ただ、静かに零れ落ちてゆく。 口唇が、何かを辿るように動いた。 伸ばした手のひらに、温もりが触れる。 ぴちゃり。 足下で紅と黒の影が蠢いていた。 ――裏切り者。 その声が、今も響いている。 * * * はっと目を見開く。 気がついた時、彼は既に其処に居た。 急に放られた身体は、その意思とは関係無しに前のめりに傾く。 どんと腕に強い衝撃があった。 強い口調で何かを云われ、一二千志は振り向いた。 迷惑そうに眉を顰め、スーツ姿の女が足早に去ってゆく。 呆然とその後姿を見遣る千志の肩に、続け様に誰かの肩がぶつかった。 「 」 「 」 顔を顰めるスーツの男、睨みつける若い男。 千志は緩く首を振るい、彼らの背を呆然と見詰める。 また、誰かが後ろからぶつかってきた。 「 」 俄かにこみ上げる奇妙な感覚と共に、千志は周囲を見回した。 信号、交差点、行き交う人々。 次々瞳に飛び込んでくる街並みは、それまで彼が居た場所と大して変わりなかった。 けれど彼には、此処が何処なのかが解らない。 また、誰かがぶつかってきた。 また、誰かが何かをいった。 瞬くことを忘れた眸が、人を、人を、人を。 何かを確かめるように、次々辿りゆく。 彼らは皆一様に、頭上に何かの数字を掲げていた。 「……何だ?」 声が上手く聞き取れない。 否――彼らが何を喋っているのかが、千志には解らなかった。 押し流され、半ば放られるように路端へ身を寄せる。こつりと靴先にぶつかったプランターには、見も知らぬ淡白の花が咲いていた。 「何なんだ……此処は」 抱いた違和感が胸の中で急速に広がってゆく。 似て非なる場所。同じような形で街は居座り、同じような姿で人々は行き交い、同じような音を響かせ車は駆けてゆく。 けれど違う、ここには何もない。 千志の知るもの――あの世界に満ちていたはずの、差別、嘲笑、争いと贖罪さえ許されぬ日々。 殺伐とした、あの独特の空気が。 「違う、此処じゃない」 呟き、千志は首を左右へ振った。 そんな筈はない。 そんな馬鹿なことがあるはずがない。 ふと顔を上げた千志は飾窓に映った自分の顔を見遣り、力任せに殴りつけた。 ――異端。 その二文字が脳裏に浮かぶ。彼の頭上には何の数字も浮かんでは居なかった。 小刻みに震える指先に視線を遣れば、鮮烈な紅が灯る。 手のひらに残るあの感触だけは、決して消えはしない。 力莫く腕を垂らし、千志は影を引き摺るように歩き出した。 じっとしている事ができなかった。 歩くしかなかった。 只管に彷徨い歩けば、いつかどこかに辿り着くかもしれない。自身の知る何かに、自身を知る誰かに会えるかもしれない。 暫くの間鉛でも履いたかのような重い足取りで歩き続けていた彼は、けれどやがてぴたりと動くことを已めた。 ぼんやりと空を見上げ、緩く瞳を瞬く。 「似てる」 似ているだけで、決して同じではない。 力を持つが故に、人でなく。 仲間を狩るが故に、友でなく。 それと同じように――ここでも、また。 親友の口唇が、あの言葉を辿る。 批難と罵倒。 憎悪と侮蔑。 ただ、救いたかった。 もう誰も傷つかぬよう、苦しまぬよう。謂れ莫き理由で見放され、見殺しにされることのないように。 仲間たちを救うために戦った――その筈だったのに。 視線を落とした彼の肩に、ぽんと誰かの手が乗せられた。 「大丈夫か?」 刹那、時が止まったかのように千志は呼吸を止めた。 「あれ、聴こえてないの? おーい、大丈夫かー?」 無遠慮に顔を覗き込まれ、千志はその顔をまじと見詰め返す。 ほんの一瞬だけ、親友の顔が過った。 「あれ? 俺の言葉通じてるよな?」 「え? ……あ、あぁ」 千志ははっとして頷き返す。今まで誰の言葉も解らなかったというのに、この男の言葉だけは確りと理解できた。 「あんたは、……その」 同じくらいの年齢だろうか――明るい橙色の髪に落ち着いた代赭の双眸。けれどその顔に見覚えはなく、一瞬過った親友の影も直ぐに掻き消える。 何より、その頭上には自身と同じように何の数字も見えはしなかった。 彼は口篭る千志の顔を不思議そうにじと見詰め、不意に口を開いた。 「あんたパスホルダーは?」 「……何の?」 「えっと……こういうの知らないか?」 男がポケットから取り出した物を見て、千志は緩く首を振るう。 何らかの身分証明のようだが、それが何なのかはわからない。 「んー……そっか。あ、てか腹減らねえ?」 「え?」 唐突にそんな事を云われて呆然とする千志に、男は人懐っこい笑みを浮かべて腕を引く。 「この近くに美味い店があるんだ、一緒にいこうぜ」 「待ってくれ、俺は……」 「大丈夫だって、別に怪しい勧誘とかじゃないからさ。付き合ってくれよ、な?」 「でも……」 強引に腕を引き歩き出した彼は、振り返ることなく千志に云った。 「あんた困ってるだろ? 俺放っとけないんだ、そういうの」 「やっぱりおまえ、何か……何か知ってるのか? 此処は何なんだ? どうして俺の言葉が解る?」 逆に腕を掴み引き止めた千志に、男はただ優しく微笑んだ。 「うん、まぁ……ここで話すのも難だしさ、もうちょっと落ち着けるとこ行こうぜ、な?」 諭すように云われ、千志はただ頷くことしかできなかった。 「到着ー。な、結構良い店だろ?」 「……定休日って」 レストランの扉に掛かった札を見遣る千志に、彼はにっこり笑って手招いた。 「あー、大丈夫。ほらほら、いらっしゃいませー」 店の垣を超え勝手口を開いた彼が、恭しく一礼して見せる。 「もしかして此処……あんたの店か?」 「いや、俺の実家なんだ。今日は両親揃ってどっか出掛けてる」 背を押し店内へ入った男は、そのまま千志を席に座らせ厨房へ入った。 「そういえば自己紹介してなかったよな。俺は音成梓、あんたは?」 「一二……千志」 「そっか、千志くん何食べたい? といっても有り合わせになるけど」 「あんたが作るのか?」 「ふふん、ちゃーんと修行済みだぜ!」 ちゃきんとフライパンを翳して見せる梓に、千志は思わず目を瞬いた。 「んで、何がいい?」 「え? いや、その……何でもいい」 「そう? じゃあ本当に有り合わせな」 幾つかの材料を手にし、梓が真剣な表情で調理台に向かう。 テンポ良く材料を刻む音、何かを丹念に溶く音、焜炉に火を点す音、熱に晒されじわじわと弾ける音。 ――こんな風に誰かに世話を焼かれるなんて、いつ以来のことだろう。 そんな事を思いながら、千志はただぼんやりとその音色に聞き入っていた。 「お待たせ致しました」 声と共、目の前に温かな料理が並ぶ。 ウェイターらしく振舞って見せた梓が、トレーをおいて隣席へ腰掛けた。 「ほら、冷めないうちにどーぞ」 「あ、あぁ……」 ぎこちなく頷く千志に笑って、梓はテーブルに頬杖を着く。 「今日はちょうど別の依頼でこっちに来てたんだ。タイミングよく会えて良かったよ」 「依頼?」 「うん。俺たちみたいのは皆、世界図書館ってとこから依頼を受けるんだ」 世界図書館、と千志は繰り返し呟いた。 「あ、そういや何で言葉がわかるかって質問だけど」 梓はもう一度パスホルダーを取り出すと、テーブルの上に置く。 「この中にトラベラーズノートってのが入っててさ、その近くにいるロストナンバーは意思の疎通が可能になるんだよね」 「……ロストナンバーって?」 「あー、ごめんごめん。そっちから説明しないとな。うーん……人間ってさ、どうなったら死ぬと思う?」 その問いかけに、千志はふっと視線を落とした。 「……刃で貫かれたら」 「うん、まぁそれも確かに死ぬってことだけどさ」 この世の<真理>を悟り覚醒した者、ロストナンバー。 彼らは覚醒すると同時に生まれた世界から放逐され、異世界へと放り込まれる――その瞬間から彼らの命のカウントダウンは始まっているのだ。 「俺ら以外の人の頭上にさ、数字が見えるだろ?」 人々の頭上に浮かぶのは、其々が帰属する世界の階層を表す<真理数>。その存在に対する世界からの保証であり、証明だ。 「つまり俺たちは、どの世界とも繋がりがない。<真理数>を持たない俺たちの存在を、誰も保証してくれない」 自身の世界へと戻る術を見失った彼らの存在を支えるものは『人々の記憶』に他ならない。 記憶とは即ち薄れ消えゆくもののことだ。 その不確かなものに支えられ生きるロストナンバーたちは、遅かれ早かれ確実に消失する定めなのだという。 「つまり俺たちは、誰からも忘れ去られた時に死ぬんだ」 その『消失の運命』から逃れるためには、存在を証明してくれるものが必要だ。 それが世界図書館――彼らに協力を約束する事で『パスホルダー』を手にし、ロストナンバーたちは消失の運命から逃れるという。 「依頼を受けて、色んな世界を旅するんだ。そうすればいつか元居た世界をみつけたり、帰属したくなるような新しい世界を見つけることだってできる。……どう? 大体解ってきた?」 ふと話を止め此方を見遣った梓に、千志は緩く首を振った。 自分たちは<真理>へと至り、世界から放り出された異質な存在。 ――けれど、そんな。 千志の頬が引き攣り、口唇が微かに震えた。 「まさか」 痛くて、辛くて、苦しくて。 もうどうしようもないほどに、哀しかった。 けれど、棄てたかったわけじゃない。 逃げたかったわけじゃない。 ただ、変えられなかった。 一生変えられないと思っていた。 けれど魂に刻まれた<真理>が――それを識る心が、自身が途方もなく遠い場所へと放り出された事を告げている。 「俺は……俺はいったい、どうすれば……」 彼の云うように、旅をして探すのか? それには一体どれだけの時間が掛かるというのだろう。 考えれば考えるほど、頭の中は漂白されたように真白になってゆく。 頭を抱える千志に、梓は静かに告げた。 「焦らなくていいんだよ」 「っ……でも俺は、早く戻らなければいけないんだ!」 犠牲にしてきた同胞たちの顔が、千志の眸にまざと浮かぶ。 こんなところで立ち止まっている訳にはいかない。 「……でも、再帰属っていってもそんなに簡単な事じゃないし、こればっかりは焦ってどうにかなるものじゃないんだ」 選んだ世界へ帰属するには困難が付き纏う。 その世界の運命と深く関わるか、その世界の人との深い絆を結ばねばならない。 ――絆。 千志の脳裏に親友の顔が浮かぶ。 絆は断たれた。 自らの手で、断ち切ってしまった。 父も、母も、疾うに莫い。 もしも――もしも二度と戻れないのだとしたら、自分はどう生きればいいのだろう。 云い知れぬ不安が千志の胸の中で渦を巻いていた。 「……そう、か」 そう云ったきり口を噤み俯く千志に、梓は足元でぷにぷにしていた真っ黒なまるい生き物を抱き上げ、ぽむと目の前に置く。 「……はい!」 「え?」 見たこともないその生物に、千志は一瞬目を丸くした。 「俺のセクタン、レガートっていうんだ」 そういって梓が笑う。 今までこんな風に笑う者に出会った事があっただろうか。 誰もが憂い、或いは憎悪を孕み、何処か暗い影を負っていた。 皆自分のことで手一杯で、誰かに優しくする余裕なんてなかった。自分だってきっと、本当に優しくなんて誰にもできてはいなかっただろう――そんな自分に、見ず知らずの彼が笑顔を向け、精一杯に気を使ってくれている。 「まぁ触ってみてよ、これがすっごいぷにぷになんだ」 笑いながら梓がレガートをぷにる。千志は戸惑いながら、じっと見詰めてくるレガートの頭へ手を伸ばした。 「音符みたいで可愛いだろ?」 「……本当だ」 ふっと吐息を零すよう微笑んだ彼に、梓はどこか安堵したように瞳を細める。 ――あぁ、そういえばあいつともこんな風に話をしたんだった。 不意に、そんな事を思う。 自分を元気付けようとしているのであろう梓の姿に、嘗ての親友の姿が重なる。 その事に気が付いた瞬間、千志の表情が固まった。 罪悪感からか、引き潮の如く笑顔が引いてゆく。 そんな千志を見て、梓の表情もまた切なげな色を帯びた。 そろりと手をひいた千志に、レガートが少し不安そうな顔で梓を見上げる。 梓は思い切りレガートをぷにぷにしてやると、ふと何か思い立ったように手のひらを打った。 「そうだ! 千志くん、音楽は好き? 俺さ、こう見えて歌とかヴァイオリンとか得意なんだぜ」 ちょっと待っていて、そういって梓は店裏へ引っ込んだ。 ぼんやりとその姿を見送り、千志はレガートへ視線を移す。 レガートは彼の目の前にちょこんと座ったまま、懸命に手をぱたぱたして元気付けようとしている。 「……ごめんな」 指先でその頬を突いてやると、レガートはなんだか擽ったそうにしていた。 店の奥でがたんと大きな物音がした。少し遅れて梓が顔を出す。 「お待たせ! はい、レガートも一緒にな!」 そういって屈託莫く笑った梓は、小さなカスタネットをレガートの隣に置いた。自身もケースから取り出したヴァイオリンを手に構える。 その姿をぼんやりと見詰めていた千志に、梓はふと無垢で温かな笑顔を向けた。 レガートも梓の奏でる音色にあわせ、たんとんカスタネットを叩き始める。 次々と零れる温かな音色に、千志の鼓膜が優しく揺すられた。 優美な音色に満たさた場所で、千志は静かに瞼を伏した。 「……おまえ、変なやつだな」 いつの間にかまた、千志の心が緩んだ。 ふっと相好を崩した彼に、梓はただ嬉しそうな笑みを零して弓をひく。 ――焦らなくていい。 千志はもう一度、彼の言葉を心の中で繰り返した。
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