荒野だった。 倒壊し、瓦礫としか形容できない人工建築物の数々は、ほんの一週間前には煌々と明かりが灯っていたものの、今に至り、人影も動物の姿もなく、腐敗する前の骸を晒す。 瓦礫の角は鋭利で、石は石のままに、布は布のままに。地面に零れた食べ物はまだ原型を留めている。 街を巨大な生命体に例えるならば、この巨大な生命体はまだ死んだばかりで体温すら感じられる。 だがここに生命の息吹も、時代に託された希望の種も、存在しない。 この街は死んだのだ。 災禍の発生源は金髪のあどけない少女。 塵に塗れた街の中で、彼女だけが能動的に動いている。 崩れたビルの、剥き出しになったカフェのソファに座り、インヤンガイの星空を眺めていた。 足をふり、夜空に思いを馳せる少女。そんな風景。 彼女の周りにあるのは死の匂いすら消えうせた、ひたすらな無機物の群れである。 物質的な肉体は破壊し尽くし、精神を支える霊力を蹂躙し、死した後の霊魂すら吸い上げる。 ここにあるのは、ただの石。 人ひとり、猫一匹、微生物一匹にいたるまで彼女がしゃぶりつくした後の、ただの石の塊である。 インヤンガイという世界の中でひとつの街区が完全に死に絶えていた。 ミ☆ ミ★ ミ☆ ミ★ 「……ここまでやるかねぇ」 ティーロは無人の、寂寞の中を一歩一歩踏み進める。 「なぁ、どう思うよ」 返事は帰ってこない。 風の精霊も、大地の精霊もここにはいない。 「……さすがにここまで「何もねぇ」場所なんて見たことねぇぞ」 ティーロの頬には風があたる。 だが、風の精霊が介在する息吹ではない。 地点の温度差によって、膨張した空気と収縮した空気の差が産み出した圧力の均一化現象だ。 つまりは無機的な物理放送に従うだけの形ある何か。 この風に話しかけても、大地を自由に駆け巡る精霊はティーロに答えを返してはくれない。 インヤンガイは霊力都市と呼ばれるほど、霊力に満ち溢れている世界である。 これほどの霊力の空洞化があっても、いずれは周囲の街区から流れ込む力がやがてはこの街区を復興させるだろう。 それが数年後か数十年後か。あるいは数十の世代交代を待つことになるのか。 ヒマを持て余しても話しかける相手は誰もいない。精霊すら相手にしてくれない。 やることといえば二本の足を交互に交互にひたすら動かすことだけ。 だからこそ、暗闇の中で一条の光を見た時の安堵の溜息は深かった。 すぅ、と息を吸い込んで、ゆっくりと吐く。 次からの一歩は目的の相手に近寄るための、迷走ではなく確固とした目的のある一歩だ。 ミ☆ ミ★ ミ☆ ミ★ 「こんにちは、このあたりで生きてるなんて珍しいね?」 最初に聞こえたのは少女の声。同時に四方八方から眺められているような視線。 ティーロは自分が彼女の縄張りに踏み込んだことを自覚する。 間違いがなければ、この声の主はティーロに危害は加えないはずだ。少なくとも、今すぐには。 そこで、ティーロは心持ち大きめに彼女に呼びかける。 「リーリス、オレだ。ティーロだよ」 返答はすぐに帰ってきた。 「おじちゃん? 珍しいね、おじちゃんがインヤンガイに来るなんて」 声のする方向に足を向け、瓦礫の山をひとつ越えると、満天の星の下でリーリスがこちらに手をふっていた。 壊れたビルの壊れたカフェ。 外に剥き出しになっているテーブルと椅子。 リーリスが座っている椅子のその向かいにゆっくりと腰を下ろす。 テーブルに備えてあったメニューを取り眺めてみるが、注文が決まってもきっとオーダーを取りに来る人はいない。 目の前のリーリスはと言えば、ティーロの顔と星空を交互に眺めている。 「空に何かあるのか?」 「うん。リーリスの予測が正しければそろそろ来るはずなんだ。ロストレイル。……昨日、来てもおかしくなかったんだけど」 「ロストレイル?」 「うん、来るはずなんだよ。リーリスを殺しに」 「そうか」 メニューのオーダーを諦め、ティーロは自身のトラベルパスから水筒を取り出して口に含む。 ちらりと眺めた空は穏やかで、ロストレイルのレールも車両も見えない。 「それとも、……おじちゃんが刺客?」 「物騒だな。いーや、オレはお前に何もしない。ただ、今夜はいい夜だ。一緒に月でも見よう」 星空。月。 耳に届く音はなく、無音。 精霊の囁きすら失われた寂莫の世界。 頭上に視線を移せば無数の光。 大地に目を向ければ瓦礫の墓場。死の匂いさえしない伽藍の舞台。 「――次にロストレイルが現れたらね」 「うん?」 「そのロストレイルに乗っているのが誰なのか。リーリスはとっても楽しみなの。指揮を執っているのが"誰"なのかでリーリスの運命が決まる。アリッサが仕掛けてくるか、カリスが仕掛けて来るか。リーリスはね、トレインウォーが始まる方に賭けてる。だって、そのほうが面白いんだもの」 今、この時にも現れるかも知れないロストレイル。 この世界に出現した途端に感知することができるだろう。 それは数十、数百のロストナンバーを搭載し、なりふり構わずリーリスを屠りに来るか。 あるいは数名の精鋭が放たれるか、そうでなければ暗殺者が送り込まれるか。 アリッサが指揮を執れば、それはおそらく様子見だ。 力ずくという手段を使うだろうが、それでもリーリスを拿捕するために活動するに違いない。 ではレディ・カリスが糸を引いていればどうだろう? 最良の手は、すでに滅んだ街区ごとリーリスの殲滅が目的になるはずだ。 彼女は常に目的のための最善手を持ってくる。 ならば想定するのはインヤンガイ上空からの火力投下と戦力の一斉投入。 では、ロバートならば、では、リベルならば。あるいはナラゴニアの舞台が派遣されてくるとしたら。仮にチャイ=ブレ自身が襲ってきたら? 様々な仮定を述べ、その仮定に基づいてリーリスは自分が討伐されるシミュレーションを語る。 楽しいのはカリスの時、きっと派手な舞台になるだろうとリーリスは言う。 魅了する相手に事欠かない、盛大な同士討ちを含めて、このインヤンガイが血と怨嗟と裏切りに染まる、と。 「厄介なのはエミリエが責任者としてトレインウォーになった時ね。どう出てくるか予測がつかないもの」 くすくすとお茶もないティーパーティの雑談は続く。 黙ってうなづくティーロを前にリーリスは年頃の少女の姿そのままにひたすら話し続ける。 楽しくて仕方が無いパーティがこれからはじまるのだ、と。 一瞬の無言。 話題が一区切りついた事を示す。 リーリスもティーロも机に向かって座るポーズを崩さない。 「リーリスはリーリスを怖がらない人間が好きよ……。おじちゃんもね」 「そうか」 「でもね、おじちゃんとは盟約はなかったの」 「盟約?」 「そう。とても大切な約束。盟約には紙も血判も必要ない。その時の本気だけで充分よ。もう一回言うけれど、私はクゥもおじちゃんも好きよ……でもキサだけが私と盟約を結んだの。いつか私の友か敵になるって」 ――「いつか、私のお友達か、敵になってね? 約束よ、キサ」 母体越しにトンっと返した返事を思い出す。 そして彼女に捧げた一方的な誓いをも思い出す。 ―― 知恵を与えよう。リーリスが持てる限りの知恵。 ―― 力を与えよう。リーリスが持てるだけの力。 ―― そうしたらこの真っ白い赤ちゃんはきっと誰よりも強くなる。 誓った。 たしかに、そう誓った。 まだ不十分だ。まだ、まだ。 「キサ、キサ、おいで、キサ」 リーリスは星空へ語りかける。 挑発のエアメールは読んだだろう。 今頃、暴れ狂っているか。 あるいはすでにこちらへ向かっているか。 「……と、言っても、目の前にいるのはしがないオッサンなんだがな」 言葉と意識が空高くへ飛び始めたリーリスの耳に、ティーロの言葉が戻る。 「しっかし、その生まれる前の赤ん坊に随分と御執心したもんだな」 「ええ、キサが大好きよ、私を敵にするなんて宣言した塵族だもの。だからキサの居場所は全部潰す。キサの友達は全部殺す。キサが頼るものは塵に変える。キサの大切なものはすべて何の役にも立たないゴミにする。絶望しか見えなくなったキサのお腹に手をつっこんで内臓をかき回し、のた打ち回る様を見ながら「愛してる」って言って心臓を握りつぶすの。事切れる最後の一瞬まで見ててあげる、死ぬまで「大好き」って囁いてあげる、痙攣する体を支えて、最後に吐いた息を吸い込んで、冷たくなるまで抱きしめていてあげる。だって大好きなキサだもの。……ふふ、それが敵になるってことよ」 「おーおー。おっかねぇなぁ」 「これは大事な約束なの。キサとリーリスの生まれる前に理沙子を挟んで交わした大事な大事約束なの。……だから私が壊すの、殺し合うの……おじちゃんも塵族だから分からないか」 「分かってやりたいんだがなぁ」 ぽりぽりと頭をかくティーロにリーリスは微笑みかける。 「ううん、わからなくてもいいよ。だってこれはリーリスとキサにしかわからない。もしかしたらキサにもわかってないかも知れない。生まれてなかったから。……だけど、リーリスは分かってるんだ。そういう事だから。そうだ、おじちゃんにリーリスの切り札を見せてあげる」 リーリスは机に三つの金属を置く。 それぞれが掌サイズ。沈黙を保ったままのそれが何をしているのか、この時点でティーロには分からない。 「これはね、霊力を電力に変換する装置。はい、問題。おじちゃんだったらインヤンガイでこんな装置を何に使う?」 ふむ、とティーロが顎の無精ひげをなでる。 そもそも、インヤンガイでは霊力による文明が成立していた。 電気は物理現象であるため、インヤンガイでも落雷という形で認識はされているだろう。 霊力有効利用の過程で電力の発見は行われていてもおかしくない。 「電力と霊力の差は、物理力かそうでないかだ」 「ふぅん?」 「霊力は枯渇するが電力は枯渇しないからな。今のインヤンガイだと霊力構造ができているが、金属線に電力を流すだけで発熱や発光させることはできる。……が、高度な使い方は発展してないだろうな。もしそうなら世界全体に霊子炉でも作って、電気文明に変わってる」 「うん。壱番世界ではたかだか百円ほどで炎文明から電気文明に取って代わったところ。インヤンガイでもそうなる可能性は……あまりないんじゃないかな? だって霊力の方が使いやすいもの。電力に取って変える必要もなさそうだし」 「だとすると……?」 「技術を持ち込んだのはツーリストよね。きっと。電気文明のツーリストがインヤンガイで使いやすいように技術を伝えたんだと思うの。でも、リーリス、そんなの興味ない」 にこっと微笑む。 「リーリスが興味あるのはね、これが周囲の霊力を吸い取るって言うところ。吸い取った霊力を機構で電力に変換しているんだろうけれど、そんな風に集められた霊力だもの。リーリスの方に誘導するのは簡単よ。これを発動しているだけで霊力の吸収がとっても楽になるの」 口をあけて待っているだけで、食べ物があちこちから飛んでくるようなものだ。 武器弾薬が自分から集まってきてくれると解釈してもいい。 孤軍奮闘を前提にするリーリスにとって、この手の補給路は何者にも変えがたい。 霊力霊子変換装置。 呼称「ヤマト」「ミズホ」「ヤシマ」の三機。 これがリーリスの持つ切り札の一枚目。 彼女はまるでお気に入りのアクセサリを自慢するかのように自然に笑っている。 ミ☆ ミ★ ミ☆ ミ★ 「あとね、リーリスの切り札。二枚目」 彼女は両手を広げた。 その先に二人の影。影はやがて実像を結び、リーリスと同様の形へと変貌する。 「分身か」 「迎え撃つのはこっち、もう一人にはね、お使いに出てもらうの。もう少しで体力が回復するから、そうしたら作戦開始。ふふふ。――0世界の決断が素早かったらどうしようかと思ってたところよ。それとも――」 リーリスの瞳が夜の闇に赤く光る。 「ねぇ、おじちゃん。もしかして、リーリスを止めに来た? それとも、殺しに来てくれた?」 「言っただろ。何もせんよ。強いて言うなら――、ああ、そうだ」 トラベルパスからタッパーを取り出す。 プラスチック素材の蓋をあけると、茶色の液体に茶色の具の数々。 ――たまご、大根、がんもどき、さつまあげ 「来る途中におでん屋のおやじが店の復興してたからな。覚えてるか? ナラゴニアん時に屋台ぶっこわされたあのオヤジ。またおでんを作るんだって、あのトシとツラで言ってやがったんだ。新しいツユも開発したんだとさ、なんでも今までカツオダシとショーユだったのが今度は昆布出汁を基調にして砂糖と醤油で濃い目に味付けしててな。麦酒なんかにはまったく合わないが米酒には抜群だって言ってた。ああ、話がそれたな。――ってことでな、おやじの試作品つまんでたんで、ここに来る途中に土産にしてもらった。いらねぇとは思うが、夜食にでもしてくれ。うまいぞ」 「そうなんだ。いただきます。これ、何?」 「ちくわぶか? チクワじゃねぇんだ。名前は似てるよな。もちもちしてるが粉っぽいことがある。賛否両論分かれる」 「ふーん?」 リーリスの分身がタッパーを手に取り、二体まとめて消えた。 「もう少し回復すれば、もっと自由に動かせるんだけどね。早く回復しないかなぁ」 「呼べるだけでも大したもんだ」 時間が足りない。時間が惜しい 回復。致命的なダメージを受けた時、通常モードまで回復するのは容易だ。 しかし、これから0世界と。あのロストメモリーの群れと。 ひいては世界群をも支配するチャイ=ブレを相手にしなければならない。 中途半端な回復ではない。自身に溜め込めるだけのエネルギーを限界点まで詰め込んでおかなくてはならない。 空腹から腹八分目まで食物を詰め込むのは容易でも、腹八分から満腹まで、さらには限界ぎりぎりまで食べ物を詰め込むのは困難なのだ。 そのための時間を確保してでもリーリスは次の戦争に備えている。 敵は無数のロストナンバー。味方はインヤンガイ。 「インヤンガイの霊力を吸収したら、次はヴォロスよ。竜刻を入手して戦力を高めるの。壱番世界の素直な犬猫の科学力と兵力は魅力ね。 モフトピアは兵士を飼うための食料貯蔵庫よ。リーリスには関係ないけど無尽蔵の糧食で、無尽蔵の兵士を養うの」 ――インヤンガイの霊力でリーリス自身の力を蓄え。 ――ヴォロスの竜刻を持って兵器を得る。 ――数多い壱番世界で兵士を集め、モフトピアを補給基地に据える。 「ブルーインブルーの立場がねぇな」 「そうかも。海底洞窟を調べれば面白いものが出てくるかも知れないけど、チャイ=ブレと戦うためにモノになるかどうかは分からないもの」 彼女はお菓子作りの計画を話すように楽しそうに0世界を攻撃する計画を話す。 戦力としてリーリス自身の戦力を過信せず、次の一手、さらに次の一手を組み上げている。 惜しむらくは最初の一発。世界計の針を奪うタイミングが悪かった。 キサという相手から、桂花を踏み台に奪い去るにはキサが手強すぎた。 あるいはキサではなく、他の世界針を奪取すれば状況は変わっていたのだろうか。 「でも、それじゃあ「盟約」を果たす機会がなくなるかも知れなかったの」 それは外せないことだったのだとリーリスは断言する。 キサとの盟約は計画に優先する。 だって約束したんだもの。 ミ☆ ミ★ ミ☆ ミ★ 「そろそろ時間じゃない? ロストレイル、おじちゃんみたいにインヤンガイにたまたまいる人が逃げ出すための便があるんでしょ?」 「よく知ってるな」 ティーロのトラベラーズノートにはエアメールが届いていた。館長直々のお達しで、理由の如何を問わずインヤンガイで任務についているものは引き上げてこいという内容だ。 引き上げ命令の原因について説明はなかったものの、リーリスが原因であることは一部のロストメモリーには明白である。 そのためのロストレイルが密かにインヤンガイから0世界へと渡る。 そして、リーリスはそのことを知っていた。 「攻撃するつもりだったもの。できなくなっちゃったけど」 「しないのか?」 「さっきも言ったけど回復の時間が足りないの。そのうち"本命"が来るようなこんな状態でロストメモリーに自分から仕掛けるほどリーリス、無謀じゃないもん」 「そりゃ何よりだ。俺も撃ち落されたくはないしな」 「良かったね。じゃ、そろそろお開き?」 「そうだな」 「最後に質問。おじちゃん、《不吉》って何て言う?」 「《不吉(シニスター)》?」 「シニスター。……うん、わかった!」 「さて。なぁ、リーリス、達者でな」 「おじちゃんも元気でね」 次は無い。二人とも分かっていた。 ティーロの手がくしゃり、とリーリスの頭を撫でる。 「ああ、じゃ、またな」 ―― それが、最後の言葉に。 ミ☆ ミ★ ミ☆ ミ★ 日没から程なく夜空に走った一瞬の白光と共にロストレイルの車体が見えた。 「来た! 来た来た来た来た来た来た!!! さあ、どれ? 暗殺者? 軍団? それとも兵器?」 流れ星のようにロストレイルは走る。 リーリスの大舞台が幕を開けた。
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