「あれっ 誰もいないぞ」 最初に体育館の床を鳴らしたのは田中だった。 壁にかかった時計の針は十時半を示している。それが昼夜どちらの十時を示しているのかは知れないが、いずれにせよ、時計は己の仕事を放棄しているらしい。それも、放棄してからどのぐらいの時間が経っているのかは分からないが。 外は明るい。夕暮れが訪う刻限まで、まだあと数時間ほどの猶予がある。が、天気はあいにくの雨だ。重々しい雲が空を覆い、昼とはいえ、体育館の窓の外はわずかに暗くかげっている。 ホコリがつもる床の上を歩きながら、田中は小さな舌打ちをする。 「時間過ぎてんじゃねえのかよ。なんで一人も集合時間守ってねえんだ」 苛立たしげな田中をなだめるように、山本が温和な声で笑った。 「オレたちも今来たばっかりなんだし、お互い様だって。その内みんな来るだろ。待とうぜ」 「そうだけどよー。なあ、佐藤。お前、ちゃんと時間全員に流したんだろうな」 「え」 不意に声をかけられた佐藤が顔をあげる。 「前に一回流して、一応昨日も確認したよ」 「どうせまた伊藤だろ。あいつ合流する時間に起きてくるんだぜ。二時間遅刻とか当たり前だしな」 うんざり顔でかぶりを振ってから、田中は体育館の全容を見回した。 今はもう使われていない小学校の体育館。創立してからそれなりに歴史を重ねてきた小学校ではあるようなのだが、児童数の減少には打ち勝つことは出来なかったらしい。 「おい、佐藤。カメラカメラ」 田中が言う。佐藤は思い出したように瞬きをして、それから提げてきたカバンからデジカメを取り出し、田中に手渡した。 「とりあえずステージ横の放送室だったよな」 「うん」 カメラをいじりながら歩き出した田中の背に山本がうなずきを返す。 「放送室と、半地下になってる用具倉庫」 「よし」 山本が続けて言ったのを耳にして、田中は悪戯めいた笑いを満面に浮かべた。 廃校となって久しい小学校の体育館に、都市伝説めいた噂がもたらされたのは半ば必然ともいえようか。 校庭に二宮像はないし、銅像の類も置かれてはいない。だからか、深夜に校舎を徘徊する銅像の噂はなかった。ただしそれ以外の噂はほぼ定形通り。 音楽室からはピアノの音がするし、教室には謎の人影がある。校舎内に忍び込んだ者は人体模型に追い回され、たどり着いた階段脇の大きな鏡の中から伸びてくる無数の手に引き込まれて消息を絶つのだ。 けれどその中でも今件の校舎において特徴的なのは、噂の大半が体育館に集中しているという点だった。 田中がデジカメをかまえながらステージに向かう。途中で何度か足を止め、ステージや窓を撮影しては後ろを振り向き、同行してきたメンバーの顔を確かめる。 田中に促されているような気がして、山本と佐藤は互いの顔を見合わせた。苦笑いを浮かべ、山本が田中を追う。佐藤は伊藤に電話をかけた。 数度の呼び出し音。繰り返しの後、電話はふつりと途切れてしまった。佐藤は表示を確かめる。電波状況はあまり良くないようだ。 「伊藤かー?」 田中がステージ近くから佐藤に声をかける。声は体育館の中でいんいんと響き、ホコリを混じえた静かな空気が大きく揺らいだように感じられた。 佐藤は念のためもう一度伊藤に電話をかけたが、やはり同じ結果が出ただけだった。 「出ないな」 「こっちに向かってるとこなんだろ。もしかしたらまだ寝てるかもだし」 佐藤の言に山本が続く。田中は何事かぶつぶつと文句をこぼした後、おもむろにステージの上にのぼった。 幕も外され、寒々とした空間が広がっている。小学生を対象としたものとはいえ、ステージ上に立つと、高低さにわずかな戸惑いを感じた。 少しの間ステージの上を右往左往しながら、田中は目につくあちらこちらにカメラを向ける。が、カメラの調子があまり良くないのだろうか。時々カメラの具合を検め、小さな舌打ち混じりにこちらを向いた。 「おい、これ調子悪ぃぞ、直しとけ。山本! 確かビデオも用意するっつってたよな」 「ビデオは伊藤じゃないと持ってないよ」 「伊藤はまだ来ねえのかよ」 「電話しても出ねぇんだよ。こっち向かってんだろ」 苛立たしげに声を荒げる田中に、山本と佐藤が返した。田中は、今度は分かりやすく舌打ちをする。 田中は案外怖がりだ。そのくせ強がり、グループのリーダー的存在であろうとする。雨が勢いを増し、体育館の屋根を叩き出した。その音に驚いたのか、田中の肩がわずかに跳ねる。 山本と佐藤は互いに顔を見合わせて苦笑する。二人とも田中とは長い付き合いだ。田中が荒れている、その最たる理由となるものがなんであるのかを知っている。 カメラを山本に渡す。山本は受け取ったカメラで窓の外を一枚撮した。まだ昼だというにも関わらず外は薄暗くなっている。 「カメラ直ったってさ」 難なく撮影が出来たのを検めた後、山本はステージ上の田中にカメラを渡した。田中は眉をしかめたままに受け取って、ステージ横の放送室をアゴで示す。 「何にも起きねぇじゃねぇか、つまんねえな。次行くぞ次」 促され、山本もステージ上にのぼる。佐藤はステージ脇の階段でステージにのぼった。 ステージにのぼり、壁に向かって左手に半地下へ続くドア。右手に放送室のドアがある。田中は放送室から見て回ることにしたようだ。ドアを開けてやると、田中はわずかな逡巡の後に中に踏み入った。 電気のスイッチをいれる。が、当然にあかりは点るはずもなかった。真っ暗な室内の中、机や椅子がぼうやりと仄白い。空気はどこかカビくさく、湿っていて、沈んでいる。 田中が足を竦ませる。山本が懐中電灯で中を照らした。 机や椅子、棚はそのまま置かれっぱなしだ。しかし棚の中は空っぽで、マイクのコードは抜かれている。 「たまにこのマイクを伝ってボソボソ声が聴こえるんだったっけ」 佐藤がマイクを軽く叩きながら息を吹きかけているが、マイクがそれを拾うことはない。 田中はドアの近くに立ち、室内の何箇所かを撮影している。フラッシュが何度か瞬いては消えた。 「あれっ」 不意に声をあげたのは山本だ。 「なんだよ」 「あ、いや。ごめん、なんか聴こえたような気がしてさ」 「なんかってなんだよ」 「伊藤か?」 佐藤がマイクを放りやってそう告げる。山本は携帯を取り出して着信を確認し、うなずいた。 「ああ、ホントだ」 「伊藤かよ、ふざけんなよ」 ドアを蹴り、田中が悪態をつく。山本は田中の肩を軽く叩いてなだめながら放送室を後にした。 照らすもののなくなった室内は再び暗闇の中に沈む。途端に空気までもが冷え冷えとしたような気がする。 「次行くか」 佐藤に促され、田中は悪態をつきながらもうなずいた。 「伊藤、もうすぐ着くってさ」 電話を終えたのか、山本が再びステージにあがってくる。 「やっぱ寝てたんだろ」 「あいつバイト増やしただろ。明け方まで仕事してたらしい」 「頑張ってるなー」 「それなら寝てりゃいいんだっての」 山本と佐藤の会話に田中が不機嫌そうに言を挟んだ。 「おまえの誕生日もうすぐだから、酒飲み行きたいんだろ」 佐藤が言う。 田中はますます眉をしかめ、放送室に背を向けて半地下の用具倉庫に足を向けた。 雨は勢いを弱めることもなく、外は見る間に暗くなっていく。 懐中電灯を点し、体育館の中を照らしてみた。 山本が振り向き、こちらに懐中電灯を向ける。首をかしげ、再び田中を追っていった。 半地下になっている用具倉庫の中には体操用のマットや跳び箱がそのまま残されていた。放送室の中のそれよりもさらに湿った、カビくさい空気で充満している。 たった数段しかない階段をおり、室内の壁を照らす。 湿気で出来たシミは、見ようによってはヒトのかたちに見えなくもない。なんだかんだでまだ幼い年齢下にある児童たちの目には、これらのシミもまた怪談を生み出す材料となって映ったのかもしれない。 山本も壁を照らす。跳び箱の周辺や裏側も照らし、マットを踏み、再び田中を振り向いた。 「何にもなさそうだな」 「つまんねぇな」 田中はあちこちを撮影していたが、佐藤の声をうけてわざとらしいほどのため息を落とす。 「伊藤、間に合いそうにないね」 山本が言う。田中はやはり舌打ちをした。 用具倉庫を後にしてステージをおりたところで、体育館のドアが再び開かれた。 「すまんすまん」 スーパーの袋を提げながら入ってきたのは伊藤だった。 「アラームかけたんだけどなあ。ぜんぜん気がつかなくってさ」 「お疲れー」 「バイト大変そうだな」 「無理してまで来ることもなかっただろうが」 山本、佐藤、田中がそれぞれに声をかける。伊藤はひらひらと手を振って、提げてきた袋を持ち上げた。 「コーヒー買ってきたんだけど、飲むだろ」 言いながら袋の中に手を突っ込んで缶を取り出し、田中に渡す。田中は憮然とした表情を浮かべながらも受け取ってタブを開けた。 伊藤は続いて佐藤にコーヒーを放り投げる。佐藤は難なくそれをキャッチして軽く礼を述べた。 続き、缶が投げられる。受け取り、礼を返した。伊藤は横目にこちらを見て笑みを浮かべた。 次いで山本の前に立った伊藤は、つかの間何かを考えて、それからはたりと何かに気付いたような顔をする。 「あれっ? 俺、ちゃんと四本買ってきたよな」 言いながら袋の中に手を突っ込んだ。残っている缶は一本。 「なんだよ、間違ったのかよ」 田中が言う。伊藤は首を振って眉をしかめた。 「数えてきたって。ってか、このコーヒー、五個で450円とかになっててさ。ちょうどいいかと思って買ったんだって」 「それじゃあ五本あったんじゃねえの」 「俺、途中で一本飲んだんだよ」 佐藤の言に伊藤が返す。だから袋の中にあったコーヒーは残り四つ。それは間違いようもない。 「でもオレもらってないよ」 山本が言う。 雨が強まる。 「……ところでさ」 しばしの沈黙の後、山本が口を開けた。 「さっきから思ってたんだけど、懐中電灯持って来たのってオレだけだよね」 佐藤がうなずく。田中の顔はもう蒼白としていた。 「オレいま懐中電灯点けてないんだけどさ。……じゃあ、誰がこん中照らしてんだ?」 体育館の中を懐中電灯のあかりがでたらめに走っている。田中が怒号をあげた。それを合図にしたように、体育館の中に拍手の音が響き渡った。 屋根を叩く雨の音だ。壁を叩く雨の音だ。いや、違う。これは明らかに拍手の音だ。 拍手で満ちている。空気が揺れる。雨足がますます強くなった。 誰かの絶叫がして、四人は転がるように体育館を飛び出して行った。 懐中電灯が明滅する。 放送室のマイクが、わずかに何かを拾った。それを機に、拍手はひたりと静まって、体育館は再び闇の底へと戻っていく。
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