シオン・ユングがターミナルから姿を消した。 アルバトロス館の彼の自室には、禍々しい黒い羽根が散っており、事情を知るものには、いったい何が起こったのかを彷彿とさせた。人目を避けるようにロストレイルに乗り込んだ、黒髪に黒い翼の少年を見たものもいるという。「あぁ、オレがフライジング行きのチケットを発行した。むめっちには頼みにくかったんだろ。こんなすがたは見せたくねー、つってたから」 図書館ホールで複数のロストナンバーから説明を求められたアドは、尻尾をひと振りした。いつもの会話用看板を使用せず、珍しくも声を発する。「そんで、すぐにラファエルも後を追っかけたみてーだけど、帰ってくる気配もねーし、今、どういうことになってんのかはまったくわからん。むめっちの『導きの書』にはなんか浮かんでるはずなんだけどな」 無名の司書は、司書室に閉じこもり、ずっと泣きじゃくっているらしい。 モリーオ・ノルドが心配して様子を見にいってるのだと、ぶっきらぼうに、しかし気遣わしげに、アドは司書棟の方向を伺う。 ……と。 モリーオに支えられて、無名の司書が現れた。サングラスを取り去った目は泣き腫らして真っ赤だが、足取りはしっかりしている。「すみません、皆さん。みっともないところをお見せして……」 青ざめた唇を、司書は噛み締める。「モフトピアに転移したラファエルさんが保護されて、始めてターミナルにいらしたとき……、同時期にシオンくんがヴェネツィアで保護されたとき、あたしの『導きの書』には、ほんの一瞬だけ、ある光景が浮かびました。どことも知れない世界で、黒い孔雀が形成した迷宮に、黒い鷺となったシオンくんが赴き、比翼迷宮を作り上げてしまうこと、そして、助けに向かったラファエルさんが、その迷宮に囚われてしまう未来が」 すなわちそれが、現在の状況であるのだと司書は言う。 その世界がフライジングであり、黒い孔雀と黒い鷺が形成した迷宮の場所は、霊峰ブロッケンであったことが今ならわかる、とも。「あたし……、あたし、彼らには、笑顔でいてほしいと思って、だから『クリスタル・パレス』の運営を勧めて。いろんなお客さんが来てくださって、とても楽しそうで……。ホントはこんなこと考えちゃいけないんだけど、彼らの故郷なんて永遠に見つからなければいいのにって思ってた。ずっとこのまま、ターミナルにいればいいじゃない、って……」 嗚咽で声をくぐもらせる無名の司書のあとを、モリーオは引き取った。「ラファエルのことはわたしも心配だ。ごく個人的な思い入れではあるけれど、ダレス・ディーに捕らわれ、いのちが危うくなったとき、非常に案じてくれたことを今でも感謝している」 それを前置きとしてモリーオは、晩秋の霊峰に《比翼の迷宮》が出現したこと、その再奥には《迷鳥》となったオディールとシオンがいること、ラファエルが虜囚となってしまったこと、そして── その周囲を取り囲むように、新たに複数の迷宮が発生したことを告げる。 それらの迷宮群を消さなければ、《比翼の迷宮》には辿り着けないことも。 * *「お呼び立ていたしまして申し訳ありません。お久しぶりです、ヴォラース伯爵閣下」「どうぞ、昔のようにアンリと。落ち着いておられて安堵いたしました。シルフィーラ妃殿下」「妃殿下などという立場では……。アンリさまこそ、呼び捨ててくださいまし。非常事態でもあることですし」「うむ、いずれ皇妃にと考えてはいるが、未だこの娘は、真の親離れも弟離れも出来ておらぬゆえ」「恐れ入ります」 メディオラーヌムの、シルフィーラに与えられた館の応接室である。 霊峰ブロッケンに起こった異変。オディールとシオンによる《比翼の迷宮》と、それを取り囲む複数の迷宮の対応について、シルフィーラは、ヴォラース伯に連絡し協力をあおぐべきだと皇帝に進言したのだ。 時間が経てば経つほどに迷宮は広がり、じわじわと大陸を浸食する。トリとヒトがいがみ合っている場合ではない。 そして何より、シルフィーラにもヴォラース伯にも、支援者の心当たりがある。 異世界の、旅人たちだ。 「ずっと思っていたのです。なぜ、わたしとシオンだけが特異な《迷鳥》だったのだろうと」 焼け焦げた本を、シルフィーラは広げる。 それは、黒い孔雀が飛び去り、崩壊した地下図書館跡から発見したものだった。《始祖鳥》にまつわる神話や《迷鳥》に関する旧い伝承が記されたその本からは、僅かではあるが、うっすらと文字が読み取れる。《迷宮》を作らぬ《迷鳥》は、この……して…… ひとつ、《迷卵》の状態で保護……こと。 ひとつ、あたたかな慈しみを持……養育され…… ひとつ、翼を切り落と……、あるいは…… ひとつ、孵化した雛を卵に戻…… それには、この地の《理》を超越した……《真理》に目覚めた旅人の……」「もしや」 食い入るように読み込んでいたアンリが、顔を上げる。「本来であれば、保護者なきまま孵化した雛は《迷宮》を作ってしまう。収束するには討伐しかなく、実際に《旅人》の力を借り、それを行って来た。しかし《旅人》の力は、《迷鳥》を卵に戻すことが可能かもしれないほどのものだと?」「はい」「そして、養親に恵まれ、愛情を持って育成されれば、穏当に生きることができると?」「二百年前にそういった事例があったと、この本に記述されています。ですので」「……お願いしましょう。旅のかたがたに。《迷鳥》の救済を」「それがかなうのであれば」 皇帝は大きく頷く。「卵に戻った《迷鳥》は、いわば天災に見舞われた孤児のようなもの。後宮で保護するとしようぞ。雛鳥を養育するにふさわしいものはいくらもいようから、養親候補には事欠かぬ」 皇太子も、強い決意をしめす。瞳いっぱいに涙をためて。「ぼく……、ぼくも、育てたい。大事に育てて、家族になって、いつか巣立ちのときが来たら、ちゃんと見送って」「さて、それは首尾よく卵を保護できてからのことになろう。養親には責任が発生するゆえに」 * 何故、何故、何故――。 戦う理由。愛する理由。哀しい理由。死ぬ理由。ここにいたい理由。旅立つ理由。手放さない理由。許せない理由。 何故、何故、何故――。(価値などない。消えてしまいたい。誰になんと言われようと。自分はうつろだ。もうなにもない。何故ならば……)(自分は悪くない。誰も理解しないだけだ。それとこれとは違う。自分だけは正しい。だから何もしない。何故ならば……)(わかってほしい。察してほしい。何も言わなくても、肯定してほしい。伝わらなかったとしたら、あいつが悪い。何故ならば……) 反響する無数の声。 それは空気を伝わる音ではない。心に直接響く声。 波紋のように、あぶくのように。 次から次へと、思索の端切れが投げかけられる。 いつしか、どこからが自分の思いで、どこからが外から与えられたものなのか、その区別がつかなくなってゆく。 そして、思索は螺旋を描き、深く、深く、沈んでゆき…… 何故、何故、何故――。 ぼう、と火が灯った。 炎に包まれて、黒焦げの死骸が崩れる。そこかしこで、火が燃えていた。 さながらそれは神曲が描く地獄のようだ。 その中心で、灰褐色の翼を持つものがひとり、終わることのない思索に耽っていた。 *「そういうわけで、きみたちにも霊峰ブロッケンに出現した『迷宮』のひとつを攻略してもらいたい。ここの《迷鳥》は夜鷹。その属性は『思索』だ」 モリーオが、ロストナンバーたちの1チームを集めて言った。 迷宮の内部は、うすぐらい沼地のようだ。空気には靄がかかり、立ち並ぶのは枯れ木ばかり。 障害物はないので進むことそれ自体には苦労しない。また、迷宮に見られる怪物のような存在も、ここにはいないようだ。実に荒涼とした空間である。 その中心に、崩れた廃墟のような場所があり、《迷鳥》はそこで、じっと思索に耽っているという。「思索?」「そう。決して答えの出ない問いを、ただ繰り返しているんだ」 《迷鳥》に近づくにつれ、その思索が伝染したかのように、心の中にさまざまな問いが浮かび上がってくる。それはかねてから自分の中にあった迷いや悩みであるようだ。「しかし、そうした問いが浮かび上がってきても、心から閉め出してほしい。いいかい、そのことを『考え込んで』はいけないよ」 モリーオはそう注意した。 この思索へのいざないこそ、この迷宮の罠だからだ。 思索は体内で熱をもち、やがて発火する。つまり、この迷宮内で思索にとらわれたものは、それが炎として具現化したものにその身を焼かれることになるのだ。「《迷鳥》もまた思索に耽っているが、《迷鳥》自身はそれが力の源になっている。《迷鳥》に思索をやめさせることができれば弱体化させられるし、その結果、『卵に戻す』ことも可能だろう。……ただし、気をつけて。思索をやめさせる方法を『考え』てはいけないよ」 ではどうすれば?と戸惑うロストナンバーに対して、モリーオは言うのだった。「殴ればいいんじゃないかな。なんにも考えないで」===========!お願い!オリジナルワールドシナリオ群『晩秋の迷宮』は、同じ時系列の出来事となります。同一のキャラクターでの、複数のシナリオへのエントリーはご遠慮下さい。抽選後のご参加については、重複しなければ問題ありません。===========
1 かんがえなーい、かんがえなーい、ふーふふー♪ ぼくはロアン、きみはロアン、ぼくもロアン、きみもロアン、ふふふー♪ これはロアン、それはロアン、あれもろあん、どれもロアン、ふーふーふー♪ ロアンのうたう歌が、靄のたなびく空間にうつろに響く。 そこは《迷宮》の中であるが、不思議にも空がある。といっても、鉛色に閉ざされた曇天だ。その下を、4人の旅人は足早に進んでいく。 《迷宮》と言っても、ここには迷うような路はない。ならばすみやかに目的を達するが吉というもの。一見、寂しい湿地帯のように見えて、この《迷宮》は長くとどまればとどまるほど危険な場所のだ。 かんがえなーい、かんがえなーい、ふーふふー♪ ロアンがうたいながら、ふわふわふらふらと、風もないのに漂うように進む。それに追いつき追い越せで大股に進むのがルン。そして、ハルカ・ロータスと古城 蒔也が続く。 ハルカは前をゆくルンの手元を見遣る。 そこには包帯が巻かれていた。彼女が出発前、自分で傷つけたのだ。 (痛いで考える、難しい。血の匂い、気付く相手じゃない。だから?) 痛みによって自身が思索にとられることを防ぐのだという。大した覚悟だ、と思った。 それだけでなくルンは、 (足を止める、棒立ちになる。殴り倒す。蒔也、蒔也、賭けしよう!殴られる回数、殴る回数! 1番殴られなくて、殴った奴が勝ち) そんなことを言っていたのだ。 (は? なんだそりゃ) 蒔也が怪訝に応じると、 (お前、1番強そう。賭けは、強い奴とする) と言っていた。 立ち止まったら殴りに来る、というルンの宣言は、要は仲間が脱落せぬようにということだろう。 蒔也に話しかける一方で、ハルカにも意味ありげな視線を投げ、気にかけられているのがわかった。 あとでわかったが、ルンは出発前、司書に頼んでふたりの過去の報告書を読み聞かせてもらってきたらしい。つまり迷鳥の力に囚われそうだから注意されているのだとわかって、ハルカはいささかの苦笑を禁じえないが、心中でそっと感謝もする。 この《迷宮》は静かだが、思いのほか厄介な場所であることはハルカにもわかっていたことだからだ。 彼は表情を引き締めた。 (考えずに戦うことを、俺はずっとやってきたから) だから参加した。 問題ないはずだ。目の前の敵にだけ集中する。 かんがえなーい、かんがえなーい、ふーふふー♪ ロアンがうたう。 考えない、ということを考え続ける――それは解法足りうるだろうか。 (考えちゃ、だめなんだね。それは困ったなぁ、ふふふ) 出発前、司書から事の次第を聞いたロアンはそう言って笑った。 (なんせ、ロアンはいつもなにかを考えてるからね。ぼくは何も考えてなくても、ロアンは考えてるんだ。ロアンは残留思念の集まりだから、ねぇ?) ロアンのとった対策は、まず自分の一部を《迷宮》の外に置いてくること。 そして中にいるロアンは、考えないよううたい続けるということだ。 やがて、かれらの眼前に、廃墟の輪郭が茫洋と姿をあらわす。 この奥に目指す存在、この《迷宮》のあるじがいるのだろう。 《迷宮》は迷鳥の本質を映す世界だ。夜鷹の姿をもつというこの《迷宮》のあるじの心は、この、沼地に建つ廃墟などという、空虚で寂寞としたものなのだろうか。 「迷鳥ー!来たぞ、殴り合いするぞー!」 ルンが大声で叫んだ。 いらえはないが、気にしない。 「挨拶。聞こえなくても、良し」 そしてさっさと入って行ってしまった。 「よし、行こう」 ハルカが続く。ロアンもだ。 蒔也もまた、一歩を踏み出す。 考えてはいけない《迷宮》、か――。 (何も考えずに殴ればいいっていうなら楽勝だ) ポケットに手をつっこむ。用意してきた大量の、ちいさなビー玉の硬くて冷たい感触。ぐっと握りこめば、かちりと音を立てた。 ……何故…… そのときだ。 ひたひたと、波のようにそれは押し寄せてくる。 かんがえなーい、かんがえなーい、ふーふふー♪ 単調な、詠唱のようでもあるロアンのうた。 ひとけのない廃墟の中を歩む。 何故だ。 自身も意識しないうちに。 何故、何故、何故―― 罠は忍び寄っている。 (……何故って、それは――) ぼっ――!と、火が灯った! 2 (戦うのはロアンだから。逃げるのはロアンだから。愛するのはロアンだから。哀しいのはロアンだから。生きるのはロアンだから。死ぬのはロアンだから。ここにいたいのはロアンだから。旅立つのはロアンだから。手放さないのはロアンだから。許せないのはロアンだから) ロアンが燃えていた。 「あ!」 ルンが振り返った。 やられるなら蒔也かハルカだと思っていたから意外だった。 だがロアン自身が言っていたように、その存在そのものが思念でできているなら、これは炉に薪をくべるようなものだ。 迷鳥に近づけば、思索を誘う波動のようなものに影響を受ける、と司書は言った。 思念の権化であるロアンはひときわよく燃えた。 しかし、その一方で、ロアンには限りがない。 燃え尽きる傍から新たなロアンがあらわれる。 ふふふ。ふふふふふ。 燃えながら、うたいながら。 その火が煌々と廃墟を照らし出した。 ロアンの火が、ハルカの瞳に映り込む。 仲間が燃えている――……なら、助けるべきか。いや。 ハルカはすばやく判断した。あらゆる状況を瞬時に判断しなくては、戦場では命がない。この戦場では特にそうだ。 ……そう思っただけで、ハルカの中に火がともった。 (無だ) 想念を振り払う。 心を殺せ。いつものように。 ハルカは構わず一歩を踏み出す。 がしっ!と受け止めたのは、ルンの拳だ。 「起きたか?」 「起きてるよ。ありがとう」 俺はだいじょうぶ。そう応えただけで、その思考が火となってハルカを包むが、次の瞬間、それをふり払って走りだしている。この苛烈な反応は、迷鳥がごく近いことを意味している。 かつてのハルカは、何の感情も抱かずに、幾人もの敵兵士を屠った。 命乞いをするものもいた。瞬間、精神感応が同調してしまって、相手の家族や友人の記憶を読んでしまい、それでもなおとどめを刺さなければならないこともあった。 そうしているうちにハルカの心は凍りついていた。 そして、今。 無心に進むハルカは、あのときと同じようでまるで違った。 いや、もともと同じではなかったのだろう。 心を殺したつもりでいて、殺し切れてはいなかった。 あの頃のハルカは、この《迷宮》で焼かれて死んでいくものと同じだ。 目をそむけたつもりで、棄て切れなかった自分の中の心に焼かれ、傷ついていただけなのだ。 考えない、考えない、考えない――ロアンのとった策は、成功か失敗かでいえば失敗だ。ロアンだから、生き残ることはできたが、そうでなければすでに焼き尽くされていただろう。 人は考えないでいることなどできはしない。 できるのは、考えるより先に動くことだけ……! 「うおおおおおおお!」 蒔也は咆えた。 (父が自分に願った幸福の意味は結局なんだったのか) 廃墟を進むうち、唐突に浮かんだのは、そんな問いだった。 (俺は――) 考えてはダメだ。 てのひらの中に、ガラスの玉を握りこむ。 (親父がなにを望んでいたのか、知っても俺は) すべてを吹き飛ばしてやりたいという衝動がわきおこる。 これはなんだ。この感情は。 胸の奥が熱くなる。 それはまたたく間に温度を上昇させていく。発火点へと急速に。 罪悪感か? それとも? 「……ッ!」 蒔也はビー玉をバラまいた。 廃墟の空間の無数のガラスがちばらり、転がってゆく。 「ぶっ壊れろ!」 そして、爆散! 熱風が頬をなでると、まったく違うものがやってくる。 思考よりも速く、脊髄を駆け上るものは何だ? それは思考ではなく感情だ。 昂ぶるのは破壊衝動――すべてを吹き飛ばしたいという、抑えようのない欲望が、考えよりも先に蒔也を突き動かす。 崩れた廃墟の壁を越え、蒔也は走った。 トラベルギアのマシンガンを構えた。ダダダダ!と景気のよい銃声がこだまする。 「どりゃああああ!」 気合の声。 意味などない。意味などあってはいけない。 それがこの《迷宮》の攻略法だ。 頭を過ぎることどもをすべて振り切り、それさえも蜂の巣にする勢いで蒔也は走った。 3 それは、鷹揚に顔をあげた。 さながらそれは頭を鳥にすげかえた、『考える人』であった。 漆黒の瞳が、おのれの領域に侵入者がいることを察する。 その表情から感情はうかがえないが、果たして怒っていたのだろうか。 その終わりなき思索を妨げるものたちの到来を。 ずがん!と音を立てて、壁が崩れた。 もうもうと土煙がたちこめる。その向こうからいくつかの影が近づいてくる。 夜鷹の眼は、それが今にも燃え出すのを待ったが、炎は吹き上がらなかった。 「!」 迷鳥に、もっとも速く到達したのはルンだった。 空を切る、一の矢、そして間髪入れず二の矢を放つ。 夜鷹は灰色の翼を広げ、むしろ滑空した。 だがルンは怯むことなく、迎え撃つ。真っ向勝負だ。 「殴るから、卵になれ。お前の疑問、解決する!」 振るわれる拳、そして続く鞭のような鋭い蹴りとが炸裂する。それは夜鷹に予想以上の衝撃を与えたようだ。バランスを崩した身体へ、さらに蹴りを入れた。 たまらず身を翻して飛び上がる迷鳥を、 「ふふふふふ」 うつろな笑い声が取り囲む。 亡霊のようなロアンの姿だ。迷鳥の至近距離で、それはすぐに思索の炎に焼かれるが、すぐさまあらわれる別のロアンがいることによって、かえって迷鳥は炎にまかれたも同然である。 「かんがえなーい、かんがえなーい、ふーふふー♪」 焼かれる前に、ロアンは殴る。殴ったロアンは燃えてしまう。 しかし焼かれる前に、次のロアンは蹴る。蹴ったロアンは燃えてしまう。 しかし焼かれる前に、次のロアンは噛みつく。噛みついたロアンは燃えてしまう。 しかし焼かれる前に、次のロアンはひっかく。ひっかいたロアンは燃えてしまう。 しかし焼かれる前に、次のロアンは組み付く。組み付いたロアンは燃えてしまう。 しかし焼かれる前に、次のロアンはぶつかる。ぶつかったロアンは燃えてしまう。 しかし焼かれる前に、次のロアンは…… 「ロアンだから」「ロアンだから」「ロアンだから」 つぶやきは、あらわれては燃えてゆく。 迷鳥は、堕ちた。 下ではルンが待ち構えていて、渾身の打撃をくれる。 迷鳥のくちばしから、怪鳥の叫びが迸った。 「……っ」 ルンは、強制的に、心のなかに《思索》がねじこまれるのを感じた。 だが、それに巻き込まれるには、ルンはあまりにも……よく言えば朴訥で、悪く言えば単純だった。だから、ほんの一瞬、身を焼く熱によろめいたにとどまる。すぐに考えたことを忘れてしまったので、焼き殺されずに済んだのだ。 ――と、そこへ轟音と爆風とが横薙ぎに襲いかかる。 土煙の中から駆け寄ってくる影。 「っらぁあっ!」 意味を成さない怒号とともに、蒔也は手にしたマシンガンを火器ではなく鈍器としてふるう。 迷鳥はその直撃を受けて後方へ吹き飛ばされた。 それを確かめた蒔也の目が閃く。 「爆ぜろ」 どん!と大きな音を立てて、火柱が迷鳥を包み込んだ。 ビー玉だ。 いつのまにか……廃墟の床の至るところに、蒔也のまいたビー玉が転がっている。これがすべて、彼の意のままに爆裂する地雷も同然。ここは地雷原であり……蒔也の狩場なのだ。 敵がその地雷原に追い込まれたとわかったせつな、そして炎に包まれたとき、蒔也は全身がふるえるような興奮物質が脳内に充満するのを感じる。もはや思考は麻痺しているため、迷鳥の能力に補足される危険はなかった。 獣が咆哮するように、蒔也のマシンガンが唸りを上げて弾幕を吐いた。 迷鳥は炎の尾を引く彗星のように飛んだ。 その後を追うように、蒔也の巻いたビー玉が次々に爆発する。 爆炎から逃げる迷鳥の眼前に、ハルカがあらわれた。 無心の境地でそこに立つハルカはただ静かに、機械のような正確無比な動きでナイフを繰り出した。 そうだ、それはまぎれもなく戦うための機械。 だが心ない機械、というのとは少し違う。 迷鳥は刃を避け、その手を弾いた。しかしかわって打ち込まれる拳を防げない。 ハルカの心には、絶え間なく思索を誘う波動が送り込まれているはずだった。だがその肉体が火に包まれることはない。ハルカの答えは言葉ではなく、その攻撃そのものだからだ。 (考えることは大事だ。だけど、行動に出来なかったら意味がない) それは迷鳥へのメッセージ。 (ここにこもって考え続けたって本当の答えは出ない。だから、俺は、あんたを外に放り出すことにする) ハルカは語りかけるかわりに殴る。 時に肉体は言葉より饒舌に、その意志を伝えることがあるとすれば、まさしく今がそうだ。 ハルカのメッセージは打撃となり、刺突となり、蹴撃となって迷鳥へと降り注ぐ。 すると、不思議なことが起こった。 鳥頭人身の夜鷹である迷鳥のその身体から、ぶすぶすと煙が立ち上り始めたのだ。 やがて、それは真っ赤な火となって吹き上がり、その身を包み込んだ。 4 ハルカは飛びのく。 後方から蒔也がマシンガンの掃射を送る。ルンが弓に矢をつがえた。 「気をつけて、なにかおかしい」 ハルカは言ったが、そうしたことで思念が生じ、半身が発火した。すぐに精神を統一して火を払う。 「かんがえなーい、かんがえなーい」 無数のロアンが、あぶくのようにあらわれて燃える迷鳥を包囲する。 ごう、とロアンが燃え、迷鳥の火もまたあかあかと盛った。 翼が――不死鳥のような燃える翼が、左右へ広がり、はばたけば熱風を巻き起こした。 耳をつんざく鳥の声。 鳥頭人身の姿だった迷鳥は、いまや一羽の巨大な火の鳥となっていた。それが真の姿なのか、それとも成れの果てなのかはわからない。 燃える翼がはばたくと、空間は高熱がうみだす陽炎にゆらめく。 (考えない。考えず、ただあの迷鳥をひきずりだす。そのために俺は……ハッ) ハルカを、炎が包んだ。 (爆破してやる。粉々の肉片になって飛び散っちまえ。花火みたいにドカーーーンって……あ?) 蒔也を、炎が包んだ。 (バカ! 考えるな! 殴れ! ん?) ルンを、炎が包んだ。 (考えなーい。ロアンはなんにも考えない。ロアンは、ロアンで、ロアンが、ロアンだから、ロアンは……) ロアンを、炎が包んだ。 思索の波動が凄まじい勢いで周囲を侵してゆく。 同時、ありとあらゆるものが思索の火に巻き込まれていった。 (何故。何故。何故。何故。何故) 沼地の水が沸騰し、枯れ木の木立は燃え尽きて炭化してゆく。 崩れ落ちた廃墟の残骸が溶け出すなか、灼熱の鳥が舞い上がった。 熱が引き起こす上昇気流にのって、曇天へと飛び立つ。 (どうして生まれた) (なんのために) (《迷宮》のなかに、たった独りで) (友もなく) (役割もなく) (何故、ここに) (何故。何故。何故。何故。何故) 夜鷹は飛ぶ。 火に包まれて、飛んでゆく。 自らが発する高熱の火にその身を焼かれ、その心を焦がされて。 それでもなお、火を噴きながら、飛び続けるのだ。 (何故。何故。何故。何故。何故) 「うるせェよ」 古城蒔也だ。 かなりの距離を飛んだはずだ。しかし、蒔也の姿がすぐ目の前に。 ごすっ、と下腹に突きつけられたマシンガンが、銃撃を吐いた。 胴体に穴が開いた迷鳥の身体が、ぐらりと傾ぐ。 ふふふ。うふふふふふ。 いくつもの笑い声があらわれては消えてゆく。 ロアンたちが、墜ちてゆく迷鳥を見ていた。 (堕ちるね) (堕ちるよ) (だいじょうぶだよ) (なんにも考えなくても) (ロアンはここにいる) (ロアンはどこにでもいる) (きみもロアンだ) (きみもロアンになればいい) (ロアンだ) (ロアンだ) (ロアンだ) (ロアンだ) (ロアンだ) 火の鳥は、まっさかさまに、地上へと。 「さあ、くるんだ」 「お前の疑問。ルンにはわかる」 ハルカとルンが待ち構えていた。 「苦しかっただろう。終わりのない考えの中にいるのは」 ハルカは呼びかける。 「ここは《迷宮》。それは囚われているのは迷鳥――きみ自身だ。この《迷宮》は侵入者を防ぎ、きみを守るためにあるんじゃない。きみをここに鎖すためのものだったんだから」 「わかったか」 ルンが、ぶんぶんと腕を振って、力を込めた。 「答えは――」 がっ、と両足が地を掴む。 全身の筋肉に力がはいる。それをバネに、渾身の拳の軌跡が弧を描いた。 「……“ない”!!!!」 堕ちてきた迷鳥を、ルンの拳がとらえた。 カッ――、と閃光が、爆ぜる。 すべてが、白く、溶けていった。 * 炎が、羽毛のように散る。 翼は崩れ、くちばしも形を失い。 夜鷹であった異形のものは、白い光のなかで、たしかに《ヒト》の姿をとった。 それは少年の姿とみえたが、意識のない肢体は胎児の姿勢となり、そのままくるくると宙で回転した。 火の粉となって散ったかにみえた羽が、逆回転のように少年のもとにあつまり、またたくまにその周囲を球状に覆った。 そして――。 気づけば、4人は、山の岩肌に立っている。 ひゅう、と吹き付ける山風の冷たさに、思わず身がすくんだ。 「寒っ。なんだよ、熱かったり寒かったり、忙しいな」 蒔也が毒づく。 「これは……、これがそうなんだ」 ハルカは、そこにひとつの《卵》があるのを見た。 一抱えもある大きな《卵》は、真珠のようなきよらかな光沢をもっていた。 そっと触れると、ほんのりとした温かさをもっている。 「卵に還ったんだね」 ロアンが言った。 「司書さんの言ったとおり。じゃ、成功ってことだね。ふふふ」 「楽しかった!」 ルンはそう言って、笑った。 「考えて分からない、殴り合えば何とかなる。だから思い切り殴った。楽しかった。でも、腹減った」 それから、蒔也のほうを向くと。 「ルン、ちゃんと数えた。ルンのほうがたくさん殴ったぞ!」 「ああ? ……あー! それはだな……俺は殴るかわりに撃ったり爆破したりしてただろーが!」 「なんだそれ。賭けたのは殴る数だぞ」 「賭けを受けたわけじゃねーぞ!」 「なにーーー!」 言い合いになるルンと蒔也に、ハルカが仲裁に入った。ロアンがその様子を眺めながら、でたらめに双方の言った言葉を繰り返してふふふと笑った。 なんにせよ、《迷宮》は消えた。そして迷鳥は卵に戻ったのだ。 下山の途―― ルンと蒔也の賭けは、ルンが勝ったということで蒔也が不承不承折れた(ハルカがそういうことにしてやれと助言したのだ。あとで蒔也がルンになにか食わせてやり、その代金はハルカが出すことで手打ちになった――)ので、ルンはけろりと機嫌をなおし、鼻歌をうたいながら先頭を歩いていた。ロアンが声をそろえて合唱する。 ふと、蒔也は気がつく。 《迷宮》の中で、絶えず頭の中にうずまいていた問いが、すでに気にかからなくなっていた。 それはむろん、《迷宮》が消え、迷鳥の力が消えたからかもしれないが…… 「……」 ふと、ハルカと目が合った。ハルカは《卵》を背負って運んでいる。 「……面倒くさいやつだったよな」 ぽつり、と蒔也は言った。 先行くルンとロアンを見遣り、 「考えても仕方ないこともあるんだ」 「……ああ」 言った言葉に、ハルカも頷く。 (案外、あれが《答》だったのかもな) 衝動のままに、《迷宮》を爆破したとき、迷いも悩みもすべて吹き飛んでしまったようなおのれ自身を振り返り、蒔也は思う。 一方、ハルカは、背負う《卵》が無事、孵化したら、あの少年にどんな言葉をかけてやればよいかを、つらつらと考え続けているのだった。 (了)
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