こいつは嫌いだ。 聞こえない声がそう伝えてくる。 会った瞬間もそうだったが、今目の前にいるシィーロ・ブランカが抱いている感情は、不愉快そうに鼻に寄せた皺と鋭く冷えた青い瞳で十分わかった。 「何が不満だ?」 知っていて、ファルファレロ・ロッソは問いかける。 「俺のどこが?」 くすりと笑ってみせる、額に落ちた黒髪、切れ長の双眸、寛げた襟元に結ぶ黒ネクタイの無防備さ、対照的に銀縁メガネの奥で怜悧に輝く黒い瞳に不敵な薄笑い。アンバランスな危険な香りに惚れ込まない女の方が少ないはずだが。 「臭い」 シィーロは淡々と答えた。 「血と銃、火薬の焦げついた匂いがぷんぷんする」 「そうか?」 くんくん、とこれみよがしにスーツを嗅ぎながら、脳裏を掠めたのはいつぞやの夜に交錯しかけた運命。ファレロと呼び愛しんでくれた温かな胸の持ち主を置き去った。そしてまたいつかの夜、闇を逃げ惑う娘を追う男に向けて銃を放った。彼方の夜には薬を吐き戻した中に突っ伏した血に塗れた姿がある。 ああ、そうだろう、無数にこの手で奪った命、それにまつわる血と硝煙の匂いを、こいつが感じないはずはなかったな。 「貴方がどうしてこんな依頼を受けたのかわからない」 それでも礼を貫く潔さ、シィーロが冷ややかに目を細める。 世界図書館は、ヴォロスの剥製マニアの領主の屋敷で、見世物として披露される竜刻を回収する依頼を出していた。招待客に紛れて潜入する。人間形態が多いだろうと予想される舞踏会で、あまりに異形のものは入り込みにくい。数人手を挙げた中で、そういう場所に慣れているファルファレロがまず引き受け、続いて険しい顔でシィーロが応じた。 「見違えたな」 「え?」 「よく似合うじゃないか」 ファルファレロのことばにシィーロはうっすらと頬を染める。 真っ白の毛並み、頭部にぴんと立った狼耳、腰からふさふさとした白い尾が垂れ、揺れている。そこへただ真っ白なレースとリボンのドレスなら、花嫁衣装を思わせて引きもするところだが、ポイントポイントで黒いサテンのリボンを効かせ、色白の細い首に黒サテンとレースのリボンを巻いて深紅の薔薇を一輪、これだから女は油断ならねえ、と苦笑する。 出会ったときはコート姿のお子様だったのに、ドレス一つで化けやがる。 となれば、怒っているのはもう一つ理由がありそうだ。 「待ってろ、着替えてくる」 「え?」 「もうちょっとふさわしい格好じゃねえと、釣り合わねえだろ」 「ちょっ」 引き止める声を背中に、待ち合わせた時間が早めでよかったと感じている自分に呆れる。 おいおい、がきんちょ相手に色気出す気か? 「……遅い」 着替えて戻ってみると、シィーロは一瞬軽く息を呑んだ。すぐにふて腐れた顔で唇を尖らせる、その鼻先にぐいと胸元を突きつけ、薄笑いする。 「まだ臭いか?」 「むっ」 薄紫のドレスシャツ、黒スーツは最高級の織りと仕立てに変えた。ネクタイをあえて深紅に近い色にしたのは、シィーロの薔薇に合わせた。香らせたのはごく微かなフレグランス、獣の鼻にもきつくならないよう心がけたつもりだ。 「…わからない」 あんまり近づくな、とぶっきらぼうにつぶやいて距離を取った相手ににやりとする。 「じゃあもっと近づくか」 眼鏡を外して距離を縮めようとしたが警戒の色に一旦引く。 領主の屋敷は予想以上に荒れた気配だった。 人外の客も多かったが、屋敷の豪奢さの割りに使用人達のしつけが行き届いていない。ファルファレロとシィーロが堂々と玄関から入っても、詳しく確かめるわけでもなく、じろじろと失礼な視線をシィーロの艶やかな頬や、柔らかな尻尾に向ける。こそこそと囁きあう顔、下卑た視線の意味は語られずともわかる。 「娘を持つ親なら連れてきたくない場所だな」 「……娘が居るのか」 つぶやいた声に、ちろりとシィーロが視線を上げてきた。 「向こうはそう思っていない、薄くて軽い関係だ」 「娘が悲しむぞ、このセクハラ眼鏡」 ぼそりと唸られ、肩を竦める。 舞踏会は既に始まっており、来客は次々とフロアの踊りに紛れ込む。目立ちすぎないためにも、と手を差し出したが、なお冷ややかに見返される。 「おい」 「こんな父親じゃあんまりだ」 「手を出せ」 「自分と血が繋がってるんだぞ」 娘が居るのに私を口説きにかかったな。 「いい加減にしろ」 ファルファレロは勝手にシィーロの手を取り、ステップを踏みながらフロアに滑り出した。自分の掌の中でもがく小さな手、細い指の感触を味わう。 「大人には大人の、それなりの事情とお楽しみがあるんだ」 「んっ」 離せ、とシィーロが顔をしかめる。 「そんなこと納得できるか」 「てめぇこそ、その年でまだ親離れできねえのかよ。とんだねんねだぜ」 「ちっ」 「っ」 ぎりっと睨み返された瞳、報復は磨き上げた革靴の真上に落とされた踵。 「何しやがる」 「お前こそ」 「俺が大人でよかったな?」 でなきゃ、てめぇのちっさな足など踏み砕いてるぜ。 「踏み砕いてみろ」 のど笛を噛み裂いてやる。 睨み合った瞬間、フロアの彼方でどよめきが上がった。 「おお、見事な!」 「何でしょう、あの色!」 いつの間に現れていたのか、でっぷり太った赤ら顔の男が、ずるずる引きずるけばけばしい金と赤の衣に包まれた腕を高々と上げてみせている。 その手に差し上げられたのは、巨大な青く輝く石をはめ込んだネックレスだった。だが、よく見ると、天然の石にしては奇妙なねじれた形をしており、しかもその青色をゆらゆらと揺らめかせるような何かが、石の中で踊っている。 「何だか、危うげだな」 シィーロがつぶやいたとたん、がたん、と大きな音がした。 歓声を上げて眺めていた人々が一瞬静まり返る。 「何だ?」 「何の音だ」 「あ、あれを!」 「っ」 シィーロが目を見開き、ファルファレロも見た。壁に飾られていた狼の剥製、入り口から延々とあちこちに並べられていたものの一つ、それが今、微かに身震いしたかと思うと、ゆっくりと閉ざしていた口を開く。 うごああああああ! 「ひっ」 凍りつく人々の目の前で、剥製の狼は身震いと咆哮を繰り返し、その度ごとに、ずる、ずる、と壁の台座から体を抜き出していった。同時に、その隣に飾られていた毛皮の一部も引き寄せられていく。やがて、ずしゃり、と重い音をたてて壁から落ちた剥製は、数カ所から集まった毛皮と手足を取り戻し、再び巨大な叫びを上げた。 ごわああああ!!! 「悪趣味だな」 どうやら獲物を数多く仕留めたように見せたいがために、一頭をあちこちにバラして剥製にし、飾っていたらしい。 「同感だ。……言っておくが、領主の事だ」 狼はぶるり、と大きく体を振ると、真っ先に領主の所へ一飛びし、あっという間にその胴体を引き裂いた。満面笑顔のまま差し上げた腕ごと噛みちぎられた上半身が、血の弧を描いてフロアに跳ね飛び、一気に阿鼻叫喚の地獄絵図となる。 同じ血が呼び合ったのか、それともやはり周囲の中で、その清冽さが目を引いたのか、狼はすぐさまシィーロに迫った。 「く、そっ!」 ドレスが裂かれ、薄紅に血が滲む。だが、怯んではいない、せっかくのレースを引き千切り、リボンを解き、伸びた足が、素早く交差させて翻した鉤爪が、がふがふと噛みついてこようとする狼を撃退する。 「離れろ!」 「!」 彼女の反撃に体勢を建て直そうとしたのだろう、一瞬引いた相手を追おうとしたシィーロに叫んで、ファルファレロは『ファウスト』を抜き放った。優美な白銀の銃、放った弾丸が五芒星の魔方陣を練成し、紫の電撃が走って狼をからめとる。 がああああっっ! 「本当は、貴方を攻撃するのは間違ってる、けど!」 その隙にシィーロは『アルコイリス』の輝く虹色の爪で、再接近していた。紫電の中で身もがく狼に、ドレスを翻して飛びかかる、それはまるで飛鳥のようで。 「ふ、うん…」 一瞬、見惚れた。 どんな女にも見たことがない、自分と同じ世界に住まう、血煙を浴びて駆け抜ける興奮を、確かにその体から感じ取って、ぞくり、とファルファレロの体が疼く。 シィーロが見事に狼の剥製を仕留めた頃には、屋敷には人の気配が消えていた。 放置された竜刻を拾い上げる彼女の顔は冴えない。白いドレスに黒いサテンリボン、ところどころに華やかに咲く薄紅の血の薔薇は、首を飾った深紅の薔薇より愛らしく、儚げで。 「踊ろうぜマイフェアレディ」 意味を知っているはずはない、著名な映画のヒロイン名の呼びかけに、シィーロはのろのろと視線を上げた。 疲れている。死にかけている瞳だ。 自分の分身を屠ったようなものだろう。 そしてそれは、ファルファレロの抱える闇と同列だ。 自分の分身を、人という命を、ファルファレロは傷つけ殺し消し去り続けている。それが遠く自殺行為に酷似していると分析されるかもしれなくとも、その瞬間に体を駆ける熱は、何にも代え難いものだ。 死にかけた表情、死にかけた瞳、だが、シィーロの覇気は消えなかった。 「せっかくだ、誘いに乗ってやろう」 頭を逸らせ、血に塗れた少女は、それでも清冽な青い瞳で同意する。 差し出された指先を、今までになくうやうやしく受け取ってみせた。 「後味が悪い」 ゆっくり踏み出すステップ、音楽はない、あるとしたら、互いの戦いの後にまだ高揚しておさまらない強く激しい鼓動の音だけだ。 鼓動? ああ、そうだ珍しい。ファルファレロは一仕事の後に鼓動を感じている。 いつもなら重くて鈍い、鉛の血が流れる気配しか感じないはずなのだが。 「飲んで忘れちまえ。それとも……忘れさせてやろうか」 気がつくと囁いていた。 「いらん世話だ」 切り捨てられる、それもまた快い。 こいつなら、殺されないだろう、死なないだろう、ファルファレロの闇の『赤』がどれほど迫ったとしても、命を失った瞳にはならないだろう、この見事な。 「azzurro」 「え?」
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