『夜蘭賓館』 その看板を横目に、シィーロ・ブランカとファルファレロ・ロッソは郊外にぽつんと聳え立っていたホテルの広い入口へ足を踏み入れた。 真白い髪と同色の尾は突然の雨に濡れ、シィーロが歩いたところへ目印のように滴を残していく。彼女は足早にフロントへと向かっていた。 自分の方へ振り返る素振りのない彼女の背を、ファルファレロは濡れた眼鏡越しに眺め、無意識に舌打ちする。眼鏡を外し、自身の服の裾で無造作に滴を拭う。それでかけなおしても尚歪みの残る視界に苛立たしげに眉を顰めた。 広いホールの天井からはくすんだ色の虎の絵が来客を見下ろしている。玄関からフロントまでを繋ぐ赤い絨毯の両脇には、岩山の描かれた屏風や繊細な紋様の描かれた壷、花瓶が並んでいる。多少古めかしさはあるものの、上級のホテルであるのが見て取れた。 しかし、高級ホテルにしては来客だというのに駆けつける従業員もなく、ファルファレロが見た限りだと自分とシィーロ以外の人間が一人もいないようだった。 無人のフロントの前に立ち、シィーロは視線を巡らせる。奥の壁にはタキシードを来た男達が規則的に並んだ写真や、いかにも上流階級らしい質のいいスーツの紳士と豪華なドレスの婦人が寄り添う写真など、幾つもの記念写真が額縁に収められていた。 その写真群の脇に、一つだけ扉がある。おそらくその奥が従業員用の控え室か何かなのだろう。シィーロはフロント台の上に置かれていた銀の呼び鈴を鳴らした。 しかしなかなかその扉が開く気配はなく、シィーロは落ち着かぬ様子でちらりと後方にいる男の様子を伺い見る。 かつて多くの賓客を迎えたホテルに起きる怪現象を解決せよ。この依頼を、この二人が受けたのはまったくの偶然だった。 そうでなければ、解決のために一晩は確実にホテルで過ごさなければならない依頼を、よりによってあのセクハラ男と「二人きり」で受けることはなかっただろう。 確かに初めて会ったときよりも、シィーロの中で彼に対する悪印象は抜けている。むしろ……、と想いかけて、シィーロは思考を遮った。 なんにせよ、それとこれとは別の話だ。今回彼女がすべきことは、三つ。依頼をこなすことと、一晩ファルファレロの部屋には近づかないことと、一晩ファルファレロを自分の部屋に入れないことだった。 そのためにはまず部屋を二つ、なるべく場所を離して確保する。「お待たせしました、お客様」 不意に声をかけられ、シィーロは驚いて視線をフロントの方へ戻す。そこにはいつのまにかフロントマンらしい黒い服を纏った壮年の男が立っていた。「本日は何泊のご利用でしょう?」 血の気のない男の顔はどこか銅像のようで薄気味悪さを感じながらも、シィーロは簡潔に「一泊だ。人数は二人」と伝える。「お部屋の数は一部屋でよろしいですか?」「ああ。一部屋だ。スイートルームで頼むぜ」 シィーロの背後から突然ファルファレロが身を乗り出して答えた。シィーロが「おい」という抗議の声と共に睨みつけるが、ファルファレロはニヤリと笑うばかりだった。「かしこまりました」 最上階のスイートルームまでの案内は壮年のフロントマンが引き続いて行った。1階のホール近くのエレベーターに乗り、最上階へ上がって部屋に辿り着くまですれ違う人間はやはり一人もいない。「では、ごゆっくり」 ファルファレロに部屋の鍵を手渡すと、フロントマンは深く頭を垂れてから音もなく部屋を後にした。「おい、どこ行くんだ?」 すでに上質な生地の使われたソファーに身を投げ出していたファルファレロは、部屋に着いてから一言も言葉を発さず自分の視界から去ろうとするシィーロを呼び止める。シィーロは足を止め振り返りはしたものの、やはり言葉は発さない。奇妙な沈黙が流れたかと思うと彼女はまたファルファレロに背を向け、呟いた。「……シャワーだ」 濡れた尾からはまだ冷たい雫が落ちていた。 そのままシィーロが風呂場がある方へ入っていくのを見送ると、ファルファレロは可笑しさを抑えきれぬように口元を笑みの形に歪める。「シャワー、な」 いつもなら、そこから戻ってきた女をベッドに引き入れて一夜を過ごすのだろう。娘と歳の近いような子供にそれをするつもりは今のところないが、あの無愛想な少女が少なからず自分を意識していると思うと笑みが零れるのは堪えようがない。 ソファーの上で上機嫌に寝そべり、彼女が戻ってくるのを待つ。風呂場の方からガタンッという大きな物が落ちたような音が聞こえたのは、それから間もなくのことだった。「あ? ……なんだ?」 ソファーから身体を起こし、慌てたそぶりもなく風呂場へ向かう。風呂場のある廊下に入ろうというとき、何かの気配を感じてファルファレロは反射的に振り返った。それと同時に視界の端を黒い影が一瞬通り抜け、消える。「……」 眉根を寄せ、シャワーの流れる音ばかりが聞こえてくる風呂場の方へ向き直る。足早に扉の前に立ち、ドアノブに手をかけた。「シィーロ、何かあったか?」 返事はない。ファルファレロはノブを握る手に力を込め、扉を開いた。「まだ開けるな!」 べしゃ、という濡れた音と共に、ファルファレロの顔面にタオルが叩きつけられた。「何すんだ!」と声を荒げつつ視界を覆った布を剥がし捨てると、目の前に全身真っ赤に染まったシィーロが身体にバスタオルを巻いて立っている。「!? おい、何があった!」「シャワーの水が突然赤くなった。……血の匂いだ」 見ると、浴槽の中は赤い色に塗れ、そこに落ちていたシャワーからは未だに赤い液体が流れ続けている。「さっそく怪奇現象ってわけかよ。で、どうする?」 ほのかな鉄の匂いを感じながら、ファルファレロはからかうような調子でシィーロに尋ねた。「……ああ。とりあえず、」 シィーロは端に畳んであった衣服が無事なことを確認すると、彼の方を見ないままそれに答えた。「ここを出ろ、変態男」
服を着て浴室から出てきたシィーロを見ると、ファルファレロは軽い動作でソファから腰を上げた。 「よし、じゃあ行くか」 そのまま部屋の出入り口の方へ向かっていくのに、シィーロは黙して大人しく従う。どこへ行くのかということを問うこともなく、ただじっと彼の背中を見つめ単調に足を進めていった。 (こんな依頼、早く片付けなければ) 思惑をはずれてセクハラ眼鏡と同室にされ、さらに風呂を覗かれた。それを「最悪」以外のどの言葉で表現できようか。しかしそれだけで終わればまだよかっただろう。 先の風呂場で嗅いだ血の臭いがシィーロの頭を過ぎった。それだけで、内側から本能的な昂ぶりが押し寄せ体温が上がっていくのが自覚できる。血の臭気のせいで、明らかに興奮状態になっていた。 こんな状態の自分を目の前に歩く男に悟られるのは何がどうあっても避けたい。知ればやたら嬉しそうにニヤニヤした表情で見られるに決まっている。それを想像するだけで違う意味で顔が熱くなっていく。 (絶対、気づかれる前に終わらせてやる) まばらに灯のともる薄暗い廊下で、シィーロは注意深く周囲の気配を伺った。獣の感覚を研ぎ澄まし、微かな物音も逃すまいと集中を高めていく。 「なんだ、怯えてんのか?」 ふいに前方から声がかかり、シィーロはハッと身を跳ねさせる。しかしすぐにファルファレロが視界に映り、彼から話しかけられたのだと分かって身体の緊張を解いた。 「……違う。何者かの気配がないか探ってただけだ」 興奮しているせいか、神経が過敏になりすぎているようだ。シィーロは自分を落ち着かせようと深く息を吸い、ゆっくりと吐きだす。その動作がファルファレロには虚勢に映ったのか、愉快気な表情でシィーロの右側へ並び肩に手をまわしてきた。 「怖いなら抱きついてもいいんだぜ?」 「結構だ。私は霊に怯えたことなどないし、何かあればトラベルギアはいつでも取り出せる」 そう返答し肩を抱く腕を押しのけると、ファルファレロは「可愛げがねぇ台詞だな」と言葉に反して面白げに、大人しく彼女を解放する。 「それで、どこを調べるつもりだ?」 「ん? ああ、まずは……そこの部屋からだ」 ファルファレロが指したのは、通常の個室のそれとは異なる大きめの扉だった。扉の上には「遊戯室」と書かれた札がかかっている。 「遊戯室……?」 何故そこを、と言いたげにシィーロが見上げてくるのを特に気にした風もなく、ファルファレロは扉の前に立つと躊躇いなくそれを開く。 遊戯室にはビリヤード台やダーツ盤が、廊下から侵入する微かな灯に照らされていくらか埃を被りつつ静かに並んでいた。ファルファレロの後についてシィーロも遊戯室へ足を踏み込み、不審なところがないか注意深く内部を観察し始める。 そんな中、ファルファレロは軽い足取りでビリヤード用のキューが整列する壁側へ向かうと、その中の一本を手に取った。キューはやはり埃で薄汚れているものの、それ以外の劣化は見られず充分に使えそうな様子である。 ふいに、視界が明るく照らされた。キューから目を離し天井を見ると、いつの間にか控えめなデザインのシャンデリアに灯がともっている。改めて部屋を見渡してみると、ビリヤード台の上にはそれぞれビリヤードボールが置かれていつでもプレイできるようにされているのがよく分かった。 「こいつは丁度いい」 「急に灯が点いたが、貴方が点けたのか?」 神妙そうな表情で追いついてきたシィーロに、ファルファレロは手にしていたキューを差し出す。「これがどうかした」という問いに、キューをもう一本取り出しながら応えた。 「1ゲーム、やってこうぜ」 「……本気で言ってるのか」 「なんだ、やったことねえのか?」 「そういうことではなくて、今はゲームなどしてる場合ではないだろ」 「いいじゃねえか、ちょっとくらいよ。なんなら、俺がレッスンしてやろうか」 ファルファレロはまだ承服しかねているシィーロの手をとり、ビリヤード台の方へと導いた。抗議の声を聞き流しながら、台上のボールからラックを外し手玉を三角に整列するボール群の手前に置いた。キューにチョークを塗ると、そのまま慣れた仕草でショットのフォームを作る。 彼が集中して狙いを定める様を、シィーロはいつのまにか沈黙して見守っていた。鋭い双眸にシャンデリアの星のような光が宿り、キューは真直ぐに動く。小気味いい音が遊戯室の埃っぽい空気の中に響くと、それまで規則正しく並んでいた的玉が台上を転がり散っていった。 「じゃ、まずはフォームからな」 「ほ、本当にやるのか?」 ファルファレロが振り返り声をかけると、シィーロは我に返ったように身構える。 「ああ。安心しな、初心者にゃ手取り足取り腰取り……冗談だって、睨むなよおっかねえ」 言いながら、ファルファレロはシィーロのキューにもチョークを塗り、構えてみるように促した。シィーロは彼のセクハラ発言に対しまだ不審げな眼を向けていたが、やがて観念したように、先程ファルファレロがやってみせたのを見よう見まねで真似てみる。 「左手の形が違ぇな。ブリッジはこう作んだ。あと、上体はもっと下げろ」 彼女の肩を右手押さえ、空いてる方の手でブリッジの手の形を正す。その距離があまりに近くて、シィーロはいささか落ち着かないままそれに従っていた。 (いや、まだセクハラしてる訳ではない、しな……) そのとき、ふいに何かが尻のあたりを触る感覚がした。セクハラはされてないと思った次の瞬間のことで、シィーロは思わずファルファレロの方を睨む。しかしそれはかまうことなく彼女の尻尾の付け根の辺りまで触れ、シィーロは反射的に「ひゃあっ!」と声を上げて台から飛びのいた。 「? おい、なんだ急に」 訝しげに問うたファルファレロ赤面しつつ思いきり睨みつける。 「こんなときまで、何をしてるんだこのセクハラ眼鏡……!」 「は? そんなにビリヤード嫌いなのかよ」 「とぼけるな、今、……」 言いかけたところで、彼女の視界に白く細長いものが映った。ちょうど先程立っていた場所、今ファルファレロの周囲に『それら』は海草のように静かに揺れている。 「手……?」 「あ? 手?」 それは紛れもなく『手』だった。真白く透き通った腕が床から生えて、何かを探すように揺れていたのだ。ファルファレロもその存在に気づき、鬱陶しげに眉を顰める。 「で、こいつらがなんだ。尻でも触ってきたのか?」 「な、なんで分かっ……」 驚きのあまりつい口を滑らせてしまったのに気づいて、シィーロは口を噤んだ。しかしすでに状況を察したファルファレロは、意地の悪い笑みを浮かべて彼女の顔を覗きこんでくる。 「それで、『セクハラ眼鏡』か。ずいぶんな濡れ衣だぜ」 「……すまない。てっきり、また貴方の仕業かと」 それは普段からの行いにも原因があるのではという思考がチラつきながらも、確かにこの場では濡れ衣だったとシィーロは素直に謝罪を口にした。 「尻尾の付け根は弱いから触られたくないんだ、ただでさえ気が昂っているのに……」 「へぇ? 尻尾の辺りが、ねぇ。そいつはいいことを聞いたぜ。で、何が昂ってるって?」 「え、い、いや、今のは、何でもない。何でもないんだ」 迂闊なことを口にしたと、シィーロはすぐに後悔した。だってもうすでに目の前の男はニヤニヤと下心の透けて見えるような笑みを浮かべているのだから。なんとか誤魔化せないかと言葉を重ねれば重ねるほどに、動揺が漏れだしているのは自覚できているが、ならばこの場をどう切り抜ければいいというのか。 「いやいや、確かに聞こえてきたぜ」 ファルファレロは足元で発生している霊現象に構うことなく、シィーロに接近し巧みに彼女を壁際まで追い込む。壁より後ろに下がることなどできるはずもなく、シィーロは逃げ場を失ってせめてとばかりに余裕の様子のファルファレロを睨み見上げた。 「いい加減にしろ、セクハラ眼鏡。今度は濡れ衣で済まないぞ」 「結構じゃねぇか。やらないで責められるよりよっぽどマシ、だろ?」 息がかかるほど、ファルファレロはシィーロの顔に口元を寄せる。許容範囲を超えられて耐えかねたシィーロがいよいよその鋭い爪を閃かせようとしたとき、カコン、とビリヤード台から硬質な音が鳴った。二人がビリヤード台に視線を移したときには、宙に浮いたキューが二つ目の的玉をポケットを落としていた。 「また、霊現象か」 「なんだ、幽霊直々にお相手してくれんのか。これがホントのセルフサービスってか」 ファルファレロは何事もなかったようにシィーロを壁際から解放し、自分のターンが回ってきたと見るとニヤリと口元を歪めてビリヤード台へと向かう。 「おい。そんなことやってる場合じゃ……」 「続きが欲しいなら、またベッドでな」 「ふざけるな」 シィーロの抗議をBGMに、ファルファレロは鮮やかな手並みで「3」の的玉をポケットに落とす。白い『手』達がギャラリーのようにそのビリヤード台の周辺を取り囲んでいた。 「おまえの尻分くらいはとり返してやるから、安心しろ」 「――ッ!!!!」 そして「4」の玉が落ちる前、シィーロがツカツカとファルファレロへ接近したかと思うと彼女の爪がシャンデリアの灯の中で閃き、ファルファレロの頬に赤い筋が四本付けられたのだった。 遊戯室を出た二人が次に向かったのは、始めに訪れたフロントだった。 「今のとこ、ホテルで見た『人間』はあのフロントマンだけだ。ホテルのことは、従業員に訊くのが一番だろ」 「……」 シィーロは、あれからずっと黙ったままでファルファレロの後を付いてきていた。先程自分が引っ掻いた頬を抑えながら先を行く男の背を、じっと睨む。 (最悪だ。何もかも最悪だ) ホテルに着いてからここまでで、どれだけ『最悪』が積み上がったか。血の臭いのせいで興奮状態になった、風呂を見られた、尻尾が弱いのがバレた、興奮してるのがバレた、ついでに彼の顔を思いきり引っ掻いた。 (早く、終わらせて帰る。絶対だ、今度こそ絶対) 「おい、いつまでヘソ曲げてんだ。呼び鈴鳴らすぞ」 気づくと、自分とファルファレロはすでに始めのフロント台に到着していた。銀の呼び鈴の頼りなげな音が、広いホールの静寂をわずかに乱す。 「何かご用ですか」 声がかかったのは二人の背後からだった。シィーロは全身の毛を逆立て反射的に振り返り、ファルファレロもスッと視線を寄越す。壮年のフロントマンは特に動じることもなく、相変わらずの銅像のような表情で二人を見ていた。 「ああ。少し訊きてぇんだが、このホテル、随分変わったサービスをしてくれるじゃねぇか」 「何か、お客様を御不快にさせることでもございましたか」 ずいと詰め寄られても眉一つ動かすことなく、応対するフロントマンの双眸を、ファルファレロは覗きこむ。そこでは濁った黒の瞳が単調にファルファレロの姿を反射していた。 「いや? ただ、サービスの内容を確認してやろうと思っただけだ」 「何か粗相がございましたか。後で従業員には厳しく指導しておきます」 黒服の男は謝罪の言葉と共に頭を下げる。そのままどこかへ向かおうとするのを、シィーロが前面に立ちはだかって遮った。 「世間にゃ物好きが多い。幽霊ホテルだって噂が出回りゃ宣伝効果大だ。違うか?」 「……」 男は沈黙した。次に彼がどの行動に出るのか、シィーロは五感を研ぎ澄ませて身構える。ファルファレロも、いつでもトラベルギアを出せるようパスホルダーへ意識を向けていた。 そして壮年の男は、その無機質な顔の口元だけを歪め、なんとも奇怪な笑みを浮かべた。 「それは、大変良いことを聞きました」 ファルファレロがその言葉の意味を推し量る前に、ホールの異変は発生した。ホールの端に置かれたグランドピアノがけたたましく鳴りだしたかと思うと、ホテル内のあちらこちらから白い人魂のようなものが数えきれぬほど姿を現したのだ。 ファルファレロはただならぬその光景に対し素早くシィーロの背側に回り込み、おびただしい数の霊たちへ向けて銃を構える。 「聞きましたか。皆様」 壮年の男の声が、喧しいピアノ演奏の中でやけにハッキリとホール内へ響いた。ファルファレロもシィーロも、この場を如何に逃げ切るか急ぎ目線で突破口を探す。 「我々のホテルが、またお客様を取り戻せるかもしれません!」 ジャーンッ、というピアノの音と共に、男は興奮を抑えきれぬ叫びを上げた。同時に、ホールへ集合した人魂達がホテルの従業員らしい人型へと姿を変える。 『本当ですか、ヨウシェンさん!』 『素敵! また豪華なパーティもできるかしら』 『幽霊ホテル、どうやって宣伝しましょう。早速会議が必要ですね』 『あ、あのー、すみません……悪戯した分は、やはりお給金から引かれますか?』 『お客様、あの、どうすると一番怖いですかね? 手が沢山のって怖かったですか?』 血塗れの者や、火傷で半身の爛れた者、見るからに生きた人間ではないであろう従業員達が口々に期待の言葉を発しているのを、ファルファレロとシィーロは茫然と眺めていた。 「感謝致します、お客様。お客様を失って幾年も経ち、最早再興はならぬと思っておりました」 壮年の男は、夜蘭賓館支配人のヨウシェンと名乗った。彼は無機質な顔に無理矢理浮かべた奇怪な笑顔のまま、二人に向かって非常に仰々しく頭を下げる。 「従業員一同、この『幽霊ホテル夜蘭賓館』を盛り上げて参りますので、今後ともご愛顧のほどをよろしくお願い致します」 「「……は?」」 * * * スイートルームへ戻ってきた二人は、それぞれソファに腰かけどっときた疲れを癒そうとしていた。 「結局これは、依頼解決ということでよかったのか?」 「いいんじゃねぇの? ホテルの正体は分かったんだしよ」 結論から言えば、このホテルは紛れもない本物の幽霊ホテルだった。昔に事件で多くの死者を出して以来、すっかり客足を失ったこのホテル内には多くの従業員の霊魂が未だ住みついていたのだ。あまりに客が来ず『生きた従業員』が全て辞めていった後、残った『従業員』は暇潰しに悪戯をするのが唯一の楽しみになっていたらしい。 「っつーか二人であんな数、成仏なんざさせてられるか。めんどくせえ」 「……少なくとも、人間に危害を加える気はないと分かれば充分か」 しかし本当にそれでいいのか、とまだ頭を捻るシィーロの目の前に、ファルファレロは暗い色をしたガラスの瓶を差し出す。 「なんだ、それは」 「戻ってくる前に、倉庫からくすねてきてやった。一杯付き合えよ。……この夜を愉しもうぜ?」 「……遠慮する」 安全と分かったスイートルームで二人きり、この状況でこの誘いに乗るのは危険だとシィーロの乙女の直感が判断した。するとファルファレロはグラスへ瓶から紅い液体を注ぎ、それをスッと彼女の目の前に掲げる。 遠くから、ピアノの音が聞こえていた。あのホールにあったピアノの音が、ここまで届いてきているのか。シィーロの知らぬ曲だったが、いつか聞いたジャズ音楽に似ているような気がした。 「可愛げねぇこと言うなよ。ここはきっちり誘いを受けるのがいい女の条件ってやつだぜ?」 「……、……ダメだ」 それから数刻後、いつの間にかソファで眠りかけていたシィーロをファルファレロはそっと抱き上げて、奥のベッドがある部屋まで運んでいた。 「……おい、……ここは何処だ……」 ベッドに横たえられるとほぼ同時に、シィーロは薄目を開けてファルファレロを見上げた。まだ意識が朦朧としているのが、パッと見だけでよく分かる。 「分からねェか? ベッドだ」 「……また、セクハラでもするつもりか……変態め」 眠たげにしながらも口の減らない様子に、ファルファレロは可笑しげに音もなく笑った。 「ああ、そうだな。ま、でも……口説き落とすにゃ順序ってもんがあるか」 ファルファレロはそっとシィーロの傍らへ寝転がる。手はそっと彼女の腰へまわし、引き寄せた。シィーロが特に抵抗しないまま自分を見つめているのに上機嫌の様子で、眼鏡を外し枕の脇へ置く。 「暗闇に怯えずに済むおまじないだ。目を閉じろ」 シィーロはわずかに俯き、目を泳がせるが、やがてノロノロとファルファレロの言った通りに目を閉じた。 ファルファレロは彼女の顎に手をやり、優しい動作で上を向かせる。そして、ゆっくりと自身の唇を彼女の顔へと近づけていく。 「……、……ファル……ロ……」 ファルファレロは微かにまた笑みを深くし、そっと、彼女の額に口づけた。 「ガキにゃこっちのがお似合いだ。……悔しかったら早く俺好みの女になりな」 シィーロは無言で俯き、ファルファレロの胸へ頭を埋める。それは夢現でのことなのか、ファルファレロはあえて探ろうとはしなかった。 「キス仕込むのは十八歳以上、な」 歳をとらぬロストナンバーである彼女が、あと一歳の歳をとるのがいつになるのか。それを想い、ファルファレロは楽しげな気分で目を閉じた。 【完】
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