薄暗い部屋の中、1人の女性が鼻歌を歌っている。部屋には、幾つもの服や装飾品が散らばり、どこか甘ったるい香りが漂っている。 女性の傍には、花の飾りがついた手鏡が置かれている。そして彼女は大きな人形のようなものに一生懸命赤いドレスを着せていた。 その人形は、綺麗な金髪で、眼は美しい緑色。顔立ちも整っており、まるで生きているようだった。 しかしよく見ると……干からびているようにも見える。それはそうだ。その人形のようなものは、嘗て、人間だったものの剥製なのだから。「リーシャに似合うドレスがやっと出来上がったのよ。ほら、皆も似合うって言っているわ」 そう言った先にも、数人もの人影があった。そのどれもが人間の剥製だった。「ごめんね、みんな。新しいお友達がくるまであとちょっと時間がかかるわ。でも、きっと仲良くしてくれると思うの」 女性はそう言い、鏡を覗き込む。その中には、3人の若い娘の姿があった。そして、その1人は、デフォルトフォームセクタンを抱いた、コンダクターのようであった。 ――ヴォロス・某所。 青々と繁る木々の合間を、2人のロストナンバーが歩いていく。鳥の声が響き渡る中、1人の少年が、黒髪を揺らして呟く。「このあたり、じゃったな……」「しかし、薄気味悪いねぇ」 青年の方が、水を飲みながら辺りを見渡す。自分たち以外に足跡は無く、動物の気配もあまりない。 ただ、そういう季節なのだろうか。色とりどりの花が咲き乱れている。(一体、どこに……) 2人が考え込んでいると、ふと、木々の間に城が見えてきた。(……どうやら、気に入られたようじゃな) 2人は顔を見合わせ、1つ頷いた。 ヴォロスのとある場所。そこには「1度入ったら出られない」という噂がある森があった。誰が呼び始めたかは不明だが、「不帰(かえらず)の森」と呼ばれるようになった。 そして、多くの物が森へと入り誰一人として帰らなかった。それを知った1人のロストナンバーがそこへ入り……戻らなかった。 ――回想・0世界 ある日。ネモ伯爵とグリス・タキシデルミスタが話していると一匹の黒猫が現れた。彼は『導きの書』を引き摺っている所からして世界司書であるらしい。「一体、何じゃ?」 ネモが問うと、黒猫は2人を見て1つ頷いた。「君たち、時間はあるかな? 実はヴォロスに至急向かって欲しい。……1人のコンダクターの命がかかっている」 黒猫の話によると、ヴォロスのある場所に「不帰の森」と呼ばれる場所がある。その奥にはクレマチスの絡みつく古い城があるという。……そして、そこの主は恐ろしい性癖の持ち主であった。「まぁ、この女主人が問題でね。彼女は気に入った人間を自分のものにしなきゃ気がすまないんだよ。まぁ、大半は使用人として大切に雇用している。しかし……」 そこまでいい、黒猫は表情を曇らせる。「どうしたの? 顔色が悪いよ?」 心配しつつグリスが問う。と、黒猫は『導きの書』を開き、真剣な目で言った。「特に、美男美女だと……剥製にして、着せ替え人形みたいにして遊ぶんだ。既に、5人の男女が犠牲になっている。もしかしたら、もっといるかもしれない」 そして、問題のコンダクターもまたお目がねに叶ってしまい、剥製にしようと準備をしている最中だという。「運がいい事に何らかの理由で準備は滞っている。今から向かえば間に合う筈だ。そして、彼女の他にも2人、剥製候補にされた女性がいる。彼女らも一緒に助けて欲しい」 黒猫の言葉に、2人は僅かに息を飲んだ。 森のほぼ中央に、クレマチスの花が咲き乱れる城がある。そこは地下2階、地上2階となっている。剥製候補となった3人は地下1階の座敷牢に閉じ込められている、という。「地下2階は、剥製を作る工房だ。職人は基本そこにいるけど今はいないから安心してね」 持ち主がいない物の鍵はかかっていない。何かに使えそうではある。「地下1階の座敷牢には見張りは無い。けど、その代わりになるものはあるかもしれないから気をつけて」 また、地上2階には『お気に入り』を剥製にして飾っている部屋がある。それ以外はクローゼットや寝室など、他の城と同じだと言う事だ。 因みに、女主人は優れた竜刻使いであり、森自体に魔法をかけている。その魔法により、森全体をリアルタイムでチェック出きる上、『1度入ったら出られない』という状況が出来上がっているそうだ。「正しくは気に入った人間だけ屋敷に迎えるようにし、気に入らない人間は迷わせるって手法だね」 その所為で使用人となった人も逃げられないのだという。脱出する為にはこの魔法をどうにかする必要があるそうだ。「因みに、女主人と救出対象の外見などはこっちの紙にあるから、読んでおいてね」 そこまで言い、黒猫は2枚のチケットと紙を渡し、深々と頭を下げる。「絶対に、生きて帰ってきてね。君らが頑張れば、囚われた人間全員を助ける事もできるかもしれないんだ」 ――ヴォロス・不帰の森 ネモとグリスは暫く森を歩き続けた。しかし、どこをどう進んでも城の前に戻ってきてしまう。「どうやら、わしらも気に入られたようじゃな」「そうだね」 2人が頷きあっている傍から、手鏡を持った女性が歩み寄ってきた。世界司書が言っていた女主人、ジェラート・リーンその人だった。彼女はやさしい笑みを浮べ、2人を手招く。「あら、迷子かしら? よろしければ、休んでいきなさいな」 彼女の言葉に、2人はとりあえず迷子を装って城の中へと入る事にした。庭には色とりどりの花が咲き乱れ、とても優しい匂いを放っている。城の壁を見ると、所どころにクレマチスの花が絡みついていた。 花に見とれながら歩いていると、使用人たちが玄関の前で出迎える。城の中へ入ると、そこのいたる所に花が生けられていた。「全て、私が飾ったのよ。どうかしら?」 ジェラートの笑顔に相槌を打ちながら、2人はこれから先どうしようか、と内心で考えるのであった。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>グリス・タキシデルミスタ(cuhm2947)ネモ伯爵(cuft5882)
序:花溢れる城の2人の客人 ここはヴォロスのどこか。『不帰の森』の城。応接間に案内された2人のツーリストはゆったりとした笑顔の女主人と話しながらも、辺りをちらちらとうかがっていた。 綺麗に活けられた花が部屋を彩り、これまた綺麗な使用人たちが静々ともてなす。女主人は機嫌が良いのか、笑顔が耐えなかった。 「まぁ、お2人とも異国の方なのね。是非、ゆっくりしていって欲しいわ」 「そうじゃのう、少し考えてみようかのう」 紅茶を飲みながら、ネモ伯爵は迷うように答える。そんな彼の傍らで、グリス・タキシデルミスタはタイミングを見計らっていた。 (……まずは、取り入ってみる所からはじめようかな) 彼は元々剥製屋である。その為、知識なども豊富だ。どうにかして女主人に取り入り、囚われた彼女たちに近づきたかった。彼はネモとちらり、と視線を合わせる。と、ネモは席を立った。 「あら、いかがなされたの?」 「いや、素敵な城故、見て回りたいのじゃ。よろしいかの?」 彼の言葉に、女主人はくすっ、と笑う。その目はまるで母親を思わせるような優しさに満ちていた。 「ええ、よろしくてよ。私が案内しましょう」 そう言って席を立とうとしたとき、グリスが動いた。 「ジェラート様。実はお話したい事が」 「あら?」 彼は人払いを願いたい、と言い、女主人もそれに応じる。彼女はメイドの1人をネモにつけると城の中を案内するように命じた。 メイドに連れられて屋敷を回るネモは、花の多さに目を丸くする。庭も色とりどりの花で彩られ、城の壁にはクレマチスが絡み付いている。それもまた、可憐な花を咲かせていた。 (小さいが良い城じゃの。儂の居城を思い出すわい……) 数多の年月を生きるヴァンパイアであるネモは、そっと口元を綻ばせる。本当は女主人に案内してもらいたかったのだが……。 「いかがなさいましたか、お客様」 色白のメイドが、どこか脅えたように問う。それに首を振りながら、ネモは瞳を細めた。 「いや、花が多いな、と思うての。この城にはクレマチスの花が沢山飾られておるが謂れでもあるのかの?」 ネモとしては腐臭を隠す為ではないか、と睨んでいたが、メイドはぽつり、と 「ジェラート様は、クレマチスの花を気に入ってらっしゃいますから」 とだけ答えた。しかし、どこか何かを恐れているような目をしている。 (この娘、なにか口止めされておるな……) 彼女もまた、『お気に入り』として囚われているのだろう。確かに、世界司書は「気に入った人間を使用人として働かせている」とも言っていた。 (そして、特に気に入った美男美女を剥製にしておるのか) ふと、瞳が研ぎ澄まされる。彼の『勘』が、確かに何かを捕らえていた。ネモは無邪気に笑うと、急に駆け出す。 「ああ、お客様!!」 「こんなに広いのじゃ。のんびり歩いておったら日が暮れてしまう」 見た目どおりの年の子供を演じながら、ネモは無邪気に走っていった。楽しげに風を感じながら目を細めると、城の壁のクレマチスが見えた。 (そういえばクレマチスの花言葉は『高貴な美しさ』じゃったか。そして……『手管、企み』とも言ったか) 剣呑な花言葉に、彼はふん、と愛らしい鼻をならした。 一方、応接間。グリスは自分が『剥製師』である事を言い、売り込んでいた。過去に気に入った女性を剥製にしたい、と考えた事がある彼ではあるが、今回は違う。 (あきちゃん達の剥製化は阻止させて貰うよ) 心で静かに闘志を燃やしつつ、彼は女主人と向き合っていた。彼としては、己の所業を見つめ返してもらい、改心できないか、とも考えていたのだ。しかし……、女主人は彼が『剥製師』と知るや否や表情を少し変えた。 「実は、お抱えの剥製師が風邪を引いてしまったの。今は客間で休ませているのだけれども……、あと1人剥製師が欲しかった所なのよね」 彼女は『美しいものを美しいまま留めておきたい』という思いから気に入った存在を剥製にしている、という。そのどこか狂気じみた熱弁を聞いているうちに、グリスは内心で溜め息を吐いた。どう考えても、彼女は罪の意識を持っていないのだ。 「ところで、グリスさん」 「はい?」 問われ、グリスは考察を止める。女主人はふふ、と小さく笑うと無造作にグリスの頬へと手を伸ばす。 「剥製師としての腕は、どうなのかしら?」 「獣でも人でも悠久の芸術品に仕立てますよ、ジェラート様」 グリスは自信満々にそうアピールする。女主人は「ふむ……」と少し考えながらグリスの灰色の瞳を見つめる。吸い込まれそうな青い瞳に魅入られそうになったものの、その奥で揺ているモノに気付き、背筋に冷たい汗が流れる。 「貴方が剥製師でなかったら、剥製にしたかったわね。まぁ、いいわ。手始めに……さっきの黒髪の子を剥製にして下さらない?」 その言葉に、グリスは目が点になりそうになった。女主人はネモを剥製にして欲しい、と言っているのだ。 (そ、それは拙い!!) グリスは内心で頭を抱えつつ……ふと、脳裏が静かになっていくのを覚えた。 ネモは色とりどりの花が飾られた廊下を楽しげに歩いていく。柔らかな花の香りが心を和ませるも、どこか淀んでいるような雰囲気に金色の瞳を細める。 (死の匂いは、誤魔化せぬか) 確かに腐臭はまったくない。しかし、ヴァンパイアとしての『勘』が、ネモになにかを告げている。 しかし、他の人間たちからしてみれば「幼子が無邪気に遊んでいる」ようにしか見えない。使用人たちは「今度の犠牲者だろうか?」とか「新しい使用人になるならいいな……」など小声で呟いている。 (……問題は、地下への道か) 城の階段を見つけてはいるが、地下へ行く階段が見当たらない。どこかに隠れているのだろうか、と思いながら辺りを見渡すと……細い扉を見つけた。 「あれは……なんじゃ?」 不思議に思いながら触れるものの、開かない。不思議に思っていると……背後に気配を覚え、振り返る。と、女主人がそこに居た。 破:秘められら闇の奥で ネモが細い扉の前へくるちょっと前。グリスは女主人と共に応接間を出ていた。グリスはコンダクターの他に囚われた娘たちの事を思い出し、「その前に剥製にしたい物はおありですか?」と問いかけたのだ。 「そうねぇ。剥製にする下ごしらえもあったわね。先に3人いる娘のうち1人を剥製にしていただけるかしら?」 女主人はそういい、グリスを案内した。そしてちらり、と手鏡を見る。 「あらあら、いけない坊やね。まだそこへは連れて行けないわ」 小声で呟いたものの、グリスには聞こえていた。そして、鏡に映ったネモの姿を。それを見て、彼は苦々しそうに顔を歪ませる。 (やっぱり、森の魔法と同じ物が屋敷の花にも……) それ故にネモの姿を捉えられたのだろう、と頷く。工房にもそれが無い事を祈りながら彼は女主人についていく。 「グリスさん、貴方の作る剥製が早く見たくて堪りません。早速作ってくださらない?」 「かしこまりました、ジェラート様」 ネモが不思議そうな顔でジェラートを見上げる。彼女は身を屈めてジェラートを抱きしめると頬を合わせる。 「いい子にしていてね、ネモ君。おばさんは、グリスさんとお仕事の話があるの。ここは、危ないものが一杯あるから、はいっちゃだめよ?」 「う、うん……」 ネモは子供のふりをしてそう頷くも、僅かな間にグリスと目で会話をする。 (隙を作る。だからどうにか入ってくれ) (わかっておる) 「ネモ君、良い子にしていたらおばさんと一緒におやつにしましょうね」 そう言って、女主人は細い扉を開ける。僅かに篭った空気にグリスは咽そうになるも、女主人が気遣う。その僅かな隙を狙ってネモは己の体を霧へと変え、滑り込んだ。それに気付かない女主人は振り返ることなく、地下へと降りていった。 女主人に案内され、グリスは座敷牢へとやって来た。鍵のかかった扉が開けられる。と、黒髪の乙女……コンダクターの藤本 あきが落ち込む2人の女の子を慰めていた。 (わぉ、なかなかの美人ぞろいじゃないか!) 思わずぽっ、となりそうになったグリスだが、気を引き締める。そして悟られぬように彼女達を見た。 「ジェラートさん、こんな事をしても虚しいだけではないですか?」 あきの問い掛けに、女主人は不敵に微笑む。彼女はくすり、と笑いながらあきの咽喉に、頬に触れる。 「せいぜい、今のうちに囀っておきなさいな、あき。大丈夫よ、私はちゃぁあんと満たされているのだから」 どこか冷たい、それでいて何かを擽られるような、甘美な響き。惑わされそうになりつつも、グリスは黙ってその様子を見ていた。 「グリスさん、どの娘を剥製にします?」 「そうですね、どの娘も美しい……。迷ってしまいますね」 女主人の言葉に苦笑し、グリスは品定めするような目であき達を見る。が、彼はちらり、と後ろを目だけで追って……赤い髪を揺らす。 「とりあえず、準備しつつ考えます。工房へ案内願いますか?」 女主人は1つ頷き、グリスを伴って座敷牢を出た。 ネモはその様子を見つつ……花の死角となる場所で元の姿に戻っていた。部屋から聞こえた会話を耳にしつつ、こっそりと魔方陣を描く。 (そうじゃな、あやつの行動に合わせて、こちらも動くかのう) 応接間に案内されるまでの間に、彼はグリスと作戦を練っていた。そして今、少しずつその時間が迫っている。 と、座敷牢のドアが開く。ネモはトラベルギアのマントを使って透明化してやり過ごす。グリスと女主人の会話が遠ざかるのを感じつつ、彼は使い魔である蝙蝠をこっそりと解き放って彼らの後を追わせた。 「もう大丈夫、安心せい。儂が助けてやるぞい」 彼は小さく呟くと、魔方陣をかきあげた。あとは、念じるだけである。 地下二階の、剥製工房。グリスは揃いも揃った道具や薬品に目をキラキラさせた。 (こんなに良い設備があるなんて! さぞ見事な剥製が作れるんだろうなぁ) おもわずうっとりしそうになったグリスだが、今回はコンダクター達の救出が最優先である。気を引き締めて準備を整える。 「慌てなくて、いいわよ。時間はたっぷりあるのだから」 女主人はそういうものの、わくわく、そわそわしている。相当楽しみにしているらしい。そんな姿にグリスはくすり、と笑う。 「少し時間を頂ければより美しく剥製が出来ます。ですから、落ち着いてください」 「あら、私とした事が……」 我に帰った女主人が、頬を赤くして苦笑する。そんな姿も美しいものの、グリスはてきぱきと準備を進める。襲撃に使えそうな道具を、すぐ手に出来そうな場所に置く。女主人は運良く台の上に腰掛けている。グリスの力があれば押さえつける事も可能だろう。 グリスはちらり、と辺りを見渡した。工房の一箇所に花が生けられている。恐らく、女主人が監視をする為に置いたのだろう。けれども、その本人はここにいる。 (よし……) グリスは1つ頷いた。そして、女主人に向き直る。 「あら、準備は整ったのかしら?」 「ええ、整いましたよ」 彼女の問いに、グリスは笑顔で頷く。 「では、誰を剥製にするのかしら?」 もう1つ、女主人は魅惑的な唇を綻ばせて問いかける。が、それにグリスは冷たい目でこう、切り返す。 「それは、貴女です」 そして、懐に隠していた薬品を女主人目掛けて投げつけた! 急:今、裁きの刻 グリスが動いた。使い魔の知らせを受けてネモもまた行動を開始する。彼はゴーレムを呼び出すと早速座敷牢のドアをぶち破らせた! 「!!」 「あ、貴方は……ツーリストさん?」 突然の事に目を白黒させる女の子。その前に出た黒髪の乙女、あきの言葉にネモは1つ頷いた。 「わしと、もう1人。先ほどここを訪れた青年で助けに来たぞい。女主人は儂らが足止めする」 だから今のうちに逃げるように、とネモは促す。あきは2人の女の子を伴って座敷牢を出る。彼女の肩の上ではデフォルトフォームセクタンが、お礼を言うように跳ねていた。 「お前達、彼女らを頼む」 使い魔たちを道案内にやると、ネモは工房へと走っていく。遠ざかる足音に小さく口元を綻ばせながら、ネモは瞳を細めた。 工房では、女主人とグリスが戦っていた。彼女は鏡を盾に攻撃を凌ぐも、グリスのナイフ捌きには勝てず、脚の腱を切られ、台に縛り付けられていた。 「騙したのね?」 「なんのことでしょう、ジェラート様?」 グリスは大振りなナイフの姿をしたトラベルギア【コルミジョス】を握り締めて首を傾げる。鏡には少し皹が入り、何度か攻撃すれば砕けそうな雰囲気であった。けれどもそこまで行くのに多少時間がかかった。 「今まで、貴方がしてきた事を、そのまま返すだけの事、です」 そう言いながら、彼は【コルミジョス】を構える。女主人はふん、と鼻を鳴らした。 「私はただ、美しいものを美しいままで留めておきたいだけ、よ」 彼女がそういった傍から、拘束が解ける。どうやら仕掛けがあったらしく、こっそりと解除したようだ。台から滑り落ちた彼女は鏡を手に念じようとする。が、それよりも早くグリスの手が動いた。ナイフを鏡目掛けて飛ばし、鮮やかな紅が僅かに零れる。 「おぬしは永遠が欲しいと見える。だが……おぬしが望むのはまやかしの永遠じゃ」 不意に、ボーイソプラノが響く。グリスが振り返ると、ネモが姿を現していた。幼い姿でありながら、そこには長い年月を生きた者だけが纏う重厚な威厳があった。 その言葉に、女主人はくすり、と笑う。痛みを覚えているであろうに、彼女は赤い血すらも飾りのように見せつけ、ネモを見つめ返した。 「まやかし? そうではないわ。私の力で腐敗しないのだもの。美しいまま、その姿を保てるのよ?」 「果たして、そうかのう? 干からびた人形遊びで充たされておると言えるのか?」 自分の本性と向き合うと良い、とネモが穏やかに問いかける。グリスが女主人の背後に回り、警戒していると、女主人はうふふ、と口元を綻ばせた。 「美しい物を見ると、つい、欲しくなってしまう。それは、充たされていない、という事なのかしら? でも、それって生きているって事ではなくて?」 女主人は、艶めいた眼差しをグリスとネモに向けながら、言葉を続ける。その声色は、並の男ならば骨抜きになりそうなほど、美しく、優しくもどこかほんのりと暗いモノがあった。 「生きている限り、欲望は尽きない。そういうものではなくて?」 (彼女は) グリスは、その言葉に息を飲んだ。女主人は、最初から悪い事をしているつもりは無いのだ。彼女は、『好きな物を美しいまま留めておきたい』という欲望のままに動いているのだ。 (ここで、止めてあげよう) このままでは、新たな犠牲者が増えるだけだ。グリスが頷く。ネモもまた同じことを考えたのだろう。彼は1歩女主人へ踏み出した。 「おぬし。永遠の美を自分の物にしたくはないか?」 「え?」 ネモの言葉に、女主人は首を傾げる。そして、何か迷うようにもごもご言っていたが、ネモはもう1歩踏み出す。 「儂は、吸血鬼じゃ。儂が血を吸えばおぬしは永遠の若さと美しさを手に入れる事ができるぞ」 「それは、盲点だったわ。けれど、私は……」 そこまで言いかけた時、目の前には、見た事も無い美青年が居た。金色の瞳が美しい、月光を思わせる儚さを纏った青年だった。 ネモに魅了された女主人が、鏡を落とす。グリスはそれを拾い上げると、使用人達に出迎えられるあき達の姿が映った。 (使用人たちも、逃げたかったんだね) グリスは、思い切って鏡を叩き落す。と、がしゃん、と派手な音を立てて鏡は割れた。その音すら気付かないほどに、女主人は身動き1つしない。そのしなやかな肩に、ネモは口づけし、女主人の肩に牙を突き立てる。ぷつり、と肉が切れる音が、膨らむ紅の粒が、女主人の意識を覚醒させる。 力を込めてネモを引き離そうとする。が、ネモは吸血を止めない。徐々に力を失っていく、女主人の腕。グリスもまた、ネモを止めようとしない。 (おぬしはちと人を殺め過ぎた……) ネモは瞳を閉ざし、女主人の血を一滴残らず吸いつくさんとする。が、女主人が元来持つ力の所為か、僅かに抵抗される。それでも、ネモはきつく彼女を抱擁し、牙を離さなかった。 そのどこか官能的とも思える姿を、ネモの咽喉がぐびり、となるのを、1人の憐れな存在が息絶える瞬間を、グリスは静かに見守っていた。 2人が地下から上がってくると、城の中は慌しかった。荷物を纏めるもの、金目の物を漁るもの、食事を取るもの……と様々だ。 あきを探していると、彼女はネモの使い魔やゴーレムと、2人の乙女と共に応接間で休んでいた。 「迎えにきたぞ。共に帰ろう」 「もう、大丈夫だよ」 2人の言葉に、あきは笑顔で頷き、「ありがとうございました」と頭を下げた。 こうして、ネモとグリスは囚われのコンダクターを救い出し、城から立ち去った。残された人々も次々に家へと帰りつく事が出来、城には誰も残らなかった。 魔法の解かれた森は、もう、普通の森だった。ただ、手入れするものがなくなった花壇は荒れ果て、城はやがてクレマチスに全てを覆われた。その片隅に、犠牲となった人々を弔う墓が作られていた。 ただ、そこに植えられた花だけはいつまで経っても枯れなかったという。 (終)
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