ヴォロスでの依頼はひどくシンプルなもので、比較的早期に解決を見ることが出来た。ロストレイル号の発車時刻まではずいぶんと時間にも余裕があった。位置的にも近隣にあったということもあって、依頼を共に請けていたサクラと撫子は揃って竜星シュンドルボン市温泉に足を運んでいた。 温泉は先ごろ、某魔神による改装工事が始められていたところではあったが、湯殿はまだ残されている。もっとも、もともと閑古鳥の大群ばかりが押し寄せて居座っていたような場所なのだ。湯気たつ湯の中に身を沈め、頭上に遠く広がる蒼穹を仰ぎ見つめながら、撫子は大きく両手をあげて伸びをする。無駄な肉のない細身の身体が、知らずに溜め込んでいた疲れをゆっくりととけていく。 「うーん、サクラちゃんと温泉入るの、初めてかもですぅ☆」 大きな伸びをした後、磨かれた岩に背を預け、湯の中で両足をバタバタと動かしながら、撫子は声を弾ませた。視線をわずかに移ろわせ、少し離れた場所で湯に浸かるサクラの顔を見つめ、満面に笑みを浮かべる。 サクラは濡れた髪をまとめ直しながら撫子の視線をうけてやわらかな笑みを返す。 「機会はあったはずですよ」 「?」 サクラの言葉に首をかしげた撫子に、サクラは色白の華奢な首元にお湯を撫でつけながら続けた。 「撫子さんが残ってれば」 落としたのは、撫子には通じるであろう、深い意味をもたせた言葉。撫子はサクラの言葉をうけてわずかに口をつぐむ。もたらされた短い静寂の後、撫子が小さく頭を掻いた。 「……てへっ☆」 撫子は笑ってサクラから視線をはずす。サクラはふわりと小さな笑みを浮かべ、思い出したように言葉を続けた。 「でも私たちふたりともとろとろでアルバイトしてるんですし、これからは一緒にいる時間も増えてきますね」 言って、次のシフトの予定を反芻する。 ふたりは最近、世界司書のグラウゼ・シオンが経営する『カレーとスープの店 とろとろ』でのアルバイトを始めた。面接をこなした後、グラウゼの前で実技披露――つまりは厨房での調理までこなしたのだった。 「川原さん、すごくお料理上手なんですもん」 実技のタイトルはポトフだった。 材料の選別から下準備から、ハーブ各種を迷いなく選び調味していく撫子の手際は、壱番世界で苦学生として過ごしてきた日々の積み重ねによるものだったのだろう。さらに言えば生活を共にしているとかいう噂もある恋人を相手にふるっている腕のゆえなのかもしれない。いずれにせよ、ピーラーで剥いた野菜の皮まで捨てずに再利用するという技は、撫子が歴戦のつわものであることも分かりやすく示唆するものだった。 「そうですかぁ?」 嬉しそうに頬をゆるめて笑った後、撫子は「でも」と言葉を続ける。 「サクラちゃんが用意したエプロン、お客様たちにもすっごく好評なんですよ☆」 「え」 「私の名前と、サクラちゃんの名前。ふたりともお花の名前だったなんて、すごい偶然ですぅ☆ サクラちゃんが縫いつけたあの刺繍、お客様たちからもすごく褒めてもらえるんですよ☆」 サクラちゃんはお客様から何も言われてないんです? そう訊ねられたサクラの顔が見る間に紅潮していく。恥ずかしそうに両手で頬を包み、アゴまでお湯の中に浸かって、消え入りそうにふるふるとかぶりを振った。 「わ、私、お仕事のことでまだいっぱいで……。川原さんみたいにお客様と楽しそうにお話する余裕も……まだ……」 厨房の手伝いもホールの仕事もそつなくスムーズにこなす撫子とは対照的に、サクラは頭の中で作業の流れを反芻し、何度か確認しながらでないと仕事をこなすことが出来ずにいる。それでもバイトを始めたばかりのころよりはずいぶんましにはなったと、自分なりには評価もしている。少しずつではあるが余裕も出てきたような気もする。 だから、まさか自分が仕立てた刺繍やエプロンがお客様からの評価を得ているなどと、そんなことは考えたこともなかった。というよりは、そんなところにまでまだ余裕がまわりきれていないという方が正しいのかもしれない。 照れてお湯の中にぶくぶくと沈んでいきそうになっているサクラの傍に近寄って、撫子はにこにことやわらかな笑みを浮かべる。 「ところで、サクラちゃん。同じお店でアルバイトしている者同士、ちょっと質問してもいいですかぁ?」 「? はい。私でよければ」 撫子の表情は変わらずやわらかな笑みを浮かべている。けれどその声にはどこか、わずかな影が落とされているような気がした。サクラは背を伸ばし、撫子の顔をまっすぐに見据えながらうなずいた。 撫子は首をかしげ、少しの逡巡を見せる。が、すぐに思い切ったように目線をあげて、サクラの顔を見つめ返した。 「サクラちゃんはぁ、帰属とか、考えたりしてますかぁ?」 向けられたのは、撫子の、真摯な色を浮かべた視線。サクラはその視線を見つめた後、小さなうなずきと共に応える。 「はい」 「やっぱりぃ、インヤンガイですかぁ?」 能天気ともいえる、明朗とした撫子の声音。 サクラの表情が一瞬でくもる。 刹那、サクラの脳裏にひとりの男の姿が浮かんだ。インヤンガイを統べるマフィア組織のうちの一角。その組織に属する男。サクラはその男に恋心を抱いた。けれども、その心は完膚なきまでに当の男によって打ち砕かれ、終幕を迎えていた。もう二度と顔を合わせることもないであろうその相手を、完全に忘れたとは言い切れない。けれどもその名残も迷いも、すべて、ターミナルに在する一軒の店を訪れた際、サクラなりの完結を迎えたのだ。 生きてくれてさえいれば、それでいい。生きて、幸福でいてくれれば、それで。――しかしここしばらく、インヤンガイにはたて続いて大きな異変が生じていたらしい。マフィア組織の大半は瓦解し、いくつかの街区は完全に閉ざされ、出入りさえできない状態となっているらしい。その一方で、インヤンガイに帰属を果たしたロストナンバーの事例もいくつか浮上している。 考えると、あらゆるものがない交ぜとなって、胸や心が押しつぶされそうな感覚にとらわれる。 撫子はサクラの表情の変異を見とめ、口をつぐむ。そうしてわずかな間を置いた後、やはりふわりとした笑みを浮かべてサクラの顔を覗きこんだのだ。 「サクラちゃんはぁ、犬猫さんが好きだからぁ、ヴォロスでもいいんじゃないかって思うんですぅ☆」 「……どういう、意味でしょう」 うつろな頭を押さえつつ、サクラは撫子の顔を見据える。 「だってサクラちゃん、最近ずっと暗くて難しい顔ばっかりしてますぅ☆」 対する撫子はサクラの表情の変調をまっすぐに見つめながら、それでも引こうとはしない。 「私もインヤンガイのことは気になってますぅ……。私がインヤンガイでできることってあるかなぁとか考えたりもしますぅ。……でも」 撫子は言葉を切る。 高く遠い蒼穹を目指し、湯気がのんびりと立ち昇って消えていく。 サクラは撫子の言葉の続きを待っていた。双眸に、わずかな警戒色が浮かんでいる。 撫子は表情を変えない。やわらかな笑みを浮かべたまま、静かにサクラを見つめる。 「サクラちゃんがいま一番に考えなきゃいけないのは、サクラちゃんが幸せになることなんじゃないかと思うんですぅ☆」 そう言って撫子は首をかしげた。 「一途をかたむけるのは大切だと思いますぅ。私、コタロさんのことがすごく、すごく好きですぅ。コタロさんとずっと一緒にいたいし、少なくとも私は今すごく幸せですぅ」 胸に手をあてて、撫子はやわらかな笑みを浮かべる。 「でも、終わってしまったものにいつまでもずっと足を留め続けるのって、きっと、自分でわざと自分を不幸にしようとしてるだけなんじゃないかなって」 思うんですけどぉ。そう続けて、撫子は申し訳なさげに目を瞬いた。 「……なんで、そんなこと」 「だってサクラちゃん、最近ずっと、ここにシワが寄りっぱなしですぅ」 言いながらサクラの眉間に人差し指を向ける。 「それは、……お仕事のこととか」 「苦しいときは、その場所とか人から離れて考えるのも手だと思いますよぉ」 「……」 目をそらすサクラに、撫子は変わらずやわらかな笑みのまま、伸ばした手をそのままサクラの頭にもっていく。 「コスプレは壱番世界やインヤンガイでしか見かけないかもですけどぉ、衣装の多様性はヴォロスも負けてないですぅ☆」 サクラの頭を優しく撫でつけながら、撫子はやはりどこか能天気な声でそう言った。 「わ、私、別に、コスプレのためだけにインヤンガイにこだわってるわけじゃ」 しぼりだすような声でそう返し、サクラはそのままうつむく。撫子の手はサクラの頭を撫でたまま。 「私はぁ、サクラちゃんに幸せになってもらいたいですぅ☆」 それは同じ場所でアルバイトをしている同士だからとか、そういう理由だけではなく。 「なんで、ですか」 「私ぃ、サクラちゃんのこと、友だちだと思ってますぅ。友だちの幸せを願うのって、不思議なことですかぁ?」 サクラが弾かれたように顔をあげた。近い位置で撫子の視線と重なり合う。 「友だち……って」 「ダメですかぁ?」 撫子は微笑む。 湯気がたちのぼる。 露天のゆえに、流れる風はお湯で火照った身体を心地よく撫でていく。 ――幸せになってもいいのだろうか ふつりと浮かんだ思いに、サクラのまぶたが熱をもった。 「……川原さん、私より四つも年上ですよね」 「川原さんっていう呼び方もやめましょうよぅ」 「……川原さんは川原さんです」 「酷っ! フランちゃんは撫子ちゃんって呼んでくれるのにぃ!」 撫子の嘆きが木霊する。逃れるように――頬を伝うものを撫子から隠すように、サクラはなんの前触れもなく湯船の中に全身を浸す。 ゆらゆらと揺らぐ水の中、遠くで撫子の声がした。川原さんなんて他人行儀だ、だの、もっといろんな話をしたいのにぃ、だの、そんな類の、軽口だ。 温かなお湯の中、ゆっくりと、何かがほぐれていく。まぶたは変わらずに熱い。ほどなく撫子の両手が伸びてきて、サクラの身体はお湯の中からあえなく引き上げられてしまった。 「な・で・し・こ・ちゃ・ん」 お湯の中から戻ったサクラの顔を覗き込み、撫子は言い聞かすような口調で言う。サクラはそっぽを向いた。 「フランさんとは世界も違うし、性格だって違います。ちゃん付けで呼ぶなんて無理です」 「な・で・し・」 「無理です」 「もおおお!」 そっぽを向いたままのサクラの頑なさに、撫子の声が弾む。 「えい☆ ホールド!」 「わ」 撫子の腕はサクラの肩をしっかりと抱いて、涙でボロボロになっているサクラの顔は撫子の胸にしっかりと押しつけられた。 「や」 「離してほしかったら、な・で・し・こ・ちゃ・んって」 「川原さんの腕力で押さえ込まれたら死んじゃいます。やめてください」 言いながら、サクラの表情にはもう、警戒色など微塵も残されてはいなかった。 「ムカムカー☆!」 撫子の声はさらに弾む。 その胸の中、サクラはゆったりと目を伏せて小さな笑みを浮かべていた。その手が撫子の背中にまわされているのを、撫子は知りながらも口にはしない。ただ大切な友だちをなだめるように抱きしめて、サクラの髪に頬を寄せているだけだった。 余談だが、ふたりがお湯を堪能しているという話を聞きつけた某魔神が犬猫に声をかけ、若い女がふたりでシャンプーを施してくれるらしいというデマを信じた犬猫たちが列をなし、今か今かと胸を躍らせ待っていたのは、また別の話。 ……らしい。
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