蹴られた、と森間野・ ロイ・コケが理解したときには全てが手遅れだった。 視界はぐるりっとまわる。落ちる。全身に痛みが走る。口を開くと、ひゅーと頼りない口笛みたいな息が零れる。骨の軋む音がぐらぐらと頭蓋骨を震わせる。痛い。頭の中いっぱいに響く危険信号を無視して立ち上がる。シャベルは手から離れないようにとハンカチでぐるぐるに巻きつけている。きつく握りしめ過ぎたせいで皮がむけて血に染まっていた。 駆けだす。振り上げる力は弱弱しい。でも、戦う。 死ぬの、こんな、痛みじゃない。 死はどれくらい痛くて、苦しいのだろう? それは生きているコケはにわからない。 旅で多くの苦しい思いや痛みを味わってきたが、それでも死んだ経験はない。だから、だから、わからない。 マオはどれだけ苦しかっただろう? 殺されてしまった探偵のことがずっと頭の片隅を占領している。 自分が、殺してしまった、マオを。 彼は優しい探偵だった。何度も世話になったし、食事をしたり、パーティを開いたり……いろんな思い出を作った。 コケにとって、インヤンガイは怖い、けど、優しいところ。大切な人たちがいるところ。 それは壊された。 たぶん、とても残虐な方法で。 コケの知らないところで、世界樹旅団はインヤンガイへと降り立ち、災いの種をばらまいた。 硝子細工のように、慎重に、時間をかけて作り上げたきらきらの思い出は、無造作に振り上げられたハンマーで粉々に潰された。 世界図書館のふりをした旅団は、ロストナンバーたちと縁のある探偵を一人、また一人と殺していった。 そのなかにはマオも含まれていた。 コケのせい。 コケがマオと知り合った。いろんなことお願いした。一緒にいた。仲良くした。思い出を作った。 そのせいで、マオは死んだ。 強く、ならなくっちゃ。 必死に訓練をした。空まわりしたこともあった。けど、毒の使い方を覚えて、人攫いを撃退した。 自分ががんばったことが嬉しくて、喜び盛んにその事件を教えると、マオは肩を竦めて笑った。 ――おっかねぇな。コケ。 ――そんな強くならなくても、守られればいいじゃねぇか。女の子なんだ うん。けど、マオ、死んだ。 コケのせい。 コケと関わったせい。 強い人に守られる。けど、それよりも強い敵があらわれたら、守ってくれていた人は殺される。 マオが死んだとき、痛いとか、苦しいとかは感じなかった。涙も出てこなかった。心のなかに空洞が生まれて、そこに落ちた。とてもとても深い底なしの穴。 コケはまだ落ちたまま。 底が見えなくて。 落ち続けるしかない。 しゅん! シャベルを振り下ろすと隙が生まれた。タイミングはわかっている。懐に飛び込み、花を咲かせる。敵が咳き込むのに体当たりを食らわせる。猛毒は効果があらわれるまで時間がかかる。時間を稼ご――ぱん! 横から容赦なく殴られ、壁に叩きつけられた。痛みにくらくらする。起き上がろうとして、転がる。 た、て。 たて。 立て! 心の中で何度も声をあげる。 顔を起こすと、毒が効いたのか敵が倒れていた。 倒したことの喜びも、達成感もない。 ただぽっかりとした穴のなかに。 落ちていく。 落ちていくしか出来ない。 ぼんやりとその場に腰かけたコケの瞳には何も映らない。 「こんなのじゃ、だめ、もっとうまくならないと」 よろよろとシャベルを使って、起き上がる。息を吐いて、吸う。ぐらぐらと体が揺らぐ。自分のために紫色の花を咲かせると、ぱくりと口のなかにくわえる。噛むとじわっと苦味が口腔を満たす。思わず咽そうになるが舌と意思の力で喉の奥へとねじ込んでごっくりと飲む。また立ち上がる。 痛み止め。 毒は薬にもなる。 ここ数日でずいぶんと薬草について詳しくなった。 一つの草にしても、茎、葉っぱと部分によって効果が違う。ちょっとした工夫でも効果がぜんぜん違う。 ひとつ戦って、知識を得て、毒にうまくなって。 けど、もう自慢する相手も、そんなことをするなと心配してくれる相手も、褒めてくれる相手もいない。 まるで憑かれたようにコケは一心不乱に戦い続ける。もう何日もターミナルに戻っていない。寝たのはいつだったろう? 食べたのは? それも全部、曖昧。そんな暇があるならもっと強くなりたい。強く、強く。 毒を得る。知識を得る。力を得る。 もう取り戻せない人たちにコケはどうやって謝ればいい? コケがかかわったせいで死んだ。弱いせいで。 だから守るほどに強くなりたい。もう守れるものもいないのに。ただ強くなりたいと願う。 戦って、痛いこと、苦しむこと、それがもしかしたら償いになるのかもしれない。こうしているときだけはなにも考えなくて済む。ただ空虚な穴に落ちていく感覚だけ。 見上げた空は灰色で。ぽつりと冷たい雫が落ちてくる。雨だ。 コケはねぐらにしている廃屋へと戻ると傷の手当てを済ませると降りしきり雨を睨みつける。 すべてが鈍色に染められた静寂の世界。この時間がコケを孤独にする。なにかしていないと時間はまるで砂に沁み込む水のように、じわじわと、たまらない気持ちをコケに与える。 どこにもいけない。 伴侶に会いに行ったら迷惑をかけるかもしれない。 そう考えると、足が竦んで動かない。 「コケが強くなれば、敵が来ても皆を守れる」 自分で作った葉っぱの包帯をぐるぐる巻きにした手を見つめてコケは呟く。 「強くなかったからマオ達、守れなかった。もう会えないの、シャドウのせい。けどコケ自身のせいでもある」 降りしきる雨のなか。 コケは繰り返す。何度でも。自分の罪を忘れないために。胸にある言葉に出来ない激しい怒りを忘れないため。 そうだ、怒っている。 自分の弱さに。 奪い取ったシャドウに。 この手で、シャドウを、殺したい。 はじめてだった。 こんな憎悪を覚えたのは。母が周りにいた人たちの陰口に辛そうなときは胸がぎゅうと締めつけられるような怒りを覚えたが、いまはそれ以上に苦しい怒りの力がコケを突き動かす。 そのために毒の知識を得た。けど、それだけでは殺せない。それに今、シャドウはホワイトタワーにいる。チャンスは巡ってくるだろうか? コケにはわからない。けれど許せない。その気持ちは本物。だから、力を得たい。 どこにも行けないコケがインヤンガイの仕事を出来るかぎり選ぶのは、この世界にいたいから。 この世界にいるときは、穴に落ちる、胸の奥のもやもや、ちょっとだけ収まる。 思い出があるから。 街を歩くたびに、胸を刺すのは楽しかった記憶。 それがコケを動かす。 守れなかったもの。 守りたかったもの。 まだ、まだ全部じゃない。 すべてを無くしたわけじゃない。 底にたどり着けないコケは必死に足掻く。痛みや苦しみを自分に与えながら。強くなろうと戦いながら。 泣けなくて。泣きたくて。凶暴なほどの怒りがあって。狂おしいまでの悲しみがあって。 コケは一人ぼっちで泣き続ける空を睨む。 「コケ、寂しい」 ぽつりと呟いて、眠気に身を任せた。 そっと誰かが頭を撫でてくれるのがわかる。だれ? コケは問う。笑っている顔。マオ、生きてた? コケ、嬉しい。起き上がろうとするのに起き上がれなくて……これ、夢。コケ、なんとなくわかる。なのに撫でられて、優しい気持ちが伝わってくる。コケはそれをもらうの、だめ。コケのせい。コケのせい。だから。マオは何も言わずに笑って頭を撫でてくれた手で、コケの手を握りしめる。コケ、コケのせい。けど、マオ、許してくれる? コケ、強くなかった。そのせい。コケのせい、コケの…… 雨音に満たされた世界でコケは目を覚ます。あれほどに痛かった体がすっかりラクになっている。不思議そうに自分の頭を手で撫でる。そのあと手を見ると、ほのかなぬくもりを感じた。 「マオ?」 インヤンガイには霊が存在し、魂は何度も転生を繰り返すと信じられている。なら、先のは本当にマオ? ここにいた? 頭を撫でてくれた。傷ついた手を握ってくれた。言葉はなかったが、もう、いいと、無くしたものだけを見るのではなくて。好きになったことが大切だから。大切にしたことが重要だから。無くしたもののことを想ってはいけないと諭すようだった。 「けど」 コケは、いま、それができない。 自分を責めたい。 誰でもいいから、潰されるまで責めてほしい。 「だって、コケのせい」 だから許さないでほしい。誰が許してくれても、コケは、コケが許せない。許さない。 涙に濡れた声で繰り返す。 コケのせい、コケのせい、コケの…… ぼろぼろになるまで戦うのも、力が欲しいのも。一人ぼっちなのも。すべてはコケの選択したことだ。怖いから。喪うことが。大切なものが、奪われていくことが。 自分のことをとにかくめちゃくちゃになるまで責めたかった。誰も責めてくれないから。 「うっ、うわああああああああああん」 溢れた涙は流れる。両手で必死に拭っても、止めよることが出来なくて。だから声を荒らげて泣いた。 強い雨の音が、すべてを消してくれるから。 いま、だけは。マオが許してくれたから。 晴れた空を見ると、珍しいほどに澄んだ青が広がっていた。コケは腫れた瞳で眩しい太陽を睨みつけ、ふぅと息を吐く。そろそろ一度、ターミナルに戻らなくてはいけない。荷物を詰め込んだリュックを背負って駅へと向かう路の途中、一度足を止める。とてとてとコケは通い慣れた道を行く。 直接は、まだ会えない。だからかわりにコケは白い花を生やしてこっそりとドアの前に置く。気がついてくれるのか、わからない。けど、今はこれだけ。 「コケ、行く」 コケは走り出す。 まだ自分を許せない。どうすればいいのかわからない。心のなかで黒く渦巻く憎悪を自分ではコントロールできない。ただわかった。自分で自分を苦しめるように痛めつけちゃいけないことは。 力が欲しい。 戦う力がほしい。 けど 無理はしない。 進むためにも。 いっぱい、泣いた。 マオは許してくれた。けど、コケはコケが許せない。 だから、コケは駆ける。 拳を握りしめて、歯を食いしばって。 けど、マオが心配しないように、気を付ける。 だから駆けることができる。 数日後、世界樹旅団の者からの対面とシャドウの引き渡しの要求があった。コケは息を殺すように、その一連の出来事を見ていた。そしてシャドウの死を耳にした。 「シャドウ、死んだ?」 あっけにとられてコケは呟く。愕然とした、というほうが正しい。 いつかのチャンスは永遠に失われてしまった。胸の中にどうしようもない失望が生まれる。けど、自分がシャドウを殺せたのかと、自分自身に問いかけて、無理かもしれないと冷静な結論が頭の端を掠めた。 コケは深呼吸とともに失望を底へと沈めた。なぜなら、近々ナラゴニアからの亡命者を保護する依頼とともに希望者に限り潜伏する計画が持ち上がっていると聞いたからだ。 仇は、とれなかった。けど、この仕事、成功させたい。 それがシャドウをこの手で殺せなくても、仇をとったことになるはずだ。 作戦に挙手したコケに黒猫にゃんこから出発前に悔いのないように手紙を書いておけと言われた。 帰った自分への手紙があるほうが、意地で生きようとすると言われてコケはなんとなく納得した。しかし、自分に手紙というと内容が思いつかない。だから、かわりに伴侶に語るように書くことしたに。 『この仕事、成功させるくらい成長したら、一度だけ戻る』 祈りのような手紙に大好きな白い花を添えて、コケはそれを黒猫にゃんこに預けると旅立った。
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