「……ううむ」 花の目の前で、彼女の主君が困っていた。 通常ならば主人の気を揉ませるなど花にとっては言語道断の行為だったが、こと食事の好み程度のものである以上はその相手の寝首をかくための心算を始めはしない。 主人の目の前にあるお膳には飯、椀物、焼き魚、菜のおひたし。 ここまでは主人のお気に入りである料理人の作ったものなので、主人がいかに好き嫌いを述べようと花には構わない。 だが、鉢の中には里芋の煮っ転がしが二つ。 ひとつは花の作ったもの、もう一つは小姓が名乗り出て作ったものだ。 発端はこの小姓の故郷から送られてきたという里芋、主人は一目見て「立派だ」と評した。 炊事場で「そういえば里芋を料理してくれ」と言われたことがある、と花は早速腕を振るった。が。 皮をむいた里芋を鍋に泳がせ火をいれて味付けをする、それだけの作業に難癖をつけてきたのが当の小姓だった。 「うちの村の里芋ってのはな、ほくほくねっとりしててそれだけでうまいんだ。だから味付けするなら醤油と砂糖で濃く味付けするもんなんだ!」 「そう? これだけ立派な里芋なんだから出汁を強めに効かせて煮含めればいいんじゃね?」 「魚や豆腐を相手にしてんじゃねぇんだぞ!? 一緒にシシ肉を入れてもいいくらいだ」 「そりゃやりすぎだ。田舎の料理ならわかんなくもないけどさ」 「うちの田舎を田舎と言うかー!?」 「自分でイナカって言ってんじゃん……」 と、言う事で、台所で口論となった挙句、そこに通りかかった主人に窘められてしまい、そういう事ならと小姓と花、二人がそれぞれに小鉢を作ることとなった。 結果は見えてはいたが、花の主人にある人物はこの程度で甲乙をつけたりはしない。 食事の前に武芸をしていれば醤油の効いた濃い味付けが、学問をしていれば出汁を含めた優しい味が良いと判じた。 では今回はそのどちらだったかといえば、市中見回りの後だったため程よく疲れており、どちらもうまいという玉虫色の回答である。 武芸や学問のようにどちらが優れているか優劣をつけるでもなく、自分の好み一つとっても時と場合で変わる曖昧なもの。 そんな不確かなことでそうそう争うものではない。とのコメントつきだ。 結局二人とも主人からお褒めの言葉を賜ったものの、小姓も花もやはり釈然とはしない。 「ちぇー、いや分かってたけどさー。主様、こんなので家来の優劣決めたりしないしさー」 「寛大なるかな我が君、と言った所か。花、お前の顔を立ててくれたようだな」 「えー、ちょっとちょっと。ここで噛み付いてくるの? あんた、わりとメンドくさいなー」 「なんだとっ!? このメギツネ!」 「おキツネだよ。うまいこと言ったつもりかも知れないけど十人に一人くらいは言ってくる、お決まりパターン。あんたこそ名前、なんつったっけ? 小松? 重鎮の松田様の甥っ子だからって小松ってのは芸がないんじゃない? それ、あだ名? 本名なんての?」 「ぐ、本名が小松だ」 「そういう名乗りってのはさ、元服してからちゃんとした名前でやるからカッコいいんじゃん」 「してるわっ、これでも来月には齢十七だ! 小松というのも、この名で大成したご先祖にあやかっての由緒ある名だ!」 「……うっそ、ボクと同じ年齢?」 花も花で若い。 家来の中ではかなりの若さで異彩を放っている。 通常、13、4ほどの年齢で下奉公を始めた下女がようやく一人歩きを許されるのがそのあたりの年齢だ。 よって城内を歩いていると気軽に用事を申し付けられることもある。 時間に制約のない花はわりと気軽に用事をこなしてしまうため、主人との謁見の場で「忍」だと判明して驚かれることもしばしばあった。 その花から見ても、この小松はさらに幼く見える。 「その侮辱、侍同士なら真剣勝負を挑むところだぞ」 「えー、めんどくさい」 「やらぬわ! 女相手に果たし状叩きつけて真剣抜いて立ち回れるかッ! どんな勝ち方をしても物笑いの種だ!」 「負けちゃうと松田様の面目が立たなくなるからねー、ボク、そういう主様にメーワクかかりそうなメンドくさいのはヤだ」 平和裏な会話ではあるものの、会話の内容と空気はかなり不穏なものとなっている。 最初と比べ、半歩ぶんほど余計に距離を取っているのも無意識ではない。 余裕たっぷりの態度をとっている花ではあるものの、さすがに【忍】が正面切って【侍】と勝負するのは分が悪い。 【忍】の戦闘力は夜討ち朝駆け暗殺といった裏工作に発揮されるため、正々堂々と正面衝突したら【侍】に勝てる道理はない。 (さすがに斬りかかってはこないだろうけど、どうかなー。怒らせすぎたかなー) 俯いて黙っている小松が腰のカタナに手をかけたら、すぐに逃げられるように心と体の準備をして、ちら、ちら、と小松の顔色を伺う。 やがて、ものすごーーーっく気まずい数分が過ぎた後、小松は唐突に花に指を突きつけた。 「勝負だ!」 「……えええええええ」 花は露骨にイヤそうな顔をする。 やってしまった、怒らせすぎた。 さすがに小姓と忍のケンカが殺しあいに発展することもなかろうが、勝負を挑まれたとあれば主の耳に入る。 最低でも仲裁の労を取らせてしまうし、ヘタをすれば不興を買うかも知れない。 いやいや、もしこの小松が本気でブチキレてて、この屋敷にクレーターのひとつでも作ろうものなら……。 己の言動ひとつ気をつけていれば防げた主への迷惑に、花は心の内で己の未熟を責める。 「あ、あのさ、それはそれで主様にメーワクかかるしさー……」 「違う。この小松、女に真剣勝負を叩きつける程に落魄れておらん。どちらが主様の役にたつか、それで勝負だ!」 「あ、それ、ボクの圧勝」 「なんだと!?」 翌朝の一番鶏が刻を告げる。 布団に横たわり、枕から顔をあげもせず意識が戻ってきた。 鳥の声はまだ本調子ではないものの「ふむ、朝か」と呟いた。 途端。 「「……おはようございます!」」 「な、なんだ!?」 目覚めた途端、花の主は驚愕の声をあげた。 陽も上りきらぬ明け方の薄闇の中、小姓の小松と忍の花が大きな桶にお湯をはって寝所の廊下に控えていたのだ。 いつもは目覚めれば下女に声をかけて用意させている顔を洗うための手水を既に用意していたらしい。 朝餉につけば左右に侍る花と小松が、お茶が熱いだぬるいだと係争を始める。 武芸の稽古に行くかと立ち上がれば、障子のすぐ向こうの庭にまで乗り物が用意されており、学芸でも……と呟いた途端、昼間から明かりが灯される。 「ええとなぁ」 「「はい!」」 苦言を呈そうとしたものの、若人二人はあくまで主のためにと気を使っている。 気持ちを無駄にしてはいけない。二人の主は(不幸なことに)その手の人情には過敏だった。 言うべき言葉を思いつけず、二人からまっすぐな視線で言葉を待たれる。 その状況に少し口ごもったものの、主の口から出た言葉は「……勘弁してくれ」と小さなものだった。 返事を待たずに踵を返し、小松ではない小姓を傍らに駆け出していく。 あまりの早業を見るに、逃げ出す算段はすでに整っていたようだ。 遠乗りに行くのであれば小姓としてついていくべき小松は置き去りにされた形になる。 もちろん、花も【忍】として影に控えながらついて行くべきだ。 二人そろって取り残されるのはあまりに不本意な結果と言わざるを得ない。 やがて、状況を理解した二人が「「ええええ!?」」と叫んだ頃、主の姿はすでに道の彼方へと走り去っていた。 ミ★ ミ☆ ミ★ ミ☆ 深夜。 花は寝所を抜け出した。 派手な衣装ではなく漆黒に染め抜いた木綿の服。 太陽のような髪の色も同じ漆黒の木綿で覆い隠す。 しん、と静まり返った城内を勝手口へと向かう。 足音を殺しすぎないのは見つかった時にトイレへ行くと言い訳するためだ。 長い回廊を経て戸口から外へ顔を出す。 戸外へ出てしまえば、後は動きやすい格好になるだけだ。 寝巻きを脱ぎ捨てると、中に着込んでいた仕事着へと変わる。 雲に翳る月を向いて腕を伸ばし、んーーーー♪ っと大きく伸びをして。ふぅっと軽く息を吐く。 余分な力が抜けたところで、今度は息を吸い月に向かって宣言する。 「沖常 花。忍んで参……」 「おい」 言い終わる前に声をかけられて心臓がばくんと高鳴った。 けふっ、となんだかマヌケな息の吐き方をしてしまったような気もする。 さーっと血の気がひいていく頭を動かして、声の主が小松だと見当をつけた。 「あ、え、こ、小松……」 闇で相手の表情が見えない。読めない。分からない。 ごくりと生唾を飲んで反応を待つが、何かを話しかけてこようとする気配もない。 (うわああ、まずい。これ、マズい。いろいろマズい。密告られても、騒がれても、いぶかしまれても、怪しまれても、何言われてもマズい!) たっぷり三秒ほど固まって考えあぐね、花が出した結論は。 小松に背を向け、全力でそこから走り去ることだった。 ミ★ ミ☆ ミ★ ミ☆ 「今朝の味噌汁は油揚げとワカメか」 「はい。里芋と一緒に届いた田舎の味噌でございます」 「うまいな」 朝餉を褒められ、小松は畏まる。 花は部屋の隅に女中と膝を並べ、すましていた。 思ったより「自主行動」に時間を取られ、朝餉の支度まで手を回しきれなかったのだ。 「ところで、花。昨夜、どこにいた?」 「えっ」 いや。 いやいやいやいや。 血の匂いは完全に落とした。 今度は石鹸を使ってもおかしくないように、朝一から洗濯をこなした。 そのせいで朝餉の支度に手が回らなかったのだけど、それほどまで入念に『後始末』はしたハズだ。 「え、ええと、それは……」 (ああああっ、しまったぁぁっ) こういう時に一番やってはいけないことは言いよどむことだ。 睡眠不足と疲労は他人への言い訳にはなっても、自分の失態を自分が許す言い訳にはならない。 必死で考えれば考える程に、花の頭は沸騰したかのように煮えてくる。 (こ、ここまであからさまにキョドった後でどんな言い訳をすれば自然に……) 「おそれながら、主様。花は昨夜、拙者と一緒に」 ざわっと黄色い声がした。 もちろん、花の左右にいる女中達からだ。 侍の面々は声も表情も仏頂面だが、目尻がにやりとしていたり、瞳が光っていたりと。 決して花にとって好ましい空気ではない。いや、昨夜のことを詰問されるよりよほどマシではあるのだが。 「……ああ、まぁ、深くは言わぬが」 誰もが予想した通り、家来のそっち方面の話題に興味本位で首をつっこんでくるような主ではない。 (違う。違うんだけど!! 違うって言わない方がいいような、そんなような) 「拙者もまだまだ未熟故。花にフラれました。精進いたします」 (小松うううぅぅ!!!?) 追い討ちのような言葉を残し、小松は膳を持って部屋を去る。 残された花はもちろん、主もなんとなく居心地の悪い空気である。 この場にいるそれ以外の人間は「若いモンはええですのう」的な微笑ましさに溢れているのだが。 「のぅ、花」 「は、はひっ!」 その時の主の表情は……。 ミ★ ミ☆ ミ★ ミ☆ 「――だーかーらー、夢じゃんっ!!」 またもカラカラに乾いた喉に、今度は全力で火照った顔と首筋。 ああ、今は遠い日常。 懐かしき日常。 愛しき――。 ……今回ばかりはお決まりのフレーズを繰り返して、気分一新、というわけにはいかない。 忘れていた。 完全に忘れていた。 そして、あの時の自分はコドモだった。 何故、小松があんなコトを言い出したのか。 あまつさえ、フラれたなどと言い出したのか。 小松はおそらく花が何をしに外出したのか知っていた。 主に密告すれば、花への失望と相対的に小松の信頼はあがるのだろう。 しかし、あえて小松は花のアリバイ工作を行った。 さらには、誇りを重んじる侍が「フラれた」とまで言葉を重ねた。 それはどう考えても自分を犠牲にすることで花の立場を最大限、守るためで……。 「う、うわ、え、なに、そういうコト? 何、これ。ボクの記憶、本当!? ど、どうしよう」 何故、今更思い出したのか。 何を今更、理解したのか。 思春期の妄想が果てしなく広がる花の中で。 どうするもこうするも、相手は遥か彼方の異なる世界にいると分かっているのに。 今はもう遥か彼方の、――日常。
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