今回二人が承った依頼、それは端的に言えば「吸血鬼退治」である。問題の吸血鬼はもう長い事ヴォロスの森の中に居を構えており、時折近くの集落に現われては戯れに若い娘を攫って行くという。中でも最近はその頻度が多く、耐えかねた住人が音を上げたのだった。小さな身体を前へ前へと進めていたネモが笑い混じりに振り向く。 「――にしてもこのわしが眷属を討伐する事になるとは、愉快な話もあったものよ」 愛らしい子供のような見目とボーイソプラノに反した台詞には、永劫の時を生きる者の知性が感じられる。 「ふむ。まぁ、上手く行けばいいがの。実は一つ悩んでいる事があるのじゃ」 「なに?」 と、唐突なジュリエッタの言葉に虚を衝かれる。 「そういうことは早く言うてくれよ。じきに城も見えるじゃろう」 「その、な……わたくしの口調のことで」 ジュリエッタが顔を上げ、目線を揃えるようにネモを見る。頬を掻く少女の顔は紛れもなく端正で美しい――のだが。 「吸血鬼の好みは『若い娘』と聞く。とすると普通に話す努力をする方がいいのじゃろうか。素のままで殿方と上手く行った試しがあまりなくての」 「んん、そんなことか。気にせずともおぬしの美貌があれば口調なぞ二の次よ」 大きな瞳を瞬かせたネモは、そのままチシャ猫のような悪戯っぽい笑みを浮かべた。楽しげな抑揚で呟く言葉は、自信に満ち溢れたものとなる。 「なぁに、仮にスタート地点で失敗したとしても所詮相手は若造。このわしが負ける筈が無い」 *** 『見たところ門衛の類はおらんのう。ちょいと裏に回ってみれば案外あっさり中に入れるかもしれん。ではな、おぬしも上手くやれ』 「見張りの一人位は居ると思ったんじゃが、予想が外れたの」 覆い茂る木々の間から目標と思しき居城が覗くなり、飄々とした挨拶一つでネモは飛び去って行った。残されたジュリエッタは、しかしそれに心細さを覚えるような軟弱な神経の持ち主では無い。白亜の城の全容を冷静に眺めながら手持ちのリュックを探り、暗色のローブを取り出す。顔の上半分を隠すようにばさりと羽織ってしまうと、いくらか表情を誤魔化す事が出来る。臆さず歩を進め、難無く辿り着いた巨大な門扉を仰いだ。 「……流石に無理か?」 ノックをしようと手を上げかけては、下げる。ネモの後追いをする形にはなるが、裏口を探す方が賢明だろうか。必死に頭を回転させて思い悩むが正解は分からない。このままでは完全に日が暮れてしまうかもしれない。ジュリエッタは唇を噛み、 「ええい、当たって砕けろじゃ! 御免、御免ー!」 思い切り腕を振り上げ、手の甲でゴツゴツと戸の表面を打った。 「誰かおられぬか! 誰か、……」 やがて、その掌がふわりと的を失う。眼を丸くする少女の視界の先で、ゆっくりと着実に扉が開いていく。細く開かれた道の向こう側から、歩いてくる人影が見えた。背丈はジュリエッタより頭二つ分は高い。そのくせ服の上からでも分かるほど痩せぎすの男で、肌の白さも相成ってさながら幽鬼を思わせる。 「――珍しい」 予想外の呆気なさで現われた、恐らくは吸血鬼に狼狽えて後ずさったジュリエッタに、闇の中から出でた男は他愛なく微笑みかけた。 「ここに人が訪ねてくるとは。どうした、何用だ」 「あ、ああ」 しどろもどろになるジュリエッタを、まるで品定めでもするように眺め下ろす男の瞳は金色。ショートカットの髪は灰色で、白のドレスシャツに黒のマントを羽織ると来ている――どことなく、雰囲気がネモに似ている気がする。ジュリエッタは迷いに迷い、さも哀れっぽい声を出した。 「そのう、どうやら道に迷ってしまっての。……悪いが一晩泊めてはくれぬか」 「ほう?」 「この森は深いようだから、夜更けまでに外に抜ける自信が無いのじゃよ」 縋るジュリエッタを、男はジッと見つめる。そうして面白そうに笑みを深めた。 「いいだろう。俺の城は広いからな。そう頼まずとも部屋の一つや二つ喜んで貸してくれる」 「ほ、本当か! 有り難い!」 ジュリエッタが快哉を叫び、目深にローブを被った顔を上げる。邪推されている可能性は高いだろうが、まさかこんなにあっさりと事が運ぶとは思っていなかった。 「だが、泊める相手の名前と顔くらいは知りたいものだ」 「う……、ジュリエッタじゃ」 「そうか。俺はセスだ。――顔を、」 隣に辿り着くなり、手が伸びた。男にしては華奢な指先に顎を攫われ、不覚にもどきりと鼓動が跳ねる。 「見せてみろ」 近距離で見つめられると気付く。セスの容貌は、ジュリエッタの好む恋愛小説に登場する類の端正な貴公子の顔だ。 (いかん。いかんいかんこやつは敵なのじゃ。騙されてはならん) 紅潮しかける顔に力を篭めて凝視に耐える。やがて満足したのか、男の指はさらりと肌を掠めて離れた。 「歓迎しようジュリエッタ。早速晩餐の支度をさせるが、君は何を好む?」 *** 「なるほどこれはなかなかの城じゃ。造りは悪くないのう。美術品の趣味も良い」 一方その頃。目論見通り無事進入を果たしたネモは、ちょっとした観光気分で城内を巡っていた。齢千歳を超す吸血鬼の心臓には毛が生えているため、全体的にあまり緊張感が無い。美しい中庭をまったりと眺める余裕まである程だ。バロック調で統一された長い廊下を、我が物顔でずんずんと歩く。 「事が済んだらわしの別荘にしてしまうのもいいかもしれん。む」 咄嗟に歩みを止め、小さな身体をサッと美術品の影に逃がす。程なくして廊下の先から数人の女が現われた。使用人と思しき女達はメイド服を着込んでおり、判を押したように表情が無い。ぬけるように白い顔の中で奇妙に紅い唇だけがぱくぱくと動いている。 「早く新鮮なトマトを採って……」 「久方ぶりのお客様だもの……お待たせする訳には行かないわ……」 (客? トマト?) 細々とした会話を小耳に挟み、ネモはぴくりと反応した。歩く背中が角を折れたのを見届けた上で潜伏を止め、ひょいと廊下に戻る。 「もしや」 だが、思案気に首を捻ったのは束の間だった。はたと表情を改め、今しがた女達がやって来た方向へ首を向ける。遂には小走りで通路を突っ切って行く。微かに香るのは食欲をそそる芳しい匂い。鋭い嗅覚を遺憾なく発揮したネモは鼻をひくつかせ、 「これは間違いなく馳走の匂い! まるでわしを呼んでいるかのようじゃ! 厨房はどこじゃ、どこにある!?」 この時、偉大な吸血鬼は空腹という名の敵に完全に陥落した。右に左に道を折れながら目標を探す。と、一際強い芳香が洩れ出している扉を発見。警戒も忘れて押し開く。 「ここか!」 勢いよく露になる扉の向こう側。そこは確かに厨房で、例に違わず広いスペースに多彩な器具が設置されていた。ステンレス製のテーブル上には色鮮やかな野菜を始めとした食材が並ぶ。そうして、まさに出来立てと見える料理が乗せられた皿の数々も――ネモは目を輝かせて地を蹴り、その上にひらりと飛び移った。 「おお美味そうじゃ! あやつめ上手くやりおって見事にトマト尽くしじゃの。さーて一体どれから手を付けるべきか……」 眼下に広がる壮観なコースメニューに、涎を垂らさんばかりの顔と化したネモは、躊躇いなく手を伸ばしていく。 「よし、決めたぞ。まずはこの甘そうなアイスから――あうっ」 その時。突如伸びる何者かの手が、猫の子にそうするようにネモの首根っこをむんずと掴んだ。怪力で引き寄せられる弾みで呻くと、硝子玉のような女の瞳と目が合う。冷ややかに見下ろしてくる顔には見覚えがある。先程廊下で見掛けた、あのメイドだ。 「侵入者を発見……」 ぽそりとした呟きを合図に、棚の後ろから、冷蔵庫の影から、ぞろぞろと背格好の似たメイド達が姿を現わし始める。 「それはお客様への大事なお料理……あなた、つまみ食いをしたわね……」 「したわね……」 「許さないわ……」 「ま、待て! 見ていたならわからんのか、わしはまだつまみ食いどころか一口も……、いたっ! おいっ人の話を」 「「「地下牢に」」」 バタ付かせた足を鷲掴みにされ、足掻く腕を羽交い締めにされ、余りにも呼吸の合った女達相手では流石のネモも多勢に無勢。担ぎ上げられた身体は、城の奥へ強制連行されて行き――「せめて一口だけでも!」と喚く声が、実に哀れに木霊した。 *** 「む」 ジュリエッタは長い睫毛を瞬かせ、手を止めた。その仕草を察したセスも訝かるように首を捻る。 「どうした?」 「いや、今何か聞こえたような気がしての。気のせいかもしれん。しかし実に美味じゃった」 そう、出された料理はどれも絶品だった。ジュリエッタの好みに添うぷちトマトのマリネを始め、彩色豊かな野菜をふんだんに利用した(もちろんトマトがベースとなっている)手作りピッツァ、ナスとベーコンのトマトパスタと、文字通りにトマト尽くし。その全てをぺろりと胃袋に収めたジュリエッタは、ご満悦に唇を拭った。 「それは何より。この城は気に入ったか?」 「勿論」 頃合いを見計らったようにメイドが食後酒を運んでくる。セスは注がれる赤ワインをグラスに受けながら笑みを零し、燭台の炎に照らすように掲げて乾杯のポーズを取る。 「ならば俺の花嫁になれ、ジュリエッタ」 「えっ」 仰天のあまり妙な声が出た。セスはのんびりと寛ぐままに酒を呷る。 「聞こえなかったというなら繰り返そうか」 「ほほほ本気で言っているのか。そなたとわたくしはまだ知り合ったばかりなのじゃぞ。なのに」 「君は美しい」 しどろもどろになるジュリエッタに、セスが追い打ちを掛ける。首を伸ばして迫り、逃げる仕草を押し止めるように細い手首を掴んだ。力に任せて引き寄せ、白い手の甲に口付ける。途端に頬を染める少女の顔を真っ直ぐに仰ぎ、真摯に続ける。 「一目惚れしたのだ。嘘じゃない」 「で、でも」 「返事が聞きたい」 聞く耳を持たぬ男に冷や汗が流れる。一体どうすればいいのか。動揺の最中に必死に考えを巡らせ、 「一晩、待ってはくれぬかの……、少し考えたい」 セスの瞳が色を無くし、無言でジュリエッタを見つめる。二人きりの空間はシン、と静まり返り――やがて、男の溜息一つで指が離れた。 「いいだろう。では明日の朝に」 そのままガタリと腰を上げ、マントを翻して歩き始める。付き従うメイドに何事か語り掛け、残された少女にちらりと視線を遣る。 「今日は早めに休むと良い。この女は好きに使え」 「お部屋に……ご案内致します……ジュリエッタ様……」 *** 「うう、参ったのう。どうしたものか」 咄嗟の判断を利かせたは良いが、所詮時間稼ぎでしかない。ふわふわとした足取りで進むメイドの後に続きながらジュリエッタは人知れず溜息を吐いた。予想の斜め上を行く展開だ。そして、未だ姿を見せないネモを想って不安も募る。 (流石にこのまま朝までジッとしているのは嫌じゃのう。まずネモ殿がおらぬことにはどうしようも……) 逡巡の挙句、少女は覚悟を決めた。 「――そなた、待ってはくれぬか」 声を掛けられたメイドが振り向き、首を傾げる。 「寝に入る前に少し外の空気を吸って来たいのじゃ。その間に部屋に何か甘いものを用意しておいてはくれぬかの?」 精巧な人形を思わせる女がまたかくりと逆側に首を倒す。が、恭しく頭を垂れて一礼をした。 「わかりました……では、そのように。お帰りをお待ちしております……」 「期待しておるぞ!」 と、意気揚々と叫んだジュリエッタは踵を返して歩き始め――固まったように動かない女の姿が見えなくなると、いきなり猛ダッシュを始めた。 「っああもう、いったいどこで油を売っておるのじゃネモ殿!」 ほの暗い回廊を当てもなく駆け巡る最中に、息は切れ、足取りは乱れる。恨み言まで飛び出す始末だ。 「そろそろわたくし一人では限界じゃぞ……!」 だが、いくら走り回ったところで小柄な人影は見当たらない。遂に両脚に限界を覚え、少女は縺れるように立ち止まった。冷たい石の壁に手を付き、荒れる呼吸を整えに胸を喘がせる。――それが、完全に隙となる。 「! ぅッ、」 ドッ、と後頭部を打ついきなりの重い衝撃。何と感じる間も無く視界がブラックアウトし、身体が崩れ落ちて行く。 薄れ行く意識の中に、ジュリエッタは覚えのある男の笑い声を聞いた気がした。 *** 「待ーーーーてーーーー」 「待ちなさーーい」 「逃げたって無駄なのよー……」 「ぬう! おぬしらもしつこい輩じゃの! いくらわしのストライクゾーンが広いとはいえおぬしらのようなおなごは好かぬ!!」 時を同じくして、ネモもまた迷路のように入り組んだ城中を駆け回っていた。中庭を過ぎ、螺旋階段をぐるぐると上る――肩を怒らせたメイドのおまけ付きで。地下牢に放り込まれた後、頃合いを見計らって脱獄したは良いが、流石に大成功までとは行かなかった。始めこそ皿を投げ、食材を投げをしていたメイド達は、今や発達した犬歯を剥き出しにして追って来る。その爛々と光る赤目を振り返り、 「おおぅ恐ろしい、可愛げが全く無いのう、ってなんじゃここは。……ややっ! おぬし、そこで何をしておる!」 目を丸くした。特にどこを走っている自覚も無かったのだが、気付けば――尖塔の頂に辿り着いたらしい。澄み渡った夜空の下、巨大な満月を背負うように佇む男が顔を上げる。セスだ。その腕は今、ぐったりと虚脱したジュリエッタの身を抱いている。目があうなり、セスも歪に口端を歪めて笑った。 「それはこちらの台詞だ。おかしな客人だとは思っていたが、しくじったな。男の方に用は無い」 「誰に口を聞いている」 直後、ピンと空気が張り詰めた。それまでおどけていたネモの表情が締まる。 「若造が」 「何だと?」 片眉を上げたセスがネモの顔を凝視し――瞬く。 「……貴様、もしや俺の眷属か。名は何という」 「ネモじゃ。こう見えても齢千歳を超す吸血鬼じゃからな、敬えよ」 「ほう、幼い子供の姿を取っているから分からなかったが……」 「それでそやつをどうする気じゃ? 返答によっては相当痛い目を見て貰う事になるがの」 緊迫したムードは依然として解ける兆しを見せない。セスは含み笑いをし、少女の頬を悪戯になぞる。 「決まっているだろう、俺の800人目の花嫁にするのだ。今までとは異なるタイプの女だからな、気に入った」 「……!」 ネモの表情がますます険しさを増す。ぐうっと奥歯を噛んで強烈な睥睨を向け――突如、纏うマントを大きく踊らせた。 「馬鹿を言うでない! そやつはわしの後妻候補、否、ジュリエッタじゃ! 返せ!」 黒いマントの内側から勢い良く飛び出す蝙蝠達が突っ込む。だが、セスはひらりとそれを躱し、やがて盾のように立ちはだかるメイド達が猛攻を受け止める。 「ッハハハ! なんだ貴様も惚れているのか。では訊くが、いったい何人目の花嫁だ?」 「っええい、おぬしもいい加減目を覚まさぬか! ジュリエッタ!!」 飛び掛かってくるメイドの大群を避け、蹴りを喰らわせながらネモが叱咤する。と、囚われの少女の頭がぴくりと動いた。 「ぅ……」 呻くジュリエッタにセスが舌打ち、鋭利な牙を剥いてネモに肉薄する。 「邪魔はさせぬぞ!」 だが、衝突まで僅かと迫ったその瞬間――ジュリエッタがぱちりと目を開き、起き抜けとは思えぬ強烈な一撃をセスの顎下に叩き込んだ。ぐらりとバランスを崩す吸血鬼の腕中から、転げるように逃れる。 「ぐぁっ!」 「っ最悪の夢見じゃった! 乙女の寝こみを襲うとは不届き千万!」 「おお! ナイスパンチじゃぞおぬし! その分だと怪我も無いの!」 「もちろんじゃ!」 休む間も無く、愛用の得物を引き抜いてメイドに叩き付ける。ネモも次々と召還する蝙蝠を用いる。悲鳴を上げるメイド達は徐々に崩れて動かなくなり――気付けば、もう夜明けも近い。着々と白ばみ行く空下で腰を上げたセスは息を切らし、それでもおどけるようにジュリエッタに問い掛ける。 「……ップロポーズの返事は?」 直後、二人揃って跳躍をかます。 「「断る!!」」 振り下ろす小脇差と、煌めく牙がセスの身体へ同時にめり込む。反撃に出ようと爪を振り上げるが、既に遅い。 「――ァ゛、」 倒れ行くセスの視界に、雲の狭間から覗く太陽が映り込み、 「ギャァアアアアアア!!!」 強烈な叫びと共に陽光に焼かれた吸血鬼はそのまま――無残な灰と化して、宙に舞った。 *** 「……なぜネモ殿まで『お断り』したのじゃ。訊かれたのはわたくしじゃろう」 「い、いや。場の流れでこう、なんとなくのう」 さらさらと風に流される、吸血鬼であった者の残骸を眺めながらちろりと横目を流す。言葉を濁すネモは、眩い程の日差しを浴びてもピンピンしている。少女は物言いたげに目を細めたが、けれどすぐにネモに向き直り、にっこりと微笑んだ。 「まあ、良い。――花婿になる殿方はわたくし自身が選ぶぞい」 その美しい微笑みを見て――ネモは顔を背け、密やかに溜息を吐く。 「……少しくらいは気付いてくれても良いと思うんじゃが。つくづく鈍いおなごよのう」 「ん? 今何か言うたかの?」 「いやいや何も!」 ロマンスへの道は長く険しそうだが――何はともあれ、打倒吸血鬼の旅には無事終止符が打たれたのであった。
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