『ヴァン』 甘い声音が呼びかける。『ヴァン、行くの、行ってしまうの?』 あなたも他の旅人のように。 幼い少女だったから、舌足らずな口調でヴァネッサと発音できなかった。略称が『ヴァン』になったのは、ヴォロス流なのか。『でもいつか、いつかきっと逢えるのよね?』 旅人は長生きだと聞いたわ、私の祖母も、あなたに出逢ったことがあると聞いた。 私は幻よ。 冷たい口調で言い捨てても、少女の笑みは変わらなかった。 時の狭間に置き去られて、退屈の気まぐれに、あなたの世界の命運を弄ぶ冷酷な存在。『違うわ、ヴァン』 少女は首を振る。『あなたも、また、傷ついたのでしょう?』 ヴァネッサは知っている。 この種族は短命だ。人よりもずっと。生まれ落ちてから、少年期、青年期と経過するに従って急速に老化し、老年期は非常に短い。 そして、ヴァネッサはもう、ターミナルから出るつもりはない。『私、探すわ、あの宝石を』 石蛇が呑み込んで奪い去ってしまった、あなたの大切な美しい碧の宝石を。『見つけたら、子ども達に託すわね』 その時は、必ず伝えるわ、あの洞窟で、宝石を見つけた、と。『そうだわ、子どもにつける名前も教えておくわ。男の子ならラール、女の子ならマール』 それに、あなたが再び訪れやすいように、村から少し離れた所に住むことにするわ。 くすくすと少女は悪戯っぽく笑う。『それなら、ヴァンも人目を気にせず、済むでしょう?』 ところで、あの宝石の名前は何だったかしら。 大きな瞳を瞬きして、少女はようやく思い出し、笑う。『しーくれっと……そう、シークレット・エメラルド』 その少女の名前を、ヴァネッサは、忘れた。「……大変、まことにお願いしづらいことなんですが」 帰属問題や、ターミナルの変化、ロストレイル北極星号が出発間近のこんな時期に、いや、こんな時期だからこそなのだろう、例のヴァネッサの宝石探索依頼があったのだ、と鳴海はぼそぼそと呟く。「探す場所はヴォロス、アルゴ村の近くの森です。かつて盗賊が横行していた場所ですが、盗賊達の数人が『化物』に叩き伏せられて後、安全になっていたようですが、最近になって、その森の中を巨大な石の蛇のようなものが動き回るようになり、村人達が怯えています」「『化物』?」 数人が首を傾げる、それって、確か報告書によればロストナンバーだったような。「伝承になった、ということでしょうかね」 鳴海は曖昧に笑った。「そういえば、過去にも同じような竜刻を封印する依頼がありましたが、あのときのことも『天上の神々が現れて退治した』ことになっているようですね」 実は、ヴォロスでは以前も同じような石蛇のようなものがうろつき回ったことがあり、その時はその石蛇を構成する石の中に、竜刻が混じっていたために起こった出来事だった。「ヴァネッサ卿がおっしゃるには、その石蛇の中に『シークレット・エメラルド』と呼ばれる大粒のエメラルドがあるそうで、それを探して欲しい、と」 元々はあの方のものだったのを、ヴォロスで失ったのだから、異世界の搾取にはあたらないとおっしゃっていますが。「その石蛇のどこにあるのかはわからない、と。えーと加えてですね、この石蛇も、やはり以前のものと同じように竜刻によって作り上げられ動いているものかもしれなくて、周囲の岩や小石を巻き込みつつ、次第に大きくなっていっているので対処してほしいということです」 つまり、もし竜刻によるものなら、封印のタグを貼って頂いて、持ち帰って頂きたいということですね。「は?」 ロストナンバー達は首を傾げる。「ヴァネッサが頼んだの? そんなことを?」「気まぐれでしょうかね…?」 はあ、と溜め息をついた鳴海は、気力を揮い起こすように『導きの書』を指で辿る。「で、もう一つ問題がありまして」 実は、以前何度か依頼があったかと思うのですが、この森の付近に住む一家に、タビタとマールという兄妹が居まして、この二人は今やんちゃ盛りで、石蛇の噂を聞きつけ、『旅人』に退治を願おうとしまして。「洞窟の入り口で叫んだだけでは届かないかも知れない、早くしないと自分達の家や畑も襲われるかも知れないと考えたらしく、洞窟の奥深くで頼もうとしました」 その結果、洞窟に入り込んで、出られなくなっています。「しかも、石蛇はどうやらその洞窟目指して進んでいる様子です」 本当に、本当に申し訳ないのですが。「『シークレット・エメラルド』の回収。竜刻封印と石蛇退治。洞窟の迷子の二人の救出。この三つの依頼を同時にお願いできますでしょうか」 鳴海はチケットを差し出したが、途中でぴたりと手を止める。「あのもう、一つ、問題が」「この上に何があるんだよ?」 胡乱な目つきで見返すロストナンバー達に、鳴海は消え入りそうな顔で身を縮めながら、付け加える。「実はこの依頼には、ヴァネッサ卿が同行を希望されていまして」「……おい」「あ、もちろん、ヴァネッサ卿はご自分の身はご自分で守る、とおっしゃっているので、皆さんには依頼の方に集中して頂いて構わないんですが」「…………おい」「あ、そうそうイルナハトさんも来られるそうで! ええつまりヴァネッサ卿のことはまあ一種の観客と看做して頂くことで大丈夫かと」 何の観客だよこら。足手まといになるんじゃねえの。いやあのババアが大人しくしてるわけがないだろ。我が儘だ我が儘マントヒヒ発動だ。 喧々囂々のロストナンバーに鳴海はますます体を竦めつつ、声を張り上げる。「あの、この依頼が済めば、しばらくは宝石探しの依頼もしないとヴァネッサ卿もおっしゃってますし!」「けど、あいつこの間、新年の衣装かなにかで爆発騒ぎを起こしたような奴だぞ!」「鳴海、お前だって『問題』って言ったぞ『問題』って!」 信じられるかよぉおおおおおお! 悲痛なロストナンバーの叫びに、鳴海は耳を塞ぎつつ叫び返した。「依頼が済めば、ヴォロスで宴会とかもできるそうですしいいいい、どうかよろしくお願いしますうううう!!!」 がしゃしゃしゃしゃしゃっ! 森の中を巨大なものが地響きをたて、枝にぶつかり、根を掘り起こしつつ、蠢いている。 ぎしゃしゃしゃしゃ、がしゃあっ! よく見れば、それは大小さまざまな石、岩が繋がり連なった蛇のようだった。 樹を薙ぎ倒すようにぶつかったかと思うと、そこで一瞬砕けて崩れ、だがすぐにばらばらに散った体は引き寄せられて塊となり、再びうねりくねる巨大な蛇となる。 ぐおあああああああん! 持ち上がった鎌首ががつがつと音をたてて穴を開け、空中を痺れさせるような大音声が響き渡った。穴の真上に眼球を思わせる二つの輝き、片方は青い炎のように揺らめく石、もう一つは稲妻を思わせる鮮烈な碧の宝石。 だが、それも一瞬で、すぐに二つの輝きは繋がり重なる石の中に消える。 開いた穴から無数のつぶてが飛び出し、空中を奔り、再び落下してきて自らの頭部を叩きつける、それを平然と丸呑みにして、石蛇は再び森へと体を潜らせていく。 森を抜けた果てには畑と小さな家。 そして、その向こうには小さな洞窟がある。 石蛇は進行を妨げる森の樹々に、再び攻撃をしかけていく。「タビタ、さむい」「兄ちゃんと呼べって」 がたがた震えるマールを、タビタは抱え込みながら必死に周囲を見回す。 絶対ここの角を曲がった先だと思ったのに。さっきの通路だって見覚えがなかったから、絶対こっちが正しい道だと思ったのに。 洞窟内の冷気はさっきより強い。奥から冷ややかな空気が吹き付けてくるし、足下をぞろぞろと平べったい黒い虫達が蠢いていて、それらを踏まないように歩き回っているうちに、別の方向に入り込んでしまったのだろうか。「タビタぁ」「兄ちゃんだって言ったろ。これ着てろ、マール」 上着を脱いでマールに着せかけて包み込む。寒さに震え上がったが、既に唇が白くなっているマールをこれ以上凍えさせるよりはましだ。「兄…ちゃぁん…」「くそっ」 微かな声で呟いてしがみついてくる小さな体に、震えるほど腹が立った。 どうして俺はこんな所へ入ってきちゃったんだ。どうして俺はマールを連れてきちゃったんだ。どうして俺はこんなに馬鹿で間抜けでガキなんだよ。 父の顔を思い出した。マールは頼むぞって言われてるのに。 母の顔を思い出した。タビタなら安心ねって言われたのに。 情けない、情けない、俺にできるのはここでこんな風に叫ぶことだけかよ。「旅人さああん! 助けてくれよぉ! 助けてくれよぉ!」 さっきから何度呼んだかわからない。『旅人』だって万能じゃないし、他に仕事とかあるだろう。今ここへ来れなくても、恨む筋合いはない、そこまで甘えていない。けれど。 脳裏に過った、遊んでくれた、力になってくれた、たくさんの笑顔。「助けてくれ! 助けてくれええ!」 頼む、せめてマールだけでも助けてくれ!「俺、何でもするからさあ…」 崩れそうになった体を立て直し、マールを背負い、歩き出す。滲んだ涙を歯を食いしばって振り払う。 信じろ。 父さんはそう言った。 信じろ。 ぎりぎりな時ほど、自分を信じろ。 きっと助けてもらえるって、それだけの価値がある人間だって、世界の誰が信じなくても、自分だけは自分を信じてやれ。 そうして、今できることをやりきれ。「信じろ…っ」 粘れ。凌げ。 助けは、きっと、来る。==================このシナリオは、ロストレイル13号搭乗者決定以前の出来事として運営されます。==================
誰がどう動くか、互いに綿密に打ち合わせることさえなく。 しかもあらゆる分野において、十分に互いの動きを認めながら。 目的を全て達成する。 それが、ロストナンバーだった。 「僕、以前にこの家族に会いたくて依頼に志願した事があった」 幽太郎・AHI/MD-01は、洞窟前で、レーダーである翼をゆっくり広げていく。 きららかで明るい陽射しの中、背後の彼方から森を壊し暴れ回る石蛇の咆哮が響いてくる。そちらにも、もう、仲間のロストナンバー達が向かっている。 「タビタと一緒に怪獣ゴッコして遊びたかったの。僕、子供が大好きだから」 思い返せば、その頃は、マールはまだ母親のお腹の中に居たはずだ。 「懐かしいなぁ……もう、そんなに大きくなったんだね」 依頼は諸事情あって、受けられなかった。それでも、時々子ども達の噂は聴こえ、幽太郎もそれとなく、ああ、あの子達のことだと思っていた。 まだ産まれてもいなかった子どもと、その兄として頑張ろうとしていた幼い子どもが、今や我が家と周辺に振りかかる危機を何とかしようと立ち向かうまでに成長している。 まだ会った事もない子ども達なのに、まるで身近に見守ってきたような、この感覚は不思議だ。 時が止まっている0世界、そこに暮らすロストナンバーという存在。 時間を捨てるということは、つまりは我が身の変化を望まないということではないのか。 だがしかし、関わる世界は変化していく。 望もうと望むまいと、時は流れる、関係性も変わっていく。 そして、その世界の変化を見守るロストナンバーにも、何かしら変わっていくものは確かにあるのだ。 「…僕、二人の事、助けてあげたい!」 ゆっくり洞窟に向かって歩き出しながら、幽太郎は、レーダーで捉えた情報から洞窟の構造を分析にかかる。構築した立体マップに進路を記録し、二人が通った痕跡がないかをセンサーでチェックしつつ向かえばいい。 二人の生体情報は、生家を訪れて、暮らし振り、年齢などから推測される背丈や体重、呼吸状態や心身機能を把握、体臭や行動様式の癖などもできる限り集めた。 タビタがマールを手放すわけはない、ならば、洞窟の構造上、マール連れではどうしても行けないルートというのは選択肢から外される。 次第に完成していくマップを確認していた幽太郎は、やがて少し首を傾げる。 「アレ…?」 繰り返された依頼の中では、入り口で依頼を叫ぶ洞窟ということで、洞窟内の構造について、それほど詳しい情報がなかった。 しかし、今分析しているこの構造は、思った以上に深くて入り組んでいる。なのに、結構奥の方まで人間が普通に辿れそうだ。というより、まるで誰かがくり抜いて通った後のような、奇妙なほどはっきりとした一本のルートが、奥へ奥へと向かっている。 「コレ、ヒョットシテ…人工物、ナノ…?」 この周辺、この時代に、この文明レベルに、岩をこれだけ奥深く彫り貫くような技術はなかったはずだ。 そういえば、この洞窟に依頼を叫べば、世界図書館に繋がるというのも、また奇妙な話ではなかったか。 「…誰カガ…作ッタ…?」 一体、何のために。 幽太郎は、洞窟の前で少し振り返る。 背後には小さな家と畑、その彼方には森。 どちらかでロストナンバーの働きを見守っているだろう、傲慢な緑の瞳を思った。 「俺はお届け屋。迷った二人を外までちゃんとお届けするよ」 振り向いた幽太郎の側を駆け抜けて、洞窟に飛び込んだのはユーウォンだ。 実はユーウォンも、タビタとマールのところには、一度遊びに出かけたいと思っていた。行ける機会をうかがっていたが、なかなかうまく行かず、ようやく行けるようになったと思えば、こんな大変なモノになってしまった。 急ぎ足で薄暗く、灯一つない洞窟を進んでいく。 (ニンゲンの子が通りやすい道はどれだ? 虫や泥が踏まれた跡は無いかな?) 注意深く周囲に気を配っていると、少しずつ見えてくるものがある。何かが通った道筋、決まった脚運びと道の選び方。通路の選択肢を詳細に積み上げていけば、その対象が絞り込まれてくる。 匂いを追っていける仲間がいれば、心強いと思っていたら、さっき幽太郎がその情報を手に入れていた。ユーウォン一人で探すのではなく、いろんな情報やサーチ能力を生かして、仲間が今、この洞窟全てを検索しにかかっている。 時々立ち止まって耳を澄ませる。 遠くで微かな声がしたようだ。泣き声にも聴こえるが、風の音にも似ている。 この洞窟は最終的には行き止まりになっているのだろうか。 どこかへ抜けているという情報はなかった。だが、細くて小さな穴が地表に繋がっていないとは言えない。子ども達が窒息することもなく活動できているのだから、空気穴のようなものがきっとあるはずだ。そして、そこを通り抜ける空気は、人の悲鳴のような音もたてるだろう。 けれど、中には何がいるか分からない、となるとうかつに灯もともせない。怪しいところは闇に目を順応させて、先行偵察してみる。 「おーい! 助けに来たぞぉ! どこにいるんだぁ!」 だあ、だぁ、だぁ、と声が重なり合いながら、響いていく。 じっとまた耳を澄ませる。目を閉じ、僅かな物音でも聞き逃すまいとする。 あれは小石の落ちる音。あれは水の滴る音。 がさがさと妙な擦れるような音は、昆虫か? 入り口付近にもそういえば黒や茶色の平べったい虫が踏み潰されていた。昆虫達は外へ出て来ようとはしていなかった。洞窟が彼らの支配圏なのだろう。 体験は力だ。今まで重ねた経験を元に、響く音を聞き分けていく。 洞窟の中の枝分かれの道、狭いものと広いものでは空気の通り方が違う、音の響きが変わってくる。 ギアの鞄の内側は、熱々にしてある。毛布とタオルと、お茶とミルクが入ってる。二人はきっとへとへとになっているだろう。 (見つけたら「はじめまして…会えて嬉しいよ。よく頑張ったね!」って言って、渡したげるんだ!) 今回はいっぱい旅人が来ている。それを知れば、タビタとマールは驚き、喜ぶだろう。自分の切なる願いが、きちんと届いていたのだと知って、これから生きていく人生にも、希望を失うことはないだろう。 「ん、こっちだ!」 遠く彼方に、岩でも虫でも水でもない、別のもののたてる音を聞き取った。 ユーウォンは歩き出す。二人に辿り着くルートは無数にあるかも知れない。けれど、ユーウォンが辿れるルートだからこ手に入り、二人にどうしても必要なものがきっとあるはずだ。 「帰り道は任せてもらおうっ」 そう、冒険の終わりは無事な帰還。その帰還の道筋こそ、ユーウォンが二人に送り届けられる一番の贈り物。 こうやって歩き回って捜し出した幾つものルート、その中の一番近くて安全で楽な道順を、ユーウォンはちゃんと憶えていて忘れない。 みんなで面白い話をしながら歩けば、帰り道はもっと短く感じるだろう。ユーウォンは旅の話をしようと思うが、二人の話や他の者の話も聞きたい。 急ぐことはない。休んでちゃんと暖まって、ゆっくり行けば良いだろう。 旅は目的ばかりが大事なのではなく、その瞬間瞬間全ては他の何とも替え難い貴重なものなのだ。 何と言っても、今回は仲間がいっぱい来ている。石蛇も他の仲間がちゃんとやっつけてくれているはずだ。 (その武勇伝を聞くのも、楽しみだ!) ギアの鞄を押さえて、ユーウォンは生き生きと走り出す、誰かの救出劇に参加しているのではなく、自らの冒険に向かうかのように。 「本件を特記事項α1-9、有事における人命保護に該当すると認定。リミッター一部解除、構造物サーチ及び生体サーチ常時起動、事件解決優先コードA7、C1、保安部提出記録収集開始」 ジューンは洞窟突入時から、サーチを開始している。最大索敵範囲は、以前居た世界のセブンズゲートと同規模、隣に並ぶ幽太郎と情報を共有すれば、洞窟全体を軽くカバーできた。 「洞窟は盲端、分岐部130、そのうち子ども達が通行可能なのは78、私達が通行可能なのは32………プラス15」 追加した通行可能部位は、通常手段では通れないが、壁を駆け上がるとかハイジャンプするとか飛翔するとか、つまりは子ども達は入れるが大人サイズでは入れず、けれどもその周辺からアプローチをかけられる通路、ということだ。 それでも、子ども達ならくぐり抜けて入ってしまえる細い分岐部が31もあり、そちらに入り込まれると厄介だと弾き出す。 「最短距離で向かいます」 他者が追随可能な速度で進もうと思ったが、身動き取れない場所に入り込まれる前に辿り着く必要がある。細かなルートは、後追いしてくれる幽太郎がフォローしてくれるだろう。 やがて、サーチの索敵で、洞窟入り口から全体の三分の二強入ったところに、そこからなおも奥へ入り込んでいこうとする二つの熱源を感知した。 幽太郎のマップから行くと、その間近に、入り口は入れそうに見えるが、進むと後退も困難になりそうな分岐部が二カ所ある。 「要救助者発見。皆様、後はお願いします」 「了解ですぅ☆」 言い放って洞窟に飛び込むジューン、そのすぐ後を川原 撫子が追う。 「壱号、先に飛んで下さいぃ☆」 撫子はジューンの後に続きながら、オウルフォームのセクタンも放った。 いつものように準備万端の持ち物は以下、お湯入り魔法瓶、粉末スポーツドリンク、蜂蜜チューブ、チョコレートバー、蛍光スプレー、着替え2組、紐、袋、エマージェンシーブランケット、毛布、背負子、おんぶ紐、使い捨てカイロ、鉈。 鉈とはおいおい物騒だなと眉を寄せられそうだが、何せ事前情報も十分ではない洞窟、何が出てくるかわかったものじゃない。使い慣れた道具を持ち込むのは当然だ。 魔法瓶にスポーツドリンクを溶いておく。飲ませる前に蜂蜜をぶち込む予定だ。もし、飲めないほど弱っていたら口移しも考える。タビタは粘ってくれているが、幼いマールの体力が心配だ。 薄暗がりの洞窟、セクタンが導いてくれるが、闇が予想以上に視界を奪う。いっそ真っ暗ならば鍛え上げたサバイバル能力で突っ込めもするが、中途半端に見えているあたりが小憎らしい。見えているから、少し入ったあたりから見る見る足下にざわざわと這い寄ってくる昆虫の波もしっかり見える。 「くぅうっ★」 ぶちゅぶちゅっと足底で潰れる不快な感触、仲間が踏み潰されても怯むことなく通路に溢れかえる数の多さ、ぬるぬると滑る壁にも何かが這い回っていて、不気味なことこの上ない。それでも撫子は歯を食いしばって走り続ける、時々ずるっと虫の死骸に滑りながら、必死に体を立て直し。 「タビタくうん、マールちゃあんっ★」 洞窟の中は冷えていた。天井から冷たい水が滴っている。顔や手足に落ちかかるそれを振り払い、汗と一緒に拭い落とす。 幽太郎のサイズで進める部分は三分の一程度、ジューンは子ども達まで到達できるだろう。けれど、二人とも、生身の子どもに対する十分な手立てを持っていない。 「げっ★」 突然漏れた叫び声は、角を曲がったとたんにざらざらと妙な音をたてて迫った人影に放ったものだ。とっさに顔を歪めて鉈を振り回すとずっぱりと切れる、だが手応えが全くない。ざああっと一旦は飛び離れた姿が、再びぞもぞもと下から膨れ上がり、撫子の行く手を遮ろうとする。 「何なんですかぁ、これはっ★ 虫っ★Gっ★ 何で一体化するんですかあっ★」 さすがの撫子も気持ち悪さが先に立つ。だが、それも一瞬だった。小さな子ども達が、こんな不気味なものがうぞうぞする中で、助けを求めて泣きつつ頑張っているのだ。ギアの水で吹っ飛ばせば話は簡単かも知れないが、その水流がどんな影響を与えるかわからない。 「えええいいいっ☆☆」 こんなところで立ち止まったり怯んだりしているわけにはいかない。鉈を持ち直し、同時部拳でも粉砕してやる何度でも、そう身構えた。 と、そのとき。 ふわああああああっっっ。 「ひえっ☆」 背後から温かくて柔らかな熱気が押し寄せてきた。目の前から崩れかかってきそうだった昆虫の人影がおぞぞぞぞと体を震わせて崩れ落ちていく。 ふぉおおおおおおおおお。 再び温かな風が洞窟内を吹き渡る。昆虫達は軽いパニック状態だ。見る見る撫子の前から退いて、もっと湿って暗い隅を求めて遠ざかっていく。 「な、何かわからないけど、チャンスですぅ☆」 鉈をくるりと回して片付け、撫子は大きく頷いて走り出す。 「う…わ…」 突然柔らかな風が吹いてきて、タビタは驚いて身を竦めた。 「なにっ」 抱きかかえたマールは半分うとうとしていて、身体中が落ちて来た水滴と湿度でべっとりしてて、凍えて震えて辛かったのが、ふいに何かで優しいもので包まれたような気がして、風の方向を振り返る。 「……たび…びと、さん……?」 確信はなかった。 もちろん、その柔らかで温かな風が、「人は寒いと弱るそうなのです。洞窟内を暖めるのですー」と、巨大化して洞窟の入り口に口をあてて息を吹き込むというトンデモ手段で中の気温を上げようとしたシーアールシー ゼロの仕業だと気づいたわけでもない。 けれど、こんなぎりぎりの窮地に何かが起こるとしたら。しかも、それが自分達を助けてくれるようなものであるとしたら。 奇跡以外の何であるのか。 そして、奇跡とは『旅人』達と相性のよいことばなのだ。 信じろ。 もう一度、父親の声が頭に響いた瞬間。 「こんにちはなのです」 「う、わあっ!」 今度こそ死ぬかと思った。体が跳ね上がり、抱えたマールが崩れ落ちそうになって、タビタは必死に抱え込む。 思わず座り込んで見上げた視界に、洞窟の薄暗がりに白々と光を放つ少女が一人居た。さっきまではいなかったはずなのに、いつの間にこんなところに居るんだろう。ひょっとして、泉の魔女とか、そういう類かそれとも。 「ゆ、ゆーれい…」 「ゼロはゼロなのですー」 「ぜ……ぜろ…?」 どこかふんわりとした顔立ちの少女は、自分がなぜここに居るのか、何をしているのかと一切口にすることなく、取り出した銀色の筒から湯気のたつ液体をコップに入れて渡してくれる。 「砂糖をたくさん入れたミルクたっぷりのコーヒーなのですー」 「あ、あの、」 (呑んでいいのか? それとも、これは幻かなにかで、俺は疲れ切りすぎて、夢でも見ているのか?) タビタは困惑し、ためらい悩む。腕の中で身動きしたマールが小さく呟く。 「タ…ビタ…」 いいにおい、する。 マールはひくりと小鼻を動かしたが、身動きする気力がないようだ。マールを抱えて寒さで冷えきった片手に、渡されたコップの温かさは誘惑的だった。 (ええい、こいつが化物でも旅人でもどっちでもいいや!) 覚悟を決めて、カップからごくりと中身を呑み込む。 「甘いっ!」 おいしくて甘くて、こんなに自分が空腹だったのかとようやく気づいた。不安と恐怖と怒りで、どれほど自分がへたっていたのか、全く気づかずに居たと知る。 「マール、お前もこれ、呑みな」「ん…」 マールはコップに口をつけかけたが、すぐにぐたりと眠り込みそうになる。 「マール、マール!」 「これもどうぞなのですー」 ゼロと名乗った少女は、小さくて柔らかな白いものをくれた。マールの口に入れてやると、始めは身動きしなかったマールがもぐもぐ、と微かに口を動かす。 「あま…い…」 眠たげな声で呟き、ようやくごっくんと呑み下す。マシュマロというのですーとゼロが教えてくれて、タビタも幾つか口に入れた。ふわふわして柔らかくて甘い。目の前に居る少女のようだ。 「ゼロのお友達には何かを見つけるのが得意な人たちが多いので、待っていたらそのうち来てくれるのですー」 座り込んだタビタの側でゼロは安心した顔でにこにこ笑う。その顔を見ているだけで、何だかほっとする気がした。 「他にも『旅人』さんが来てくれてるの…?」 「はい、いっぱい来てるのですー」 「そ、うか……っ」 安心したと同時にタビタはぶるりと震えた。今まで意識していなかった冷えが、温かなものに触れて呑んで食べたせいか、痛いほど身にしみてきた。 「こっちへどうぞなのですー」 ふいに、ゼロが頷いて後じさりし、何をするのかと訝しく見上げると、今度は逆にじりじりと近づいてくる。 (何がどうぞ、っていうか、何しているんだろう、あっち行ったりこっち行ったりして) そう思って瞬きし、ようやくタビタは気がついた。 ゼロは少しずつ大きくなっている。さっきまではタビタが軽く見上げる程度だったのに、その背がぐんぐんと伸び、体がぐんぐんぐんと広がり、洞窟の壁を這うように体を曲げていきながら、その指先がもうタビタの顔よりも大きくなっている。 「う、わ、わ…っ」 ゼロの周囲から黒い昆虫が掃き飛ばされるように周囲に消えていく。まるでとんでもなく苦手な何かに触れたように、慌てふためいてあちこちの岩場の隅に逃げていく。 巨大になったゼロに押し広げられて洞窟の壁がみしりと嫌な音をたてた。そのあたりでゼロは大きくなるのを止め、タビタとマールをそろっと膝の上に抱え上げてくれる。 「わ、わ…わ」 「…ん…」 あったかあい。 マールがもそりと体を起こした。泥で汚れてくしゃくしゃになった顔に笑みを浮かべ、両手をゼロの膝につくが、膝は泥でも汚れない。 「気持ちいいねえ…」 蕩けるような声を上げて、マールはすりすりとゼロの膝に顔をすり寄せた。 「かあさんみたい…」 「、マール…」 タビタはぐっと胸に来たものを堪え、マールの頭を撫でてやる。 「よかったな」 「うん」 (やっぱり俺じゃ、駄目なのかな) マールを安心させてやれないのかな。 歪む視界に眉を寄せて天井を見上げた、そのとき。 「見つけました!」 「見つけたあっ!」 「タビタ、マール!」 声を張り上げて、走り寄ってきてくれる姿を見た。お話に出てくる竜みたいな姿、ピンク色の髪の女性も見たことがある、そして、 「良く頑張ったな、もう大丈夫だ」 「あ…」 駆け寄ってくる三人に気づいたのだろう、ゼロは少しずつ小さくなる。その膝から滑り降りて、マールを抱え降ろしながら、タビタの視界が一気に緩む。 「前にもあったけど覚えてるかな? 大きくなったな」 笑顔の男を忘れるわけがない。かつてやってきてくれた『旅人』さんだ。 「お兄ちゃ…」 「毛布を借りてきたよ、寒かっただろう」 包んでくれた毛布は家の匂いがした。安心できる、傷みを忘れる、優しい人が何度も何度も日に当てて干してくれた温かな匂い。 信じろ、ともう一度父の声が響く。 信じたよ、とうさん。 信じた、そしたら、来てくれたよ、本当に。 「あ、りが…と…」 呟きは毛布に吸い込まれる。溢れた涙が恥ずかしい。 相沢 優は来るまでに、化け物と天上の神々についての詳細を、トラベラーズノートのメールで送ってくれるよう、こっそり鳴海に頼んでいた。ほどなく届いたそれを行きの車内で読み込み、世界図書館からの二つの依頼であることを知った。 一つはまさに優そのものが関わった事件だ。 ベスタをアルゴ村で行われる旧友の結婚式に送り届ける際に、森で盗賊を撃退した事件が、いつの間にかロストナンバーが『化物』として伝わっている様子だ。逃げた盗賊か、それとも誰かが見ていたのか。常人ならぬ働きで盗賊を撃退した話が膨らみ脚色されたと見える。 「まいったな」 もう一つは、かなり昔のもので、やはりヴォロスで石や岩を繋いだような蛇が暴れたことがあって、それが竜刻によるものであり、その回収をロストナンバーが依頼されたらしい。もちろん、彼らは見事やり遂げたのだが、その時のことが噂になり尾ひれがついて、『天上の神々が退治した』ことになってしまっていたようだ。 この分では、世界群のあちこちで、実はロストナンバーによる依頼解決の一件が、摩訶不思議で奇妙な神話に仕立て上げられているかも知れない、と優は苦笑した。いや、ひょっとすると、壱番世界の、これまで神話だと思い込んできたあれこれが、その実、ロストナンバーの絡んだ一件という事もあり得る。 「そういえば、鳴海司書の一件だって」 『星娘』と呼ばれる新興宗教にのめり込んだ鳴海の奪回という依頼は、加わったロストナンバー達や、関わっていた『星娘』そのものが壱番世界の枠を遥かに越えた存在であったことも相まって、都市伝説化しているとも聞いた。 ひょっとすると、世界図書館で優が調べ切れていない事件の記録、壱番世界で神話や伝説として語り継がれている物語の中に、イグジストに呑み込まれずに済んだ世界や、それと向き合った人々の話があるのかも知れない。 「そうか…壱番世界の中で語られた神話や伝承に、壱番世界を救うヒントがあるかも知れないな」 新たな視点に少し胸が膨らむ。 が、まずはともかく二人の救出と依頼遂行だ。 ロストレイルの中では、他のロストナンバーと隣席するのを憚ったのか、別車輌で過ごしていたヴァネッサとイルナハトの視線を感じつつ、優は行動に移る。 現地についてすぐ、洞窟そのもののサーチにかかった仲間とは別に、優は普段二人が使っている毛布を借りた。ベスタの姿が見えず、家の中が少し暗い感じがしたのを気にしながら、洞窟内に入り込んだ。 オウルフォームのセクタンを飛ばし、ミネルヴァの眼で二人を捜し続けた。歩いて来た道順は壁に印をつけ、トラベラーズノートにメモしつつ進んできたが、正直なところ、それだけで構造を網羅するのは厳しかった。 幽太郎やジューンのサーチ能力、マッピングがなければ、辿り着けはしても脱出に時間がかなりかかっただろうと思う。 途中で先を進むジューンを見つけ、続いてユーウォンと合流し、二人の元へ辿り着くと、神出鬼没のゼロが無敵モードで二人を保護し、温めていてくれた。 合流すると、元のサイズに戻ったゼロに礼を告げ、優は持ち込んだ毛布で二人を包む。服は少しは乾いてきているが、まだまだ寒いのか、タビタの唇はかさかさで色が戻っていない。 毛布の匂いに家に着いたような安心があったのだろう、一気に泣き崩れてしまったタビタが、どれほど必死に妹を守ろうとし、どれほどぎりぎりで頑張っていたのかを感じて、優もまたひどくほっとした。 タビタはユーウォンのお茶も呑み、少しずつ体力を回復しつつあるが、マールがさすがに限界ぎりぎりだ。 それと察したジューンが、辿り着いた撫子の手から蛍光スプレーを受け取って、出口へ向かう。叉路や分かり難い場所に目印をつけつつ最高速度で洞窟脱出しようとする彼女は、後からやってくる皆の安全もさることながら、もう一つの憂い、暴れ回る石蛇へ次のターゲットを定めているようだ。 「本件を特記事項α1-9からβ10に変更。リミッターオフ、クリーチャーに対する殺傷コード解除。事件解決優先コードA2追加」 透明な声が淡々と告げる。 「ジューンさん、帰り道目印宜しくですぅ☆」 二人のもとへ辿り着いた瞬間から、いや、見つけたその瞬間から、撫子の両手は激しく動いている。 まずは、ジューンに蛍光スプレーを投げ、入口まで迷わないよう5m置き、且つ分岐に目印して貰うよう依頼した。続いて、優が毛布で包んでやっているマールやタビタの側に駆け寄り、二人の衣服を素早く調べ、荷物を解く。 「マールちゃんたちは任せて下さいぃ他はお任せしましたぁ☆」 濡れた服をテキパキ脱がして、乾いた衣服に着替えさせる。マールの分はかなり余ったので紐で縛り保温に務める。体を擦って温めつつ、二人の子どもの服の上からカイロを貼った。 「マールちゃん? しっかりして下さい☆」 タビタはよほど腹が空いていたのだろう、与えられるものを必死に飲み食いしつつ、マールの様子に不安げだ。 その顔ににこりと笑って、撫子は魔法瓶のスポーツドリンクを少しずつマールに呑ませた。始めは満足に口を開いてくれなかったから、ちょっとだけ口移しし、少し気力が戻ってからは、様子をみながら呑ませていく。 「マール…」 「大丈夫だよ、タビタ」 「タビタくん、すぐおうちに帰るからこれ齧って体力つけておいてくださいぃ☆」 優のことばに頷き、撫子に渡されたチョコレートバーを、タビタは大人しく齧る。さっき、撫子にエマージェンシーブランケットの銀色を内側にして丁寧に包み込まれてから、より体温が戻ってきたのだろう、顔色もうんと良くなってきた。 「エマージェンシーブランケットは小さい子向きじゃないので、私が確認しながらの方が良いと思ったんですぅ。山だと低体温症ってそこそこあるので、対処法は覚えさせられますからぁ」 繰り返し撫子に水分補給され温められ、加えて彼女の胸におんぶ紐で結わえられて、マールも少し顔色が戻ってきた。ユーウォンのミルクも少し呑めるようになってきた。 「では、そろそろ帰りましょうか☆」 「鉈っ?」 ぎょっとする優に、撫子はいささか引き攣った笑みを返す。 「それがですねえ、ここへ来るまでにとんでもないものが居ましてぇ☆」 「あ、俺も妙なもの見たよ」 ユーウォンがべたべたと這い寄るような妙な生物を見たと言う。 「じゃあ、一暴れする必要があるってことか」 優がきらりと目を輝かせると、タビタが急いで立ち上がり、少しよろけた。 「俺も」 「ああわかった、さすがだな、タビタ。でも今はもう少し体力を取り戻そう」 優はもう一度、タビタの体に毛布を巻き付け、エマージェンシーブランケットで包み直す。そのまま背中におぶってやった。強がっていてもやはり体力は戻り切っていない。おぶわれた安心からか、一瞬くたりとタビタの手足から力が抜ける。 「行くぞ」 「うん…」 歩き出した一行に、タビタが一瞬、何かを気にして、奥を振り向いたが、すぐにぎゅっと優の背中に掴まった。 ぐおぉあああああああ! 石蛇は大きく体をうねらせて森の樹々を薙ぎ倒す。通った後に残されたのは、倒れた樹々、砕かれ潰された泉や岩、削り取られた道に崩れた道しるべ、それはそれは無惨な有様だ。 体を大きく揺らし、時に伸び上がり、時に自らを崩しながら、それでも、周囲を砕いて作り出した石や岩などをどんどん吸い込みかき集めて大きくなり、石蛇は今やもう、森の端までやってきている。 「前みたいに信じて。お家、畑、タビタ達、絶対守る」 アルウィン・ランズウィックは兄妹の家に真っ先に向かった。タビタとマールは必ず守る、蛇も必ず防ぐつもりだ、けれど万が一ということもある、念のために逃げて欲しいと頼みにきた。 「……わかった」 『旅人』との接触は初めてでもない、繰り返し世話にもなっている。ラールの判断は早かった。ただ。 「え…?」 アルウィンは茫然として、ラールの顔を見る。 「ベスタ、死んだ?」 唐突に頭を理解が走る。 あんな幼いマールが、なぜタビタ一人に任されているのか。石蛇が暴れている、その情報を知らないはずがないのに、なぜ夫婦は子ども達を安全な所に逃がそうとしないのか。 「少し前の流行病で、逝ってしまった」 以前よりやつれた顔でラールは微かに顔を歪める。削げた頬に気力の衰えがあった。活気が失せていた。そういえば、家の周囲の畑が荒れていたようだ。 「こんな村から離れた場所に住んでいたからだと自分を責めた時期もあったが、今は少し落ち着いた」 ラールは苦笑しながら、荷物をまとめる。 「それでも、暮らしを保つのに手一杯だった……あの子達が、そこまで苦しんでいるなんて、思ってもいなかったよ」 丸めた背中が痛そうだった。幼い子ども二人を抱え、日々を保とうとして保ち切れず、気力と体力を奪われつつあった男。 間近の森の暴れる石蛇にさえ十分な警戒をすることができない父親を、タビタは見かねたのだ。 母亡き後を任されたのは自分だ、ならばこそ、自分で助けを求めに行こう。 信じろ。 救いはきっと来る、だから信じろ。 そのことばは、他ならぬラール自身が自分に言い聞かせていた言葉だったのかも知れない。 「…信じている」 ぼそりと唸ったラールが振り向いた。 「俺は、いつでも信じている。『旅人』は、嘘をつかない」 「……うん!」 アルウィンはぶるりと体を震わせた。胸の底から気概が、誇りが湧き上がる。男の目に溢れそうな絶望を、今消し去れるのは自分達だけだと確信する。 「これ、借りてく!」 タビタの服を一枚借用し、表に走り出した。 ベスタの笑顔はもうない。失うとさえ思わないまま失ってしまった、その傷みは胸にちくちくと棘のように刺さっている。 けれど、失うことに抵抗出来る力が、時間が、今ここにはまだ、ある。 タビタは頑張っている。兄らしくなっていて、頼もしい。その願いを、祈りを支えてやりたい。 「うぉおおおおおおお……っ」 高く遠く遠吠えした。森の獣達、周囲の生き物全てに届く咆哮、避難を呼びかけ自らを守れと訴える。 竜刻を封じないと蛇は何度も再生するだろう。一度壊し、現れた竜刻に札を貼る事を提案したら、同じことを考えていた仲間が居た。その方向でやってみるかと頷いてくれた。 森に駆け戻り、味方と自分に咆哮する。力を限界まで上昇させる。 タビタ達にこれ以上何も失ってほしくない、だから。 「暴れる、皆困る。可哀想だけどやっつける!」 巨大な蛇のうねりに、アルウィンの体当たりはその進行を止めるに及ばない。槍を揮い、蹴りで少しでも破壊する、相手の体を削り取る。 その合間、すばしこく動いて、樹々に長く丈夫な縄を張った。留められるとは思わないが、進路の妨害には役立つはず。 「ここまでだ、お前はここからもう動くな!」 振った槍から満月型の光の刃が飛び散った。月の刃で視界を塞ぎ、気を散らす。 が、大きく振られた尾に跳ね飛ばされ、アルウィンは小石のように空中を飛ぶ。 「く、そぉおお!」 めげてはいない、へたってもいない、攻撃はまだ始めたばかりだ。勝機は必ずある。 「悪いな、お前。折れたら、勘弁しろ」 ルンは、自分の狩猟刀に謝ってから石蛇戦に突入した。 「生きる者は、存在する者は! 全て願いがある、願いを持つ! 数多ければ、願いはぶつかる! それでも叶えたい願いなら! 戦え! ルンは、戦う!」 叫ぶ声は野生の王者のもの、空中を飛ばされたアルウィンが地面に叩きつけられる瞬間、辛くも身を翻して衝撃を減らすのを横目で見やり、頷いて再び声を張り上げる。 「お前の願いは何だ、竜刻!」 駆け寄りながら脆そうな部分を狙って弓矢で連射した。通常ならば放つことさえ不可能な曲芸、飛び上がるたびに続けて放つ矢は、矢筒から無限に現れ続け、連射は止むことがないが、さすがに岩の躍動には叶わず次々弾かれる。 「進む事か、飛ぶ事か! 大きくなる事か! 全てを踏み潰す事か! 何処かへ還る事か! 誰かに会う事か!」 ぐううううあああおおおおおおお!!! ルンの叫びに応じるように、石蛇は大きく体を振った。危うくルンを跳ね飛ばしかけ、しかしアルウィンが張った綱に一瞬動きを止められて、苦しげに体を捻ってのたうち回る。巨大な体が、頭部が、尾が、森を叩き付け、岩を跳ね上げ、辺りを破壊し崩壊させる。 「生きるは悪くない! 望むは悪くない!」 ルンは大ジャンプして蛇の頭に着地した。頭部に飛び乗った姿は、巨岩に止まった黄金の鳥一羽の頼りなさ、だが振り上げた両腕で力の限り岩の隙間に狩猟刀を突き込み、一気に頭部だけ崩そうとする。 「それでもルンは、お前を止める!」 1tのバッファローを素手で殴り殺して運べる膂力が剣に注ぎ込まれる。だが、その力に剣の方が耐え切れなかった。突き込まれた狩猟刀が大きくしなり、次の瞬間無数の刃となって砕け散る、その刃の一つに頬を裂かれても、ルンの攻撃はなお止まらない。 狩猟刀が砕けた瞬間、引き換えのように剥がした岩をがつっと握る。両手にかかる重量はルンの体重数百倍、指先に滲む血に不敵に笑って、次の瞬間岩を引き抜き、それでもって二度三度、頭部を激しく叩きつけた。 ぐあああおうう!!! 「頭崩す、竜刻引っこ抜く! 畑も家も! お前にやらない! ここは、ラールたちの物!」 黄金の髪を振り立てて頭部を砕くルンの激闘、がらがらと頭部が崩れ出し、一回り小さくなった石蛇が、なおも進もうと天へ体を跳ねる。 「ルンは死んだ。死んで神さまの国に来た。ルンの願い、神さまの役に立つ事」 裂けた拳を振り上げるルンの脳裏には、ロストレイルの中でヴァネッサと向き合った場面が過っている。 『依頼したのに、取りに来た? 凄いな、お前。そんなに、大事か。分かった、ルン頑張る! お前、怪我しないように、見てろ』 ヴァネッサはいつもの引きずるような緑のドレスではなかった。確かにあちらこちらに金糸の縫い取りがある豪奢なドレスだが、派手で重そうな布地は甲冑を身に着けた騎士を思わせる固さがあった。いつもの嘲笑うような笑みはなく、ルンの顔をじっと見返す緑の瞳は、鮮やかに深く澄んでいた、まるで死刑場に引き出される囚人のように。 ルンは思った。自分では石蛇と戦えないからロストナンバーに依頼したのだろう、なのに、現場までわざわざやってきた、そこまでするほど大事な物なら、無事に渡して喜ばせてやろう。 「返せ、お前、奪ったもの全て、返してやれ!」 叩きつけた拳に激痛、砕けて力が失せると同時に頭部が強く振り回され、ルンは紅の飛沫を散らしながら吹き飛んでいく。 「さすが神さまの国、一人では駄目か、だが、ルンは一人じゃないぞ!」 天空高く吠えた声は、石蛇の咆哮を押さえつける。拳を抱えて体を捻って降り立つと、振り仰いだ視界に伸びる石蛇に、新たな攻撃が加わっていくのが見える。 ジューンは洞窟から飛び出すと、サーチにより最短距離、最高速度で石蛇に迫り、吶喊した。 「!!!!!!!」 激しい気迫と裏腹に冷めた思考は冷静に働く。 アルウィンが飛ばされ、ルンが拳を砕かれたのを見た。石蛇の進行は多少は衰えたとはいえ、止まらない。速度は37%減、だが鞭のように頭部と尾をしならせて、破壊力は逆に増している、おおよそ126%というところか。 構造物サーチによって組成の違いから竜刻とエメラルドの場所を確認する。表皮一枚剥がされたように見える、やはり頭部と思しき場所、繰り返し振り上げられ、先頭になって次の場所へ叩きつけられるように落とされる岩の塊周辺に存在するのを確認する。 まずは竜刻を確保し、この石蛇の進行を止めなくては、背後のラールの家や畑が破壊され尽くしてしまうだろう。ちらりと視線を送ったピンクの瞳には、色の愛らしさを裏切って、冷徹な計算が動く。 「皆様、竜刻は石蛇の右目です! エメラルドはそのすぐ傍に存在しています!」 面白いことに、何かの法則性があるのか、どれほど岩が崩れ,改めて再生し直しても、竜刻は必ずエメラルドの右側に位置するようだ。 電撃や電磁波は宝石を損なう可能性があるため使用はしない。となれば、後はひたすら力技になる。現在の攻撃力で、制止できる距離と家や畑、洞窟までの距離を確認、このままでは押し切られると答えが出た。 視界の彼方に洞窟からようやく抜け出してくる一群がある。撫子の胸に抱えられたマール、優の背におぶわれているタビタ、さっきよりも回復しているとは言え、やはりぐったりとした気配は続いている。 「っっ!」 もう一度、縄で留めようとしたアルウィンが軽々と吹っ飛ばされて、樹木に叩きつけられた。咄嗟に体を捻って、直撃は避けたようだが幹を伝って転がり落ちる。 それを顧みもせず、体を大きく振って一気に森の端へと伸び上がり、外へ出て行こうとする石蛇に、ジューンは吠える。 「子供達の所へは行かせません、絶対に!」 ターミナルで同じようにジューンを待つ子ども達が過った。 誰も失うわけにはいかないのだ、絶対に。 ならば、何が何でもここで止める。 引き倒された木を掴んだ。そのまま両腕に抱え上げて差し上げる。みしみしめきめきと音をたてて、地面から引き抜かれた根が土を散らす。 ジューンの体を遥かに越える巨木が、まるで鉛筆一本のように軽々と振りかざされた。 ジューンの顔には苦悶はない。テーブルにお茶を注ぐような、上品に菓子をサーブするような静かな顔と、ゆっくりと振り回されていく巨木がアンバランスこの上ない。 「!」 回転が乗ったところで、巨木は勢いよく石蛇の側面に叩きつけられた。 ぐあええっっ! 絶叫して石蛇が揺らぐ。 だが、ジューンは攻撃をやめない。続いて巨木をぶつける、連打する。弾け飛ぶ岩、崩れる欠片、たまらず石蛇が体を揺さぶって逃げようするのを追い打ちする。 逃げ切れないと感じたのか、石蛇が振り返る、その頭部少し下あたりに、ジューンは容赦なく巨木を突き込んだ。 ぐわあああっっ! まだだ。ジューンは突っ込んだ巨木足がかりに石蛇を駆け上がる。目指すは頭部、ぎらついてこちらを見据える二つの眼、目の周囲の岩ごと手刀で削り取って、メイド服を翻しながら、竜刻に封印のタグを押し付ける。 そのすぐ側を太刀を掲げた雪・ウーヴェイル・サツキガハラが駆け抜ける。 「変わったのか戻ったのか、どちらなのか」 他者を気遣うヴァネッサ卿の言葉を反芻しつつ、雪は蛇と対峙し続ける。 当のヴァネッサは、つい先ほどまで、雪達の奮闘を楽しげに扇を揺らしつつ眺めていた。アルウィンが跳ね飛ばされ、ルンが血に塗れ、ジューンが巨木を振り回しての応戦にも、涼しい顔だった。 遠いどこかの戦争を見ているようなその顔には、世界を憂えるような気配は微塵もない。唾棄すべき、傲岸不遜で我が儘放題のファミリーの一人、そういう顔しか見えなかった。 なのに、ふと気づけば、ヴァネッサはいつの間にか見物を止め、洞窟を抜け出した一行に近づいていく。 石蛇退治のスペクタクルや、回収を命じた竜刻、それどころか、自ら探せと望んだエメラルドの行方さえ放り捨てて、行方不明の子ども二人の様子を見に行ったのか、それともいつものように、何か別の意図があったのか。 だが離れるヴァネッサの後ろ姿に、雪は違うものを感じ取っている。 「私もまた恐らく変わった。0世界という、力と意志と他者への想いに満ちた歪な世界に触れたことで」 雪は自分自身の変化を厭ってはいない。開かれた眼をむしろ喜ばしく感じる。 ヴァネッサもまた、誰かとの出会いによって再び変わり、戻ったのだと考えれば貴い、そう思う。 あらかじめ簡易カミオロシで身体能力は上げておいた。 今森を抜けようとする石蛇の暴走が止まらず、手に負えないと判れば皇脈筋のカミをオロすことも考えている。身体能力はヒトの何十倍にもなる。ジューンと二人、力づくでも石蛇を引き止められるだろう。 石蛇は一旦砕いても竜刻の力があれば何度でも再生するはずだから、アルウィンが提案した方法には全面的に賛成だった。戦闘従事者が蛇を砕くところへ便乗、太刀に薄く霊力を纏わせて石を更に細断し、視界をよくして竜刻とエメラルドの在り処を見極め回収しようと考えていた矢先、ジューンが石蛇を駆け上がった。 すぐさま後を追う。速度はいささか及ばないが、俊敏さは劣らない。手刀で目の周囲の岩を抉り取ったジューン、ぎらぎらと輝きながら二種の光が砕かれた空間を飛び跳ねる。 雪は太刀を翻す。固く重い手応えは、石を砕いただけではなく、何か見えない巨大なものの体を叩き斬り抉っていくような感覚、岩が集っただけではなく、石蛇の体には互いを強く引きつけ合う力、おそらくは竜刻による何かの力があることを感じた。 それでも、いやそれならなおさら、雪は周囲を包む石を刻む。単に剣による破砕だけではなく、石や岩をつなぎ止める見えない力を、太刀に纏わせた霊力で断ち切っていく。 背中で一本にまとめた黒髪が舞い、視界の端を翻る。鋼鉄をも切る黒太刀『ミコトゴウエ』が喜ばしげに羽鳴りした気がする。 ついに、砕かれ細かになった石が飛び散り、ジューンが竜刻に手を伸ばし、封印のタグを押し付ける。 「こっちだ、急いで」 石蛇の隙を見て、優は洞窟から離れていく。仲間が必死に足止めしてくれているが、予想以上に抵抗が激しい。このまま洞窟近くに居れば、突進してくる石蛇に呑み込まれ叩き潰されるかも知れない。 「お兄ちゃん、俺」 何かを言いたげに背中でタビタが身もがいた。洞窟の中を振り返ろうとしているようだ。 優は、地図と壁の印を頼りに撫子と二人、マールとタビタを抱えて何とか洞窟から抜け出してきた。途中、撫子が遭遇したらしいうぞうぞとまとまる黒い虫や、得体の知れない這い寄るねばつきなども撃退して、かなり走ったせいで息が少々上がってきているが、考えてみれば、その最中もタビタが何か気になるように、繰り返し繰り返し背後を振り返っていたようだと思い出す。 「どうした、タビタ」 「あの、いや、ううん、俺」 小さな声が首筋で呟かれる。 「ちょっとだけ、知りたかったんだ、どうしてこの洞窟で頼むと、『旅人』さんが来てくれるのかって…」 ああ、そうか、と優は一つ得心が行く。奥へ奥へと進んでいた二人、もちろん『旅人』にちゃんと依頼を伝えたかったのもあるだろう、だがもう一つは、なぜこの洞窟が『旅人』に繋がっているのか、それを確かめたかったのもあったのだ。 「ごめんね」 「いいよ。無事ならいい」 「うん…っ」 洞窟の入り口近くで待ち構えていた幽太郎が、自分の体が放つ熱で二人を暖めながら、話しかけた。 『…大丈夫…ボク、怖イ、ドラゴン、ジャナイヨ… 一緒二、オ母サンノ所二帰ロウ…?』 その瞬間。 タビタは堪え切れぬように泣き出した。安堵の涙ではない、洞窟の中で見せた涙でもない、かあさんっ、かあさんんっ、と繰り返し呼びながら泣き続けたタビタに、優は気になっていたことをそっと尋ねる。 「なあ、タビタ。ひょっとして、おかあさん、ベスタさん、さ」 自分の声が冷えてしまいそうで優はためらう。けれどこの先も、ロストナンバーならば、何度も同じ事に出くわすのだろう、そう自分を励まして、 「もう…いないのか…?」 「……う…んっ…うんっ……うんっ」 しゃくりあげる声は優の背中で悲痛に響き渡る。 病気だった。ちょっとしんどいって言って、俺が畑の仕事変わって、とうさんが見てた、けど、もう、あっという間に苦しそうになって、辛そうになって、けど、最後は、俺に笑ってくれて。 『タビタなら、安心ね』 「だから、俺…っ、俺…っ」 諦めるわけにはいかなかった、絶対絶対諦めるわけにはいかなかった。 小さな心にかけられた、命の願い。 「…立派だったよ」 優はぎゅっとタビタの体を包み込む。 「お前は、立派だった」 早く家に戻ってやろうと思う。待ちかねているだろうラールに無事を告げ、暖かい毛布と温かいスープを準備してもらおう。 優は胸の中に広がってくる切なさと傷みに歯を食いしばる。 どうして時に人生は、これほど惨く厳しい試練を課すのだろう。どうして時に人は、これほど苦しく辛い時間を耐えなくてはならないのだろう。 脳裏に過る幾つもの顔、守れたものもあれば失ったものもある、人生万事塞翁が馬、けれど、いつだって人は大事なものを変わることなくそのままで、守り愛しみたいはずだ。 そうだ、人は、その切なる祈りを抱えて、叶わなかった願いを抱いて、強くなり成長し、もう一つ上の階段を上る資格を得るのだろう。 「タビタ、俺は、お前を誇りに思う」 嘘じゃない、今心底優は、この背中に負った小さな体に敬意を抱く。命を背負い切ることの難しさを知っているだけに、深く頭を下げずにはいられないのだ。 「旨いものを作ってやる」 食材を探して、温かい料理を作って、疲れ切った皆を出迎え、宴会の準備は出来ているよと笑おう。 「おいしいものを、食べるんだ」 「うん…っ」 遠いあの日に、傷みに震えた彼女を支え、笑顔を取り戻させたように。 ぐうあおおおおおあおあおあおあおあお! 背後で絶叫が上がる。 振り返ると、巨大化したゼロが石蛇が逃げられないように、石蛇と仲間が戦っている場所をまるごと手に掬い上げていくのが見えた。 「アレナラ…行ケルネ…!」 兄妹の安全を確保出来次第、石蛇を仕留めようと身構えていた幽太郎は、ゼロの手に掬い上げられていく石蛇に歓声を上げる。 さきほどから、皆を自分の体で護りつつ、石蛇の行動パターンを分析し続けていた、何処かに弱点がないか、どうすれば攻撃が最大の効果を上げるかと。 武器として命を受けた自分、その生き方を選ばなくなった自分の能力が、こんなところで使えるのが、奇妙で不思議だったけれど、力は諸刃の剣、力があることが問題ではなく、その力をどう使うかが大事なのだと学んでいる。 分析結果は逐一仲間に連絡する。情報を共有し、自分だけでは見つけ切れない攻撃のポイントを皆で探す。 もし、万が一、こちらに攻撃が来た場合はギアのプラズマトーチで牽制しようと思っていた。追い詰められたならば、荷電粒子砲をお見舞いしようと。 「頑張ッテ、皆! 頑張レ、僕!」 もっと解析能力を上げろ。もっと効率よく情報を集約しろ。もっともっと、システムを連動させ、もっと情報を絞り込み、皆の攻撃を最大限に生かすんだ。 これを達成出来なければ、自分達を慕い信じてくれたタビタの気持ちを裏切る事になる、二人の為にも絶対に仕留める! 「…チョット怖イケド…」 頑張レ、僕。 そう自分を駆り立てていた、幽太郎の前で、行き場を封じられた石蛇が天に向かって吠える。 ぐおおおおおおおおおおおおおお!! 「ちいっっ!」「くそっ!」 まるでそれこそ魔法のようだった。 ゼロの手に包まれ掬い上げられて、ついにこれで終焉かと思ったのに、砕かれた頭部から響く雄叫び、続いてそれに引き寄せられるように後方から見る見る岩塊が押し上がってきて、粉々にした頭部と、ジューンが封印のタグを貼付けようとした竜刻、そして輝きながら空中に跳ね飛ぼうとしたエメラルドを呑み込んでいく。 見る見る石に覆われていく頭部、中に消えていく二つの青に、もう一度仕掛けるしかないとジューンと雪が舌打ちした次の瞬間、透明で清冽な音が空気を割る。 今や、石蛇は最後の力を振り絞って、ゼロの掌から逃れようとしていた。上半身を高く持ち上げ、自らの頭部を自らの体で次々と呑み込むように上り詰めながら。 その体全部を地面に叩きつければ、おそらくはラールの家も畑も粉砕されかねないような状態、だが、その体が、突然響いた清冽な音とともに現れた、半透明の障壁に激しくぶつかって砕け、崩れ落ちていく。 「フェリックス・ノイアルベール!」 崩れた石蛇の向こうでにやりと笑った男は、なおも両手を掲げた。 どんっ! どんっ! どんっ! 竜刻やエメラルドのことを一切考えていないのではないかと思われるほどの、立て続けの粉砕魔法が、半分崩れた石蛇の体を容赦なく叩き潰していく。心得たようにゼロが両手をぱらりと開く。その手の間で砂煙を上げて砕け散っていく石蛇は、まるで魔法が解けて崩れ落ちる砂の城のようにも見える。 フェリックスは、その砂嵐の中、ひらりと体を舞わせて崩れる石蛇に寄り添い、素早く視線を這わせていく。捜しているのはおそらく、砂と岩の奔流に呑み込まれていく竜刻とエメラルド。 ずぁざあああああ! 崩れ落ちて地面に見る見る岩と砂の小山を為しながらも、石蛇はなおも体を再構築しようとするようだ。砕かれた岩がずるずるとある一点に引き寄せられて集まっていく、その焦点にフェリックスは着目する。 「ジューン! 雪!」 叫ぶ声に二人は応じた。ジューンが電光石火の勢いで駆け寄れば、雪はまるで辺りの空気がちりちりと鳴るような霊力を黒太刀に満たして振りかぶる。距離はあるが、切り裂くのは岩そのものではなく、繋ごうとする力そのものだ。 二人の殺気を感じ取ったのだろう、強敵に対抗するためか、それまでたった一体になっていた石蛇が、根本からわらわらと分岐して広がった。まるで多くの頭部を持つ蛇達が次々立ち上がっていくような様子、しかし、竜刻とエメラルドはやはり同じ頭部についている。 「甘いな」 冷笑一閃、それを見計らって、ざらざらと立ち上がってくる石蛇の体をフェリックスは氷魔法で次々凍らせていく。とにかく短時間で決着をつける予定だったのだ、このままずるずると相手をしていては、村や洞窟に到達する。 「決めるぞ!」 激励の声と同時にフェリックスの両手が振り上げられる。黒いいささかボロに見えるマントが翻り、その背中に真白な翼が大きく羽ばたく。空中を走る雷撃が立ち上がった余分な頭を次々と打ち砕く。 紫の光柱の間をくぐり抜けるように、ジューンと雪が残った一つの体を駆け上がる。思い出したような石蛇の迎撃を、雪が自分の体を盾にジューンを庇い、少しでも速く、少しでも力のあるうちに先へ送ろうと太刀を揮う。ジューンはそれに応じて最大攻撃力を保ったまま、見る見る頭部に迫っていく。 「避けろよ!」 フェリックスが魔法を絞り込んで、頭部先端を叩いた。石蛇が怯んだ一瞬に、雪が太刀を薙ぎ払い、砕けた頭部をジューンが掴む。煌めく光が一つ、あれは竜刻だろう。ジューンの手が瓦礫の中を潜り込んで翻り、封印のタグをついにその表面に貼り付ける。 ぎゅあああああああああっっっ………。 切なげで哀しげな声を上げて、石蛇は大きく仰け反った。フェリックスの氷魔法で凍てつかされた体を揺さぶり、絶叫しつつ崩れ落ちていく。 その中で魔力サーチにひっかかった成分、エメラルドが一緒に地面に落下していくのをフェリックスは追う。 ラールの畑に後数歩、そういう状況で石蛇はついに地面に崩れ伏した。 もっとも、森はずたずただ。あたりに多くの岩塊が散在し、まるで地震でもあったかのような有様だ。 フェリックスが歩み寄って拾い上げたエメラルドは、正直なところ、傷つき汚れくすみ、ちょっと見にはただの石ころに近い状態にまで劣化していた。もうちょっと戦闘が長引けば、粉々に砕けていたことだろう。 「さて、これであの御婦人が納得するか、だが」 摘まみ上げて懐に片付け、洞窟の方を振り返る。 子ども達は無事保護されたようだ。 洞窟内は魔法が効きにくいということだったから、外からの探知も困難だっただろうが、もし自分一人が探索していたならば、子ども達を捜し出すのは厳しかっただろう。魔力を振り絞れば、なんとなくの方向ぐらいは掴めたかも知れないが、子ども達の体力が保ったかどうか。 顔を合わせたらタビタを褒めてやろうとフェリックスは思う。 よく頑張った、一人前の男として勇敢だった、と。 「後始末も大事なのですー」 巨大化したゼロは、崩れ落ちて点々と周囲に岩山を残した石蛇の体を、子どもの砂遊びよろしく、道や畑から移動させて片付け始める。 「待たせてごめんな。よく頑張った!」 自分も満身創痍のアルウィンは、応急処置をしてもらうのも待たずに、タビタとマールに駆け寄って力づけた。 家に向かっていく二人と仲間に咆哮し、体力を上昇させておく。 ベスタのことを知った今では、タビタの強さに感服するばかりだ。きっと、今後も更に強くなることだろう。 「マール、タビタはいい兄ちゃんだな」 撫子に抱かれて半分眠っているようなマールがこっくりする。 「今の心、忘れるな。そしたら旅人、いつでも絶対来る」 温かい牛乳とチョコ、新しい玩具を家の方に置いてきた。渡してほしいと優に頼んで、アルウィンは洞窟を振り向いた。 ラールが今、すっと洞窟の隅から中に入り込んだのが見えたのだ。 気づいてみれば、こちらへ向かっていたはずのヴァネッサやイルナハトの姿もない。 家に居るのだろうか、いや、ひょっとして。 「怖そうなおばちゃん居るけど、お名前とこんちや言えば大丈夫」 タビタが不思議そうに首を傾げるのに、万が一ヴァネッサが居たならと言い置いて、アルウィンは傷から流れた頬の血を拭い、洞窟へ戻る。二人のためにと持って来ていた長靴防寒着を着込んで、中に足を踏み入れ、違和感に気づいた。 虫がいない。さっきまで、あれほどうじゃうじゃと居たはずなのに。 トラベラーズノートで知らされたいろいろな情報、特に幽太郎からの洞窟の構造についての話を思い出す。 そうだ、アルウィンも前から、タビタ達の声が導きの書に届くのが不思議だった。 ひょっとして、旅人絡みの何かがここにはあるのではないか。壊されないようにするために、魔法も無力化されているのではないか、そう疑っていた。 とりあえず、入り口でビー玉と花を置いた。 今のところ、声が届く理由はわからないし、きっと昔から守られ大事にされてきた場所だろう。それならば、荒らすわけにはいかないだろう。 タビタ達の声を届けてくれる礼を告げ、それからラールの匂いを追って洞窟に入る。 それほど苦労はしなかった。 ラールの歩みはゆっくりで、それはすぐ側を歩く人間に合わせられていると知った。 「もう二度と来ないつもりですか」 「……同じような口調で聞くのね」 静かなラールの声。冷ややかなヴァネッサの返答。 「代々、あなたのことを聞かされていた」 「洞窟で呼べとは言ってないわ」 「ではなぜ来たんです」 じゃり、とアルウィンの足下で砂が鳴った。ふうっと空気が動いて、身構えるまでもなく、すぐ側にイルナハトが実体化していた。ちりちりと毛が逆立つ殺気に、アルウィンは体を竦める。 「ヴァネッサ様」 「好奇心はロストナンバーの特性よ、放っておきなさい、イルナハト」 言い捨てるヴァネッサにアルウィンは声をかける。 「……石、たらかもも(宝物)? 見つかって良かったな」 「随分と傷だらけになったようだけどね」 ヴァネッサは冷笑する。 「飾ることもできやしない」 「どこ、行く気だ」 「終わらせることにしたのよ」 ヴァネッサの声はどこか虚ろだ。 「…この人は」 ラールが口を挟んだ。 「あいつがこの洞窟を狙った原因を取り除くと」 「石蛇か? げんいん? 何だ?」 「うるさいから、子どもは嫌いよ」 すぐに謎解きを欲しがるわ。 言い捨てて再び歩き出すヴァネッサに、一瞬ためらった後、アルウィンは走り寄る。 「そこ濡れてる。気をつけて」 およそ、洞窟探検には向かないドレスとヒールに、思わず声を出すと、くるりと振り向いたヴァネッサが薄笑みを浮かべた。 「あなたこそ、気をおつけなさい」 びしゅうっ! ヴァネッサの手から扇が瞬時に形を変えて鞭となって空中を奔り、アルウィンの背後を薙ぎ払う。 ぞぞぞぞっっ……ぐしゃあああっっ。 いつの間にそんなに集まっていたのだろう、振り向いたそこには、アルウィンの背丈を遥かに越える虫が集まり、今にもアルウィンを呑み込もうとしていたように揺らめいていた。 だが、それもヴァネッサの『ヘヴンリー・テンプテーション』に吹き散らされるように崩される。単に集まりを切っただけではない、中心となる虫がいたのだろう、数匹の色の違う大きい虫が悉く体を分断されてぬらぬらとした塊になっている。 「ここの虫は、人を食べるの」 「っっ」 アルウィンは慌ててヴァネッサの近くへ駆け寄った。 「それも、石蛇の活性化も、想定外だわ」 古い魔法は人の手に負えないということね。 「どういうこと?」 「……昔話よ」 洞窟の奥へ進みつつーーそのルートは幽太郎が人工的に作られたようだと訝った道そのものだったがーーヴァネッサは独り言のように語り始めた。 昔、この洞窟の近くには、両眼に竜刻の入った竜の骨のようなものが居た。あるとき、竜刻の片方を持ち去った者が居た。 その者はどこか別の地方で、奪った竜刻の暴走に巻き込まれて死んだらしい。 残されたもう片方の竜刻は、バランスが崩れたのだろう、こちらも竜刻の暴走が始まった。 そこで、ついに世界図書館に依頼があり、竜刻の回収依頼が出されたが、それを受けた一人がラウド・アルデリ、後にヴァネッサと親しく交わることになる男だった。 「ラウドが見つけた時、竜刻を宿した石蛇は、もう片方の目に見事なエメラルドをはめ込んでいたそうよ。それが人為的なものか、それともどこかの岩場で偶然吸い込むことになったのかはわからない」 ラウドは竜刻と一緒にエメラルドを回収し、ヴァネッサに送り届けた。 『この宝石はあんたの瞳だ。あんたの瞳はターミナルに縛りつけられるものではなく、未知の世界にあってこそ、生き生きと輝くものじゃないのか』 「……ラウドは気づいていた。わたくしが、退屈していることを」 受け取った宝石を加工させ、手元において眺めているうちに、ヴァネッサは奇妙な感覚に囚われるようになった。 まるで、ヴォロスという世界が、自分を、ヴァネッサ自身を、宝石を通して観察しているような。あるいはまた、加工されたそれは、単に大きなエメラルドではなく、ヴァネッサのどちらか片方の目でもあるかのような。 「野蛮なヴォロスに興味はなかった」 ヴァネッサはその宝石に『シークレット・エメラルド』と名付けた。 「組成を調べれば、あるいはエメラルドではなかったのかも知れないわね」 ある日、ラウドはその宝石をヴァネッサから借り受けたいと言った。 『本来あるべき世界へ戻してやりたい』 宝石のレベルから言えば、つまらない石だった。そんなものに執着していると思われるのは心外だったし、愚かに見えるのも嫌だった。 ヴァネッサは冷笑とともに投げ与えるように、ラウドにそれを渡した。 だが、手放してすぐにヴァネッサは後悔した。 どの宝石も、『シークレット・エメラルド』のように不思議な感覚を与えてはくれなかった。宝石は宝石で、美しく磨かれ輝いていたが、心に繋がるようなものはなかった。 まるで自分の片目を奪われたような、そんな感覚が消えないのが不愉快で、その感覚を消し去るべく、ついに、ヴァネッサはヴォロスを訪れた。 「愚かな旅だった」 宝石は現地の少女が所持していた。 望みのものを何でも与えると言っても首を振らず、ヴァネッサは呆れ果て、ヴォロスから離れた。 だが、再び、ターミナルで苛立ちと執着がヴァネッサを苦しめる。明けても暮れても、あの宝石に自分の片方の視界を、いや、自分が過ごすべき素晴しい時間と空間を盗まれたような気になった。 耐え切れず、もう一度ヴォロスを訪れた時には、宝石は石蛇に奪われていた。 その代わりに。 「わたくしは、シャールという少女に出逢った」 歩き続けるヴァネッサの声がしんと静まる。 「わたくしを…わたくしの、孤独を、理解してくれた」 どれだけ失おうと、泣き叫ぶことのできないこの身は同情を得ることなどない。 どれだけ傷つこうと、痛みを声高に訴えることなどプライドが許さない。 「…わたくしを、何だと思っているのかしら」 魂の底まで倦怠に満ちた肉の塊だとでも? 「世界がわたくしを蔑むのなら、わたくしもまた、世界を愚者の祭りとして眺めようと決めていた」 与えられた役割をこなし、与えられた芝居を演じ、与えられた世界で、自分の命の健やかさを捧げて、腐り落ちていく矜持を嗤う。 「死がないということは、命などないということよ」 だから、わたくしは、自分の居場所を墓所と定めた。 「……シャールは、わたくしにとって、命そのものだった」 「……おばちゃん」 さびしかったか…? アルウィンの問いに、ヴァネッサは応えず、唐突に立ち止まった。 いつの間にか現れた正面の壁には、巨大な花のような紋様が刻まれている。その中央の穴には、輝く青い炎のように揺らめく透き通った塊がはめ込まれていた。 洞窟の中でも鮮やかに人の顔を照らし出すそれは、ただの宝石とも、また竜刻とも違う。 強いていえば、いつぞや壱番世界で宝石探しに出向いた一行が目にした、空へと消えたあの石のようにも見える。 「イルナハト」 「はい」 促されてイルナハトが、手にしていた黒い小箱を開く。 そこへヴァネッサが青い石を納めると、イルナハトは静かに蓋を閉じた、と、次の瞬間、ばきゅっ、と鋭い音がして、小箱が一気に小さくなり、小鳥ぐらいになり、金貨ぐらいになり、次には豆粒よりも縮んでぷっつり消え去る。 「この石はヴォロスの古い術だったの。竜刻を呼び込むことができる」 「同時に、あの石はヴァネッサ様の持つもう一つの石に合図を寄越すのです、訴えられた願いを」 いつか対になったエメラルドとともに、竜刻を抱えた石蛇は戻ってくるだろう。繰り返される願いの果てに、ヴァネッサは石蛇からエメラルドを奪回できるだろう。けれどそのとき、シャールはもういないのだろう。 訴えられた願いを聞きながら、ヴァネッサはヴォロスで積み重なる歳月を知る。絆の全てが世界に呑み込まれ、消し去られていくのを一つ一つ聞き届ける。 だから、アンタは出てかなかったのか。 誰かの声が響く気がする。 愛する者全てが死に絶えちまう世界を、見に行きたくなかったのかヨ。 「さて、戻りましょう」 ヴァネッサはくるりと振り返った。 「ここにはもう、『旅人』は来ないわ」 ラールが苦しげに顔を背ける。 「もう、あなた達は助けに来ないと」 「……中途半端な救いは、悲劇しか産まないわ」 緑の瞳が微かに翳る。 「世界はそこに生きる者達で背負うしかないの」 こんな騒ぎはもう十分だわ。 低く付け加えた声は後悔を滲ませているようにも聴こえる。 「違うぞ、おばちゃん」 アルウィンはその前に仁王立ちして首を振った。 「きっと、皆来る」 「…馬鹿馬鹿しい」 今、嘲笑うヴァネッサの目に微かな灯はともらなかったか。 「タビタやマールのことを気にする」 「……愚かなことだわ」 シャールを大事に思い、そのことばに頼ってしまった自分が引き起こしかけた崩壊を、ヴァネッサは悔いているのではないか。 「タビタ達が大人になって、子どもうまでて(産まれて)。孫も、ひ孫も見に来る、だって」 世界は変わり、人は変わり、同じ絆は作れないかも知れないけれど、ロストナンバーもまた、産まれ続けるのだろうから。 「繰り返し、大事なもの、分け合う」 「…」 びくり、とヴァネッサが体を凍らせた。威丈高に、ほとんど憎しみに近い瞳でアルウィンを睨みつける。 だが、アルウィンは怯まない。朗らかに明るく言い放つ。 「怖さなんか、平気だ、なくしても、も一度」 「っ」 手を伸ばし、ヴァネッサの手を握りしめて、アルウィンは笑った。 「こうやって、繋ぐんだ」 ラール達が戻った家では、ジューンと優が既にいろいろと準備を整えていた。 「お待たせいたしましたヴァネッサ様。それではお茶会の支度をいたします」 「目的は遂げられましたか、ヴァネッサさん」 テーブルセッティングを済ませ、料理を次々運び込みながら、優が笑いかけるのに、ヴァネッサが緑の目を細める。 「人って誰かと関わって生きている限り、変化し続けるものだと俺は思います」 「おめでたい発想だわ」 冷ややかな返答にも動じた様子もない優、さすがにロバート卿と親しくしているだけあるな、と周囲が頷いている。 「呼ぶ声は聞こえるから、これからは入口でね? 約束だよ、タビタくん」 「うん、撫子姉ちゃん!」 洞窟の願いをターミナルに届ける装置は外されてしまった。けれど、こっそりとイルナハトは約束してくれた、自分があの洞窟の管理をしようと。 『なぜなら、あの家族は、ヴァネッサさまにとって大切な方達ですから』 言い聞かせる撫子に大きくタビタが頷く横で、 「ヴァネッサさんは凄い芸をお持ちだと聞いたのです。ここはタビタさんとマールさんとのお近づきの印に披露するといいと思うのです」 ゼロがターミナルで話題になった衣装の大爆発を所望した。爆風からはゼロが皆さんを護る所存ですーとにこやかに告げられて、さすがのヴァネッサもどう応じたらいいか困ったのだろう、一瞬口を噤んで、ちらりとタビタを眺め、マールを見やる。 「…あれは手違いよ」 「俺、見たいな」 「マールも!」 「…………考えておくわ」 じゃあ、その時はゼロも参加するのですー。 高らかにゼロが約束を取り付ける。 ベスタのことはそれとなく知れ渡り、沈んでいたラールの表情も、重荷を少し降ろせたように思ったのか、少しずつ明るくなっていった辺り、ヴァネッサもイルナハトも、素朴ながら味わい深い優の料理に、険しい表情が緩み出したところで、雪が言い出した。 「あなたが他者のために心を砕くなら、私はあなたのために何かをしたいと思う」 それを貸して頂けないか。 指し示したのはヴァネッサの手に載せられた、傷つき埃塗れになったエメラルド、ひょっとするとターミナルに戻ったら捨てるんじゃないかと密かに思われてもいる。 しばしためらったヴァネッサが、アルウィンがどうなることかと息を呑んで見守っているのに気づいて溜め息をつきながら、雪に渡す。 「好きになさい」 「あなたが愛した誰か、あなたを愛した誰かの想いが、再びあなたの元へ還ればよい」 雪はエメラルドを部屋の隅の台に置き、周囲に少し空間を作って、ゆっくりと太刀を引き抜いた。静かに振り下ろし、また振り上げる。太刀が微かに空気を切る音だけが響く。 「きれー」 ラールの膝に抱かれたマールが目を細めて笑う。 雪は思う、宝石に残された誰かの意思を増幅させて顕現させ、ヴァネッサ卿に見せられたら、と。 (遺された意思が微弱なら、我が身に憑依させることで更に増幅することもできる) やがて、薄靄のように柔らかな光に包まれて、茶色の長い髪の少女が現れた。 「……おばあちゃん!」 「え?」「えっ」 茫然とした顔のラール、驚いてタビタとマールが座り直す。 少女は今にも何かを話しかけそうに唇を開く。ゆっくりと口が動く。開いて閉じる。微笑む。また、開いて閉じる。微笑む。 「おばあちゃん? 俺の?」 「違う、父さんのおばあちゃんだ」 「……こんちゃ、シャール」 アルウィンは小さく敬礼する。 ヴァネッサは何も言わず、ただただ食い入るように眺めている。 と、もやもやとその像が崩れて揺れ、やがてもう一人別の姿になったとたん、ヴァネッサが小さく声を上げた。 褐色の肌。黒い瞳。歳の頃は、30〜40歳ぐらいか。 「ジャックに…すごく、似てる…」 思わず優が呟いた。 「…そうです」 どこか悔しげなイルナハトがぼそりと唸る。 「この人が、ラウド・アルデリ」 「…………」 誰が示すこともなく、それぞれがちらりとヴァネッサの顔を見やり、それぞれにカップや料理に手を伸ばした。 「あ、これ旨い」 「ほんとだ」 「ルン、おかわり!」 「だろ、作り方を聞きたいかい?」 「オイシソウダネ」 「マールも!」 「ルン、おかわり!」 「是非、教えて下さい、優様」 「楽しい味だよね」 「おいしい、お兄ちゃん!」 「ルン、おかわりだ!」 「お茶がなくなるな、淹れてこよう」 「おかわり!」 「誰だ、ルンに『おかわり』教えたのは!」 「アルウィンもおかえり!」 「おかわりだよ、アルウィン」 まるでそこには誰もいないかのように、何も起こっていないかのように。 ヴァネッサがそれを見つめる顔に浮かんだ表情を、誰も見てないかのように。 小さな家で開かれた宴は賑やかに続く。 ざわめく声に紛れるように、微かな声がののしった。 「…ばか」 『エメラルド・キャッスル』が広く公開され、誰でも訪れる事が出来、必要とあらば宝石を一つ選んで持っていくことができるようになったのは、この依頼が終わって数日後のことだ。 代償はただ一つ。 「あなたが経験した冒険を話しなさい」 ふくよかな緑の貴婦人は、ソファに腰掛けて扇を手元に、そう命じる。 「何が欲しかったの? それは手に入ったの?」 応えはどんなものでも構わない。 その問いはただ、次の話のきっかけに過ぎないのだから。 尋ねれば話してくれるだろう。 白い胸に飾られた、傷だらけの緑色の石ころの話を。 それをどうして宝石であるかのように扱うのか。 或いは同じように飾られた、首もとの繊細なネックレスの由来を。 それを得るのに誰が関わり、どんな出来事があったのか。 また地下に飾られた特別な宝石の話もしてくれることだろう。 捜し出したロストナンバー達の活躍の数々を。 宝石は無尽蔵にあり、訪れるロストナンバーも後を絶たない。 彼女の名前は、ヴァネッサ・ベイフルック。 0世界一、我が儘で傲慢な女性として知られている。
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