0世界、ターミナルの朝は、『朝』といっても何の変哲もない。 0世界には、そこに住まう『ヒト』という存在、もしくはその『ヒト』がもたらす以外、変化というものが存在しないからだ。 何もないと不便だからという理由で、壱番世界はイギリスのグリニッジ標準時が『時間』として設定されているが、時計の針が何時を指していようとも、ターミナルの『見え方』に変化はないのだ。 それゆえ、多様な世界群からの旅人たちは、自分なりの体内時計を持ち、そのタイムスケジュールに従って生活している。 ターミナルの片隅にひっそりとたたずむ茶房『エル・エウレカ』も例に漏れず、料理人一名と店員モドキ二名のスケジュールによって営業されている。三人が三人とも、ターミナルで設定されている標準時に従って生活しているおかげで、『エル・エウレカ』の営業はスムースであるらしい。 その日も、早くから目覚めて朝の鍛錬を行い、一汗流した贖ノ森 火城は、『導きの書』に何も予言がなされないのを確認してからいつも通り『エル・エウレカ』全体をきれいに掃除し、食材をチェックしたのち店を開けた。 その段階で午前六時。 三十分もしないうちに神楽・プリギエーラとゲールハルト・ブルグヴィンケルがやってきて、準備は万端となる。 すぐ、店内には、食材の調理される、食欲をそそる匂いが充満した。 それを見越したかのように、ちらほらと客が入り始める。 知る人ぞ知る隠れ家的カフェが、美味かつ栄養満点の朝食を饗することは、常連ならば誰でも知っているし、ふと通りすがったロストナンバーが、仕事や異世界旅行の前に腹ごしらえを、と思い立つことも珍しくはない。 火城はてきぱきと料理を仕上げ、腹を空かせた人々へ朝餉を饗してゆく。「やはり朝食というのは大事だ。一日の始まりに、身体へしっかりと栄養を与えてやることは、大切な儀式のひとつだと思わないか」 彼の言葉に誘われるように、また『エル・エウレカ』のドアが開く。 火城は赤い眼を細めて新たな客を迎え入れた。「ああ、いらっしゃい。腕によりをかけるから、しっかり食っていってくれ」 促されるまま、客はテーブルに着く。鼻腔を、うまそうな匂いがくすぐる。 黒板に白墨で手書きされたメニューには、いくつかのおすすめが載っている。それを見ているだけで、胃袋が盛大に空腹を訴える。 ――さあ、何を食べようか。
0世界のターミナルには、いわゆるヒト型とは異なる姿かたちを持つロストナンバーたちも少なくない。 ケモノ型、ドラゴン型、モンスター型、機械型などなど、ターミナルには多種多様な『人種』がひしめいている。 ワーブ・シートンもそのひとり……いや一頭、もしくは一熊で、彼は知恵ある動物たちが暮らす世界からやってきた、立ち上がれば身の丈三メートルにもなるグリズリー・ベアという種類の熊である。 当然、たいそういかめしいというか、壱番世界辺りでは悲鳴を上げられ逃げられても仕方のない――『旅人の外套』がうまく作用しない、という不具合が発生するとしたら、だが――外見の持ち主だ。 「ん、なんだかいい匂いがするなぁ」 彼らの故郷に暮らす動物たちは、無論基本的には野生の動物であるから、食事などは生のもので何ら問題ない。火を使い、調理するなどの文化は、彼らには特別必要とはされていないのだ。 しかし、彼らは知恵を得ているため、味覚というものが発達している。 否、覚醒してから、味覚というものの意味を知った、というべきだろうか。 「蜂蜜や果物、生の鮭もいいけれど」 匂いのもとをたどりつつ、ワーブはうきうきと進む。 「ヒトの手がかけられた、料理ってものも、おいしくていいよねぇ」 そのままで十分おいしい素材をさらに美味にし、保存性や見た目までよくしてしまう『料理』という行為。生態的、本質的には必要としなくとも、それはワーブを楽しくさせるもののひとつだ。 進んだ先には、『エル・エウレカ』があった。 「おや、ワーブ。おはよう、今日はどこへ?」 店先で掃除をしていた神楽が彼に気づき、声をかけてくる。シャンヴァラーラでの年越しをいっしょにしたこともあって、覚えていたようだ。 「あ、おはようさんですよぅ。いつもお疲れさまですよぅ。おいらはこれから依頼を受けに……行こうかと思ってたんですが、いい匂いがしてお腹が空いたのでここへきたんですよう」 「なるほど。ちょうど、朝食が出来ている。火城が腕によりをかけているようだから、食べていけばいい」 神楽がいうには、どうやら、モーニング・メニューというものがあるらしい。 朝も早くからこれだけのいい匂いがするのだ、それはとても期待できるものに違いない、と、ワーブはいそいそと店内へ足を踏み入れる。 もちろん、ヒトもケモノもキカイもドラゴンもそれ以外も、ロストナンバーという糸でつながっている客たちが、ワーブの姿を見て驚いたり慌てふためいたりすることはなかった。 「和食と洋食があるんです?」 「大まかに分ければ、な。それ以外にも、頼めばつくってくれるんじゃないか? 朝からスパイスたっぷりのカレーだとか、激辛のラーメンだとか、分厚いステーキだとか、豚の丸焼きだとか、そういうのもアリだとは思う」 真顔の神楽に、穏便なトーストセットや朝粥セット、おにぎり定食や茶がゆ定食などを食していた客たちが、朝から濃いな!? と突っ込んでいるが、当人は本心から言っているだけだし、ワーブに至っては「豚の丸焼きもよさそうですけど、ちょっと今月のお小遣いが厳しくなりそうだしなぁ」というマジボケに走る始末だ。 ちなみに、金銭による物品の取引というのも、ワーブが覚醒して知った行為のひとつである。彼らの故郷では、貨幣は特に必要なものではなく、また、四ツ脚の獣たちがそれをつくることは困難だ。 「じゃあ、パンケーキをお願いしようかなぁ。ふわっふわのパンケーキを塔みたいに積み上げて、たっぷりの蜂蜜や果物のジャムなんかをかけて食べたら、最高に美味しいと思うんですよねぇ」 ほのかに甘い、バターの風味が香る薄焼きのパンケーキに、しぼりたての蜂蜜や甘酸っぱいベリーのジャム、濃厚なメープルシロップ、こってりとしたクリームなどを載せていただく様を想像するだけで、更に空腹が募る。 「それから、鮭を使ったおかずも食べたいですよう。ほら、甘いものと塩辛いものは、交互に食べたほうがおいしいっていいますし」 覚醒してからの数年で、すっかり『人間の作法』を身に着けたワーブのリクエストである。もちろん火城は快諾し、それからふと思い立ったように、 「つくりかたを見るか? 焼き上がるところを見ていると、さらに美味く感じるという客も多いぞ」 そんな提案をしてみせた。 「おいら、この手なんで自分でつくれるかどうかはさておき、楽しそうですねぇ。ぜひ、見せてもらいたいですよぅ」 ワーブが頷くと、彼の案内された座席には、大きなコンロが運び込まれた。 そのうえには、焦げ付きにくい素材で出来たフライパンが載っていて、出番を待っている。 それから、大きなボウルと泡だて器。 薄力粉と強力粉。 玉子、牛乳、ベーキングパウダー、砂糖、塩、バター、バニラエッセンス。 金色をした蜂蜜、琥珀色のメープルシロップ、真っ赤な苺を白ワインと蜂蜜で煮たジャム、金柑のマーマレード、ブルーベリーのシロップ煮、ホイップした生クリーム、あっさりしたリコッタチーズに蜂蜜を混ぜて練ったもの、やさしい甘さのカスタード・クリーム、濃厚で華やかなチョコレート・クリームなど、パンケーキを美味しくいただくためのありとあらゆるトッピングが用意されている。 「この蜂蜜は、私とゲールハルトがヴォロスで手に入れて来たものなんだ」 「へえ、そうなんだ。太陽の光みたいに金色ですねぇ」 「ああ、全長50cmにもなる巨大なミツバチたちの仕事だ。見事なものだと思う」 「大きな蜂ですねぇ……刺されなかったですか?」 「よく事情を話したら判ってくれて、ゲールハルトが周辺の岩場を花畑にするという条件付きで分けてくれた」 話し合ったら蜂蜜を分けてくれるミツバチってすげえな、ていうかそれ刺されたら死にそう……などというツッコミが周囲から聴かれる中、ワーブはむしろ感嘆している。 「うわあ、それはいいですねぇ。おいらも、巣づくりを手伝ったり近辺のスズメバチを退治したりしたら、その蜂蜜を分けてもらえないかなあ」 グリズリー・ベアの食性と言えばいわゆる雑食であるので、ワーブも例に漏れず蜂蜜が大好きだ。ヒトのように、何かにかけて食べるという発想より、巣に顔を突っ込んでそのままもぐもぐしたいという欲求のほうが強いが、さすがに全長50cmのミツバチが無数に住まう巣に顔を突っ込みたいとは思わない。 蜂蜜談義でワーブと神楽が盛り上がる中、ふたりの目の前では火城が器用に、かつ手際よくパンケーキのタネをつくってゆく。 「二種類あるんです?」 「ああ、薄力粉と強力粉、粉の違いによって口当たりが変わるからな。あんたのことだ、たくさん焼いても食べられるだろう?」 「なるほど、それは楽しみですよう」 まず、薄力粉ないしは強力粉にベーキングパウダーを加える。 それを泡だて器でよく混ぜる。 バターは溶かしておく。 別のボウルに、玉子と牛乳、溶かしバターと砂糖、塩、バニラエッセンスを加えてよく混ぜたら、粉を加えて泡だて器でよく混ぜる。薄力粉のほうには、炭酸水が加えられた。これをすると、生地がもちもちになるのだそうだ。 ちなみに、タネづくりで大切なのは、粉を加えたあとにかき混ぜすぎないことだ。 少し置き、馴染ませたら、フライパンを熱してバターを少し塗り、タネを入れる。弱火で焼き、表面全体にプツプツと泡が立ったらひっくり返す。さらに少し焼けば、パンケーキの出来上がり。 火城の手首がくるりと返り、フライパンを一振りすると、パンケーキは生き物のように宙を飛び、ワーブの前の大きなお皿へとダイブした。 ふわり、と甘くふくよかな香りが立ちのぼり、ワーブの鼻をくすぐる。 火城は驚くべき手際のよさで次々と二枚目三枚目を焼き上げ、皿の上へとパンケーキを積み上げてくれた。まさに、塔のようなと言うのが相応しい積み上がりっぷりで、それは圧巻と言うしかなかった。 「うわあ……すごいですよう。匂いだけで、どんどんお腹が空いてくる……!」 好みで、と示されたトッピングの中から迷わず蜂蜜を選び、薄力粉のパンケーキにたっぷりかけてもらう。強力粉のパンケーキには、明らかに手製と思しき苺ジャムやマーマレード、ブルーベリーのシロップ漬け、それから生クリームをこってりと乗っけてもらった。 「いただきます、ですよう!」 手が使えないので、顔を突っ込むような状態でパンケーキ・タワー攻略に取りかかる。 すぐにワーブは歓声を上げた。 「うわあ、ふっかふかのふわっふわのしっとりモチモチ、ですよう……!」 よい粉を使ってあるのだろう、生地は滑らかで舌触りがよく、バターのコクと甘みが絶妙で、それらが蜂蜜やジャムなどのトッピングと合わさっていくらでも食べられる仕様となっている。 「蜂蜜とパンケーキと熊……絵になるな……」 他の客に給仕をしつつ、神楽がぼそっとつぶやいていたが、ワーブはそれにも気づかぬ様子でパンケーキを詰め込み続けた。 炭酸水を加えて焼いた薄力粉のホットケーキは、モチモチとしてふんわり。強力粉のパンケーキは、分厚いのにふわふわしてしっとり。そこへ、極上の蜂蜜やクリーム、果物の風味が合わさって、もはや言葉に出来ない領域の口福となっている。これを至福と言わずして何と言おうか。 野生の、弱肉強食の世界においては大した意味をなさない、繊細な味覚というものを強く感じられる現在の状況に、ワーブは感謝したい気持ちになった。これもまた、覚醒したことの醍醐味というべきなのかもしれない。 パンケーキに舌鼓を打つワーブの傍らでは、火城が生鮭の大きな切り身に塩コショウをして馴染ませたものに、白ワインと蜂蜜を混ぜたという粒の大きいマスタードをまぶしている。 「それは、何にするんです?」 「もう少し馴染んだら、パン粉をつけて焼くんだ」 「うわあ、それもおいしそうだなあ」 食べれば食べるほど食欲がわき、パンケーキはいくらでも入っていく。 豪快だな、と火城は目を細めた。 それから、フライパンにオリーブオイルを熱し始める。 「まあ、これを食って、今日も頑張ってくれ」 鮭の切り身をソテーしながら火城が言い、ワーブはパンケーキをもう一枚頬張って、頷いた。 「おいしいものを食べると力が湧いてきますからねぇ」 鮭の焼ける、じゅうじゅうという音が食欲をそそる。 食べることは、生きることそのものだ。 ワーブたちによっては、それは特に強い感覚でもある。 「おいら、今日もがんばれそうですよう」 ワーブは上機嫌で残りのパンケーキをぱくりとやった。 鮭のハニーマスタードソテーはもうじき仕上がるらしい。香ばしい匂いが、辺りには強く漂っている。 どうやら、今日も佳い一日になりそうだ。
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