深い深い森の奥。巨大な断崖がそそり立つそこは、様々なものの境であった。 この『闇夜の森』と呼ばれる暗い森は、半世紀以上前の天変地異によって生まれたものだ。 その断崖に、一人の男が立っていた。腕の中では、左目に金の光を宿した子どもが幾何学模様の布に包まれ、無邪気に微笑んでいる。 「すまぬ」 透明な滴が、赤子の頬に落ちた。 「さらば」 ◆ 「師匠。これ食べられる?」 左目を黒い布で覆った黒髪の少女は、老翁を振り返った。師匠と呼ばれた老翁は少女の指差す先——薄茶色の茸をちらりと一瞥し、小さく頷く。少女は枯れ葉を掻き分け茸を引き抜くと、老翁の背中を追った。 「いっ……!」 少女は突然、何かに突き飛ばされたようによろめく。左側を振り返れば、巨木が立っていた。 「ドルジェ。早く来い」 「は、はい、師匠」 左肩をさすりながら、老翁の隣に駆け寄った。 「いい加減に覚えろ。お前の右目は節穴か」 「ごめんなさっ……うわっ!」 左右を意識するあまり、今度は木の根に引っかかって前のめりに転んだ。頭の上からため息が聞こえて、ドルジェは真っ赤になる。恥ずかしさと悔しさが綯い交ぜになって、思わず目に涙がにじんだ。 「泣いたら立ち上がれるのか」 「うぅ〜……」 ぽろぽろと涙がこぼれた。 ドルジェの左目は、見えないわけではない。生まれ持った左目は、金の光を宿していた。それは隠さなければならないものなのだと、物心がついた頃から言われていた。だからそういうものなのだろうと理解している。 「泣いて立ち上がれるのなら、いつまでも寝転んでいるがいい」 老翁の声。ドルジェは唇を引き結び、立ち上がる。膝の土を払うと、擦りむいて血がにじんでいた。老翁は腰に下げた手ぬぐいを水に浸し、ドルジェの膝を拭ってやる。ピリピリとした痛みがあったが、じんわりと温かかった。 「こんなことでは、狩りに連れて行けないぞ」 ドルジェは涙を払い、頷く。 森の中に住んでいると、危険な獣……魔物との遭遇は当たり前のことだ。大型の魔物は何か特殊な住まいを好むようで、うっかり遭遇するようなことは滅多に無い。しかし、森の中で生きていく為には、狩りの技術は必須である。 ドルジェは八つを数えたところだが、弓矢や体術の練習は物心が付いた頃からしていた。 また老翁は、食料にする兎や鹿などの獣の他に、賞金のかかった大型の魔物を狩りに行くことがあった。老翁曰く、「生きて行くには、多少の金が必要だ」ということだった。 今日もその賞金のかかっていた魔物の牙を抱え、村へと向かう途中であった。 「そろそろ野営にするか」 暗い森を見上げ、老翁が呟いた。 暗いが、みっしりと生い茂る葉と葉の間から、わずかに陽が差し込んでいる。しかし、野営の準備というのは明るいうちに終えておくものだ。真っ暗になってからでは遅いのだと、これも老翁に教わったことだった。 草で器や鍋を拭い、火の始末をする。その頃には森は闇に包まれていた。火を消したので、明かりは何もない。今日は月も明るくないのだろう。 ドルジェはじっと闇を見つめた。耳に聞こえるのは自分の呼吸と、虫の声、ほんのわずかな風にそよぐ葉擦の音。老翁の呼気は、いつも通り聞こえない。そこにいるのか不安になるほど、老翁は気配を断つのだ。 声を上げそうになるのを抑え、じっと耳を澄まし、目を凝らす。 そうしていると、少しずつ自分が腰掛けた木の根が見えて来る。やがて草を踏む音が聞こえた。目をやると、ほんの僅か、闇の中で影が動いているのが見えた。それが戻って来ると、老翁の声がした。 「取って来なさい」 ドルジェは小さく唾を呑み、そろりと立ち上がった。 ◇ その日、ドルジェは一人で川へ水を汲みに出ていた。十を数える頃、水汲みはドルジェの仕事だった。 それは、そうしてドルジェが出掛けている間にやって来た。 扉を叩く音に、老翁は短く答える。そこには幾何学模様の布を頭に捲いた一人の男が立っていた。 「失礼致します」 男は慣れた様子で室内へと入り、辺りを見回した。 部屋の中央にかまどがあって、椅子が二つ並んでいる。タープで区切られた部屋の向こうには幾何学模様の布が敷いてあった。いかにも簡素な様子だ。 「相変わらずのようですね」 老翁は答えない。男は苦笑し、ジャラリと音のする布袋を木台の上に置いた。 「使ってください。魔物を狩りにいかなくても良いように」 老翁はやはり答えず、白湯をすする。男は小さく苦笑した。 「それでは……」 「ドルジェはジシュカに似て来たぞ」 びくりと男が立ち止まる。振り返ると、老翁が猛禽のような目で男を見つめていた。 「あの日、おまえは言ったな。ドルジェは族長の娘だと」 「……」 「族長の娘だが、光の加護を得た為に捨てなければならない。おまえはそう言った。だが、それは嘘だ」 「嘘ではありません」 「半分はな」 冷徹な声に、男は全身が震えた。 「光の加護を受けたとて、族長の娘ともなれば赤子の身で捨てられるわけが無い。わたしがあの未曾有の大災害を起こしたときでさえ、追放される事はなかった」 老翁は男を見据えたまま、今は落窪んだ左目に触れた。 この世界は、闇の神によって統治されている。暗闇は安息の眠りをもたらし、死は闇の神の御胸に抱かれ眠る事だ。 だから光の加護を得た者は、忌み子とされる。闇に守られた者たちに不幸な出来事をもたらすからだ。 「光の加護というものは突然得られるものではない。森を統べる族長が、その血筋を迎えるわけが無い」 「おやめください」 「その血筋を迎えるわけにはゆかないから、従者として側に置くのだ」 「どうか」 「ドルジェは何故、光の加護を受けた。おまえの子だからだ」 「父上!」 男は叫び、膝から崩れ落ちた。 ——あの日。 老翁がまだ若く、森の族長の従者をしていた頃。彼の左目は金の光を宿していたが、狩猟の腕前は随一と認められており、強大な魔物の討伐は自然と任されるようになった。 狩りは順調だった。あと一撃を首に見舞えば討伐は成功するはずだった。だが、その思いが油断を招いた。長い蛇の尾が、若い体を強く打ち据えたのだ。視界が真っ暗になり、肺からすべての空気が無くなった。視界が戻った時、目の前には巨大な鋭い牙があった。 その時。 彼の金の瞳が強く輝きを放った。轟音とともに光の矢が降り、大地を揺るがし、魔物を大地の狭間に引きずり込んで森を二つに引き裂いた。 彼は覚えている。あの時の光の矢が、大地の揺らぎが、数多の命を奪った事を。 族長の奥方が、腹の子と共に命を落とした事を。 あの断崖にあって、よくぞ戻ったと一族は迎えてくれた。族長でさえも。 だが、自分を許す事はとても出来なかった—— 「帰れ」 うずくまり、嗚咽を漏らし続ける背中に向かって、老翁は静かに言い放つ。 「二度と、ここへは来るな」 男はやがてよろよろと立ち上がった。ただ扉を閉じるその前に、小さく呟いた。 「どうぞ……お元気で」 扉が閉まる。老翁は男が置いていった布袋を掴むと、箱の奥に放り込んだ。中には、同じような布袋が幾つも入っている。 ◆ 「ただいま!」 勢いよく扉を開けて駆け込んで来た少女に、老翁は目を細めてそれを迎えた。 「今日は大猟だよ。鴨と兎2羽、木の実も沢山拾えたし」 「秋も深いからな。血抜きはして来たか、ドルジェ?」 老翁の言葉は素っ気なかったが、声の柔らかさで老翁が喜んでくれている事がわかる。ドルジェは「もちろん」と元気よく答え、成果を見せる。いずれも頭を射抜いている。ドルジェの射撃の腕は、一人前と言って良かった。 「ドルジェ」 「はい、師匠」 顔を上げると、老翁が真っ直ぐにドルジェを見返していた。 「お前も十四になった。——明日は狩りに出るぞ」 狩りに出る。 大型の魔物を狩りにいく時、老翁は必ずそう言った。 「準備を怠るな」 ドルジェは足元から震えが上がって来るのを感じた。魔物を狩った事はある。だが、大型の魔物を狩りにいくのは初めてだった。 唇を引き結び、拳を握って頷く。 「はい」 森は秋にも関わらず、葉を落としきることはなかった。それでも実を付け、恵みを落とす。 いつもならそれを拾いながら進むものを、二人は黙々と歩を進めた。 鳥のさえずりが徐々に遠ざかり、陽射しが濃くなる。木が枯れているのだ。ドルジェは弓を握り締め、つばを飲み込んだ。 ふいに老翁が足を止めた。老翁の目配せに、木の幹にぴったりと体を寄せた。 見えない。 だが、何かが確かに居ることを、老翁の緊張から感じ取っていた。 一体どこに。 こめかみから汗が流れ落ちる。 老翁がキリリと弓を引く音がした。次の瞬間。 総毛立つほどの殺気と、老翁の矢が放たれた。咆哮。老翁が駆け出す。走りながら矢を番え、放つ。矢の折れる音。咆哮。 「ドルジェ!」 老翁の怒鳴り声。深紅の瞳に、白茶の毛並みの、恐ろしいほど大きな猿のような魔物が映った。長い手足から鋭い爪が伸び、巨大な牙を剥き出しにして吼え猛る、魔物。 「ドルジェ!!」 二度目の怒声に、ドルジェは我を取り戻した。弓を引き絞り、頭に狙いを付けて放つ。だが猿は強靭な足で頭上を跳び、木の上に着地する。 「ドルジェ、来い!」 弾かれたように、ドルジェは駆ける。その間に老翁が二矢、三矢と打ち込む。猿が跳ねる。 「ロープを結え!」 老翁が魔物から目を離さないまま、腰に引っ掛けていたロープをドルジェに投げ渡す。その間にも、猿の腕に、背中に、矢を突き立てていく。ドルジェはロープの束を拾い、枝に引っ掛け幹に結びつけていく。 更にロープの束を受け取った時、ぐんと強く引かれて強かに肘を打った。痺れるような痛み。しかし、ロープは手放さなかった。そのまま強い力で引きずられる。それでもドルジェは手を離さなかった。足に力を込めて上体を起こす。目の前に巨大な幹。ドルジェは歯を食いしばり、ロープを背中から肩に掛けると、渾身の力を込めて幹にロープを引っ掛けた。強い反動が掛かって、幹に強かに背中を打ち付ける。だが、同時に魔物の咆哮が聞こえた。一瞬、ロープが緩む。ドルジェは素早く立ち上がり、ロープの束を幹に巻き付ける。 更に絶叫。次いで生温い血の雨が降った。鉄錆の臭いが広がり、怒り狂った咆哮が聞こえる。ロープを巻き付けた幹がみしみしと悲鳴を上げる。 顔を上げると、猿がメチャクチャに腕を振り回している。自ら跳び回ったせいで、ロープというロープが猿を雁字搦めにしていた。そこに飛刀。引き抜けばまた血の雨が降る。絶叫。 それは身が竦むほど恐ろしい光景だった。 老翁が更に剣を投げ掛けようとした時。猿が木の根ごとロープを引いた。驚愕に目を見開いた、その一瞬。老翁の動きが遅れた。 「師匠!」 猿の長い爪が、老翁の腹をえぐった。 「師匠ーー!!」 無我夢中だった。矢を番え、弓を引き、怒りに燃え盛る瞳に矢を放った。 絶叫。 根ごと引き抜かれた木々が倒れる轟音がして。 やがて、静かになった。 ドルジェは震える足で老翁の元へと駆け寄る。 「師匠……師匠、しっかりして。師匠」 辿り着いた時には、すでに血溜まりができていた。ドルジェは上着を引き裂き、とにかく止血を試みる。 「いやだ……いやだ、師匠。死なないで。お願い!」 ぼろぼろと涙がこぼれた。傷口に当てた布があっという間に血を吸い込んで黒く染まっていく。 うわ言のように「師匠」と繰り返すドルジェの手を、老翁の大きな手が掴んだ。 「ドルジェ。わたしはもう、ダメだ」 「嫌だ! 死んじゃ嫌だ、師匠!」 「生きとし、生ける者はやがて死にゆく。それが、定めだ」 「でも!」 「ドルジェ。——泣けば、わたしの傷が癒えるか」 ドルジェは唇を噛んだ。 わかっている。ドルジェの手を掴む手が、どんどん体温を失っていくのが。それでもただ首を振る事しか出来なかった。 「ドルジェ。おまえは大丈夫。わたしの全ては、もうおまえの中にある」 「師匠、死なないで……」 「ドルジェ。泣いたら、立ち上がれるか」 右の赤い瞳で、同じ右の赤い瞳を見返す。いつも痛いほど鋭かった瞳が、優しい。 「立ち上がれるのなら——泣きなさい」 わずかに。 ほんのわずかに、老翁の口元が微笑んで。 老翁の手が、ドルジェの手から滑り落ちた。 ——十四歳。 ドルジェはひとりになった。
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