私立ヴィンセント女学院の一日は、朝の礼拝から始まる。 礼拝堂はおそらくこの学校内でもっとも力の入った建物なのだろう、と白石智恵(シライシチエ)は思っている。それも当然かもしれない――ここはいわゆるミッション系の女学院だ。 朝の礼拝は全校生徒に義務づけられていることだが、この礼拝堂にはあいにく、人数的に幼稚舎から大学までを抱えるこの学院の全生徒が入れない。なので年少組……幼稚舎、小学校の子供たちは別所でお祈りをする。 さらに大学生も、敷地内に造られたもうひとつの礼拝堂で朝のお勤めをしている。 つまり今、この礼拝堂でお祈りをしているのは、智恵たち高等部生と後輩の中等部生だ。並べられた数多くの長椅子の前に立ち、一斉に前を見すえている。 朝方の礼拝堂の空気はひんやりと冷たい。 上方に造られた色とりどりのステンドグラスから、清らかな光が射しこむのを見るたび、背筋が伸びる思いがする。 深呼吸して前を向いた。 遠く、500人近い女生徒の視線を一心に浴びるマリア像が見える。 ここのマリア像は小さい。智恵たち高校生と変わらない背丈しかない。何でもマリア様の本来のお姿により近づけるためなのだという。智恵にはいまいち分からない理由だ。 小さな像の背後には、それを補うように巨大なステンドグラスがある。そこに描かれているのは赤子を抱くマリア様。 その美しい絵は、朝にもっとも神々しく輝く。 そしてその光を受ける小さな銀の像は、まるで夢の世界のように淡く輪郭を浮かび上がらせているのだ。 ――今日のお祈りもつつがなく―― 生徒たちは上級生から順に、整然と並んで礼拝堂から教室へと向かう。 シスターが時おり何かを言う以外、誰も口を利かない。沈黙以外必要のない空気の中で、智恵はそっとマリア像を振り返った。 遠目とは言え毎朝見ているその姿。――何も変化がない、ように見える。(やっぱりデマなのかな……) 近頃、高校を騒がせている噂。いわく、 『マリア様、再び高等部校舎に現る! その頬に流れる涙の理由は!?』「……先輩、こんな書き方してるとまた先生に怒られますよ……」 ため息をついた智恵の横で、磯浜千鶴(イソハマチヅル)はえっへんと腰に手を当てて胸を張った。「構うもんですか。私のモットーよ!」 ――真実を親しみやすく。難しいことを面白おかしく。 高等部3年、新聞部部長の千鶴のモットーは智恵も正しいと思うのだが、あいにくここは保守的な学院。特に神様やマリア様の話題を“面白おかしく”書きたてることは、時に教師の逆鱗に触れる。 千鶴も今まで何度、新聞の書き方で教師に呼び出されたかしれない。それでも全く懲りていないところが、千鶴の千鶴たるゆえんだ。 智恵の日課は、昼食後の自由時間にこうして掲示板に貼り出された新聞を見に来ること。 千鶴を中心とする新聞部は、毎日寝る間も惜しんで情報集めに奔走し、毎週必ず新聞を更新する。千鶴と親しい智恵も、時々取材を手伝うことがある。 学校のあちこちに貼り出されたこの新聞はとても人気があり、情報を広めるのにうってつけだ。だから何だかんだで学校側も、新聞の発行を禁止してはいない。 智恵はじっくりと新聞を眺めた。今週の出来事は…… 一番目立つのは、やはり『マリア様、再び』の記事だ。 何でも礼拝堂のマリア像が、夜な夜な高等部校舎を徘徊している――という。半月ほど前に最初の目撃談が出て、これで2度目だ。 しかも、目撃者によると『涙を流しながら』。(本当かなあ?) そもそも『涙を流しながら夜な夜な出歩くマリア像』というのは、この学院に古くから伝わる怪談だったはず。それが今になってなぜ――「ここのところ気になる出来事が多いのよ。腕が鳴るわ~」 わくわくとした様子で千鶴がきらりと目を光らせる。まったく、大人しい人間が多いこの学院では珍しい人種だ。 彼女の言うとおり、新聞には様々な情報が載っている。『快挙! 今週は朝お勤め無断欠席者ゼロ!』 大切な朝のお勤めを無断欠席する生徒が、今週はゼロとの報告。朝から行方をくらます常習犯だった生徒も、心を入れ替えてお勤めに励んでいるようだ。記者が常習だった生徒の一人に話を聞いたところ、「マリア様に対してとても失礼ということに気づきました」との返答。はたしてその真意は?『疑惑の演劇部、倉庫の怪の動揺の中、次の文化祭に向けて練習開始』 我が学院自慢の演劇部による、伝統聖母劇の練習が始まった。聖母マリア様を題材にしたこの劇は、演劇部の十八番と呼ばれている。一ヶ月ほど前から時々倉庫の中身の配置が勝手に変わっているなど怪しい噂に揺れる部員たちも、「大切な劇なので、集中して頑張りたい」と気合を入れる。今年は澤野部長によるアレンジが楽しみ。なお演劇部では、鍵の管理について鍵保管担当の用務員と改めて話し合うことにしている。『夜の校舎の出入り禁止強化』 夜の見回りを行っている風紀委員によると、近頃深夜に校舎や礼拝堂にひそかに立ち入っている生徒が増えているとのこと。これを受けて教師と風紀委員、用務員の皆様による見回りが強化される。深夜は学院内といえども危ないので、皆さんちゃんと寮や家に帰りましょう。『生徒会何でも相談コーナー増設のお知らせ』 生徒会役員が悩み事相談を受けつける人気のこのコーナー、最近の応募数の増加に伴い、回答数を週に2件から4件へと増やすことに決定! お悩みの方は新聞部までどうぞ。 「深夜に出歩く生徒が増えているのには困ったものだね」 ふと声が聞こえて、智恵は振り向いた。 そしてそこに立っていた2人の人物の姿に、ぎょっとして固まった。高等部生徒会長と副会長―― 智恵の様子を見て、副会長の久代澪(クシロミオ)がふふっと笑った。「ばかだな、リラックスしていいよ」 すらりと長身で、その涼しげな目元やきびきびとした立ち振る舞いは、宝塚の男役のようにも見える。 一方その隣にいるのは、宝塚の姫といったところか――ふわふわと波打つ長い髪がよく似合う生徒会長は、身長は低く顔立ちはかわいらしく、普段はにこにこ笑っている。「あ、夢美様、澪様、こんにちは!」 千鶴がぱっと向き直って礼をした。「こんにちは」と一条夢美(イチジョウユミ)会長が微笑んだ。「新聞ご苦労様。うふふ、楽しみにしていたのよ」 夢美は掲示板の前に進み出て、無邪気な顔で新聞を見た。そして「今週も興味深いわねえ。ねえ澪」と副会長に話しかける。「だね。風紀の薫が嘆いていたよ――何度注意しても深夜に校舎や礼拝堂に来る子が減らないとかで。そのせいか分からないけど、風紀の子が皆落ちこんでる。しかも」 言いながら、澪は新聞の一番下の記事を指さした。『生徒会何でも相談コーナー』今週分は、4件中2件が風紀委員からの相談だ。「『自分に風紀なんて大切なお役目に携わる資格があるんでしょうか』に『この間、寮に電話をくれた母に学校の愚痴を言ってしまいました。私は許されるでしょうか』……どちらも、正直“考えすぎ”にしか見えないだろう?」「た、たしかに……あの、悪戯……とかではないんでしょうか?」 智恵は一応尋ねてみた。しかし、夢美会長は首を振った。「気になったから直接会いにいってみたの。かわいそうに、彼女たちはささいなことに悩んで疲れきっているわ。――最近、校内を歩いていても暗い顔をしている子をちらほら見かける気がするの」 私もそう思うよ、と副会長が同意する。と、「そんなことはありませんよぅ」 横からまた声がした。 4人が一斉に振り向くと、そこには楽しそうな笑顔を浮かべて立っている女生徒が1人。そしてその後ろには、疲れ切った顔の上級生もいる。「あ、さぼり魔。峰丘と一緒なんて、また何かやった?」 千鶴がからかうように後輩に言うと、笑顔だった後輩は口をとがらせた。「もうさぼってませーん。ちゃんと朝のお祈りには出てますよぅっ」 そう、新聞に出ている『朝のお勤め無断欠席常習者』の代表格で、「マリア様に失礼なこと」とのたまったのが、この高等部1年の吉井彩絵(ヨシイサエ)なのだ。 千鶴は「ごめんごめん」と笑う。しかし彩絵の後ろにいたもう1人は、深くため息をついた。「そのついでに深夜に出歩くのもやめてくれればとっても助かるんだけど……?」「……薫、顔色が悪いな。昨夜はちゃんと寝たかい?」 澪が同級生で風紀委員長の峰丘薫(ミネオカカオル)を心配そうに見た。 薫は首を振り、無言でじろりと彩絵をにらんだ。 彩絵は知らん顔で口を開く。「千鶴先輩、マリア様のこと新聞に載せてくれてありがとうございますっ」 新聞部部長に笑顔を向ける彩絵に、智恵は思わず訊いた。「吉井さん、また『徘徊するマリア像』を見たって本当?」 後輩は当たり前のことのようにうなずいた。「見ましたよぅ。あ、夢美様澪様夜に出歩いてごめんなさい。でも」 夜じゃなきゃマリア様にお会いすることができないと思って――と彩絵は悪びれもせず告げる。 そして、ますます嬉しそうに笑った。「夜のマリア様にお会いして、私元気になったんですよぅ。暗い顔してる子ばかりじゃありませんよ」「――って言うから。何度注意しても聞かないの。昨夜も……」 薫は困り切った顔でまたため息をついた。 彼女の苦悩も分かる。彩絵がただ不真面目なだけな生徒なら何かしら対処できたかもしれないが、この子は「まっすぐ」なのだ。さぼり魔になったのも、朝のお勤めが辛くて仕方がないと嘆く友人に付き合ったことから始まったらしい。 ついでに言うなら、彩絵は『夜の徘徊マリア像』の最初の目撃者の1人でもある。彼女は演劇部だ。一ヶ月前に例の倉庫の怪が起き、憤慨していつも行動を共にしている演劇部の1年生数人で夜の演劇部倉庫を毎晩確認していたところ――その途中でマリア像を見かけた、と。 遠目にも、泣いているように見えた。 その場はすぐ見失った。思い至った彩絵は、泊まりの用務員を叩き起こして鍵をもらい、友人たちと共に礼拝堂に入った。 ――マリア像は泣いていた。その頬に涙の跡があったという。 噂は新聞部を通じ、またたくまに広まった――「……お祈りを無断欠席することがマリア様に対する不敬だということは、あなたのいうとおりね、吉井さん」 夢美会長がふんわりと微笑んで後輩に視線を向けた。「でもね、夜間に出歩くこともマリア様はお望みではないわ。聖母様はとても優しい方ですもの――皆さんに何かあっては嘆かれます。夜はやっぱり危ないわ」「でも夢美様」「もちろん、マリア様像のことも、演劇部のことも、気になる気持ちは理解できます」 だから、と生徒会長は悪戯っ子のような顔をした。「近々私も夜の見回りに参加するわ。ねえ、いいでしょう薫さん」 風紀委員長はぎょっとした顔をして、それから諦めたようにまた深々とため息をついた。 わあ、と千鶴が目を輝かせた。何か起こることを期待している悪い目だ。 澪が軽く眉をひそめて、「大丈夫かい、夢美? 私も行こうか?」「大丈夫よ」 不思議な威厳を身にまとった生徒会長は、胸の前で両手を組み合わせて目を閉じた。「――この神とマリア様のお庭に異変あるときは、原因を突き止めるのが生徒会の役目です。マリア様も、きっと心配していらっしゃる」 涙を流していらっしゃるというのだから――そう言って、会長は困ったように微笑んだ。 ***** 「壱番世界にマンファージが現れた」 世界司書シド・ビスタークはきつく眉根を寄せ、いつになく難しい顔で目の前の6人を見回した。 マンファージ――告げられた言葉に、ロストナンバーたちに緊張が走る。 生物に寄生する《ディラックの落とし子≫“ファージ”の中でも、特に人間に寄生したものをマンファージと呼ぶ。今のところ、宿主の体から切り離す方法が確立されていないこの“災厄”を消し去るためには、宿主を殺すしかない。 宿主が人間であってもしかり――「日本のミッション系女学院だ。“今”の時点では、まだ人死には出ていない。が……時間の問題だな」 手にした導きの書を慎重にめくり、その文字列を追う。「学院内の生徒たちに起きている異変は、精神系の異変とある。具体的にどんな異変かは分からんが少しずつ精神が蝕まれ、やがて発狂する。狂って殺し合う、あるいは自害する――」 それは導きの書が予言する≪不確定の未来≫。 マンファージ本体を始末できなければ、いつか必ず起こる未来。「本体が直接手を下して人を殺すことはない。そのせいか本体が誰なのかが不明確だ。今のところ分かることは」 ――夜だ。「生徒たちが発狂するのは“夜”だと出ている。おそらく本体の動きが活発になるのも夜だということだろう。人の集まる学校だけに昼間は動きづらいのか、それとも夜だけ力を発揮するファージなのかは分からんが……どちらにせよ、夜は本体の本領発揮の時間だと覚えておけ。その分夜の方が見つけ出しやすいんだろうが」 どう行動するかは任せる、とシドは重々しく告げる。「“人を殺すときには”直接手を下さないとはいえ、精神が浸食された者たちは本体と何かしら接触しているはずだ。学院内の人間に話を聞けば、何かが分かるかもしれない」 早急に見つけ出し、始末してほしい。 忘れるな、マンファージは近場にいる人間を操ることができる――「本体以外の人間に危害を与えることは厳禁だ。ああ、もしも転入生として行くなら、新入りにも分け隔てなく付き合ってくれそうな生徒がいるクラスを見繕ってやる。教師や用務員となると中々難しいが……頼んだぞ」 そこまで言い終えたシドは、ふとつぶやいた。「……どうも、予言のあちこちに『マリア像』の姿が見え隠れしているな。発狂する人々もマリア像の前で……か。これは一体……?」 ***** そのことに思い至ったのは、ある日の朝のお祈りの時でした。 礼拝堂を埋め尽くす大勢の人々。生徒たちに、教師。シスターたち。 これだけの人数の中で、一体どれだけの人間が本気でマリア様の存在を信じ、敬っているのでしょうか? 偉大なる神を、聖なる母を、惰性だけで崇めるその心を、私は嫌悪します。真剣に考えた結果神の存在を“疑う”よりも、ずっとずっと罪だと私は考えます。 ――愚かな人々。その心をさらけだし、自らと向き合うといい。何人の人間がその醜さに耐えられるのか? 美しきマリア様の前で懺悔を、さあ――=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ヘルウェンディ・ブルックリン(cxsh5984)ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノ(cppx6659)シィーロ・ブランカ(ccvx7687)旧校舎のアイドル・ススムくん(cepw2062)南雲 マリア(cydb7578)シュマイト・ハーケズヤ(cute5512)=========
●潜入 今回ヴィンセント学院に潜入することになったロストナンバーは六人。 その内、『生徒』という立場を選んだのは五人だ。しかしさすがに五人全員同じクラスに転入することはできなかったため、ばらばらのクラスで情報集めをすることになった。 世の中第一印象が肝心だ。そして今回は、できるだけ目立たない方がいい。 「三つ編みと眼鏡……カラーコンタクトは外した方がいいわね」 ヘルウェンディ・ブルックリンは二年への転入生として学院に入りこんだ。 朝の礼拝の後の短いHR。挨拶をするためにクラスメイトの前に立った彼女は、その優等生ルックをフルに活かして控えめに微笑んでみせる。 「よろしくお願いします」 生徒達から返ってくるのは、興味とためらいの入り混じった視線。居心地はよくないが、初日はこんなものだろう――教師に促されて空いている席に着くと、後ろの席からとんとんと肩をつつかれた。 振り向くと、何やら親しげな表情でヘルを見つめる女生徒がいる。 「何か困ったことがあったら言ってね、ええと……ブルックリンさん?」 ――なるほど、シドが言っていたのは彼女か。ヘルはにこりと微笑みを返した。 「ヘルでいいわ。あなたのお名前は?」 白石智恵よ、と少女は言った。 『学院には“新聞”があるそうよ。まずはそれを見た方がいいかも』 ヘルから届いたエアメールを元にシィーロ・ブランカが掲示板の所へやってくると、丁度そこには南雲マリアもいた。 「やあ。調子はどうだ?」 「今のところ平和よ」 シィーロがかけた声に応えたマリアは、軽く苦笑する。 「私もミッション系の高校に通っているんだけど、やっぱり色んな学校があるのね。クラスの子が生徒会を様付けで呼んでてびっくりしちゃった」 「そうなのか?」 だが、さしあたりそこは問題ではないだろう。二人は掲示板に張り出された新聞を興味深く眺める。 「ミッション系なのに不謹慎なくらい元気のいい新聞よね。それにしても『マリア様再び』……?」 マリアは首をかしげて「再び、ってことは、前にも現れたってことよね?」 「多分。この歩くマリア像は……」 シィーロはうなずいて、ふと目を細める。 「朝の礼拝で見たここのマリア像は生徒と変わらない大きさだった。だから夜に徘徊していた誰かを、マリア像と錯覚した可能性があるだろう? ということは」 「……夜に、活動していた、『誰か』ってこと?」 「可能性はある」 そう言ったシィーロは、ふと視線に気づいて周囲を見渡す。 気づけば自分たちから少し離れた所に生徒が数人いた。どうやら掲示板を見に来たらしいが、掲示板の真ん前をシィーロ達が陣取っていたため近寄りがたかったらしい。 おどおどしている女生徒達。シィーロはマリアに向けて呟く。 「実は私、学校に来るのは初めてなんだ」 「え、そうなの?」 「ああ。だからすごい緊張する――でも、生徒らしい振る舞いは練習してきたから」 そう言って彼女は女生徒達に歩み寄る。そして、 「曲がっていましてよ?」 女生徒の一人の胸元のリボンの歪みを、そっと直して微笑みひとつ。 見ていたマリアはぎょっとした。一体どこでそんな知識を仕入れてきたものか。しかし元々端正な顔立ちのシィーロが丁寧な仕種でそれをやると、なぜか異様に似合っているのが大問題で。 「――あ、あの――すみません気をつけます――あの、ありがとうございます!」 たっぷりと妙な間を取りながら礼を言ってくる女生徒達の目の色が、だんだんと陶然となっていく。 十代女の子という生き物は、えてして熱中しやすいのだ――それが同性であっても! マリアを振り返り、「これでいいんだろ?」と言いたげな顔をするシィーロ。 マリアは天を仰いでため息をついた。何だか捜査とは関係なく、シィーロの今後が心配だ…… ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノは、帰国子女として三年生のクラスに潜入した。 「よろしく頼むぞい」 といつもの口調で挨拶すれば、皆が一様に妙な顔をする。しかしそんなことは予定の内だ。 「時代劇を見て覚えたんじゃ。中々よい言葉でのう」 どうじゃ、ちょっと威厳を感じんか? などとわざとおどけて話せば、クラスメイト達から和んだ笑顔がこぼれる。おかげでとても話しやすい。 その時、「こんにちは」と近づいてきた女生徒に、ジュリエッタは顔を向けた。 「私は一条夢美、高等部生徒会長よ。アヴェルリーノさん、とても面白い方ね」 生徒会長――思いがけない僥倖に、ジュリエッタは勢いこむ。 「日本には慣れていないんじゃ。わたくしはカトリックの本場のイタリアから来たんじゃが……この学校にもマリア像があるんじゃろう? ぜひ見に行きたい。案内してくれんか?」 ええもちろん、と夢美はにっこり笑った。 「Grazie!」 ジュリエッタは笑顔を溢れさせ、全身で感謝の気持ちを表した。ハグ&イタリア式頬のご挨拶。 様子を窺っていた周囲の生徒達が歓声を上げた。 その黄色い歓声に若者らしさを感じ、ジュリエッタは微笑んだ。この子達をファージに操らせてなるものか、絶対に―― シュマイト・ハーケズヤは十九歳である。 年齢くらいごまかせるぞと司書は言ったが、あえてそのまま留学生として入りこんだ。 (年下扱いは好かんのだ) 元々立ち振る舞いが威風堂々としている彼女を、あえて年下扱いしようとするクラスメイトはいなかった。表向き年齢での上下関係がはっきりしているせいもあるらしい。 ――影から「ハーケズヤさんかわいいね」などという言葉が聞こえた気がしたが、無視することにしよう。嬉しくないわけではないが反応に困る。 それはさて置き。 (聞きこみは仲間に任せるとして) 他の面からも攻めておきたい。自分にしかできない方法で。 ヘルからのエアメールを確認した彼女は、休み時間に一人で教室を抜け出し、学内に幾つかある掲示板のひとつにやってきた。 一番目立つ新聞を、細大漏らさぬ真剣さで熟読する。 「……悩み相談?」 コーナーをひとつ占めているその話題に、彼女は引っかかりを覚えた。 「相談相手が生徒会……? 普通この手の相談はシスターにするものではないのか」 何と言ってもミッション系の学校では、シスターの存在は重い――はずだ。 「………」 考えを巡らせながら、もう一度他の記事も読む。 色々と、気になるものはあった。けれど、 (新聞だけではそれ以上の情報にはならんな) 視線を下ろし、小さくため息をつく。 彼女は今まで学校に通ったことがなかった。だから本当はこの潜入が少し楽しみだった。可愛い制服で高校生ライフ……人生で大抵一度きりしかないはずのそんな経験を切って捨てられるほど、彼女は少女の心を捨てていない。 しかし、今はそんなことを言っていられる状況ではなさそうだ。シュマイトはきっちり思考を切り替える――欲求に負けて優先順位を違えることは、いつの世も失敗を引き寄せる要因なのだから。 旧校舎のアイドル・ススムくんは木製の人体模型である。そのため、『寄贈された人体模型』として保健室に設置される形で潜入した。 (ここが噂の女子校……別に百合の匂いはしないでやんすね?) 真っ先にススムくんはそんな感想を持った。 (わっち、女子校は百合の匂いに満ち満ちているのかと思っていやした) それがどこから仕入れた情報かはあえて思い出すまい。何にせよ残念――いやいや、別にいちゃついている女の子同士を見て眼福と思いたかったわけでは決して! ……嘘ですごめんなさい本当は期待してました。 なんて言ってる場合ではない。彼は今回の目的をかろうじて思い出し、静かに沈黙する。 一日の初めにやってきたのは、朝の礼拝で貧血を起こした生徒だった。更に時間が経つにつれ、生徒が入れ代わり立ち代わり保健室にやってくる。 (このお嬢達は) 半日もしない内に、ススムくんはすぐに違和感を覚えた。 来る生徒来る生徒、妙に暗い顔をしているのだ。保健室に来る理由も怪我ではなく体調不良だという。 (……体の不調は、精神から来ることも多いでやんす。そして今回のマンファージは精神に働きかけるんでやんす) となれば。 体調不良を訴える彼女達の言動は、しっかり見ておかなければなるまい。 (やってくるお嬢達の名前と行動範囲を) どこでどうやってマリア像と接触しているか。 あるいは、この生徒達と接触回数が多い人物はいないか。 ただただじっと耳を傾ける。そこにあるかもしれないファージの影響を酌み取るために―― その日の夜、六人は寮の部屋を抜け出してススムくんのいる保健室に集合した。 それぞれに今日の成果を報告する。学校という特殊な空間だけに、話の通じそうな人間を見つけるだけでも初日は充分な収穫だ。 「やっぱり夜に、直接マリア像を見に行くべきだと思うわ」 とマリアが提案すれば、 「同感だ。ファージが夜に動くなら、敵誤認のない状況が望ましい」 とシュマイトもうなずいた。 誰も夜行動に反対はしなかった。ただ、調べなくてはならないことはまだ多い。夜の礼拝堂に行くより先に、まずはそれぞれの方法で調査する必要がありそうだ。 一日や二日で都合よく活動はできないだろう。あまり動いてファージ本体に怪しまれても困るから、しばらく慎重に行くことを決めて。 調査先に馴染む努力は功を奏した。 三日も経てば新入りがあれこれ動きだしても、怪しむ者はほとんどいなくなる。それはファージに怪しまれる確率も減るということだ。 そして潜入四日目の夜―― ●夜の校舎にて 昼間には奇妙なほど人が多い保健室も、夜になると全員がいなくなる。 しんと静まり返った校舎から、ススムくんは音もなく滑り出た。 (……今日は都合よく全員夜の校舎へ来られそうだということでやんす。今夜が勝負でやんすね) トラベラーズノートに連絡がないかどうかを逐一確認しながら、彼は礼拝堂を目指す。 光のない夜の校舎の中。ひたひたと廊下を足早に歩いていると、 「ススムくん」 途中でマリアが彼を見つけ、走り寄ってきた。「礼拝堂へ行くの? わたしも行くわ」 「ではご一緒しやしょう。……しかしマリアお嬢、わっちが怖くないんでやんすか?」 自分で言うのもなんだが、人体模型である自分を深夜の校舎で目にするのは不気味だと思う。 しかしマリアは明るく笑った。 「平気よ、ススムくんが学校にいることは知ってたんだし、私怪談とか怖くないから」 「……そう言ってもらえると、なんだか嬉しいでやんすよ」 不気味がられるのに慣れてしまっているススムくんは、マリアの言葉がじんと胸に沁みた。作り物の胸だが。 二人で辺りに注意しながら、礼拝堂に向けて歩き出す。 「礼拝堂にはヘルさんも行くみたいね」 「ヘルお嬢は新聞部に潜入なさったんでやしたね」 『お悩み相談コーナー担当に立候補したの』とヘルから話を聞いていた。 ファージは人の弱みにつけこむ。悩み相談ならファージに繋がるかもしれないというヘルの考えには全く同意だ。 他にも、ジュリエッタは今夜生徒会長にくっついて夜の見回りに参加するらしい。シュマイトはパソコン室にいる。 「シィーロお嬢は演劇部に入ったんでやしたね?」 「そう。わたしも気になることがあったから昨日一緒に演劇部に話を聞きにいったんだけど、多分シィーロさんは」 わたしと違うことを調べてるみたい――マリアはシィーロの表情を思い出しながらそう言った。 シィーロが演劇部に目をつけたのは、徘徊するマリア像に繋がる何かがそこにあるような気がしたからだ。 夜に徘徊していたのがマリア像ではなく、マンファージ本体か、それに操られている生徒だった場合は? 聖母の衣装なら、今聖母劇をやっているという演劇部にあるはずなのだ。 そこが気になった彼女は、手先が器用なことを口実にして、演劇部に裏方として入部した。 そこの後輩には『問題児』吉井彩絵がいた。サボり常習犯でありながら、ここ半月ほどで人が変わったように真面目になったという。新入部員となるシィーロにも親切だった。これ幸いと、シィーロは彩絵にあれこれ尋ねることにした。 『倉庫の怪というのは、泥棒が入ったということか?』 中身は無事だった? シィーロの問いに、彩絵はこくりと頷いた。 『なくなったものはありませんよぅ。ただ』 「ただ?」 『マリア様のお衣装がいつもの所になかったんです。畳み方も変になっていたし』 『……なるほど』 その後『裏方として畳み方も知りたい』という口実で、シィーロは衣装を見せてもらった。 一番確認したかったのは衣装についた匂いだ。 獣の感覚を持つ彼女なら、匂いの判別は容易い。聖母衣装は毎年同じ仕様で新しく作り直されているらしく、昔の演劇部員の匂いはないことも都合がいい。 (演劇部員以外のものはないか) はたして、主不明の匂いは確かにあった。後はその匂いの主を見つけ出せば、何か話を聞けるかもしれない。 そして―― ジュリエッタは夢美に頼みこんで、夜の校舎の見回りに参加した。 同行の風紀委員長・峰丘薫はとても困った顔をしていたが、夢美は気にした様子もない。 「アヴェルリーノさんは護身術に覚えがあるそうよ。心強いでしょう?」 「……あの、会長。こんなことばっかりしてるとまた先生やシスターに怒られ――」 「いいのよそんなこと」 私は堅苦しいのは嫌いです、と夢美はきっぱり言い切った。 なるほど、とジュリエッタは納得する。この学校にどことなく自由な気風の片鱗が見えるのは、生徒会長が彼女だからなのかもしれない。 ただこういった態度は、そこかしこで反発も生みそうだ。 「すまんのう薫殿。その分生徒に喝を入れるのは任せてほしい」 マリア様の本場から来たんじゃからの、とジュリエッタは力強く微笑んでみせた。それを見て、薫もようやく受け入れたらしい。 薫ともう一人の風紀委員に、夢美とジュリエッタの四人、懐中電灯を手に校舎を歩き出す。 ジュリエッタは三人に気づかれないようひそかにセクタンを飛ばした。ミネルヴァの眼も利用し、慎重に夢美や薫の行動を監視する。今の所、彼女らがシロである証拠はないのだ。 時折三人と少し距離を取り、トラベラーズノートにも目を通す。 と、丁度シィーロからのメールが届いた。 それを読んだジュリエッタは、すぐさま「あ!」と大声を上げた。 何事かと振り向いた夢美達に早口に訴える。 「薫殿、あっちじゃ! おかしなものを見た!」 「え?」 「夢美殿たちは待っていてくれんか。万が一何かあった時にフォローしてほしいのでな」 その真剣な様子に、夢美が分かったわと頷く。 戸惑う薫を、ジュリエッタは半ば強引に離れた所へと引っぱっていった。夢美の目の届かない所へ。 「アヴェルリーノさん、一体何を」 言いかけた薫は、そこに人がいるのを見て息を飲む。 「強引ですまぬ。じゃが、彼女がそなたと話したいと言っていてな」 「……他の人がいる所では、正直に話してくれないような気がしたから。丁度ジュリエッタと一緒にいたし、連れてきてもらったんだ」 と、シィーロは静かに薫を見すえた。 確信を込めたその視線は、しかしどこかなだめるように優しげで。 「演劇部のマリア様の衣装に貴女の匂いがついていた。あの倉庫は演劇部員以外入れないらしい――倉庫を荒らしたのが貴女なら、その理由を教えてくれないか?」 ヘルは、夜に一人きりで礼拝堂へとやってきた。 新聞に強く興味を持った彼女は、白石智恵に新聞部を紹介してもらい、そのまま入部したのだ。お悩み相談コーナーについての情報をあらかた調べた彼女は、次に礼拝堂に張りこみ取材を敢行することにした。 礼拝堂の鍵は簡単に借りることが出来た。最近毎晩生徒が鍵を求めにやってくるので、鍵当番の用務員は追い返すのにも辟易して投げやりになっているようだ。 (まずはマリア像よ) しんと静まり返った夜の礼拝堂は、怖いくらいに寒々しい。ステンドグラスが美しい昼間とは別世界だ。 身を縛るような静寂の中を、ヘルは慎重に歩く。 (泣くマリア像のカラクリは――) 徘徊するマリア像はともかく、その直後に見られるというマリア像の『涙の跡』くらいならいくらでも説明がつく。とは言っても、ただ液体を垂らしておくのではうまく発見されないだろう。となると、 ヘルは自分と背の高さがそれほど変わらないマリア像の顔に手を伸ばした。目の下や頬の辺りに指を滑らせ、えたりと口の端を上げる。 「……ぬるぬるしてる。やっぱり脂だわ。おそらく融点の低い魚脂――」 「魚の脂か……ふむ」 暗いパソコン室で待機していたシュマイトは、ヘルからの報告を受けて考えこむ。 「魚脂は常温で液状になるから、時間差で涙を演出するにはいい。だがあれは放置すると臭気を発する。ということは……」 それをいちいち拭き取る必要があったはずだ。まさか臭うままほったらかしにするわけもあるまい。 「拭き取るとしたら……深夜に集まった生徒が全員帰ったと確認した後。もしくは朝の礼拝の前か」 それが可能なのは? 「朝に礼拝堂を開ける人物が分かる資料を」 電源が入れっぱなしのパソコンに向き直り、『機械語』を駆使して校内のネットワークをハッキング。必要な情報を即座に拾い上げていく。 それを見る限り、最初に朝に礼拝堂の鍵を開けるのはシスターのようだ。 元々シュマイトはシスターを怪しんでいた。 (生徒会に立場を奪われているように感じるシスターがいてもおかしくなかろう) シスターが受け持つ授業や告解の日時と、徘徊するマリア像が現れた日を照らし合わせてみたが、特に目立った怪しい所は見つからない。それで一旦は「違うのか」と思ったが、ヘルのメールが再びシスターの影をちらつかせる。 他にも仲間が怪しいと思う人物を報告してきたら、パソコンで調べるつもりもある。メールを気にしながらも、シュマイトはシスター情報を追い続けた。 「わたしはあの『朝のお勤め無断欠席常習者』だったっていう子が気になったのよ。『マリア様に対して失礼』っていう言葉がどうしても」 マリアは新聞記事の文面を思い返しながら、隣を歩くススムくんにそう言った。 「元々真面目だった生徒ならともかく、明らかに反抗的だった子が突然そんなこと言い出すって変でしょう? わざわざ何度も会いに行ってるっていうし」 だから彼女は彩絵が演劇部であることを知って、シィーロについていったのだ。彩絵に色々尋ねてみたくて。 ススムくんは「なるほど」と頷いた。 「一人だけ変化している人間には目が行きやすいものでやんすから、わっちは彩絵お嬢はスケープゴートの可能性があると睨んでおりやした。特にマンファージはずる賢いと聞き及んでおりやすし」 「そうなんだけど、やっぱり妙だったわあの子」 『マリア様が本当にいらっしゃるっていうことを、皆に教えてあげたいんですよぅ』 彩絵はそんなことを言っていた。 自分がその目で見たという歩き回るマリア像を、本物だと信じているのなら、その言葉もおかしくはない。でもそもそも、なぜ彼女はそれを『信じた』のか? 「確かに。彩絵お嬢が誰と話をして聖母を素晴らしいと思えるようになったか確認するのは重要だと思いやす」 近づいてくる礼拝堂を見つめながら、ススムくんは応じる。 「保健室に来たお嬢たちの中には、彩絵お嬢、夢美お嬢と接触した生徒が多かったでやんす。彩絵お嬢は最近聖母布教で他人と接触してるようでやす。夢美お嬢は生徒会長という立場上、それから新聞の悩み相談でも人と会うようでやすね」 つまり生徒で怪しいのはその二人だ。では、そのどちらが? 礼拝堂に滑りこんだススムくんとマリアの気配に気づき、マリア像の所で腕を組んでいたヘルは顔を上げた。 「二人とも。丁度今ジュリエッタからも連絡が来たんだけど――読んだ?」 「あ、今確認するわ」 慌ててメールを開き、ジュリエッタから届いていた内容を確認したマリアとススムくんは当惑した。 「風紀委員長が……? これって」 「シィーロが見つけて、当人も認めてるんだって。でも肝心の」 言いかけたヘルの眼差しがふと鋭くなった。全身を緊張させ、 「誰!?」 開けっ放しだった礼拝堂の扉に向かって声を上げる。 礼拝堂の空気が一瞬、ピンと張りつめた。マリアとススムくんが慎重に視線を巡らせ、ヘルは睨むように扉を見る。しかし、 「――あら?」 そこにいるのが誰なのかに気づいて、ヘルは眉をひそめた。「智恵さん?」 元々隠れる気もなかったらしい、白石智恵が恐る恐る中に入ってくる。そしてヘル達三人の前に来ると、安心したように息をついた。 「良かった。さっきたまたま貴女が礼拝堂に向かっているのを見かけて……心配だったの」 「え……?」 「お悩み相談にすごく興味を持っていたでしょ? 悩みでもあるのかなって」 新聞部には智恵も同行していた。だから彼女はヘルの言動を全部見ていたのだ。 言葉を失ったヘルを見て、智恵は照れたように微笑んだ。 「私の思い過ごしだったかな? あ、でも悩みがあるならいつでも聞くからね。転校したばっかりって不安でしょう?」 「………」 思いがけない言葉に当惑したヘルの顔が、やがて自然とほころんでいく。 「ええ、ちょっとだけ悩みがあるの。こんな所でなんだけど、聞いてもらってもいい?」 もちろん、と智恵は優しい顔で即答する。 ――傍で見ていたススムくんが、ううっと泣き出すかのような仕種をした。 「これでやんすよ……学校の友達というのはこうでなくてはっ! わっちも学校に縁深い者として、こんな光景が見られて嬉しいでやんす!」 百合じゃないでやんすけど――と呟く声は無視して、マリアはヘルと智恵の様子を感慨深く眺めた。 ふと、自分の級友たちのことが思い出されて、何だかくすぐったい気分になる。今のヘルのように愚痴ってしまうことも楽しい毎日―― 「私の父親、女癖と酒癖が最悪で。こないだなんて私を愛人と間違えてキスしようとしたのよ、初キスだったのにもー最低! 未遂で済んだけど!」 (……ってヘルさん、心許しすぎで優等生のお芝居忘れちゃってるし……) * * * ――夜中に校舎を歩き回っていたのは私です、と風紀委員長・峰丘薫はそう白状した。 演劇部の倉庫から持ち出した聖母衣装を来て、目元を水で濡らして。わざと彩絵達の目につくように歩き、終わると衣装はその日の内に倉庫に返した。数日後にはダメ押しでもう一度。 「何とかサボり組の皆に言うこと聞かせたかっただけなの……」 まさか本当にあそこまで効き目があるとは思わなかったのだ。むしろ今の彩絵の様子が恐ろしいと彼女は言った。 シィーロとジュリエッタに挟まれて、薫はひどく怯えていた。彩絵を騙していることを気に病んでいる――それを察したジュリエッタは、優しく薫の肩に手を置いた。 「心配するでない。そなたのやったことは軽率ではあったが……まあ、ちゃんと反省するならこれで終わりじゃ」 シィーロと二人で頷いてやると、薫は安心して泣き出した。 どうやら彼女はマンファージではなさそうだ。しかし、 「マリア像のふりだなんて、よく思いついたのう?」 薫は疲れた顔で、いいえと首を振った。 「考えたのは私じゃない。あれは――」 * * * 核心まであと少し。 更に足りない部分を補うために、もう一日彼らは走り回る。 「生徒会長はシロじゃ」 その日の内にジュリエッタがその情報をもたらした。「夢美殿は見回りを始めるまで、夜は本当に自室で寝ておったようじゃ。寮の同室の人間も保証しておったぞい。夜に活動していなかったのなら、今回のファージではあるまい」 となれば、残るはあと一人。 そろそろ夜になろうという時間、また保健室に集まった仲間達の前に、ヘルがある物を置いた。 「マリア像にね、盗聴器を仕掛けておいたの。盗み聞きはよくないけど手段は選んでいられないから」 「ノイズがひどかったんでな、私が調整した。聞いてみてくれ」 とシュマイトが再生する。 録音されていたのは、深夜にマリア像の前で交わされた会話―― * * * 「今日もマリア様は泣いておいでですね」 ――そうね。でもこうして貴女達が毎晩来てくれることは、とても喜んでいらっしゃるわ。 「そうでしょうか。私は今日も先輩達にたくさん叱られました」 ――いいのよ。貴女の本当の姿は誰よりマリア様がご存じです。 「そう……そうですね。マリア様がご存じなら、それでいいですよね。ねえマリア様、私頑張ります。これからも毎日皆と話して、毎晩皆で会いに来ます」 ――そうよ、今はまだ信じない者が多くても、 「皆が本当に信じてくれる時まで……!」 * * * 三日月が雲に隠れて、礼拝堂を真の闇が覆う。 灯りが漏れるでもない、ただ沈黙するだけのその建物に、何人もの生徒達が集まろうとしている。その足取りはどこか重く、彼女達は一様にうつむき、それなのに道を選ぶことに微塵の迷いもない。 女生徒の一人が扉を開けるために進み出る。 と、扉の前に誰かがいることに気づき、彼女は足を止めた。 人? いや、違う。その不自然な気配に、少女は訝しく思ってまじまじと闇を見つめる。カタカタと異様な振動音。虚ろだった少女の心を侵食するように湧き上がる何か――そして、 「――きゃああああ!」 我に返った少女は脱兎のごとく逃げ出した。 「?」 扉が開くのを待っていた他の生徒達が、怪訝そうに扉の前を見直す。 そしてそこにあるモノに気づいては、次々と悲鳴を上げて逃げて行った。 辺りから一気に人気がなくなり、ふいに吹いた風は恐怖の名残のように細い嘆きの音を立てる。 「怖がらせて申し訳ないでやんす……ですが、マンファージは単独にしないと、操られてしまうでやんすから」 扉の前で一人小さく呟いたのは、いつもの法被も脱ぎ、内蔵模型丸出しの状態で佇む人体模型…… (………?) マリア像の前で少女は顔を上げる。 礼拝堂の外で悲鳴が聞こえた気がした。それもたくさん。 皆の身に、何か? 「気になるの?」 ふと声がした。 ぎょっとして振り向いた――自分以外誰もいないと思っていた礼拝堂に、人が。 「一人で来てって頼んだはずなのに、皆を呼んだのね」 と、聖母と同じ名を持つロストナンバーが、うろたえる女生徒に静かに歩み寄っていく。「申し訳ないけど、他の皆は寮に戻ってもらったから」 「何のこと――」 「何のこと? それは貴女が一番よくご存じよね、彩絵さん」 発現させたトラベルギア――日本刀を少女につきつけ、マリアは言った。 彩絵は表情を動かさなかった。 彼女の持つ燭台の炎が揺れて、銀刀の切っ先を弾いた。 ヘルの盗聴器から聞こえた声の主は二人。その内、異変のあった生徒達と積極的に関わっていたのは一人。 ジュリエッタの発案で、深夜の礼拝堂に『その一人』を呼び出した。彩絵と話をしたことのあるマリアとシィーロが声をかければ容易いことだ。 ただ、相手は『一人で来て』の頼みを蹴ったようだったが―― 何が起こるか分からないから、まずは自分が斥候として出る。できれば、マンファージとしての力が見られるまで。 それにマリアは、もう一度彩絵の言葉を聞いておきたかった。 目の前にいるのは、ただの女の子だ。 だが今のご時世、夜の礼拝堂に燭台を持ってきている時点でどこかおかしい。その上、刀を向けられても微動だにしない。 刃先とマリアの上を往復した彼女の視線は、どこか別世界の物でも見るかのようで。 やがて彩絵は――笑った。 「変なの。私は何もしてませんよぅ」 「本当に?」 「本当にも何も事実ですよ? 私は皆に、マリア様が本当にいらっしゃることを信じて欲しかっただけ」 背後のマリア像を振り返り、愛おしそうに見つめる。 「皆が抱えてる大きな悩みも小さな悩みも、マリア様が全て溶かして下さる。私は、皆にそう伝えてきただけです」 「……それでどうしてわざわざ皆の不安を煽るようなことばかり吹き込んだの?」 ヘルが新聞のお悩み相談で見た生徒達。ススムくんが保健室で見た生徒達。最近憂鬱そうにしている生徒達は大半が、「元はそんなことで悩んでいなかったのに」急に小さなことを悩み出していた。多感な胸の奥に、必要のない不安ばかりを。 彩絵はゆったりと微笑んだ。 「だってそうしないと、マリア様を頼ってくれないでしょう?」 「………」 「あなたはどうですか? ここは優しきマリア様の御前、全て告白してみませんか」 ゆらり 燭台の炎が揺らめく。 瞳に赤が映りこむ。咄嗟に下を向いたマリアの耳に、彩絵の声がしみていく。心の奥底にある何かを揺り動かすような、不穏当な響きをはらみながら。 「さあ、マリア様の前で懺悔を」 「――いいえ」 マリアは、ゆっくりと顔を上げた。 「わたし達ロストナンバーには貴女の術は効かないわ。それに」 「わたくし達がおるからのう」 「多勢に無勢は好かんが致し方あるまい」 闇に身を潜めていたジュリエッタが、シュマイトが、 「私もいるさ」 シィーロが、そしてその隣にヘルが、 五人それぞれにトラベルギアの獲物を構えて。 「ごめんなさい……」 ヘルは銃を彩絵へ向け、囁くように言葉を紡いだ。 「私だって本当はこんなことしたくない、けど……他に方法がないの」 「ファージは宿主ごと殺さなくてはならんのだ。それが人間であっても……同じだ」 まるで水面を水滴が打ったように、みるみる彩絵の表情が歪んでいく。 「何を――マリア様の御前で何を!」 一歩、また一歩退いた少女の体が、マリア像にぶつかって止まる。 その姿は余りにも弱々しく、ロストナンバー達のためらいを誘う。それはほんの一瞬のこと。 だがたった一人、シィーロは迷わず床を蹴った。 飛びこみざま左手で彩絵の首をわし掴み、その勢いでマリア像に押しつける。振り上げるのは獣化させた右の鉤爪―― 「せめて一瞬で終わらせてやる……!」 「―――!」 彩絵の目が大きく見開かれる。肺がはち切れそうなほど息を吸う気配があった――そして、 「マリア様……!」 シィーロの全身が総毛立った。次の瞬間、予想外の力で体を突き飛ばされる――数歩たたらを踏みながら咄嗟に防御姿勢に入ったシィーロの視界に、振り上げられた燭台が映った。 「死んだりしない……!」 「……っ!」 かろうじて燭台を避けたシィーロを床に押し倒し、馬乗りになって首を絞めてくる。思いがけない腕力にシィーロは反撃を忘れた。なぜこんな力が、 「火事場の馬鹿力か、それとも“信仰心”か?」 歯噛みしたい気持ちで呟いたジュリエッタは、手にした脇差を上空に振りかざした。 喚び出された雷光が礼拝堂を眩く照らし、轟音と共にマリア像の傍に落ちた。 びくんと彩絵の体が震えた。その隙にシィーロの鉤爪が下から彩絵を狙う――しかしそれが腹に食いこむ前に、彩絵はシィーロから飛びのき後ずさる。 血走った目。荒い息遣いは、まるで獰猛な獣のように。 少女は礼拝堂をぐるりと見回した後、意を決したように出入り口へと走り出した。逃げるつもりだ。 ――少しでも攻撃すれば、足を止めることは簡単なこと。 死者は最少に抑えたい。 ましてファージが元に戻れないなら。 何度も何度も自分にそう言い聞かせながら、シュマイトは引き金を引けない指に焦りを感じる。 (分かっている。それが理性的な判断――) 時には非情にならなくてはいけないこともある。 (銃ってこんなに重たかったの?) 心に渦巻く吐きそうな心地悪さを、ヘルは必死で押し殺す。 銃口を向ける相手が自分である方がよほど気が楽だ。でも、でも、 まるで神の怒りのように礼拝堂に迸る光は、ジュリエッタが起こした雷。 光は彩絵から離れた場所に落ちる。彼女の意識を逸らすための攻撃。相手の能力を考えれば今回自分は援護に回った方がいいと冷静に判断して、 (冷静? それとも口実?) ジュリエッタも分かっている。同じ壱番世界の者を害することに、迷いがないわけがないのに! 心を引き裂くような音で放たれた銃弾達は、彩絵の体すれすれを通り過ぎその動きを乱す。 それでもまっすぐ扉を目指していた彩絵も、天からの叫びのような雷が落ちるたび、かすかな惑いを見せる。 道行を先回りするように、マリアが扉の前に回りこむ。 自分と同じ人の姿をしている物を害することに、恐れがないはずがない。けれど彩絵は迷わずシィーロの首を絞めた――そんな相手にためらっている場合ではない! 飛びこんでくる彩絵に、銀の刃が閃く。 しかし感覚の限界を忘れた少女はそれを恐れなかった。体ごとぶつかるようにマリアに突進してくる。 「―――っ!」 刃を持つ者にそんな攻撃をしかけてくる生身の人間はまずいない。予想外の彩絵の動きに、日本刀の切っ先がぶれた。彩絵の制服の一部を引き裂きながらも、致命傷を与えるには達しない。そのまま二人は揉み合いにもつれこむ。 その時、ギィ、と扉が開いた。 気配を感じて、マリアは咄嗟に彩絵の体から飛びのいた。 扉の隙間から数本の銀光。立ちすくんだ彩絵の体に鋭利な短剣が突き立ち、少女はよろめく。 「わっちが引き受けるでやんす!」 ずっと扉の外で様子を窺っていたススムくんが、隠し持っていた幾本ものナイフを手に声を上げる。 自分は人の死を叩きこまれてきた身。だからこれは自分の役目だと、迷わず銀色の凶刃をふるって。 その瞬間の少女の体は、まるで人形のように。 「……、っあ――」 漏れたのは掠れた声。 血が滲みだす箇所に触れる指先が震え、 「助けて、マリア様……」 ふらふらとした足取りが、救いを求めてマリア像へと向かう。 追撃することができず、ロストナンバー達は息を殺して見守った。体を起こしたシィーロさえも、マリア像への道を開けた。 「マリア、様……」 それしか言葉を忘れてしまったように繰り返し、彩絵は物言わぬマリア像にすがりついた。 人を操ることに長けたマンファージも、操る対象のいないこの場ではもはや沈黙するしかないのだろう。そこにいるのは残された宿主――吉井彩絵という少女だけ。 「―――」 少女は一声、哭いた。 ずるずるとその体が地面へ滑り落ちていく。 そのまま動かなくなった小さな体を、重苦しい静寂が包んでいく。 ――誰もが分かっていた。とどめが誰であっても、全員が手を下したことだと。 哀しいことじゃ、とジュリエッタがぽつりと呟いた。 「せめてマリア様が、この者の魂を救ってくれたらのう……」 乞うようなその言葉が落ちた、その刹那に。 床に落ちたままだった燭台の炎がぽうと燃えて きらりと マリア像の目から一筋の 涙が ススムくんが慌ててマリア像に駆けより、その下でうつぶせになっていた彩絵の体を静かに起こす。 まるで赤子が母親の腕の中で眠るように、少女は何故か、微笑んでいた。 ●そして その人影は、いつものように早朝に礼拝堂に現れた。 ステンドグラスが静かに輝き出す空間の中、誰にはばかられることなくマリア像へと進んでいく。 そしておもむろに布を取り出し、マリア像の目元を拭おうとして、ふと気づく。――いつもの涙の跡がない。 「何をしているのですか、シスター」 はっと振り向くと、学園長を筆頭に高等部の校長、教頭が扉からゆっくりと入ってくるところだった。 なぜ――。呆然と立ちすくむ彼女の前で、学園長がおもむろに何か小型の機械を取り出す。 カチリ。再生ボタンを押すと、ノイズ混じりに流れ出したのは。 今日もマリア様は泣いておいでですね そうね。でもこうして貴女達が毎晩来てくれることを…… 「これは貴女の声ですね。しかし夜間に出歩くことを推奨するなど、少々頂けないようだ」 貴女の普段の素行を含めて。 「……お話を伺いましょうか」 シスターは引きつった。後ろ手で救いを求めるようにマリア像を触る。 しかしマリア像はぴくりとも反応しなかった。 シスターが学園長達に連れていかれるのを、物陰からロストナンバー達は見ていた。 「盗聴器の内容……せめて役に立ったかしらね」 ただの人間である彼女にはこれ以上何もできない。それがひどく歯痒い。 峰丘薫を唆して夜間に徘徊させ、彩絵を誑かした張本人。 彩絵を追い詰める前にまずシスターの素行を調査した六人は失望した。出てくるのは余りにも俗的な人間である証拠ばかりだったからだ。 全ては、シスターとしてのプライドを保つため。 彼女が偶然マンファージに囚われた彩絵を見つけたのか、それとも彼女の洗脳がマンファージを呼ぶきっかけになったのか、それは今となっては分からない。 人を操るはずのマンファージが逆に人に利用されたなどと、一体何の皮肉だろう? ――いっそ彼女がマンファージ本体だったなら、と。 考えてはならない問いが、消えないまま。それでも―― 誰からともなく空を見上げた。 「……マリア様のご加護を」 せめてあの哀れな少女が、綺麗な場所へ逝きますように。 白みがかった朝の陽光は、マリア像の微笑みのように淡く優しく、そして儚げだった。
このライターへメールを送る