インヤンガイの一郭にある封箱地区。 インヤンガイにある街区のいくつかを占め、統べていた五大マフィアの内の四組織が先頃までの事件の中、実質上の瓦解を迎えた。封箱地区は暁闇という組織によって統べられていた街区だったが、暁闇もまた長であるウィーロウの死によって瓦解したらしい。おかげでインヤンガイの一部はここしばらく上へ下への大騒ぎだ。封箱地区もまた、一時、それなりの騒ぎに覆われていた。が、この街区に住まう人々は元来あまり大きな揺らぎを見せない性分であるらしい。比較的早くに騒ぎは終着していた。という現状はさておき。 気がつくと後ろに白い少女が立っている、という事案が、ここ最近立て続けに起きているという噂がまことしやかに伝播していた。少女は鏡を抱え持ち、愛らしい顔でこちらの顔を仰ぎ見て、そうしてこう言うのだという。 「この中にいる音函男さんを成仏させたいのです」 銀色のロングウェーブの髪、透き通るように白い肌。細い体をフリルとリボンをあつらえた白いワンピースで包んだ白い少女は、初めにぺこりと頭を下げ、軽い自己紹介をした後にそう言った。 相対したのは封箱地区を含め、近隣で探偵業を営んでいる男。細い枝のような長躯を喪服のように黒いスーツで包んだ、無精ひげの、なんとも冴えない見目のこの探偵は、名をレイと言う。日ごろは浮気調査だのなんだのといった地味な依頼ばかりをこなしている男は、噂に聞いていた少女が自分の目の前にも現れたことに驚愕した。 「それはオレに言ってんのかな」 問えば、少女はレイの言葉に首をかしげ、しばし周りを見渡した後に再びレイの顔を仰ぐ。 「他には誰もいないのです」 「まあ、そうだな」 ゼロと名乗った少女はレイを仰ぎ見て、表情ひとつ変えるでもなく、時おり思い出したように瞬きをする。 「ええと、ゼロ、って言ったかな」 「そうなのです」 「ここんとこ、この辺も物騒だろ。ひとりで歩いてたら危ねぇんじゃないのか」 「そうなのです?」 レイの言葉にゼロは首をかしげた。 少なくとも、年端もいかない少女がひとりで歩きまわれるような治安ではない。少し見目の良い者ならば性別も齢も無関係にさらわれ、蹂躙の限りをつくされた挙句に無残な死体となって転がされる事案が多く起きているような昨今なのだ。その環境の中、ゼロはたったひとりであちこちを訪ね回っているのだという。探偵を称する者の中には善人を装った者もいるだろう。その中を転々とするというのは、ゼロという少女が、寄せられる害意をすり抜けるだけの対応力を備えているということにもなるだろうか。 レイの戸惑いなど気にするでもなく、ゼロは再び口を開けた。 「ゼロは、この中にいる音函男さんを成仏させたいのです」 言って、携えている鏡をレイに差し出す。 「音函男?」 「ゼロは前に暗房に行ったことがあるのです」 音函男という名を聞いてもさほど表情に変化を見せることのなかったレイが、暗房という名を耳にした瞬間に、表情をわずかに凍らせた。 「暗房か」 レイの声がかすかに沈む。と同時に、ふたりが立っている辺りを含めた広い範囲の地盤が重く低い音を響かせながら大きく揺らいだ。 「地震なのです?」 少しバランスを崩したのか、転げかけたゼロの華奢な身体に手を伸べる。そうしてその身を支えてやりながら、レイは小さなため息を吐いた。 「インヤンガイは霊力で成り立っているんだが」 ゼロはうなずく。ほどなく地震はおさまった。 「ここしばらくで、どっかの誰かが立て続けに霊力を喰っちまったらしい。おかげで最近のインヤンガイは地震はあるわ、封鎖される街区も立て続けに増えるわ、電気も不安定だわで、大変な騒ぎさ。マフィアの統括による安定も欠いちまった。……まぁ、この辺はそれでも、まだ静かなほうかもしれんがな」 そのおかげで、と、レイはさらに言葉を継げる。 「名の知られた術師はどれも仕事が舞い込んでる。あいつらに持っていっても、あんまり期待はできないだろうな」 何かを含むような物言いをしたレイに、ゼロは二度ほど瞬きを見せた。 「名の知れた術師なら、なのです?」 それはつまり、名が知られていない術師であれば、仕事に追い込まれることもなく、ゼロの話に耳を傾けてくれるだけの余裕を持っている、ということにもなるのではないか。 レイは小さく頭を掻いた。 マフィア組織が瓦解する原因を作ったのも、霊力を吸い上げ喰っていったのも、いくつもの街区が封鎖する事態に繋がる原因となったのも、インヤンガイの外からやってきた存在なのだと、やはりまことしやかに伝播している情報もある。マフィアの一部の者たちは彼らのことを”旅人”などと呼んでいるらしい。現在残っているマフィア組織の長の娘も、ある日突然姿を消してしまったらしいという噂もあるほどだ。 むろん、レイのような一介の探偵ごときがマフィア組織の詳細等の真偽を知るためには、相応の覚悟を定める必要がある。そうしてそんな、命を賭してまでの調査や仕事に手を染めようとは、ゆめにも考えたことはない。 けれど眼前の少女は、淀みひとつない、不思議と吸い込まれていきそうな引力を持った双眸を持っている。その眼差しでまっすぐに見つめられれば、己が立てた心情などまったくの無意味なものとなってしまうのだ。 レイはかぶりを振る。それから再び息を吐いて、インヤンガイの重々しい空を仰ぎ見た。 「……心当たりは、なくもない。が、ここいらじゃ結構な変人だ」 「変人さんなのですか」 「まぁ、ここいらなんざ、変人しかいないかもしれないがな」 言いながら低く笑うと、レイはきびすを返して足を止め、肩越しに振り向いてゼロを呼んだ。 「案内はしてやる。案内するだけだ。オレは暗房だのなんだの、そういうのには関わらずにいるスタンスだ」 レイの言葉に、ゼロの表情が小さな変化を帯びる。ふわりと開く花のような笑みを浮かべ、 「ありがとうなのです」 そう返し、ゼロは小走りにレイの後を追った。 術師は封箱地区の通りをいくつか折れ、猥雑な生活感に満ち溢れた小路をいくつか入り込んだところに住んでいた。いろいろな植物が雑然と伸びている大きな庭の中、強い風が吹けば吹き飛んでしまいそうな薄い屋根の、小さなボロ屋だった。 数年前にぶらりとどこかから流れて来た術師は、その全身を長い布でぐるぐると覆い隠していて、以降一度も布の下にある姿を見せてはくれないのだという。声音から壮年の男であろうことは窺い知れても、姿形を見せてくれないのでは、そもそもにして余所者をあまり歓迎することのない街区の住人たちにとっては、相応の好奇と忌諱の対象となる。 だが、術師は薬草の調合に秀でていた。 持参した薬草を調合し、その効果で街区の人間を次々と救いだしたのだ。 その功績により、街区の住人たちは術師に庭のついたボロ屋を与えた。薬剤と引き換えに調味料や食材や生活道具の様々を届けた。それ以上でも以下でもない交流ではあったが、術師は封箱地区の住人として迎え入れられたのだ。 「しかしヤツの能力の本髄は、薬草の調合なんかじゃあないのさ」 言いながら植物の伸び盛る庭をアゴでしゃくる。レイのその所作に引かれ、ゼロは視線を投げた。 庭の草の中、布で全身を覆った何者かが動いている。薬草の世話をしているのだろうか。杓子で水を撒いていた。 「ヤツは霊を招致することができる。それを祓うことも、消すこともできる。しかし、それを知ってるのはオレぐらいなもんだろうな」 「なぜレイさんは知っているのです?」 「あいつにこのボロ屋を用意したのはオレだからさ」 ゼロの問いに応えると、レイは口角を歪めた。それから慣れた調子で庭を進み、慣れた調子で男を呼ぶ。男はレイの声にゆっくりと振り向く。二言三言何か会話を交わすと、その視線を今度はゼロに向けて投げてよこした。 「……世界図書館の皆さんはお元気ですか」 近付いてきた男は開口一番、ゼロにそう訊ねる。 首をかしげたゼロに小さく笑って、男は顔を覆っていた布をゆるゆるとはずしていく。ほどなくして現れたのは壮年の男の顔――ではなく、壮年の、くたびれた色を浮かべた犬の顔だった。 ディと名乗った男はゼロから受け取った鏡を前に、しばし、ゼロとの会話を楽しむ。 ゼロはディに招かれ、ボロ屋の庭に面した縁側に腰を落としていた。掃除は届いている。見目に汚らしい印象は感じられない風だ。 出された茶は庭に伸びた薬草を煎じたもので煎れたという。苦味もなく、飲みやすく、するすると喉を潤す茶を口に運びつつ、ゼロはディの姿を見る。 インヤンガイを訪れ、親しくなった家族の新たな父親として迎えられ、インヤンガイへの帰属を果たしたディだが、数年の後に彼を見舞ったのは、とあるマフィアの手によって無残に殺された家族の死という現実だった。 「ご家族の霊は呼ばなかったのです?」 訊ねたゼロに、ディはもの悲しげに笑って言った。 「魂がさらわれたのです」 「?」 「さらわれた魂を呼び戻すことはできませんでした」 「?」 首をかしげ、それはどういうことかと訊ねたが、ディはそれきり口をつぐみ、ゼロの問いに応えを返すことはなかった。 鏡面はディが手をかざし何事かを唱えると、暗く沈む夜の海の色を浮かべた。鏡面に波がたち、替わりに庭を揺らしていた風がぴたりと凪いだ。 鏡面に立つ波間に男の顔が浮かぶ。小太りの男だ。男は顔の半分を水上に現したまま、物言いたげにこちらを見ていた。 ゼロはきちんと座ったまま、波打つ鏡面に目を奪われる。瞬きも忘れ、ディが男と何か言い交わすのを見ていた。ディは男に向けて言う。そのまま海を渡り、西海の果てを目指すように、と。男はやがて得心したような表情を浮かべ、ふわりと笑みを浮かべた。その顔がまばゆい光に包まれる。 「お元気で、なのですー」 思わず声をかけたゼロの言葉が届いたのか、男は最後にゼロを見て、やはり笑みを浮かべたままにうなずいた。 鏡面に立つ波が静かになり、やがて鏡はただの鏡に戻る。ディが拾いあげ検めた後、鏡は再びゼロの手元へと戻された。 「音函男さんは成仏したのです?」 「ええ」 うなずいたディに、ゼロは小さくうなずき、鏡に目を落とす。 「ディさんは」 言いかけ、けれどゼロはわずかな逡巡を見せた。 所縁を得て帰属を果たす。もう二度とロストナンバーになることはない。時の移ろいに齢を重ね、その土地の者として残る時間を暮らしていく。 けれど、その所縁を喪ってしまえば、帰属を果たした意味は果たして存続し続けるものだろうか。ましてディのように人と逸した見目を持つ者であればなおさらに。 たぶん、のたれ死んでいても不思議ではなかったのだ。それを逃れることができたのは術師としての知識や能力があったからこそなのだろうし、レイのような助力者がいたからこそなのだろう。 ディはゼロが続ける言葉の先を待っている。けれどもゼロは少しの間考えて、それからふるふるとかぶりを振った。 「なんでもないのですー」 言って笑う。 ディもまたわずかな沈黙の後、 「そうですか」 穏やかに応え、笑った。
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