0世界の一郭、浅葱色の暖簾が揺れる長屋を中心として広がる、小さなチェンバーがある。 そのチェンバーの中は、基本的には常に夜の帳が降りていて、その時々で勢いに差異はあるものの、ほとんどの場合雨が降っている。 雨脚から逃れるように暖簾をくぐれば、そこに広がっているのはがらんとした三和土と、その向こうにある畳敷きの空間だ。行灯がやわらかなあかりを放ち、ぼうやりとした影がゆらゆら揺れている。 来客の気配を感じたのだろう。畳敷きの奥のふすまが静かに開き、和服に身を包んだ男がひとり姿を見せた。男は眼鏡の奥の双眸を糸のように細めて笑みを浮かべつつ、畳の上に膝を折って座る。「これは、ようこそ”錦屋”へ」 言って、男は懐から筒をひとつ取り出した。「万華鏡ですよ」 内部に鏡を張った筒を通し、筒の一端から覗きこみながらゆっくりと回転させる。筒の中にはビーズやガラスを砕いたものがあり、他端から入りこむ光が鏡で反射するのだ。様々な色や模様が飾る絢爛な光景を、観察者はその筒の中に覗き見ることができるのだが、その筒は万華鏡と称するものとして知られている。 男――雨師は客人を招き入れ、ぼうやりとした灯りの中、万華鏡をいくつか収めた木箱を畳の上に置いた。客人がそれを覗き見るのをしばし黙したままに見つめると、その後、和装の袖から朱塗りの筒をひとつ取り出し、木箱の横にそっと置く。「僕の父はそこそこに名の知られた妖怪です。ですが母は一介の人間でした。父は母を強く想ってこそいたのでしょうが、共に暮らすことも、齢を重ねることも出来ませんでした。……次第に心と体を病に蝕まれていく母に、父はせめてもの慰めにと、この筒を贈ったのだそうです」 言いながら指したそれもまた、一見すると変哲のない、ただの万華鏡に見える。 だが、雨師は告げる。「この万華鏡を覗けば、”もしも”の世界を覗き見ることが出来るのです」 例えば、二又にわかれた道を進む。右か左か、どちらかを選択しなくてはならない。右を選べば相応の出会いがあり、歴史が用意されている。しかし左に進んだ際に用意されていたはずの出会いや歴史は、そこにはわずかほどにも用意されてはいない。逆もしかり。左を選択すれば右に進んだ際の出会いや歴史との邂逅を迎えることは出来ずに終わる。 この筒は、もしもあのとき、あの選択をしていたならば。――そんな儚い”もしも”の風景を覗き見ることが出来るのだという。むろん、それは儚い妄想にすぎないのかもしれない。けれどもしかすると、あるいは。 「これは母の形見なので、お売りするわけにはいきません。ただ、もしも興味がおありであれば、わずかの間、お貸しすることならば出来ますよ」 言いながら雨師は微笑む。「覗いてみますか? あなたの”もしも”の選択を」
筒を廻転させると、ニコの月光のような銀色の双眸の前で、絢爛な綾が光を放ちながら踊りだした。 行灯に向けてみたり、開け放たれた障子の向こうに広がる庭に向けてみたりしながら、ニコは感嘆の息をひとつ吐く。 「面白いもんだね。これ、なんて言ったっけ」 「万華鏡ですよ」 「ああ、そうだそうだ。ガラスか何かが入ってんのかな。似たのは出来るけど、まったく同じ形っていうのが出来ないのも面白いね」 言いながら目元から離し、手にしていた万華鏡を箱の中に収めなおす。筒を覆う千代紙の色柄も多彩に用意されていた。それを眺めるだけでも楽しい。 「お気に召していただけたようで、何よりです」 雨師と名乗る男は、眼鏡の奥のやわらかな視線をゆるやかに細めて笑みを浮かべた。 このチェンバーでは、時おりゲストを招いては酒や茶を飲むだけの、交流会のようなものを開いているのだという。今日はニコと雨師の気配の他に、誰の気配も感じない。出された煎茶を口に運びながら、ニコは雨師との他愛もない会話で時を過ごす。 「雨師のお父さんに興味があるな」 「……父に、ですか?」 「うん。雨師のお父さんって妖怪なんだろ?」 「はい」 「お母さんが人間だって言ってたよな」 「……ええ」 「それだよなぁ」 改めて確認をとった後、ニコは視線を庭の緑に向けた。 それきり、ひととき、口を閉ざしてしまったニコの言の続きを気にしながらも、雨師はそれを促すことはしない。皿の上に剥いた梨をのせ、楊枝を添えて飾り置く。 しばしの静寂が空気を満たす。 人と異なる種族の者と人との間に流れる時の長さは、決して同一なものではない。 大半の人間は生まれてから死ぬまで、たった数十年の歳月しか生きられないのだ。その数十年という時間の中で、色々なものを見聞し、学び、成長する。他者との出会いを迎え、恋を重ね、無二の伴侶を得る。そうして子どもを宿し、育て、そうして瞬く間に歳月を経て、平等に訪れる死という結末を迎えて永い眠りに就くのだ。 けれど、その数十年という歳月は、ニコのような存在――人とは異なる種族に生まれおちた者にとっては、ほんの瞬きの間でしかない。例えば、天地創造の七日間の内で生まれた人間という存在が、世界の整地が終わった七日目にはもうすでに冥府への旅に出てしまった後だった、とでもいうような。住まう人間が不在となってしまった空洞な世界の上に、自分だけが取り残された、空虚な感覚。 雨が降っている。 天と地とを結ぶ細かな糸のようにも思える雨をぼうやりと見つめた後、ニコは思い出したように煎茶を口に運んだ。 「山の奥に住んでたんだよ。……どれだけの間、ひとりで住んでたのか、僕もしょうじき分からないんだけど」 竜として生まれ、その山奥でしばらくの間ずっと、同族にも人にも会わずに過ごしていた。その歳月を人の身に流れる時間に換算して考えたとき、果たしてどの程度の長さに値するのかは分からない。ニコにとっては幾度か日の出と日没とを送っただけにすぎないような気もする。けどそのわずかな時間の中で、人は生まれ、齢を重ねて老齢し、やがて死を迎えているのだ。 煎茶の熱をゆっくりと吐き出した。 「そっちのも見せてもらっていいか?」 言いながら指したそれは、雨師の母が遺した形見の万華鏡。 「ええ、もちろんですよ」 雨師はニコの言葉に笑みを浮かべる。 差し伸べられたその円筒もまた、他の万華鏡と変わりのない見目をしていた。短く礼を述べ、ニコはそろそろと持ち上げた。 覗き見たその筒の中、カタリと小さな音を鳴らして眩い光彩がゆらゆらと踊る。 ――ねぇ、ニコ 覚えのある声が耳を撫でた。 ◇ レノアという名前の少女がいた。初めて言葉を交わした人間。竜としてのニコのもとに贄として送り出された天涯孤独の少女。何度もニコを訪ねては、そのたびに新しい本を読んでくれた。 彼女のために紅茶の沸かし方を覚えた。暖炉に火をつけ、鍋をかけて牛の乳を沸かし、紅茶の茶葉をいれ、ハチミツをたらす。ただそれだけの工程ではあったが、それでも案外とむずかしい作業だった。何しろ彼女――レノアの注文が毎回手厳しいのだ。茶葉がまぎれこんでるだの、抽出しすぎで苦味が強いだの、甘みが足りないだの、甘すぎるだの。おかげで紅茶を沸かす腕はずいぶんと鍛えられたような気がする。 結局、レノアがニコの紅茶を褒めてくれたことなど終ぞなかったような気もするが、それでも、文句を言いながらも残すことなくぜんぶを飲み干してくれていた彼女。 人に降る時間の流れと竜に降る時間の流れとでは、まさに雲泥の差異がある。 ニコにとってはほんの瞬きの間でしかなかった。それでもその瞬きの間のうちに、レノアはあっという間に齢を重ね、老いていった。 老いを重ねていくレノアは、まるで変化のないニコに対し、きっと色々な感情を抱いてもいただろう。もっともその時のニコはそれを察することも理解することもできなかった。齢を重ねて老いていく彼女もまた美しく、愛らしいままだったから。 人は老いて、いつか死という結末を迎える。レノアはきっとそれをも恐れていただろう。けれどあの時、ニコはまだ死別という概念すらも正しく把握していなかった。 レノアはきっといつまででもニコを訪ね、いつまででも新しい本を読んでくれるに違いない、と。――なんの疑問すらも持たず、そう信じていた。 だから、ある日突然レノアがニコを訪ねてこなくなってからも、なんの疑問も持たずにいたのだ。 そのうちにまたひょっこりと訪ねてくるに違いない。そう思いながら幾度かの日の出と日没とを見送った。それはニコにとってはほんのわずかな間でしかなかったはずだった。 けれど、人にとって、それはきっとずっと長い時間だったのだ。 我ながら満足のいく紅茶の沸かし方を見つけ、それをレノアに知らせたくなって、初めてニコの方からレノアを訪ねた。深い山を越え、麓にある小さな村に足を寄せた。 レノア以外の人間がたくさんいた。皆が奇異な目でニコを見る。けれどニコはわずかほどにも気にとめず、通りかかったひとりの少女に声をかけた。 レノアについて訊ねたのだ。彼女は今どこにいるのか、と。 案内されたのは村のはずれの丘の上、小さな教会のそばにたつ小さな孤児院だった。 幾人もの子どもがベッドを囲んでいる。どの子どもも涙を浮かべ、ベッドの上に横たわっている老女――レノアの生を祈っていた。 老いたレノアは病の床に臥し、ほどなく死という末期を迎えようとしていたのだ。 「ニコ」 ニコの名を呼ぶレノアの声は、ニコに本を読み聞かせてくれていたものとはまるで違う、ともすれば儚く消え入りそうなほどにかすかなものだった。 子どもたちに囲まれる中、彼女は細い腕をゆっくりと動かしてニコを呼ぶ。招かれるようにして足を寄せ、ベッドのすぐ傍らに膝をついて、伸ばされた手を両手で包む。もはや体温すらも失ったそれは、骨と皮ばかりで、冬に眠る木立の枝のようにも思えた。懸命にあたためようとしてみたが、レノアは小さく笑ってかぶりを振る。 「お別れね」 「別れ? なぜ?」 「もう、あんたに本を読んで、あげられないわ」 「レノア、僕、紅茶のおいしい沸かし方を覚えたんだ」 だから、 言いかけたニコに、レノアはゆるゆると笑って言う。 「今までも何度も聞いたわ、その言葉」 空気にとけて消えてしまいそうなほどの声。それでもレノアはニコの知る、気丈なままの彼女だった。 「そうね。あんたの紅茶も、もう飲めないわね」 「レノア」 レノアの指先が少しずつ石のようになっていく。 心の奥で、自分のどこかが小さな焦りにも似た感情を抱き始めたのを感じる。振り払うようにかぶりを振って、ニコはレノアに微笑みかけた。 「ねえ、ニコ。人間は年をとって死ぬものなのよ」 レノアが浅い息を吐く。 「――死ぬ?」 「そうよ。……ねえ、ニコ」 陳腐な言い方かもしれないわね。そう言い置いて、レノアは笑う。 「あんたに逢えて、幸せだったわ」 「レノア」 かぶりを振る。両手で包む大切なものが、目の前からこぼれ落ちていくような気がした。 「レノア」 幾度も続けて名前を呼んだ。痩せ細った肩を抱き、遠ざかっていく命を留めようと試みる。けれど、レノアはニコの腕の中、春の日差しのようにやわらかな微笑みを浮かべて息を吐く。 その息が声というかたちを成すことはなかったけれど。 ◇ かたりと小さな音がして、ニコは静かに息を吐く。 手にしていた筒を目元から離し、やわらかな笑みを浮かべて目を眇めた。 実際には、ニコが村を訪ねたとき、レノアはもうとうの昔に死んでいた。 村のはずれにある丘の上、小さな教会のそばに立つ小さな孤児院。その孤児院の創設を担ったというレノアの墓は、丘の端の草の海の中にひっそりと隠れるようにあった。 墓石にはレノアの名が刻まれていた。 空が近い場所だった。すがすがしいほどの青空が広がっていた。森の木立を揺らし流れる風は涼やかで、ニコの髪を梳いていった。 穏やかであたたかな陽光で照らされたレノアの墓の前、ニコは初めて、死というものの存在を間近に知ったのだ。 空を仰ぐ。レノアの名前を呼んでみた。日差しが降り注ぐ。幾度か繰り返し呼んでみたが、もうどこにも彼女はいなかった。 「思うんだよ」 ぽつりと声を落とす。ニコから返された万華鏡を受け取りながら、雨師がわずかに目をしばたいた。 「もしもあの頃の僕がすぐに思い至って彼女を訪ねていたなら、今見た風景のように、天国に召される前の彼女に会えていたのだろうか、って」 実際には永別の言葉を交わすことも、その手を握ってやることもできなかった。きっと孤児院にいたたくさんの子どもたちが彼女の死を看取ったのだろうから、決して寂しくはなかったかもしれないけれど。 それでも、自己満足にすぎないのかもしれないけれど、それでもやはり、彼女の眠りを送りたかったという思いもある。胸に起こるそれがなんという感情であるのかは分からない。 レノアに出会った後、あの山を後にしたあとも、ニコは多くの女性と出会い、別れてきた。永別という現実に立ち会ったこともある。そのたびにニコは人と自分との間にある違いを解してきた。 そうして今、ニコは、かけがえのない唯一の恋人との出会いを得た。――彼女が人間であり、自分が竜である以上、いつかまた永別という結末は訪れるのだろう。それを思えば胸が張り裂けそうなほどの痛みを覚える。 「私の父は」 雨師が口を開いた。 「私の父は、母に愛を誓いながらも、母の末期に立ち会うことはしませんでした。母もそれを恨むことはしませんでした。ただ、父を恋しがるばかりではありましたが」 言いながら小さな笑みを落とす。 「そうですね。――愛する相手がいるのなら、その人と過ごす時間の一瞬に至るまで、それこそ互いの言葉のひとつひとつ、動きや吐息や、表情のやわらかさ……そのすべてを互いにひとつももらすことなく記憶し続けていけるなら、例えばどれほどに遠く離れても、どれほど長い間会うことが出来なくても、仮にそのまま死別という終幕を迎えたとしても、もしかするとそれすらも幸せなことなのかもしれません」 目を閉じればいつでもそこに愛しい相手の気配を感じることが出来る。触れた指先のぬくもりを、交わした視線を、抱き合った身体の感触を思い出すことが出来る。その記憶は時間や距離だけでなく、死というものにすらも勝るのかもしれない。 雨の音がする。 ニコは雨師の言葉に耳を寄せ、ふと微笑んでから小さなうなずきを返す。 雨に打たれる庭の緑が揺れる音にまぎれ、遠く近く、レノアの声がしたような気がした。 ――バカね あきれたような、笑っているような。 その気配にわずかに顔を持ち上げて、ニコは静かに目を眇めた。 「ユリアナちゃんに会いに行ってくるよ」 やわらかな笑みを浮かべ、ニコは立ち上がる。 今すぐに彼女を抱きしめて、何度も何度も気持ちを伝えたい。 「そうですか」 雨師も笑んだ。 風が吹き、ニコの髪を撫でていく。その風に背中を押されるように、ニコは恋人のもとへ急ぎ、チェンバーを後にした。
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