面を見ると小さなため息をついた。 その姿をコケは不思議そうに目を瞬かせた。 メリーゴーランド、コーヒーカップと乗り物から視覚的アトラクションにもコケは進んでチャレンジした。 頭がくらくらしたり、激しい音に驚いて花を咲かせたりして楽しんだ。 「フェイ、本当に乗らなくてもいい?」 「乗り物は苦手だから」 「う……けど、けど、あれは?」 コケはきょろきょろとまわりを見て指差したのは観覧車だった。 「あれ、揺れない」 「わかった」 幸いにも観覧車はあまり人が並んでいなかったので、すぐに乗り込むことができた。ふわふわの座席に、よく磨かれたガラスから徐々に流れ込むように見え始める景色がとてもきれいだ。 コケは顔をくっつけて街中を見ていった。何度も訪れたことがあるから地理にも多少は詳しい。 「フェイの事務所は……あれ、火?」 コケは大きく目を瞬かせる。 地上の、まるで蟻の巣のようにいくつもある建物の一つから火が噴きだし、燃え上がっている。遠目でもあれはフェイの事務所だとわかった。 「フェイ、大変!」 「構わないさ。もう帰ることはないのだから、大切なものはちゃんとここにある」 「はやく帰らないと! ここを降りたら、はやく」 「あんなところにいったら、危ないから、やめておいたほうがいい」 フェイはやんわりと告げると、涼しげな顔で窓から景色を眺める。その横顔にコケはいてもたってもいられない気持ちになって、声を荒らげた。 「けど、けど、あそこは」 「なぁに?」 呼ばれたフェイがコケに微笑みかける。 「フェイの大切な場所じゃないの?」 「大切なものはちゃんととっておいたから」 フェイは胸に手をあてて微笑む。 「あまり揺れると、とまってしまうから、じっとしておいたほうがいい」 「うん。わかった」 コケはしょんぼりと葉っぱを萎れさせて、席についた。フェイの言うとおりあまり揺らして止まってしまったら、それこそ困る。 ゆっくりと観覧車は動く。そうしてだんだんとすべての風景は沈んで消えてしまった。 観覧車から出るとコケはフェイの手をとって事務所に向かって駆けだしていた。 「急がないと! フェイ!」 「悪いが、仕事があるから、これ以上はあなたには付き合えない」 コケの手を振りほどいたフェイは背を向けて反対方向に歩き出すのにコケはあわてて追いかけようとした。大勢の人の中にフェイの姿が消えてしまった。 息を乱し、駆けまわってフェイを探す。 「フェイ、どこ……あ」 その路地にはいったのはたまたまだ。期待はしていなかったが、鼻につく火のにおいに誘われた。 たたずむフェイの背中、足元に倒れた人。それから火のにおいがした。じりじりと、燃えて、腐っていく香り。そのにおいが強くなればなるほどに人が小さくなっていく。 「フェイ」 振り返ったフェイは赤目を細めて微笑んだ。 「なに、してる?」 「仕事を」 あっさりとフェイは告げた。 「今、私は鳳凰連合の暗殺者だ。……カルナバルのあと身柄は鳳凰連合の所有物となった。そのとき隠居するか、昔の仕事に復帰するか、鳳凰連合のボスに迫られた。だから選んだ」 コケはじっとフェイを見つめた。 「どうして、そんなことを?」 「キサには会えた……せめて、キサのいる世界を守るくらいはこんな死んだ体でも出来るから」 「死んでる?」 「本当にあいつは何も誰にも言わなかったんだな。……何度か接したあなたたちは気が付かなかったようだが、俺の体は百足の薬漬けとなった地点で感覚の一切を失った。もうゾンビみたいなものさ」 よくよく考えればおかしなことは山のようにあった。どれだけ熱い食べ物も、苦い飲み物もフェイは難なく食べていた。ひどい怪我を負っても痛みを感じていないようだった。 それは肉体の感覚がすでにすべて麻痺しているからだ。 「暗殺にちょうどいい」 「そんなの」 「それに、あなたに受けた恩はもう返却したと思っていたのだけども」 「恩?」 「あなたが俺の命を救ってくれたから、だから遊びたいだけ、俺はあなたに付き合おうと思った。長く生きれるはずもないから、生きてる間はと思っていたがあなたは急にぱたりとこなくなったから、もういいのかと思ったんだ」 コケはシャドウの事件があってからフェイに会わなかった、会ってはいけないとコケは判断し、世界樹旅団との戦っていた。 だが、理由も何も告げず、ほぼ一年にも等しい間会えなければ見限ったと思っても仕方がないことだ。 「本当にキサ以外、まったく価値がない。人なんて勝手に消える。そう、キサ以外は本当に無意味。ああ、キサ、キサ、キサ! 愛してる!」 フェイは優しく、うっとりとこの世で最も甘いものを口にしたように微笑む。 コケは以前、フェイから聞いた過去を知っている。 母を殺した。父も殺した。はじめて愛した女はフェイの前から急に姿を消してしまった。唯一傍に居続けてくれたキサにフェイは執着し、偏愛していた。それでなんとか精神を保っていたのがキサをなくして狂い出した。 百足の事件のときすでに肉体は限界を越えていても旅人たちへの恩からぎりぎりのところを踏みとどまっていたが、それも一人の孤独のなかで壊れてしまい、キサが生まれたことが決定的となった。 もう戻れない、間に合わない、完全にフェイは壊れている。 「今日ですべて恩は返しただろう? それでもう許してくれないか? これからまた仕事が残っているんだ」 フェイは囁いた。 「キサのためにも人を殺さないと! だから、あなたは気を付けて帰って」
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