ここはターミナルの一角、飲食店が軒を連ねるエリアの外れ。 華やかなパティスリーやオープンカフェ、どこか懐かしい定食屋に賑やかなスポーツバー……様々な業態の店がひしめきあう大通りから角を二つ三つ曲がり、心地よい街の喧騒もどこか遠くに感じられる裏路地に足を踏み入れふらりと歩けば、ターミナル外周の壁は意外とすぐに現れる。そんなところにひっそりと、昨日まで在ったのが、カーサ&カフェバル『アガピス・ピアティカ』。 かつてここには、濃い緑色のオーニングが目を引く入り口があった。 中には六席ほどのカウンターと、手前でほとんどオープンカフェになっている二人掛けのテーブルが二つ。それから奥の大きな食器棚には、様々なテーブルウェアの類に値札がつけて並べられていた。オーナーの趣味だろうか、壱番世界の北欧食器や日本の塗り箸などが節操無く並んでいる光景はどこかシュールで。いつも静けさに包まれてはいたが、挽きたてのコーヒー豆の香りや日替わりのランチ、スイーツのたまらない匂いが、控えめに人々の足を呼び止めていた。 食器についてなら、目的を言えば、だいたいのものは引っ張り出して揃えてくれる。あの店はそんなところだった。◆ 十一月の末日。ターミナルの飲食店街をぼんやりと歩く黒ずくめの姿は『フォーチュン・カフェ』の店主、ロン。彼もまた、あの店……アガピス・ピアティカを少なからず気に入っている一人であった。だから、店番として働くレイラ・マーブルがブルーインブルーへの帰属を決め、店を畳むことはだいぶ前から知っていた。「(今日が出立の日だった、か)」 今日の見送りはいらないと、レイラはロンに告げていた。見送られたら、寂しくなるからと。だからロストレイルが何時に出発するのかも、ロンは知らなかった。今頃はもうロストレイルに乗っているだろうか、司書の鳴海はいつブルーインブルーへの依頼を出してくれるだろう、何故かそう思う自分に気づき、ロンは少しだけ口角を上げる。「カフェラテの豆は何だったか、聞いておけばよかった」 少し濃い目にローストされた、あれはきっとエスプレッソ専用のコーヒー豆。目を閉じれば今も鮮やかに記憶の中から浮かび上がる、挽きたてのフレーバー。優しく深い苦みを思わせる、深呼吸すれば鼻の奥に残り目を覚まさせる玄妙な香り……そう、ちょうどこんな香りだった。「香りがする……?」 記憶の再生ではない、わずかにではあるが、嗅覚が香りを捉えたとはっきり分かる。気がつけば、ロンはアガピス・ピアティカがあった場所まで足を進めていたらしい。だが、店はもう閉まっているはずなのだ。ほら、緑色のあのオーニングも日替わりメニューの手書き看板も……。「ある……? レイラさん?」「あ、ロンくん! い、いらっしゃいませ!」 返事があるとは思わなかったロンが少しだけ目を見張る。とっくに旅立って行ったと思っていたレイラの姿がそこにあったから。普段は誰も居ないのが当たり前のようだった客席にもちらほらと人影があるのが、どうにも不思議な感じがした。「閉店、しましたよね」「そう、閉店なんだけど……」「今日、ロストレイルに乗るのですよね」「そのつもりだったんだけど……」 いつもより慌てた様子で料理と接客に勤しむレイラの背に問えば、なんとこの店のオーナーが閉店日をすっかり忘れて依頼旅行に行ってしまったらしいのだ。いつ帰ってくるかも分からない状態で、食材や食器の在庫をそのままにしておけなかったらしい。雇われの身なのだから放っておいてもよさそうなものだが、それを許せる性格では到底ないだろう。「このままじゃ乗り遅れちゃうけど、チケットはまた買えるわ」「事情は分かりました、大丈夫。手伝いとお客を呼んできます」 小さくこくりと頷いて、ロンは踵を返した。そろそろ、フォーチュン・カフェが開店する時間。だが、今日は臨時の休みとしたっていい。そう思いながらの足取りは、いつもより軽かった。「(祝箸のお礼は全員でしなければ)」 さあ、急げや急げ。 見送りはいらないと言った彼女を、賑やかに旅立たせなくては。◆「もう、ほんとにすみません……最後までばたばたしちゃって」 レイラは時計を気にしつつも手は休めずにくるくると忙しなく動き回る。まだ在庫が残っている店のシンボル、食器棚のガラス戸を開けて中の物を次々と取り出しているようだ。「……本当は、この食器棚を分解しに来ただけだったんです。オーナーが、持参金の代わりに持って行きなさいって言ってくれて」 店の奥の壁一面にほとんどぴったりおさまるほどの大きさのそれは、ロストレイルに載せるにはだいぶ苦労しそうな大きさだが、分解すれば小さな棚として使うことも出来るそうだ。そのうちの一つだけを持って行こうとしていたのだとレイラは眉を下げる。「あの、もしよかったら……この食器棚、皆さんで貰ってくれませんか?」 自分一人では到底全部持って行けないし、もうここに戻ってくることも出来ない。なら、最後に会えた人たちと、思い出を分け合うように。「皆さんと同じものを持って旅立てるなら、きっと寂しくないから」 恋する食器棚。最後に納めるのは、この街で出会えた人との絆。「その前に、全部片付けて行かなくちゃ。……さ、いらっしゃいませ。恋する食器棚と珈琲のお店に、ようこそ」 時間が止まったような静けさをまとっていたはずのこの場所は、最後の最後に少しだけ、楽しげなざわめきに包まれる。◆◆!注意!パーティシナリオでは、プレイング内容によっては描写がごくわずかになるか、ノベルに登場できない場合があります。ご参加の方はあらかじめご了承のうえ、趣旨に沿ったプレイングをお願いします。
いずれ訪れる、旅立ちの日。それについての準備は皆、出来ているようで意外と、出来ていない。 今日、ターミナルを旅立つはずだったこの少女も、例外ではなかった。 ただ……。 「心の準備は出来てたんですよ? 本当です」 そうは言いながらも、この場所から去ることをどこか惜しむような横顔。人はその惜別を、絆と呼ぶのだろう。 ◆ 六席のカウンターと、二人がけのテーブルが二つ。今日閉店のカーサ&カフェバル『アガピス・ピアティカ』は、この十席の椅子が埋まったことなどほとんど無い。ターミナルの外れにあるこの場所らしくひっそりと、最後の営業日を迎えて閉店するはずだった。 「お前らしいな」 「オーナーらしいって言ってください……」 「はは、結局そのオーナーの顔も知らないままの閉店じゃなぁ」 カフェモカを出された鰍は、最後に会った日と同じ屈託の無さでレイラに笑いかける。ロンが人を呼ぶのに尽力したせいで、十ある客席のうち九が埋まっている状態だった。鰍も本当はもう少し静かに見送ってやりたそうだったが、これはこれでらしいなと笑いを噛み殺し、カウンターに小さな揃いの箱を二つ、そっと載せる。 「祝いくらいは渡さないとな。……お前へのプレゼントなら選べるぜ」 「ありがとうございます! あ、来年の父の日、アヴァロッタに来てくれてもいいですよ?」 「ばーか、そこまで世話かけねえよ。まあでも、また遊びに行くよ」 箱の中には、蔦を纏った葡萄の房を象る銀細工のネックレスがそれぞれ納まっている。新しい土地、新しい人生にも、生まれ育った場所の絆を受け継いで。 「レイラさーん、また来たのですー! 今日のノラはお手伝いなのですー」 ノラが呼びかける声に、寂しさは無かった。今日のノラはちょっぴり大人、別れには寂しさがつきものと知ったせいだろうか。 「博物館でのお茶会はだーいせいこーう! なのですー」 「わぁ、よかった。パーフェクトなお茶会でしたか?」 「もっちろんなのですー!」 一緒にカップを選んでくれたレイラのおかげだと満面の笑みを浮かべるノラにレイラもにっこり。 「食器棚をお片づけすると聞いたのです、ノラも貰っていってもいいです?」 「勿論です、好きなものを持って行って下さいね」 「ああ、じゃあ男手でちゃちゃっとやろうぜ。俺こういうの結構得意だし」 「女子だって負けませんよぉ? こう見えて運送屋さんのバイトで鍛えてますからぁ」 健と撫子がそれぞれ自前で持参してきてくれた緩衝材で食器を手早く包み、これもいつの間に持ってきたのか工具一式を取り出して手際よく食器棚を分解していく。健は大学でロボット研究会に入っているというだけあってプロの引越し業者も裸足で逃げ出す仕事ぶりだ。それを撫子が傷つかないよう毛布で角を覆い、ビニール紐で器用に持ち手を作って梱包はあっという間におしまいだ。 「レイラさんが持っていく棚はぁ、私がプラットフォームまでお運びしますからねぇ?」 「お前はロストレイルに乗るのが最優先なんだから、面倒な事は何でも言っていけよ!」 「わ……食器棚、もう分解出来ちゃったんですか? ありがとうございます、すごく助かります……!」 あとは運びだされるばかりになった食器棚を前にお腹の虫が鳴る一同。タイミングよく、手伝いに来てくれた面々が軽食やお茶を手に食器棚の前に大集合。 『美味しい? ○ ×』 「このお紅茶はとっても美味しいのですー、まるなのです!」 余った在庫の紅茶缶やドライフルーツのパッケージを色々開けて、即席でオレンジピールのブレンドティーを振る舞うリヤナにノラはにっこりと笑う。 「このおみかんのブレンドは素敵なのです、次のお茶会の為に買っていくのですー。もしよかったら考案者のあなたもお茶会にご招待するのです」 『ありがとう 是非お呼ばれしたいな』 「そういえばレイラさん、店の鍵はどうします?」 「オーナーがご不在のままでは何かと不用心でしょうから、お戻りになられる日まで店番を引き継がせていただいてもよろしいでしょうか?」 カウンターの中でてきぱきと料理を出し、給仕に勤しむ優とジューンの申し出に、レイラは安堵したような眼差しで二人を見やる。 「ありがとうございます、でもオーナーが帰ってくるまでに賃貸の期限が切れちゃいそう……そうだわ、ここが無事に片付いたら、大家さんに鍵をお返しいただいてもいいですか?」 「かしこまりました、確かにお預かりいたします」 「任せてください! あと、オーナーに伝言とかあればそれも預かりますよ?」 「すみません、よろしくお願いします。オーナーには……うーん」 きっとまたすぐ依頼旅行で会うだろうから、別れの言葉がぱっと浮かんでこないのとレイラは笑う。また会える別れならそれくらいがちょうどいいのかもしれませんねと優も笑い、二人は料理に戻った。その横ではくるくるとせわしなく働くレイラを気遣ったジューンが、ロストレイルの車内で召し上がれるよう勝手に拝借してしまいましたが……と在庫のフタ付きタンブラーにコーヒーを詰め、残った食材で作ったサンドイッチを包み、店舗の鍵と引き換えに手渡して。 「お店を気遣うお気持ちは素晴らしいことですが、大事な方がお待ちになられているのでしょう? どうか私達に任せて、気持よく出立なさって下さいませ」 「はい、ありがとうございます。この間の花祭りの時もそうでしたけど、この街の人たちって……あったかいですよね」 冷めないコーヒーのぬくもりは、一人でロストレイルに乗ってからのお楽しみ。 ◆ 『いらっしゃいませ、アガピス・ピアティカへようこそ。本日のランチはおまかせメニューのみになります』 まだちょっと声が出ないのでスケッチブック片手に筆談で接客するサクラは、言葉に出せない分とびきりのスマイルでお客を呼びこむ。次々とカウンターで作られてゆく料理を確かめてはメニューブックを書き換えて、何ならその場で料理のイラストを描いてどんなメニューかの説明も忘れない。 「(知らないお料理でも、食べたら美味しいですもんね)」 「お身体本調子じゃないのにすみません、サクラさんも休んでくださいね?」 『大丈夫! レイラさんが幸せになる為の日です、私こういうシチュ大好物ですし! 私が頑張った分、絶対幸せになって下さいね』 さらさらとサインペンで走り書きされた激励の言葉に、レイラはペンを取ってスケッチブックの片隅に小さく『頑張ります』と書き記す。まるで誓いの言葉のようなそれを見て、サクラは今日いちばんの笑顔を浮かべた。 「式の日はありがとう、まさか祝電まで貰えるなんて思わなかったよ」 「とんでもないです、お祝いは多いほうがいいじゃないですか」 リガトーニを固めに茹でて、合挽肉たっぷりのボロネーゼソースと和えたものをチェダーチーズと一緒にグラタン皿で焼きあげているのはロキだ。オーブンから漂うトマトとチーズのいい匂いに、皆オーブンから目が離せないでいる。 「それに、わたしだってロキさんからお祝いをいただいてしまったもの。……これ、そうですよね?」 「ああ」 レイラがストールの結び目につけているバロックパールをあしらったピンに、透明感のある桃色の石飾りが増えている。壱番世界のルーン文字で移動・変化を現す文字が刻まれたそれは、レイラの胸元で控えめだがあたたかい輝きを放っていた。 「桃色って、人の気持ちを慮る色なんですよね。……わたしも、お二人みたいになれるかな?」 「なれるさ、その気持ちを忘れなければ」 「はい。奥様にもよろしくお伝えくださいね」 イルファーンとエレニアが連れ立って店を訪れたのは、これから二人で暮らす日々の食器を選ぶ為。ターミナルから一つの店がなくなってしまうことを二人とも惜しんでいたが、哀しい別れではなく新しい人生への船出であると知っているのもまた二人。 「エレニア・アンデルセン、僕の自慢のお嫁さん。君の目利きを信頼するよ、買うものが沢山あるから一仕事だ」 「そうね、ここならきっと素敵なモノがあると思うの。……でも食器を選んだことが無いから、とっても新鮮です」 エレニアは元居た世界では旅を続けていたせいか、食器は持ち歩くもの、一つを長く使うものというイメージがまだあまり無い。でも、あてのない旅はもうすぐ終わる。イルファーンと二人で家庭を作り、いつか二人から三人、四人に増えるのなら。 「イルファーン、少し気が早くありませんか? ふふ」 「その時になって慌てるよりずっといい、レイラ・マーブルもそうは思わないかい?」 「そうですね、これから使うものがお手元にあれば新しい生活もきっと想像しやすいですよ」 「そうかもしれません……どんな食器が私達の暮らしを彩ってくれるのかしら、たくさん見て回らなくちゃ」 成長しても使えるシンプルな子供用の食器やカトラリー、同じメーカーで揃えた大人用の食器を二人分、お客様用も必要かな、この間作ってもらった料理をあの大皿で盛りつけてみたい……そうやって選んだ品物を山と抱え、永遠を誓い合う二人が幸せそうにアガピス・ピアティカを後にした。 「こんにちは、ゼシおかいものにきたの」 「はい、いらっしゃいませ。今日はおうちの人のおつかいですか?」 「ゼシはゼシのおかいものにきたのよ、魔法使いさんとゼシが壱番世界でつかう食器をちょうだいな」 小さいながらもしゃんと背筋を伸ばして淑女らしく振る舞うゼシカに、レイラも失礼いたしましたと眉を下げて。一緒に住んでいるツーリストの魔法使いが、ゼシカの故郷である壱番世界に帰属するのだとゼシカは嬉しそうに口元を綻ばせる。 「ゼシと魔法使いさんが家族になった記念なの」 「わかりました、ずっとお揃いで使っていられるものにしましょう」 レイラが在庫棚から出してきた琺瑯で出来た味わい深い赤と青のカップは、それぞれにシーリング蓋がついていて、カップ以外の用途にも使える便利な一品だ。 「うんっ、とってもかわいいの! ありがとうレイラさん、さよならだけどおげんきでね」 「ありがとうございます、ゼシカちゃんと魔法使いさんも仲良くね」 お互い仲良く幸せに、そんな願いを込めて小指を絡めるのは約束のしるし。手を振った先には、それぞれの新しい日々が待っている。 「食器か……ゼシカに何か買ってやりたいな」 「(ゼシカ……? あれ?)」 ゼシカが店を立ち去ってから、散歩の途中で偶然訪れたハクアが興味深げに賑やかな店内を覗き込む。独り言のようにハクアの口から出た名前に気付き、レイラはハクアの求める品物を探そうと耳を澄ませた。 「五歳くらいの女の子は、どういうものを喜ぶだろうか? 今度その子と、家族になるから……」 「かしこまりました、おまかせください」 きっと彼が、ゼシカの言う魔法使いさんなのだろう。カップではない何か揃いのものをと在庫を見回し、レイラは木製のとあるスプーンに目を留める。 「木のスプーンは壱番世界でお祝いに贈られることが多いんですよ」 「ああ、木はいいな、派手すぎないし」 葡萄の蔦模様が彫られた柄に赤と青のリボンを結んで、レイラからも新しい家族への祝福を送る。ふたりが家に帰ってから、きっと今日の出来事や買ったものについてをおしゃべりするのだろう。その時、ふたりの間には優しい驚きがあるに違いない。 「旅立ちの日ね……って、そんなムードじゃなさそうね」 「すみません……」 「まあ、いいわ。ちょうど良かった、今日は欲しい物があるの」 楽園の呆れたような笑みにはほんの少しの親しみが滲んでいる。それはレイラのストールで光をいびつに反射し優しく輝くバロックパールの飾らなさにも似ていた。 「私、ヴォロスに帰属することにしたの。だからあちらの文化にも馴染むマグカップが欲しいわ」 どことも知れない世界から来たツーリスト・レイラが選んだ、どこか異世界のマグカップ。それを持って、ヴォロスへ行く。それは東野楽園がロストナンバーとして生きた証。 「この街のことも、貴女のことも忘れないわ。大人になるってそういうことじゃない?」 「……はい」 今はまだ、思い出という名の箱に収まるには大きすぎるたくさんの記憶。いつかもっと長い時間を生きて、今日や、もっと前、この街で芽吹きそして消えていった初恋を思い返す時、笑顔でいられることが出来たなら。 「無闇な嫉妬はしない主義だけど……貴女が少しだけ羨ましいわ」 ◆ 「あ、本当に開いてるね。忙しそうだなぁ」 店の前まで来たことはあるけれど、中に入ってみたことはない。自分もこの街を出て再帰属する予定だから、今日が終わればきっともう会うことも無いだろう。ニワトコは少し緊張した面持ちで緑色の布屋根をくぐる。 「レイラさん、こんにちは」 「あっ、ニワトコさん? いらっしゃいませ!」 「今日で最後だって聞いたから、来てみたんだ。実は、ずっと買おうと思ってたものがあって」 大切な人の故郷に、共に帰ると決めた。その人とふたりで使っていけるものを選んでほしいのだとニワトコは言う。 「きれいな食器がいいなあ、あの人が作ってくれるものはどれもとってもきれいだから」 「それならガラスや漆の器がいいかもしれませんね」 「漆……そうだ、お箸と箸置きもお揃いのものが欲しいな」 一緒に暮らす時間の中で、いつも手の中にあるもの、それが食器。これから過ごす日々の中、少しでも長くあなたの手と繋がっていたい。そんな願いを込めたニワトコからあの人への贈り物。 「ハロー、ミスレイラ。お手伝いが必要だって聞いて来たのよ」 ミスタ・ハンプをお供に現れたメアリベルは小さなメイドさんになって給仕にお皿洗いに大活躍、カフェ・ミスチヴァスでならした腕前は伊達じゃない。 「メアリはいい子、とってもいい子! ミス・レイラも安心してお嫁に行けるわね?」 「おー、レイラお嫁さんなる? おめでとおめでと!」 大きめのエプロンに三角巾姿でメアリベルに同じく給仕の手伝いに励むアルウィンが、お嫁さんという単語に目を輝かせる。お祝いも言いたいけど、それよりも料理のお皿を運ぶたびによだれが出そうになるのをぐっとこらえて、アルウィンは笑顔で接客につとめる。旅立ちの日には、寂しい顔より笑顔でいたほうがいいと知っているから。 「レイラ、お祝い! すてきなお嫁さんのまほーかけるぞ、ぷいぷいぷい~っ」 「わぁ、綺麗。お洗濯のしゃぼんだまみたいね、ありがとう」 エプロンのポケットから取り出したビー玉はアルウィンのとっておき。一番大きくて、きらきらしてているそれをレイラの手に握らせて、その上からアルウィンがぎゅっと両手でレイラの手ごと握る。ちいさなアルウィンの手のあたたかさは、ビー玉にもしっかりと伝わっているに違いない。 「盛況だね。忙しいところ恐縮だが、食器を一通り選んでもらえないかな」 「レイラさん、こんちはッス! って先生じゃないッスか! これも運命ッスかね」 「そう思うのは君だけじゃないかな」 偶然同じタイミングで居合わせたミチルの熱烈なアプローチをさらっとかわした春臣はレイラに対し胡散臭いほどのさわやかな笑顔を見せた。 「一揃え……どんな方がお使いになるものでしょう?」 「うちの従者なんだ、青銅色の肌で音楽家向きの美しい手をした奴だよ」 訳あって今はまだ来客用のものを使っているが、彼女が所有するモノを与えたいのだと春臣は目を細め、娘に贈り物を選ぶような眼差しで微笑む。 「先生ズルくないッスか!? ルサちゃんに贈るなら自分も選ぶッス!」 「こうなるから一人で来たのに……」 どうやらミチルも知った仲の相手らしく、棚から出された食器の前で喧々諤々の三人。 「お二人の大切な方なんですね?」 「……まぁ、そうだね」 「当然ッス!」 軽くて扱いやすいという理由で竹のカトラリーと木の皿やスープボウルを一通り、一人分だけでは寂しかろうと結局三人分の食器を買って、ミチルははたと本来の目的を思い出す。 「お店の手伝いに来たはずがすっかり先生とルサちゃんに夢中だったッス、改めて片付け手伝うッスよ!」 既に分解されて梱包の終わった食器棚を、持ち帰りたい人が選んで手に取りやすいよう並べ直したり、売れてしまって梱包が解かれた食器をまた梱包しなおしたりと、細かな仕事をミチルは手際よくこなしていった。 「全部レイラさんの思い出の品ッス、どれもおろそかに出来ないッスよ!」 「ありがとうございます、そう言ってもらえるとすごく嬉しいな」 長らく選ばれなかったであろう食器たちを丁寧に乾拭きしながら、レイラも頷いてみせる。 「自分もルサちゃんと先生と沢山思い出作るッス。そうだ、片付け終わったらレイラさんに応援歌歌うッス! レイラさんとギルさんにいい事たくさんありますように!」 「応援歌、ステキ! あたしも一緒に歌わせてください!」 「お、いいッスね! 音楽は大勢でやったほうが楽しいッス!」 リニアの愛らしさと、ミチルの強さ。ふたつの異なる歌声が、ちいさな店の中でひとつのハーモニーになる。 「(あたしは、飲み物もお料理もいただけないけど……)」 それでも嫌な顔をせずに迎え入れてくれたこと、たったそれだけのことがリニアにはひどく嬉しかった。だから、出来ることで見送ってあげたい。最後の一日を、寂しくなく、うんと華やかに。この街で出来た知り合い、友達、みんなそれぞれ、行きたいところを決めて出て行く、あるいは出て行こうとする人が増えてきた。リニアも元の世界に帰りたい、その前にこの街で、もっと沢山の笑顔を振りまいて。 ◆ 「ええと、残ってるのはじゃがいも、玉ねぎ……根菜やかぼちゃが多いですね」 「せっかく届けてもらったのに余らせちゃってごめんなさい……」 「大丈夫ですよ! どれもちゃんと保存してくれてますから、まだまだ新鮮です」 七夕の日以来、アガピス・ピアティカではソアの畑で育てた野菜や果物を多く使っていた。ソアとレイラは台所の一角で残ったじゃがいもとかぼちゃを蒸かして、マッシュポテトやかぼちゃペーストを作っている。足の早い葉野菜や果物は綺麗に使いきっているのを見て、食材が大事にされていたことを思いソアは誇らしげな気持ちで無心に手を動かす。 「これでよし。おうちで冷凍しておけばポタージュやサラダに使えますね」 「レイラさんのお料理、もう食べられないんですね……わたしも少しいただいていっていいですか?」 「勿論! ……あ、そうだ。ソアさんに渡したいものがあるの」 レイラが冷蔵庫から取り出したのは、広口のガラス瓶。中にはたっぷりの苺ジャムが詰まっている。果実を潰さないよう丁寧に煮たそれは、ルビーが詰まった宝石箱のようだ。 「あ、もしかして」 「うん、ソアさんの苺。昨日作ったから、うんと日持ちするはずです。レシピもあげるから、いつか大切な人に作ってみてほしいなって」 冷蔵庫に磁石で貼ってある古びた紙をそっと取り、ジャムの瓶と一緒に紙袋に入れて。その手にそっとソアが差し出したのは、革紐の首飾り。透明な樹脂に閉じ込めた千日紅の花が控えめに色づいている。 「花祭りのお礼をしたかったんです。あの時勇気をもらったから……わたし、自分の気持ちを伝えられました」 一歩を、自分の足で踏み出した。背中を押してくれた一輪の花に、これからも胸を張って。 「レイラさん、お元気でなのです。ゼロは最後に、この間のコーヒーとプリンをもう一度いただきにきたのです」 「カラメルソースはたっぷりですよね?」 「もちろんなのですー」 持ち帰りも出来るプリンは余った卵と牛乳を使い切るのにたくさん作ったところだとレイラが答えれば、最初からそこに居たかのように、満席だったはずのカウンター席に自然に腰掛けるゼロはにっこりと笑ってプリンのバットが入っていた冷蔵庫を指す。 「それでは今日の記念にプリンを全部オーダーするのです、ここにいる皆さんと、レイラさんと、ゼロとで一緒にいただくのです。今日のゼロは義理人情溢れる太っ腹なのです」 「おーっ、いい匂い! 今日は賑やかだねぇ!」 湿らせた白砂糖を琺瑯の鍋に入れ、しばらく中火にかければすぐにカラメルの香ばしい匂いが辺りに立ち込める。挽きたてのコーヒー豆に負けない香りの強さがユーウォンを捕まえて、店はあっという間に心地よい喧騒に包まれた。じゅわじゅわと琺瑯の鍋肌で煮え立つカラメルはうんと甘くてほろ苦くて、いいことも悪いことも包み込んだ賑やかな人生に似ている。 「ささ、ここはゼロのおごりなのです。謎団子も添えた今日だけの特別なプリンなのですー」 謎団子の味……摂食する者の食餌経験に大きく影響されつつも非常にランダム性に富んだそれ、の中に、きっと今日、それから一人でこの店を訪れたときに食べたプリンと甘いコーヒーの味はきっと含まれているのだろう。味の思い出と紐付くのは、誰かと一緒に分けあってそれを食べたという情景の思い出。 「食べる頑張る、これもお祝い! ルン、全部食べる」 プリンは勿論、まだ消費しきれない料理を片っ端から食べつくすルンはしきりに時計を気にしていた。 「幸せ、掴み時ある。間違える、いくない」 「大丈夫ですよ、ロストレイルにはいつでも乗れるもの」 「ダメ! 間に合わない、みんな哀しい。ルンも哀しい」 目一杯に頬張ったボロネーゼソースのリガトーニとジャーマンポテトを飲み下し、ルンは空いた皿を下げながら次の料理に目星をつける。 「再帰属? 立ち会い要る。ギアと、ノート持って帰るやつが要る! ルンも付き合う、ロンも連れてく!」 「あ、そっか……じゃあ、また皆に会えますね」 「そうですね、その時は鳴海かルティさんが教えてくれるのかな」 皿を洗ったり、冷蔵庫の空いたスペースを掃除したりと控えめにだが必要な仕事を黙々とこなしていたロンが、ルンに名前を呼ばれて初めてフロアに振り返る。再帰属の兆候は出ていてもいつ帰属が叶うか誰にも分からない、だけどもしその時が来たら、必ず行きますとロンは小さく頷いた。 ◆ 「そういえば、あの食器棚って何で分解したの? 捨てちゃうならあんな風に梱包しないよねえ」 後から店にやってきたユーウォンがエスプレッソの小さなカップ片手にのんびりと、誰へともなく尋ねる。あらかた店の備品や食材も片付いてきて店にも余裕が出来たところ、そろそろ棚を分けてもよさそうだ。 「分解しても使える棚だし、捨てるのは勿体無いから、欲しい人に差し上げようと思って。わたしも一つ持っていくつもりなの」 「へえぇ! じゃあここの人ならおれがギアでお届けするよ?」 「あ、助かるな。うちはターミナルだから頼んでいいか?」 「ぼくは帰属先に持っていくつもりだけど、すぐじゃないから運んで欲しいな」 「ゼロは巨大化して持ってゆくので大丈夫なのですー、お心遣いありがとうございます」 「俺も実家の妹にだから自分で持ってくぜ」 「わたしも運んでいただきたいです……その、ちょっと大きめのを選びたいので」 「ノラも博物館まで運んでくれると嬉しいのですー、お紅茶の葉っぱも一緒がいいのです」 「了解、ターミナルの人たちは後で住所教えてね!」 食器棚の分け方と届け方で賑やかに盛り上がる面々から遠ざかり、空いた食器を洗って最後の片付けと身支度を急ぐレイラに、ユーウォンがそっと振り返る。今日一日忙しく動きまわっていたのと、最後に皆に会えたおかげか、その横顔に寂しさは無いように見えたが。 「ねえ皆、ちょっと耳貸してくれない? 静かにね」 「? ……あぁ、旅立ちにはこいつが要るな」 ユーウォンがその場にいた皆を集め、カバンから色紙とペンを取り出してみせると、ユーウォンの意図に気づいた鰍がにっと笑って人差し指を唇に立てる。 「書くこと決まった人からどんどん書いてね、何しろ時間が無いんだから」 " 簡単に忘れるんじゃねえぞ! 鰍 あちらで大事な人と末永く幸せに暮らせますように ソア お餞別の謎団子と謎枕は是非ご活用いただきたいのです、今度レポートを聞きに行くのです ゼロ レイラさん、お元気で。絶対幸せになってくださいね サクラ お幸せに! 優 元気でね、食器棚大切に使うね ニワトコ もう二度と馬鹿な理由で臆病になっちゃ駄目よ 楽園 もっとレイラ様ご自身の幸せに貪欲になって下さいね ジューン また会いに行ってもいいですか? 駄目って言われても会いに行くのです! ノラ スコーンをお土産にどうぞ、紅茶と一緒に楽しんで リヤナ 夫婦も元は只の他人、ままならぬ事もあろうが、相手を信じていれば大丈夫 春臣 ↑先生ってば超カッコイイッス! ミチル ありがとう、どうか息災で ロン " 思いのほかぎっしりと書き込まれたその色紙を、レイラが持っていく予定の食器棚にユーウォンがそっと隠す。 「すみません、もう片付けも終わりました。……えっと、皆さん何してるんですか?」 「内緒だよ! じゃ、急ごう!」 慌ただしく荷物を持って、店の鍵を閉めて。優とジューンにオーナーと大家の連絡先と鍵を預け、レイラは残ってくれた面々に深く頭を下げた。 「本当に、ありがとうございました。わたし、この街に来ることが出来てよかったです」 行き交うだけの場所だったこの街。 出会った人に、出来た思い出に、さよならではなくありがとうと手を振って。
このライターへメールを送る