身を屈め、灰色の街を早足ですり抜ける。 人混みを避けるように、目についたレストランへと足を踏み入れる。隅の席が空いているのを確認して、なるべく目立たないようにと其処へ滑り込んで、張っていた気を僅か緩める。レストランの隅で、黒い服を纏う少女は影へと沈むように印象を掻き消す。 インヤンガイ。殺人鬼と暴霊の跋扈する、倫理と正義の崩壊した世界。店の窓から道行く人を眺める限りでは、それ程澱んでいるようには見えないのだが。 賑やかな雑踏と、食事をする人たちの風景。平穏な日常。誰ひとり、己に目を呉れる事もない。 安堵にか虞にか、自分自身にもわからないまま、神無は諦めに似た溜め息を一つ吐き出した。その横顔に、聴き慣れた声がかかる。 「ココ、空いてる?」 同時に、ふわり、と膨らむ風が神無の前髪を翳めた。 「……え、あの」 いらえを返すでもなく戸惑いに貌を上げた神無の前、向かいの席に既に腰を降ろしている白い衣裳の娘の姿があった。動き易く、しかし清廉な純白を喪わぬその装束には見覚えがある。一度、依頼を共にした事のあるツーリストだ。 「久しぶり、カンナ」 視線を交わした一瞬、娘は神無と同じ黄金の瞳を眇めて笑った。 「ニコル、さん」 当惑に零れる声。ニコル・メイブは名を呼ばれたことに頷いて、その猛禽を思わせる視線をまっすぐに神無へと注ぐ。次の言葉を喪って、神無は喘ぐように口を開き、閉じる。短い沈黙の後、意を決したように彼女は再び口を開いた。 「……席、他にも開いてるのに」 「一人で食べるより、知ってる人と食べる方が楽しいじゃない?」 人目を気にして落ち着いた店を選んだ所為か、昼時とはいえ彼女たちの周囲にはいくらか空席も見える。そちらへ視線を向けても、ニコルは気分を害すでもなくそう応えた。風のような仕種で給仕を呼び止め、さっと注文を伝えると、改めて神無へと向き直る。 枷で戒めた手をテーブルの下に隠しながら、背を丸めて目立たぬように縮こまる娘の姿。意識をしすぎて逆に人目を引いている事にも気づいていない。彼女は視線を逸らし、路上を往く人の姿を眺めるふりをしながら、ニコルへ声を掛けた。 「私と一緒に居たら貴女まで変な目で見られるわよ」 黄金の瞳が泳ぐ。目尻が僅かに赤くなっている事に気づきながらも、ニコルは僅かに笑み「お互いにね」と応えるだけだった。白いヴェールと共に黒髪を肩の後ろに流して、自身の纏うウェディングドレスを指し示す。 「インヤンガイじゃね、白は喪と不吉の色らしいの」 「……そうなの?」 「そ。さしずめ私は“凶兆の花嫁”なんだってさ」 思わず顔を上げた神無へ、喪に服す花嫁は肩を竦めながら朗らかにそう言う。神無とは違う意味で周囲の視線を集めながら、年若い娘はしかし意にも介さない。 「不思議、ね。私なんかは見慣れていて、普通の……あ、ごめんなさい。普通、って言うと失礼かしら……」 言葉に詰まり、視線を彷徨わせる神無の前で、ニコルは首を振って笑った。 「ううん、別に。でしょ、やっぱり、ウェディングドレスと言えば白だよね?」 「ええ。でも、ここでは違うのね」 ぎこちないながらも、軌道に乗り始める二人の会話。神無はテーブルに肘をついて、張っていた気を緩め始めた。 「そう。こっちだと、花嫁は真紅の衣裳を着るのが習わしなんだって――ん、サンキュ」 料理を運んできた給仕にニコルがひらりと片手を振る。身を反らせ、神無は咄嗟に机の下に両手を隠してしまったが、特に彼女は何を言う事もなかった。ただ、凛としながらも愛嬌のある黄金の瞳を細めるだけ。 「私からしてみれば、赤だって血の色じゃん、って言いたくなるんだけど」 「あ、でも、私の国だと結婚式に赤い着物を着る事は多いわよ」 「そうなの?」 「そう」 二人、顔を見合わせて吹き出す。年相応の幼さで破顔するニコルと、歪ながらも確かに口端を擡げる神無。二人の少女はぎこちなさを残しながらも、会話と、食事を進めていく。 「……あ、そうだ」 料理を食べ終わり、レストランを出たところで、ニコルは神無を振り返った。灰色の街に不釣り合いな、凶兆と祝福の白が翻る。 「カンナ、この後時間ある?」 空を渡る風、それそのもののような軽やかな所作で問われ、神無は戸惑う間もなく頷いていた。 ◇ さくり、と土を踏む音が細やかに響く。 ビルばかりが立ち並び、アスファルトに覆い尽くされたインヤンガイには珍しく、柔らかな地面が剥き出しになっている場所へ、花嫁は神無を案内した。眼前には多数の丸い御影石が並んでいる。この街区の共同墓地なのだと、ニコルは簡潔に説明した。 白い衣裳に白菊の花束を抱きかかえたニコルは、“凶兆の花嫁”と呼ぶに相応しい、しかしやはり凛冽とした印象を喪わない佇まいで、神無の網膜を鮮烈に焼く。白いヴェールを翻しながら、颯爽と歩を進める姿は、彼女の色彩もあって目に眩く映った。 ニコルはやがて、或る墓の前で足を止めた。この世界の文字で誰かの名前が綴られた簡素な墓の前で、花嫁は跪いて花を捧げる。神無もつられて手を合わせた。 「……ココね、ちょっと、縁のある人のお墓なんだけど」 「縁?」 鋭い矢、或いは羽を畳み滑空する猛禽に似た娘が、何処か言いにくそうに言葉を濁す。その先を問うてもいいものか迷ったまま、鸚鵡返しにそう聞き返せば、ニコルは僅かに瞳を細めて頷いた。 「うん。自分の罪に殺された、花嫁のお墓」 意味深長な言葉だけを残し、ニコルはそれ以上の説明をしなかった。神無もまた、彼女の心を汲み、口を閉ざす。静寂に包まれる墓地に、風のそよぐ音だけが響いた。 「婚約者も喪って、友達――だったハズの人たちも、みんな死んで、誰も彼女には会いに来ない」 ニコルの言葉には、何処か痛みを押し殺したような、奇妙な静けさがあった。黄金の瞳が周囲を彷徨う。きっと彼女の言う友達も、此処に眠っているのだろう。 「だから……せめて、私くらいは尋ねに来ようと思ったんだ」 罪滅ぼしなんかじゃないけど、と苦笑して、ニコルはそっと両手を組む。 「あの時はちゃんとした花、買ってこれなかったけど、今日は」 か細い女の歔欷に似て、風が啼く。湿った土と苔の匂いを彼女たちの元へ運ぶ。悼みを抱えたニコルの後姿を、神無はただ見つめる事しか出来ずにいた。 黙祷を捧げた後、普段通りの朗らかさで「じゃ、帰ろうか」と切り出したニコルに頷いて、神無は身を翻した彼女の後を歩く。先程までの翳や、悼みの一切を振り払ったような、清々しい歩き姿にふと見惚れた。 「その……私なんかが一緒で、よかったの?」 白いヴェールの向こうに見える、凛と整った横顔に声を掛ける。黒髪を靡かせて振り返った花嫁は唇に笑みを乗せ、頷いた。 「うん、あのさ――」 言葉を続けようとした、刹那。 鋭い悲鳴が、二人の間を引き裂いて響いた。 「――ッ!!」 黄金の瞳が引き絞られる。神無の纏う空気が一瞬にして変貌する。声のした方へ貌を向け、険しい表情のまま、彼女は身を低くして地面を蹴った。墓地を抜け、猥雑な街並みへと。 「あ、ちょっと、カンナ!」 ニコルの呼び掛ける声にも応えない。 木々を潜り駆ける獣の如き鋭さで、漆黒の娘は灰色の街を駆け抜けていった。 「あの子……あんな貌も出来るんだ」 感嘆めかして呟き、ニコルもまたその後姿を追う。 ◇ 逃げ惑う人々の合間を縫って、神無は開けた路上で足を留めた。 悲鳴と哄笑、混乱が通りを支配する。硝煙と、血の匂い。状況を把握し、怒りに貌を歪める。人が倒れている。凶器を振り翳す人間の姿が見える。逃げ惑う男性に追い縋る、バタフライナイフを提げる男の姿が。 トラベルギアをその手に呼び出し、神無は静かに一歩、二歩と踏み出した。 男性は神無の異様な形相に気が付いたのか、彼女へと駆け寄ろうとした。しかし足が縺れたのか、すぐによろめいて転んでしまう。バランスを崩した姿勢で尚起き上がり、救いを求めて手を伸ばす男。神無もまた、男性のその様子に、手を差し伸べようとして――。 「助けてくれ、人殺しが――殺人鬼がっ!!」 縋るように伸ばされた手を、取る事は出来なかった。 翼のように男性の背に閃く赤。飛散する己が血を浴びながら、彼は恐怖の表情を貼り付けたままずるずると倒れ伏す。その向こう側で、三日月のような笑みを貼り付ける一人の男。――否、一人ではない。 「――三人か」 殺人鬼。暴霊と同じく、インヤンガイにおいてごくごくありふれた、警戒されるべき存在。 黄金の瞳を眇め、神無は状況を見極める。拳銃と、曲刀と、バタフライナイフと。それぞれ手に違った凶器をぶら下げた男たちは、それぞれに血を被りながら嗤っていた。倒れた男性の手を取り、脈を診る。まだ、生きている。 路傍には不運にも巻き込まれたらしき人々が倒れ、じわじわとアスファルトを染めていく赤が鮮明に映る。幸いか否か、彼らの傷は浅い。まだ息のある――死にきれなかった人々の呻きが、地を這うように路地を覆った。 「惨い」 端的な言葉。嫌悪を顕わにした表情。迷いのない声音。 片手の枷を外す。ぶら下がる手錠をそのままに、常の彼女とはまるで別人のような面持ちで、神無は唾棄するように呟いて己が愛刀を構えた。鞘を左手に、柄を右手に。 「怪我人の手当てを、早く」 恐慌に陥る群衆に声を掛け、神無は再び身を低くする。 男たちは高らかに笑いながら、人々を甚振るように凶器をちらつかせ、銘々に次の獲物を選んでいる。状況に酔い痴れているのか、神無の動きになど目を呉れる様子もない。――やり易い。そう独り言ちて、曲刀を構えた男の背後へと回る。男の意識が新たな獲物へと向かった瞬間を、狙って、地面を蹴った。 漆黒の獣が、人の群れから飛び出す。 弾丸のように鋭い其の所作に、曲刀を提げた男は全く気付かなかったようだ。そのまま滑るように肉薄し、首筋に手刀をひとつ。男の身体がいとも容易く崩れ落ちていくのをそのままに、神無は次の敵へ向き合った。すぐ近くで、唖然と動きを止めるバタフライナイフの男へと。 「なっ――」 手の中で刀を翻し、刃の収まった鞘を真っ直ぐに前へと突き出す。狙いは過たず、鐺(こじり)の部分が男の鳩尾を深々と抉った。 「あ、が」 驚愕に瞠られる目。間の抜けた顔が、いつの間に、と雄弁に語る。男の身体が沈む。此れで二人。殺人鬼と言えど、神無は殺しを望まない。死んでしまえば罪を償う事など叶わないから。――頷いて刀を退く、その鼓膜に、声が響いた。 「うっ、動くな!」 切羽詰まった声に貌を上げ、しまった、と神無は蒼褪める。 幼子を羽交い絞めにし、そのこめかみに拳銃を突きつける、最後の殺人鬼の姿が目に入る。その傍らでは、肩口から血を流して倒れる女性が、呻きながらも坊や、坊や、と悲壮な声を零している。 子の泣き喚く声が路地を引き裂いて、群衆は再びの恐慌を煽られた。鼓膜が揺さぶられるほどの騒ぎが通りを覆う。 「その子を離せ!」 鋭く叫んだところで、男が聞き入れる様子もない。あと一歩を詰められぬ様に歯噛みしながら、神無は刀を握る手に力を込めた。 「刀を降ろせ、こ、こいつの命がどうなってもいいのか!」 当然の要求。刃を抜くつもりはなかったが、男には神無が武器を持っているだけで脅威に映るのだろう。小さな逡巡の後、神無はその要求を受け容れてアスファルトに膝をついた。血走ったんで、殺人鬼が頷く。優越に唇を歪ませる。 子供と殺人鬼から目を離さないまま、ゆっくりと、刀を己の脇に降ろし始める。男の不審な動きを見逃さぬように。――いつでも、駈け出せるように。 息を吸い、吐く。迷いは捨てて、覚悟をその胸に。 喧騒が、悲鳴が、何処か遠く響く。 瞼を閉じれば、その一瞬、神無の周りには殺人鬼と、人質の子以外何も存在しない。彼女を阻むものは何も。 刀の鍔がアスファルトに触れ、小さく音を立てた。 スタートを待つ陸上選手のように身を屈め、神無は黄金の瞳を鋭く細める。男が安堵に貌を歪める、その一瞬を狙って、曲げた膝と爪先に力を籠めた。駈け出そうと身を強張らせた、瞬間。 男の背後に、白い鳥が、降り立った。 「――!?」 とん、と着地の軽い音が上がる。 神無の動体視力を以てしても、それは獲物を仕留めんと高みから急降下する猛禽の姿のように見えた。鮮やかに白い翼――ヴェールを翻して、ウエディングドレスから覗く細い腕が拳銃を持つ男の手に伸びる。鋭い手刀を一撃。衝撃に拳銃を取り落した男はよろめき、その隙をついて背後の影が子供を奪い取る。 瞬間、交差する視線。鋭く煌めくふたつの黄金が、笑み交わす。 刀を置いた姿勢から、発条(ばね)のように飛び出す神無。 子供を逃がし、振り返るウェディングドレスの花嫁。 よろめく殺人鬼を挟んで、同時に片脚を振り上げた。 峻烈に、空を切る音。 男の左右の頬に、二人の鮮やかな回し蹴りが炸裂する。 ◇ 両側からの衝撃を受け、拮抗した後、地面へと沈む最後の殺人鬼の身体。再び立ち上がる気配はない。 わっ――と、群衆が歓喜に沸き立った。 「やっ……たの……?」 高々と掲げていた脚をそろそろと降ろし、戸惑い気味に声を上げる神無へ、目の前の花嫁は肩を竦めて笑って見せた。 「綺麗な一撃だったよ、カンナ」 「え、――ええ、ニコル、あなたこそ」 気を喪って運ばれていく母親と、彼女に追い縋って泣きじゃくる子供を見守りながら、二人は目を細める。血は多く流れたが、幸いにも死者は出なかったようだ。――殺人鬼たちも含めて。 「……よかった」 普段の謙虚さを取り戻し、安堵に胸を撫でおろす神無に、ニコルがずい、と迫る。猛禽を思わせる黄金の瞳が輝く。 「カンナ」 名を呼ばれる。 眼前に、掲げた両手が差し出される。ひとつ、ふたつ瞬きをして、神無はようやくその意味を悟った。唇に薄い笑みを刷く。手錠をかけ直した手を挙げて、ニコルの掌を叩いた。ハイタッチを交わし、二人の友人は笑み交わす。 そのまま神無の片手を握り締め、ニコルは白いヴェールを翻した。 「祝いに夕飯食べにいこ、カンナ!」 「え、ちょっと、待って、待って!」 引っ張られるまま、神無も不自由な姿勢で駆け出す。 「私が奢るからさ!」 「そ、そういう意味じゃなくて!」 答えを待つ気もない。強く握られた手と、手錠で繋がれたもう片方の手が、仲良くニコルに引き摺られていく。 強引だが、彼女らしい、と神無は観念したように微笑んだ。 灰色の街を、白と黒の風が駆けていく。 孤独な二人の旅人が、新たな友人となった此の日を、祝福するように。 <了>
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