窓の外はどこまでもつづく虚無の空間「ディラックの空」。 ロストレイルは今日も幾多の世界群の間を走行している。 世界司書が指ししめす予言にもとづき、今日はヴォロス、明日はブルーインブルー……。大勢のコンダクターが暮らす壱番世界には定期便も運行される。冒険旅行の依頼がなくとも、私費で旅するものもいるようだ。「本日は、ロストレイルにご乗車いただき、ありがとうございます」 車内販売のワゴンが通路を行く。 乗り合わせた乗客たちは、しばしの旅の時間を、思い思いの方法で過ごしているようだった。●ご案内このソロシナリオでは「ロストレイル車中の場面」が描写されます。便宜上、0世界のシナリオとなっていますが、舞台はディラックの空を走行中のロストレイル車内です。冒険旅行の行き帰りなど、走行中のロストレイル内のワンシーンをお楽しみ下さい。このソロシナリオに参加する方は、プレイングで、・ロストレイル車内でどんなふうに過ごすかなどを書いて下さい。どこへ行く途中・行った帰りなのか、考えてみるのもいいかもしれません。!注意!このソロシナリオでは、ディラックの落とし子に遭遇するなど、ロストレイルの走行に支障をきたすような特殊な事件は起こりません。
ロストレイルはディラックの空を駆けていた。 深く暗い空の色は、時に幻想的な彩を織りながら揺らめき、集束し、霧散する。 その様をぼんやりと眺めていると、陽気な声が聞こえて来た。共に旅した仲間たちが、カードゲームか何かで盛り上がっているようだ。 それに参加するのが億劫で狸寝入りを決め込んだつもりが、いつの間にやら本当に眠ってしまっていたらしい。メルヒオールを起こすまいと気遣って、仲間たちは別のボックス席へ移動したようだ。 ――なんの夢も見ずに、眠っていた……? それは嬉しいようなモヤモヤするような、複雑な思いをメルヒオールに抱かせた。 メルヒオールは眠るのが怖い。それはロストナンバーとして覚醒するに至った時のことだ。 死んだと思った。 夢であってくれと願った。 それが目を醒したら、異世界に居た。 それ以来、眠るという行為が怖くなったのだ。だから元々丈夫でもない体に鞭打って、ロストレイルに乗車し続けていたのに。 小さく息を吐いて視線を落とすと、誰かの上着が落ちていた。 それを拾い上げ、矯めつ眇めつ眺めた。そういえば、なんとはなしに体が温かい。誰かが掛けてくれたのだろうか……。 懐かしい家族の顔が思い出されて微笑し、次いで姦しい笑い声が聞こえて苦笑する。 ――あいつらだったら、こんな気遣いなんてなかっただろうな。 元の世界で、メルヒオールは教師をしていた。魔法学校の非常勤講師だ。 常勤講師が「魔法研究で忙しい」ために非常勤講師を雇っているというのに、彼もまた「研究が忙しい」という理由で多々欠席を繰り返していた。 それでも非常勤講師を続けていたのは日々の糧のためだ。また、日々を共に過ごせば情も移るというもので――形はどうであれ――慕ってくれた生徒たちを、可愛くも思っていた。 世界の<真理>に目覚め、こうして離れてみれば、面倒で姦しくなかなか小賢しい生徒たちがことさら懐かしく思える。……ような気がする。 そしてもし生徒たちが自分を黙って解放するような事があるのなら、顔に落書きのひとつやふたつあっても不思議ではない…… そう思った瞬間、メルヒオールは慌てて窓を見た。光の反射で顔が映る。 そこには不眠が祟って濃いクマが刻まれた眼をほんのわずかに見開いた、いつもの自分が映っていた。 思わず盛大にため息を吐く。 ゆったりと背もたれに寄りかかり、口端が震えるような笑みを浮かべた。 右の顎、その少し上。そして右の肩口から指先に掛けて。そこは紛う事なく石化しており、動かす事はできない。 それが、いま、ここで生きている証だとも言える。 誰かが掛けてくれた上着を左腕で膝に掛け直し、ディラックの空を眺める。 たくさんの世界を見に行こう。 塔の中だけでは得られなかったであろうものを、手に入れよう。 いつか戻った時に、好奇心旺盛なたくさんの輝く瞳が、さらに輝くように。 ――答えが未だ出せていない、思いもあるけれど。 ただ、今は、何も考えずに。 もう少し、まどろんでいたい気分だ。 ロストレイルはディラックの空を駆け抜けて行く。 0世界のターミナルが見えるまで、あともう少し――
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