「私、夢で優さんを見たことあるんですよ」 「あれ、俺もだよ。えっと、どんな夢だったかはええと」 「なんでしたっけ、楽しかったような、ナメってたような」 「ナメ……?」 舞原絵奈の口にした単語がよくわからず、相沢優は小首を傾げる。 長い廊下。古びた旅館。 優の故郷、壱番世界の日本で依頼をこなして、夜も遅いからと宿を探した。 幸運な事に「たまたま見つけた宿」は、知る人ぞ知る温泉旅館。 受付に置いてあったガイドブックによれば泉質は疲労回復や美肌にとても効果があるという。 だがそんな温泉を楽しむまでもなく、部屋に通されて食事を済ませると、よほど疲れていたのか同行していたブランとアリオは畳みに倒れて眠ってしまった。 と、言うことでせっかく温泉に来たのだからと桶にタオルを用意して部屋を出た所で隣室から出てきた絵奈にばったりと出会った。 依頼に同行していたものの「男三人と同室など、淑女に対する扱いではない」と曲げなかった紳士の言葉で絵奈だけ個室である。 絵奈もまた温泉に漬かろうと部屋を出たのだ。 そんなわけで、二人は同じ行き先へ向かう間を軽い談笑で過ごす。 「どんな夢だったのか、ええと、ところで優さんはこれからどうするんですか?」 「うーん、せっかく温泉に来たしお風呂でも入ってこようかな、って」 「私もそうなんです、広いお風呂楽しみですね!」 目的の方向だけでなく、目的地も同じ位置だったようだ。 それほど長くない廊下の先に木枠の扉が二つ。「男」「女」と暖簾が出ている。 「じゃ、またね」と手をふって二人は別れた。 木製の古めかしい棚に脱いだ服をいれた優はタオルを手に浴場へと向かう。 走り回る子どもはおらず、衣類で埋まる籠の数からちらほらと人の気配が見え隠れするものの、浴場の広さのせいでほとんど貸切の心地良さだ。 浴室へと通じる扉の隣には体重計と扇風機が備え付けられ、小さな冷蔵庫にはお馴染みのコーヒー牛乳やフルーツ牛乳が揃っている。 仁王立ちポーズで窓の外を向き、腰に手をあて、ごきゅごきゅとフルーツ牛乳を一気して「……ッくぅぅ~~~」と全身で悶えているガイジンがいたりして、ああ、観光スポットの温泉にありがちだなと笑いが零れた。 扉を開けると露店風呂である。 蒸気が濛々と立ち込め、時折かかる風が蒸気を吹き散らしては、地面から吹き出た湯気がまた溜まり始める。 手近な桶でかかり湯を浴びて振り向くと、何故か浴場からの出口が二つある事に気付いた。 「……あれ?」 もしかして、と考える程の時間もなかった。 絶妙なタイミングで扉があき、視線を逸らす刹那もないままに先ほど別れたはずの絵奈が全裸にタオルを巻いて……。 目と目があって、コンマ数秒間の沈黙。これは絵奈が状況を理解するために費やした時間である。 直後。 「ひぃっ、ひゃ、きゃぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」 絵奈の絶叫が湯気の露店風呂と夜の山中に響き渡った。 ミ★ ミ☆ 結局、半泣きで脱衣場に戻り「もうお嫁に行けないんでしょうか」とめそめそしていた絵奈は、たまたま居合わせた親切なお婆さんから「ここは混浴だよ」と説明される。 水着は貸出があるらしいが、タオルを手にしていたとはいえ自分がこれ以上ない程に無防備な姿で同じ年頃の男性の前に出るという醜態をおかしてしまっては、今更湯につかってのんびり和やかに談笑するなど到底不可能だ。 手早く持参したパジャマに着替え、手荷物を持って廊下を足早に戻って、自分の部屋に――戻るつもりが部屋の番号を忘れてしまった。 どうせすぐに戻るし取られるものもないからと手荷物も部屋の中だ。 どうしていいか分からなくなって廊下にへたりこんでいた所を優に見つかった。 「ご、ごめんなさい!」 「いや、俺はいいよ。大丈夫だった?」 優の方も優の方で、湯気のせいでバッチリではないとはいえ同じ年頃の女性の裸を見てしまったわけで。 しかもかかり湯をしていたからには自分の、まぁ、そういうものもバッチリ見られてしまったはずなので、どう声をかければベストなのか分かっていない。 お互いが気まずい状況にあって、結局、非常にぎくしゃくしているとは言えど、これまで通りの態度が現れた。 「で、どうして、廊下で座ってるんだ?」 「あの、部屋が分からなくなってしまってっ……」 「俺達の隣の部屋じゃなかった? うちは204号だけど」 「!!! 助かりましたっ! あ、あ、あの、ちょっと忘れて欲しいことがありますので、お茶でも飲んでいきませんか」 「……え、ええと、う、うん」 断ることを許さない気迫の絵奈に引っ張られて優は部屋へと上がる。 優のいた部屋に比べるとやや狭いものの新しい畳の香りや、ぴしっと揃った二組の布団のリネンは清潔で見ていて気持ちよい。 かたかた震える手で絵奈が急須から湯のみにお茶をつぐ。 やや冷めたお茶を飲み、目の前の絵奈同様に何から言えばいいのやら分からずに押し黙った。 「お茶、ごちそうさま」 「あ、いえ」 また沈黙。 どれほどの時間が経ったのか、やがて絵奈が口火を切る。 「……口封じに殺したらマズいですよねぇ」 「そりゃマズいだろ」 「死なない程度に加減して、金属バットのようなもので頭を思いっきり殴り抜くとかどうでしょう」 「……痛いのはちょっと」 「私は実は舞原絵奈ではありません。だからさっき優さんが見たのも、今、ここで話しているのも別人なんです」 「……」 「……」 「……」 「ええとぉ、す、すみません、ここから先は今から考えるのでもう少しだけ待ってください」 「それはいいけど……」 忘れることを切望されている記憶のせいで、優自身、 悲鳴をあげて逃げた絵奈の様子を伺うため、かかり湯だけでとんぼ帰りしている。まったく温泉を堪能していない。 そろそろ眠くなってきたので布団に入りたいが、せめて体を洗わないと朝に汗が気持ち悪くなりそうなので体だけは洗いたかった。 と、いうわけで一度、温泉に戻ろうと決める。で、布団に……。 「あれ?」 「思いつきました! 実は私、舞原絵奈の姿をしていますが本当はマイハラ世界から来たエナエナというツーリストで」 「なんで布団が二組あるの?」 「へ?」 ぴっちりと敷かれた二組の布団。 こういう旅館なので通常、宿泊客が食事や風呂を楽しんでいる間に布団を敷くサービスがある。 さすがに一人で宿泊している客に二組を敷きはしないはずだ。リネンの用意もあるわけで。 「あれ? あれ?」 頭にはてなマークを浮かべたまま、ひとつの仮説を検証するため、備え付け箪笥の引き出しを開ける。 あるはずの絵奈の荷物ではなく、見知らぬカバンがひとつ。 仮説はおそらく正しかった。つまり。 (部屋を間違えてる……?) 混乱から、卓上の湯のみや急須を片付け始める。 「え、どうしたの……?」 「あ、あの、話せば短いことなんですが」 本来のこの部屋の客が戻ってくる前にどうにかしないとマズい。 タイミングの悪い時は悪いもので、かちゃり、と扉の鍵が開く音がした。 優は気付くよりも早く、訓練を受けた経験のある絵奈の体が咄嗟に動く。 自分と優の温泉用セット、それと優の襟首を掴んで、押入れを空けて放りいれ、自分も入る。 「!?」 畳の上からいきなり押入れに放り投げられ、絵奈の手で口を塞がれて戸惑いの声すら出せず、上に圧し掛かられ、混乱の最中、絵奈の口が優の耳元で囁く。 「後で説明しますから、黙って大人しくしててください」 かわいい女の子が通常体格の男子である優を軽々と放り投げた事も脅威なら、囁いた声に効いたドスも脅威だった。 上に乗っている女の子が体がやわやわとかそういう事を頭の片隅で考えなくもなかったが、とにかく状況が分からぬままこくこくと頷くと絵奈の手が口から離れる。 絵奈が押入れのふすまをぴたりと閉じた。 古びたふすまが部屋の明かりを遮り、二人の視界が真っ暗に染まる。 押入れの外に人の気配がする。何があったんだと聞く前に耳元で絵奈の声がした。 「(話せば短いことなんですが。部屋を間違えたみたいです……)」 ミ★ ミ☆ ひそひそと声を潜め。絵奈が今の状況を説明する。 部屋を間違えた。今帰ってきたのは多分この部屋の人達だと思う。 咄嗟に隠れてしまったけど、どうしよう。 「……謝って出て行った方がいいんじゃないかな」 「そ、そうしましょうか」 息を整え、謝る言葉を頭の中で模索する。 覚悟を決め、ふすまに手をかけて。出て行くタイミングを計るために耳を澄まして絵奈は外の様子を伺う。 外にいるのは二人。おそらく男女。カップルだろうか。いいなぁ。いやそうじゃなくて。 会話の切れ目あたりで出て行った方が許される気がする。二人の会話はよく聞き取れないが、単語くらいは聞き取ることができ…… ――濡れてるね。 ぼっ、と絵奈の顔が沸騰した。押入れの暗闇なので優には分からないが耳の先まで真っ赤である。 「(ゆ、ゆ、ゆ、優さぁぁぁん!!!!)」 絵奈がぽかぽかと優の胸元を叩く。 力任せにぽかぽかされると、女の子の腕力のはずなのに何故かとても痛い。 優はといえば訳も分からず殴られるままに、なんとか状況を把握しようと努める。 「(な、な、な、な、な、な、なんですか濡れてるって何が濡れてるんですか)」 「(……お茶、こぼしちゃったっけ?)」 「(え、ええと、ええと、そ、そうですよね! お茶とかこぼしちゃったんですよね! 謝らないとですよね!)」 押入れの奥に移動して足を三角に折って膝を抱え、ぶつぶつ呟き始める。 すーはーすーはー。 絵奈の呼吸が荒くなっていた。意識は耳に集中している。この押入れのふすまの向こうの気配を全力で察知しようと五感をすべて研ぎ澄ます。 ぼそぼそと。 優にはほとんど聞き取れない。 絵奈にはもう少し聞こえているようだが、時折小さく「ひっ」とか声をあげるだけでどうも状況を説明してくれる様子ではない。 そうこうしている内に、ぶぅぅぅんと機械音が始まった。余計に聞こえない。 どうしたものかなー、と頭をぽりぽり掻いている。 「(そろそろ出て行って謝った方がいいんじゃないかな?)」 狭い押入れの中で体の位置を入れ替え、ふすまに手をかける。 途端、絵奈は優の服を引っ張った。 「(あ、あの、あの、優さん。優さん!) 「(うん?)」 「(今、聞こえてきた言葉をかいつまんで説明するとですね。「僕にさせて」とか「気持ちいいです」とか!! とか!!!)」 「(……ええと、絵奈さん。落ち着いて)」 「(そしたら! そぉしたらぁ!! 今、男の人が「ゴムある?」って! ゴムってなんですか。ヘアゴムですよね。髪の毛のやつですよね!?)」 「(ええと)」 「(今出て行かない方がいいと思います。つ、続きが気になるとかじゃないですよ。このぶぅぅぅんって音が何なのか気になってるわけじゃないですよ!!)」 目の前で女の子がパニックに陥っている状況は、健全な男子としてそんなに多くある状況ではない。 まして端々から出る単語は想像を掻き立てずにいられないものだ。 それでも。 優はここで興味本位な行動に移ることができるような男でなく、パニックを起こさない程度に理性も強い。 こんな自分の性格は幸か不幸か、などと考える程度の余裕もあるらしい。 ふっと機械音が止む。 耳に残るほどぶぅぅぅぅぅぅんと鳴り続ける音が止むと、部屋に静寂が戻った。 手を伸ばした優がそっとふすまを開ける。 僅か2mmの隙間からふわりと桃の香りが漂ってきた。 ――「あの、……少しだけ、目を閉じていてもらえますか?」 そんな声がして、一瞬の後、テレビがついた。なぜかは分からないがかなりの音量だ。 静かな部屋にバラエティ番組特有の明るい効果音が溢れる。 優が顔をあげた。 絵奈は混乱したままだが、これは好機ではないだろうか。 この音量なら多少の音がしてもバレない。……かも知れない。 「(チャンスだ、行くよ。絵奈さん)」 「(ろ、ろーしょんとか言って……あ、はい、え、え? も、もうイくんですか。早くないですか?)」 「(今なら静かにしていれば逃げられるかも知れないから!)」 「(あ、そ、そういう意味ですよね! 他に意味はないですよね!)」 ふすまを開いてそっと押入れから体を出す。 一応とは言え訓練を受けている絵奈にとっては気配を消して移動するくらいはできる。 優は細心の注意を払って絵奈の後を追った。 部屋の中央付近、卓袱台に向かって座っている男がいる。 こちらに気付いてはいないようだ。 見回して、部屋の配置を確認する。玄関……は誰かと鉢合わせするかも知れないし、もう一人のこの部屋の客が戻ってくるかも知れない。 窓の向こう、ベランダに出てしまえば外を辿って隣の部屋までなんとか移動できるだろう。 「(あっち)」 「(ひゃっ)」 絵奈の方を見ずにぐっと手を引いたのがまずかったのだろう。 畳の上の座布団を踏んづけてしまってバランスを崩し、絵奈は思い切り足を滑らせた。 何とかこけないでおこうと踏ん張った所で余計にバランスを崩す。 声だけはあげまいと必死だった。 絵奈が転ぶ直前、抱きついたのは、あろうことかこちらに背を向けて座っていたこの部屋の客。 その客の肩越しに思い切り抱きつく形になり、絵奈の胸部は彼の首筋から後頭部にふよんと押し付けられる。 「……っ!!!」 抱きついたままの形で硬直している絵奈の腕を引っ張り、ベランダではなく無理矢理、部屋の出入り口へと足を向けた。 絵奈本人もショックを受けているのか抵抗はない。 こちらを見られたか、見られていないか、そんな事は構っていられなかった。 (明日、騒ぎになっていたら潔く謝ろう……) なるべく足音を殺し、物音を立てないように、部屋から逃げ出し、扉を閉める。 不思議なことに元いた部屋から追いかけてくる気配もなければ誰何の声もあがらなかった。 「もしかして気絶させた?」 「そんな事はないと思います。ただ抱きついちゃっただけです……た、たぶん」 「居眠りしてるにしても、……あんな事になったら起きてくるだろうし、困ったな。……とにかく、この部屋から出るか」 「ちょっと待ってください。お風呂道具、持って来てません」 「大切なもの?」 「え、ええと、タオルと浴衣は旅館のものだからいいです。……あ、でも」 ハンカチや歯ブラシをいれたポーチも一緒に持っていたはず、そのポーチに部屋の鍵も一緒に入っていた。 「でもでも、私達だけで戻るのは無謀ですよ」 「ああ、そういうことなら。大丈夫、俺達には強い味方がいるんだぜ」 え? ひとまず戻ろう、と優は隣の部屋、204号室の扉を開けた。 「……しかし、びっくりした」 「わ、わ、私もびっくりしました。あああ、あんなことになってるなんて。も、もう一回聞きに行こうなんて思っていませんよ!」 「そんな事は言ってないぞ? それより、荷物だよな」 部屋に入ると、まだ畳みの上で撃沈したままのアリオとブランがいる。 それらを放置して優はどこからかセクタンを拾い上げた。 「こいつに行って貰おうぜ」 セクタン・デフォルトフォーム、その名もタイムは、ぴょい、っと手をあげて挨拶をした。 確かに隣の客室に不法侵入はしてしまったが、物取りでもなければ出刃亀でもない。 旅人の外套をつけているとは言え、警察沙汰になるのは好ましくない。 ケガをさせていたら潔く謝るとして、そうでなければうやむやにして終わらせてしまおう。 と、言うことでケガをさせているかどうかは確認せねばならない。 その偵察と絵奈が忘れていったポーチを引き取るため、優と絵奈は再度、203号室の扉の前に立った。 「じゃ、作戦は今言った通りだ、よろしくな」 敬礼の真似事をして、優が僅かに扉を開けると隙間からすいっと忍び込んだ。 優の作戦はこうである。中に入ったら、まず、部屋のブレーカーを落とす。 部屋が暗くなったところで、タイムが押入れに飛び込み、そのまま戻ってくる。 セクタンなら仮に月明かりで一般客に見られても、変な動物だとしか思われないはずだ。 ばつん。 派手な音をたて、ブレーカーが落ちた。 それから数十秒もしないうちにタイムがポーチを手に戻ってくる。作戦はあっさり成功した。 気まずさからか、罪悪感からか、作戦成功と同時に絵奈と優は、絵奈の部屋、205号室へと駆け込む。 「今度は気をつけような。……じゃ俺は部屋に戻るから。今度は部屋を間違えてないよな?」 「あ、はい。ありがとうございました! 大丈夫だと思います」 「荷物とかちゃんとあるか確かめたらいいんじゃないか?」 そうですね、と絵奈が引き出しを開ける。 ――と。 「ひゃっ」 「え? ……え!?」 絵奈の小さな声に反応し、優は紳士心から引き出しを覗き込む。 「お、おやすみ」 この件には触れない方がいい。優は理性の警告に従って足早に部屋へと戻る。 「ここに片付けてたの忘れてました……」 絵奈が力なく、その場にへたりこむ。見られた。見られた。 黒い鉄の輪が二つ。間を繋ぐ重い鎖。 あけた引き出しの中には剥き出しの手錠が。 部屋の扉には今にも出て行こうとする優の後頭部。 問:殴って記憶の消去を試みる? コンマ数秒、絵奈の出した答えは……。
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