ACT.1■アヴァロンへの招待 「シオン・ユングさんに、我があるじよりお届けものです」 クリスタル・パレスへの出勤時、アルバトロス館の玄関扉を開けたとたん、シオンは、謎めいた男に封筒を渡された。漆黒のビジネススーツで包まれた引き締まった長身は、その身のこなしから、バネのようにしなやかな筋肉で構成されていることが見て取れる。美しい銀髪はきっちり撫でつけられ、両眼はサングラスで隠されている。 何となく知り合いに似ているような気がして、首を捻りつつも、とりあえず受け取る。 「ん……? 何、これ」 金の縁取りの封筒には、一通の招待状が入っていた。濃紺の山羊革に黄金のリンゴの意匠が刻印された、凝ったものだ。 「『ジ・アヴァロン』へ、ご招待いたしたく」 「どこ、そこ? あ、何かのゲームタイトル? 壷中天とかの」 「いいえ、壱番世界に存在する人工島の名称です。このたび、蓮見沢コンツェルンが、ザ・パンゲア・ペトロリアム・カンパニー・リミテッドグループの協賛により、ドバイのリゾート施設として建設したものです。まだ未公開ですが、オープンに先立ち、親しいかたがたに是非お越しいただき、ご意見なども伺いたいと」 「蓮見沢……、パンがトロリとカンパって、ああそっか、理比古んとことロバート卿んとこか」 招待状の名目は「視察のご案内」という堅苦しいものだ。招待主は、蓮見沢コンツェルンの代表者である蓮見沢理比古と、英国ロンドンに本社を置く世界有数のエネルギー関連会社、パンゲア・リミテッドの最高業務執行役員、アーサー・アレン・アクロイドとの連名になっている。 ドバイにはいくつかの人工島がある。たとえば、300の島を世界地図を模して配置し、上空から俯瞰すれば縮尺された地球の光景が出現する、という壮大なリゾート施設「ザ・ワールド」などが知られている。 蓮見沢コンツェルンとパンゲア・リミテッドがこのたび建設した人工島「ジ・アヴァロン」は、1001の人工島を並べ、神話にならい、黄金のリンゴのかたちを創ったのだという。このリンゴは月からも見えるほどの大きさであるらしい。 「では、現地にてお待ちしております」 「っていうか、あんた、虚空だよな?」 シオンは手を伸ばし、ひょいとサングラスを奪い取る。照れくさそうな虚空の、蒼い双眸があらわになった。 「……おい。何しやがる。恥ずかしいのこらえて頑張ってんのに」 「何でこんな芝居がかったことしてんの!?」 虚空はすうと息を吸い込み、一気に吐き出す。 「『せっかくだから皆をドラマチックに招待したいよねー』ってアヤがにっこり笑って言ったからに決まってるだろうが逆らえるか抵抗できるかこの俺が!」 「……ああ……、うん。そっか。そうだよね……」 シオンは虚空の肩をぽふんと叩く。 「ごめん……。余計なこといった。いつもお疲れさま」 サングラスをかけ直し、虚空は居住まいを正す。 「あと、ハルカとアキと雪と神楽とエレナと清闇に渡さなきゃならねぇんだ。それと理星にも。またな!」 「ひとりずつコレやるんだ……。がんばれ……」 去って行くシノビの背に、シオンはひらひらと封筒を振った。 ++ ++ 本日のクリスタル・パレスは、何やら……、妙に……、男性客率が高い。 「へい、らっしゃい。ようこそクリパレに。どんな鳥がご希望っすか旦那。綺麗どころがよりどりみどりっすよー」 ついついシオンの呼びかけも、歓楽街の客引きボーイのようになる。いつもならばラファエルに、品のなさを厳しく注意されるところだが、店長は休暇中のため、フロアにはいない。 さらに、アキ・ニエメラとハルカ・ロータス、雪・ウーヴェイル・サツキガハラが揃って訪れたため、シオンは、いったい今日は何の男前祭りかと思わず天を仰いだ。なにせ強化兵士ふたりと近衛兵の組み合わせである。 「いい店だろう? 落ち着けるし、旨いものがたくさんある。一度ハルカを連れて来たかったんだ」 アキは陽気に相棒を促した。このカフェに来るのは、ナラゴニアの進撃以来のことだ。かつて、ドンガッシュと非戦闘員の乗ったナレンシフがここに墜落したとき、アキはその場に居合わせたのだった。 「……ああ。悪くない」 ハルカは少し緊張気味だ。ナラゴニア進撃の際は別の場所にいたし、そもそも、こういったたぐいの店にはあまり馴染みがないこともあり、どう振る舞っていいのかわからない。 「こちらのお兄さん、こういうお店は初めてかなー? そんな緊張しないで、座って座って」 とりあえず、シオンが引いた椅子に素直に腰掛けた。 「さすがに、すっかり元通りになったな。緑は以前より多いほどだ」 雪は、ナレンシフ墜落により天井が破損したこの店が、臨時の避難所にもなっていた状態を知っている。建物はドンガッシュが即座に修復してくれたが、かなりの数の鉢植えが横倒しになり、緑は惨々たるありさまだった。 ゆっくりと店内を見回して、現状回復の様子に涼しい目元をゆるめる。 雪のいでたちは、覚醒早々、リリイに仕立ててもらったものであるらしい。グレーのハイネックシャツと白のワークブーツが、姿勢の良さも相まって長身に映えている。 「うわぁ、硬派なひとたちが増えたー。ますますいつもの客層と違うなぁ。ええと、アキさま、ハルカさま、雪さま。クリスタル・パレスにようこそ。ご指名とかありますか? 可愛いギャルソンヌが宜しければ手配いたしますんでお好みをどうぞお兄さんがた」 アキは朗らかにシオンを見る。 「シオンを指名したい。ハルカは?」 「……じゃあ、俺もシオンで」 「きみにお願いしよう」 殿方三人に集中指名を受け、シオンは困惑した。 「……わー。うれしいですー。ご指名ありがとうございますー」 若干棒読みになりつつ、【男性向けメニュー】と勘亭流で書かれた、ごっついメニュー表を渡す。 三人はそれぞれのオーダーをした。 「料理長のおすすめ、『山の漢の心意気・ヴォロス産マツタケと本シメジのホイル焼き、森の奥の伝説の湖で百年に一度穫れる香草を添えて』を」 「俺は『海の漢の闘魂・戦闘で勝利し入荷! 獲れたてフレッシュブルーインブルーの巨大ホタテと巨大ハマグリと巨大サザエの刺身盛り合わせ、巨大タコのスパイシー唐揚げ付き』で」 「では俺は『大和の漢の技を見よ・荒ぶる日本海直送! 炙りブリと焼きガレイ、メバルの煮付けと特選カニ汁』を頼みたい」 「はぁい喜んでー。料理長、漢シリーズ三点オーダーいただきましたぁー! ……ん?」 厨房に向かって叫んでから、シオンは、いつの間にやらカウンターに座り、ひとりでスイーツを食べている神楽・プリギエーラを発見した。 「おおーい神楽ぁ。自分には関係ないみたいな顔して、ナチュラルに、岡山の白桃使用のとろけるジュレと鳥取のエメラルドメロン使用のジェラート食ってんじゃねぇよ。その性別不明レベルの美貌で、混ざって薄めてくれよこの漢の世界」 「彼らとはもう、ここへ来る前に挨拶済みなんだ。皆、虚空から招待状をもらったらしい」 「いや、おれもそんな感じはしましたがね神楽さん。何でこの殿方たちがわざわざ当店をご利用の運びとなったのでございますか? みなさま『エル・エウレカ』でお見かけしそうなかたがたではありませんか」 「いやなんとなく」 「貴方の口からそんなファジーなことばが飛び出すとは思いませんでしたよ神楽さん」 「きみも招待されているようだし、ロストレイル乙女座号の出発まで、待ち合わせかたがた、ここに来てみたってところかな」 「なあんだー」 シオンはぽりりと頭を掻く。 「エル・エウレカから常連客奪えたわけじゃないんだ」 「腹黒いことを言うねきみも」 「ターミナルの店舗、飲食店系多いんで過当競争なんすよー。新しい店も次々に出来てるし、油断してっとあっと言う間に閑古鳥なんで」 それにしても、この面子で、仲良く乙女座号に乗り込んで華麗にドバイに行くのかー。イエ文句はございませんよ、文句はございませんけどね、などとぶつぶつ言ったとき。 入口扉が涼やかに開き、救いの女神がやってきた。 「こんにちは、シオンちゃん」 エレナだった。甘くやわらかく揺れるプラチナブロンドと、弧を描いてふわりと翻る白レースの軌跡に、どうしてくれようこの絶賛男前祭り状態だった店内が、一気に中和される。 「そうか! エレナも招待されてたっけ、やるじゃん虚空。……おっ、わかった、おれを迎えに来てくれたんだな。よーしよしよし、一緒にドバイに行って楽しい時を過ごして親密度を一気に高めような〜」 姫抱っこせんばかりのシオンに、エレナはびゃっくんを抱えたまま可愛らしく小首を傾げる。 「ううん、お出かけ前に、エルちゃんにご挨拶に来たの」 「何ですと」 「ドバイのお土産、何がいいかなって思って」 「やっぱり店長がいいんですかおれじゃだめですかおれじゃだめなんですか。我が女神、エルライアノーラ・レイアストリア・ニア・ナンナ・エーデルローゼ。"高貴な薔薇"家の知恵深き泉、高貴の女王、玲瓏と祝福の娘よ」 「名前、覚えてくれたの?」 「貴女を口説くために徹夜で暗記しました」 「ね、シオンちゃん。エルちゃんはどこ?」 「さくっとスルーされた! あのおっさん今日はオフだから、おっさん友だちのモリーオの司書室あたりでハーブティーでも飲んでんじゃねーの」 「そっかぁ」 残念そうに言ったエレナは、くるりと踵を返した。 「じゃ、モリちゃんとこ行ってみるね」 「そんなぁぁぁーー!」 しかし、シオンが追いすがるまでもなく、エレナはその場に留まることになった。 新しい来客がふたり、現れたからだ。 し か も、またもや男性である。またもや男前ズである。 「いや、やっぱり俺、まだちょっとどうしていいか」 「いいから来い」 突風のようにやってきた清闇は、まるで狩りの獲物のごとく、その腕に純白の巨大な鳥を抱えていた。まぶしいほどに大きな白い翼が、途方に暮れたようにはたはたとゆらめいている。 よくよく見ると、鳥に見えたのは理星だった。どうやら抵抗する理星を、清闇が強引に連れてきたシチュであるようだ。 「っっっらっしゃい! 清闇さまと理星さまごあんなーい! ……て、どしたん理星。涙目じゃん、かわいそうに」 今にも帰りたそうにおろおろしている理星と、やれやれ世話が焼ける、といった体の清闇を交互に見てから、シオンは、「はっ、もしかしたら!」と大げさにのけぞった。 「………………理星がおとなしいからって、無理強いは良くないぞ清闇。何ごとも相手の合意を得てから。なっ? なっ?」 「何をどう誤解したらそうなる。いや、むしろ、そういうシンプルな話なら気楽なんだがな」 シオンの冗談をあっさり受け流し、竜の武人は紅玉の瞳を細める。 「おまえからも何か言ってやってくれよシオン。こいつ、せっかく招待されたってのに物怖じして」 「んーんん? 今いち状況が読めませんので、ここはひとつ少女探偵に謎解きをよしなに」 「えー? あたし?」 いきなり振られたエレナは、理星を見、清闇を見、そして自分の招待状を見た。 「アヤちゃんて、ショウちゃんがずっと探してたひとなんだよね? やっと出逢えて、うれしくて、だけど直接逢うのは何だか怖くて、正式に招待されたけれど、どうしていいんだかわからない、アヤちゃんに逢う前に逃げ出してしまいそう――みたいな気持ちなのかな?」 「あ、……うん」 図星をさされ、理星はこっくりと素直に頷く。 「そんなにおおげさに考えなくていいと思うよ。ほら、まえに、ここでふわもこお茶会があったとき、ショウちゃんも一緒だったでしょ?」 「……うん?」 「あのとき、楽しくなかった?」 「……楽しかった」 「それと同じだよ。お茶会に招待されたと思えばいいの。ちょっと場所が遠いだけだよ」 「……うん」 「いっしょにいこう? ね?」 きっと楽しいよ、と、エレナがにこりと微笑み、ようやく理星は大きく頷いた。 ACT.2■湖の貴婦人の腕(かいな)で 「ジ・アヴァロン」の俯瞰図をリンゴにたとえるならば、ちょうど、その「葉」に当たる部分に、海中ホテル「湖の貴婦人(Dame du Lac:ダーム・デュ・ラック)」は位置している。 水中と空中にリンゴの葉が二枚交差しているかのような、楕円形の施設である。中央を巨大な幹のごとき円柱が貫いており、その周りを何本もの柱が太い枝のように支えていた。 世界中のレストランが軒を連ね、ショッピングモールだけでひとつの街が形成され、スパやプールなどの施設もある。万一の事態に備え、ホテル内には病院も用意され、最上部にはヘリポートが設置されている。 ダーム・デュ・ラックは、その幻想的な外観とはうらはらに、最新の科学技術が駆使され、最高レベルの安全基準を有するホテルなのだった。 ロビーに足を踏み入れたとたん、一同は、その素晴らしい光景に圧倒された。 一面に張られた窓から、まるでスクリーンのように、鮮やかで美しい海底の風景を眺めることができるのだった。聞けばすべての客室も、同様なつくりになっているという。 「すっげぇぇぇーーー! なにここ。どこの異世界?」 「いい眺めだねぇ。あんなに悠然と、魚が泳いでいる」 「……ああ」 「海中のリンゴの葉とは、何とも風流なことだ」 「音楽を奏でたくなるね」 「見て、ショウちゃん。珊瑚が綺麗だよ」 「……やっぱり帰る」 「待て待て。……ほら、招待主たちのお出ましだ」 鱗をきらめかせて泳ぐ魚群を背景に、三人の男たちが歩み寄ってくる。 ロバート・エルトダウンと蓮見沢理比古、そして虚空。 男性陣は後回しにして、真っ先に、ロバートはエレナの前に立った。うやうやしく腰をかがめる。 「黄金のリンゴの島へようこそ。湖の貴婦人のもてなしをお受け下さい。レディ・エルライアノーラ・レイアストリア・ニア・ナンナ・エーデルローゼ」 「ご招待いただき、ありがとうございます。サー・アーサー・アレン・アクロイド」 ロバートが差し出した手のうえに、エレナは優雅に小さな手を乗せた。 「腕をお貸ししたいところなのだけれども」 エスコートのために腕を組むには、まだエレナは幼い。手を引きざまに、びゃっくんごと軽々と抱き上げて、そっとラウンジのソファに座らせる。 「今、ウエルカムドリンクを運ばせよう。何がいいかな?」 「モンターニュブルーはある?」 「勿論」 ロバートのエスコートも完璧だったが、それに応じるエレナの所作も流れるようで、はたで見ていたシオンはぎりぎりと歯噛みする。 「……ロバートめ。よくもおれのエレナを。……殴りたい! 殴る! 殴らせろ!」 「落ち着けシオン」 拳を握りしめるシオンを、清闇が羽交い締めにした。 「ええい離せ!」 「よーしよし。いい子だからこっち行こうなー。手伝え神楽。理星もだ」 まるで保護者のようになだめすかして、神楽と理星に両脇を押さえさせ、清闇は、シオンを少し離れた席に誘導する。 「しっかし、こんなのを生まれたときから面倒見てたのか。ラファエルの苦労がわかるな」 ++ ++ アキは苦笑しながら、ハルカと雪の肩に手を置いて、自分たちもくつろげそうな場所に移動した。 セレブなかたがたとその従者だけが、そのテーブルに残される。 「来てくれてありがとう、エレナ」 理比古が、相変わらずの童顔に笑みを浮かべる。ひとの心をほっと落ち着かせる、受容と気品に満ちた笑顔だ。 「ご招待ありがとう、アヤちゃん。……あと、このまえのインヤンガイでの時間も、ありがとう」 「俺のほうこそ。可愛い相棒で、うれしかったよ」 いつぞやのリューシャン地区での、ややスパイシーな逃走劇のことを、エレナは悪戯っぽく語り、謝意を告げる。あのとき、理比古とエレナは、たしかに「相棒」だった。 「お待たせいたしました。ウエルカムドリンクでございます。エレナさまにはモンターニュブルーを、理比古さまにはディンブラを、ロバートさまにはシッキムを」 はっとするほど容姿のすぐれたウエイターが、非常に洗練された仕草で紅茶をサーブしていく。さすがはホテル・ダーム・デュ・ラックの従業員……と思ったら、虚空だった。 席を外したこともホテルの制服に着替えたこともまったく気づかなかったロバートは、思わず呆れ声を上げる。 「……虚空。きみも招待客なのだから、理比古や僕たちの世話はほどほどにして、くつろいでくれとあれほど……。しかし、いつの間に着替えて……、いやそもそも、ここの責任者にあらかじめ話を通さなければウエイターとして仕事をすることはできないはず……」 そこまで言ってから、わりと似たような場面が今までにも各招待先で何度も何度も何度もデジャヴどころの騒ぎではないほど発生した過去を思い出し、ゆるゆると手を振る。 「ん? どうしたロバート。別の飲み物のほうが良かったか?」 「いや……、何でもない。僕が悪かった」 いつでもどこでも通常営業の虚空に、ロバートはとうとう根負けした。 「ジ・アヴァロンはどう? エレナ」 理比古はいつものごとくマイペースで、虚空の淹れた紅茶を穏やかに楽しんでいる。 「まだロビーとラウンジしか見てないけど、とってもすてき! 今だって、海の底でお茶を飲んでいるみたい」 「ホテルだけじゃなくて島全体をゆっくり案内したいけど、二ヶ月くらいかかるかな。どうだろう、ロバートさん」 「公開可能なリゾート施設だけでもそんな感じだろうね。リゾート以外の海洋研究施設がまだ未完成だから、それも含めると半年は滞在いただきたいところだ」 「楽しそう。でも、それだと冒険旅行に行く時間がなくなっちゃう」 「レディ・エレナは冒険が好きなんだね」 「うん、大好き。行きたいところがたくさんあるの。見たい景色がたくさんあるの」 でも、と、エレナは、魚の群れの動きを目で追う。 (……でも、こういうのんびりとした時間は、すごく懐かしい感じ) エレナがロストナンバーになって三年が経過した。まだホームシックにはなっていない自分を、少し不思議に感じている。 「ホームシックかぁ……」 「ホーム、シック」 理比古とロバートは、それぞれ、未知の単語でもあるかのように、たどたどしく言葉を発した。 「聞いても、いい?」 エレナはじっと、ロバートを見た。 「何なりと」 「ずっと思ってたの。長い時間を、自分だけが変わらずに生きていくってどういう感覚なんだろう、って」 「そうだねぇ。率直に言うと、二百年という時間はたいして長くはないかな。過ぎてしまえばわずかな間とさえ、思える。これが三百年であろうと同じことだよ。要は密度の問題だと思う」 「……密度?」 「僕の二百年ときみたちの三年が、さほど違うとは思えないんだ」 「誰と出会ってどう過ごすかって大事だよね。俺は、エレナやロバートさんと会うことが出来て、こうして過ごせて、とても充実してる」 にこにこと、理比古は紅茶を飲み干す。空になったティーカップは、すかさず虚空によって満たされた。 ++ ++ ふよん、ふよんと、ジェリーフィッシュフォームのセクタンが三匹、ラウンジに浮揚している。 それはまるで、たった今ガラスの向こうの海底から、つい、と躍り出た本物のクラゲのようで、海中ホテルがこのために用意した、洒落たインテリアにさえ見えた。 「何やら、懐かしいな」 ブルーインブルーの風が吹き抜けたかのような、雪の声音。理比古のリンネ、虚空のヒンメル、ロバートのミダスという組み合わせは、かつてデルタ海域に《真珠魚》をもとめて繰り出した、爽快にして心震える冒険を思い起こさせる。 あのとき、海中に赴いた彼らは、海の底に、荘厳な真珠の塔を見たと言っていた。 それは、獲られ食べられてきた《真珠魚》と、その命によって養われてきた島びとたちが織りなす、生と死と営みの鎮魂歌が聞こえてくるようだった、とも。 ――この地はもともと小さな漁村で、真珠産業が隆盛だったみたいだよ。 ――ドバイ首長国が建国される前のことだね。しかし真珠産業の旗手の座は日本に奪われたんだ。ミキモトコウキチ氏が養殖貝による真珠生産に成功したのでね。 向こうのテーブルから、理比古とロバートの会話が聞こえてくる。 アキは、ふと、思い出した。 僕は多くのものを手に入れていて、これ以上何がほしいのか、よくわからない。 あのときロバートはそんなことを言っていた――ような気がする。ひとりごとだったか、虚空なり理比古なりに言ったことだったか、定かではないが。 彼の人となりをまだよく知らなかったアキは、言葉のままに受け止めて、そうなのか、と思っていた。 しかし、さまざまな出来事が竜巻のような試練をターミナルに与え、その過程で、「ファミリー」と呼ばれるひとびとが、ときには強権を発動し、ときには諸悪の根源であるかのように詰め寄られ糾弾されることによって、ロストナンバーたちの行き場のない想いを受け止める役割も担ってきたらしい、と――今はそうも感じる。 《ロード・ペンタクル》と呼ばれたときから二百年、ロバートは、焦がれ、欲したもののどれほどを得てきただろう。おそらく彼は、黄金を得たいわけではなかったはずなのだ。彼が愛したものはみな、彼の手のひらから、ことごとくこぼれ落ちてしまったではないか。 それでも――。 今、理比古やエレナと談笑し、虚空にぼやいているロバート・エルトダウンは、初めて会ったときよりも、ずっと幸福そうに見える。 「ハルカ」 雰囲気に呑まれてずっと無言だった相棒に、笑いかける。 「なに?」 「肩の力を抜くのも、大事だよ」 「……そんなの」 何度も言われてきたことで、そして自分だって少しはアキの言うことをわかってきたし、だから今だって。 「もう、抜いてる」 ばりばりに肩をいからせ、ハルカが言った言葉に、雪が噴き出した。 「まだまだではないか」 呆れ声で言った雪だったが、 「雪もだよ。ハルカのことは言えない」 と、アキに返されて、難しい顔で腕組みをする。 「そうだろうか」 ――そして、思う。 変わらない。 海のうえを吹く風も。 ひとびとの想いも。 それもまた《真理》だ。 たとえ異世界が、星の数ほどあるにせよ。 案外自分は、とうに大切なものを手に入れているのではないか。 そう――ひとは、真珠を作ることさえ出来るのだから。 ++ ++ 「あれから、ずっと、考えてたんだ。『美麗花園』の図書館での、こと」 理星がシオンに言う。雨だれのように、ぽつぽつと。 「ああ、あのときは、おれの代わりに依頼を受けてくれて、ありがとうな」 死の街と化した美麗花園。小さな図書館に残された、まっぷたつに引き裂かれた本。あたかも、両翼を断ち切られた鳥のような。 「フライジングの報告書を、読んだ」 「……ああ」 いつか、ほんの少しでいいから、あんたの過去に何があったのか、教えてくれないか。 お茶会の帰りぎわに放った問いかけは、思わぬかたちで果たされた。 「…………俺もシオンのお姉さんに会ってみたいけど。あんな、綺麗で毅然とした女のひとに会ったら、なに話していいかわからなくて、こわい気もする」 「そこかよ! そうとも姉貴は怖いんだよ! 癒し系じゃねぇんだよ! なんであんなおっかない女がおっさんたちにチヤホヤされるんだかわかんねぇよ!」 「お姉さんのことが大好きなんだね」 「あー、そりゃま、きょうだいなんで」 「あんたとお姉さんは、双子だけれど、選ぶ道は違ったんだな」 ゆっくりと、噛み締めるように、理星は言う。 「長恨歌、っていうんだって?」 「ん?」 「比翼の鳥、連理の枝――壱番世界の皇帝が、寵姫と永遠の愛を誓い合った言葉だよね」 「そうなんだけど。でもこれを玄宗皇帝が語った時、もう楊貴妃は死んでるんだ、時系列的には」 反乱が起き、追いつめられた玄宗皇帝は、とうとう楊貴妃殺害を許可した。 されど収束後、彼女のいない世界を楽しめず、その魂を追い求め、やがて仙界に彼女を見つけ出す。 在天願作比翼鳥、在地願爲連理枝 願わくば天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝となりましょう。 釵留一股合一扇、釵擘黄金合分鈿 かんざしの脚の片方と、小箱の蓋を残しましょう。 かんざしの小金を裂き、小箱は螺鈿を分かちましょう。 但敎心似金鈿堅、天上人閒會相見 金や螺鈿のように心を堅く持っていれば、 天上界と人間界とに別れた私たちも、いつかまた会えるでしょう。 「だからこれは、仙界の楊貴妃からのメッセージなんだ。――理星」 シオンはおもてを引き締める。 「一対じゃなければいけないなんてことは、ないと思う。片翼だから飛べない、なんてこともないと思う。ただ単に、片割れがいないと淋しいっていうか、それだけのことなんだとも思う。けど」 そして、理星に向き直る。 「あんたは、見つけたんじゃないか。ずっと探してたひとを。そのひとは生きていて、今、そこにいるんじゃないか。……だよな、清闇、神楽」 少々照れくさそうに言葉尻を濁すシオンを受けて、清闇は、理星の背を押す。 「――行け」 神楽も、言葉をかける。 「――対峙するといい」 理星は、おろおろしていたが、やがて―― 悲愴な表情を浮かべ、理比古のいるテーブルを見つめた。 ――Fin.
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