折れた角の先、薄く汚れた小さな猫がいた。 捨てられたのだろうか。あるいは野良が産み落とした仔猫のうちの一匹なのかもしれない。 おそらくは純白でふわふわとした毛並であるのだろう。が、霧の街を徘徊する間に、その毛並は薄く汚れ、小さな体は見るからに不憫を誘うほどに痩せ細り、弱々しい。 アステはその猫の前でわずかに足を止めた。アステの顔を仰ぎ見て弱々しく鳴く小さな命と向かい合い、青みがかった緑色の双眸をすがめる。足を止めたのをいいことに、猫はアステの足に顔を擦りつけながら、さらに憐れを誘うようにか弱く鳴いた。 腹をすかせているのだろう。自分は弱いのだ、と。庇護を要する身なのだ、と。声にするでもなく主張して、それに心を震わせた人間からエサを得ようという算段なのだ。あるいは、あわよくばその人間の家に招かれ、そのままあたたかな食事と寝床を得ようという算段まで整えているのかもしれない。 まるで街の裏路地にたむろする汚らしい娼婦のようだ。そう思うと、擦り寄られている足に怖気のようなものが湧いた。 「きったないな」 眉をしかめつつ、その足を持ち上げて仔猫を蹴りやろうとした、その瞬間。アステの背に誰かがぶつかり、アステはバランスを崩し、片膝をついて転げてしまった。仔猫はすらりと逃れ、わずかな距離をとっている。 ぶつかって来た相手に文句のひとつも言ってやろうと思い、肩越しに振り向いたアステは、けれど、そこに立っていた女の姿を検めるのと同時に口をつぐんだ。 「ご、ごめんなさい! お怪我は」 言いながらアステの傍らに走り寄り、迷うことなく自分も膝をついてアステの顔を覗き込んで来たのは、アステと同世代ほどであろうと思しき見目の女だった。 海の向こう、東にある国の血を引いているのだろうか。わずかに彫りの深い顔立ちは、アステの周りではあまり見ることのない容貌だった。肌の色も褐色がかっていて、アステを気遣う唇は形良く整い、薄い紅色をしている。肩下で揺れるほどの長さをもった黒髪は癖もなく艶やかで、涼やかな眼光は上質な琥珀の色をしていた。 「うん、大丈夫。……きみは?」 「私は大丈夫です。あの、すみません、私、ぼうっとしてて」 言いながら両手で頬を押さえる彼女に、アステは小さなかぶりを振りつつ微笑む。 「ぼくこそぼんやりしてて……そこに仔猫がいたんだ」 「仔猫?」 アステが示した指の先を見やり、そこに痩せた仔猫がいるのを見とめると、女はふわりとやわらかな笑みを満面に浮かべた。 「かわいい」 「迷子かなって思って、飼い主を捜してやろうかと思ってたんだ。……それにすごく腹ペコそうだし」 「え」 アステの微笑みに目を瞬かせ、彼女は視線を再び仔猫に移す。薄く汚れ、憐れなほどに痩せた小さな猫だ。 「霧の深い夜に、うっかり飛び出して行けば轢かれてしまうかもしれないしね。ぼくの家に連れて帰るにも、ぼくの家、猫嫌いがいるんだよ」 申し訳なさげにそう言って弱く笑ったアステに、女もまた小さな息を吐いた後に小さく笑う。 「私の家なら飼えると思う」 「え、本当に?」 「大家さんに相談してみなきゃ分からないけど……でも動物好きな大家さんだから、多分大丈夫だと思うの」 「大丈夫だったらいいな。えっと……ぼくは山之内アステ。この先の新聞社で記者をしてるんだ」 「私はヌール・ジャハーン。この奥のお店で給仕をさせてもらってるわ。……新聞記者さんなんて、なんかすごい」 「え、そうかな」 「何度か街頭で見かけたことがあるわ。この街はこんなに広いのに、あちこちたくさん走り回って、いろんな情報を集めて、それであんなたくさんの人たちを前にしても物怖じもしないで……すごいと思う」 ヌール・ジャハーンは上目にアステを見て頬に薄い紅をさす。アステは照れたように後ろ頭を掻いた。それから思いついたように顔をあげ、ヌール・ジャハーンの顔を見つめて口を開けた。 「良かったらぼくもついていくよ。一緒に大家さんにお願いしてみよう」 「え、でも」 「最初にその仔を見つけたのはぼくだし、ぼくにはその仔の行く先を見届ける必要があるって思うんだ」 どこか熱く語るアステに、ヌール・ジャハーンはふわりと笑い、首をかしげる。 「よかった。本当は私ひとりでお願いに行くのは勇気がいるなって思ってたの」 「ぼくのことはアステって呼んでくれていいよ」 言いながら立ち上がり、まだわずかな距離をとった場所で控えていた猫に目を向ける。猫はアステの視線を受けるとわずかに表情を変え、窺うような姿勢で見つめ返してきた。アステは笑う。ゆっくりと歩み出し、猫の前に手を伸べた。 「おまえは幸運だなあ」 そう言って笑いかけるアステに、しかし仔猫はわずかな脅えを見せ、爪を剥く。その爪がアステの指先を小さくかすめ傷を作った。けれどアステはやわらかな笑みをそのまま、わずかにも変じさせることはない。小さく首をかしげ、仔猫の腹を掴む。ふわふわとしたやわらかな仔猫の腹に、アステ指先がグニャリと沈んだ。その生温かな感触に笑みの色を濃くしながら、アステはヌール・ジャハーンを振り向く。 ヌール・ジャハーンはアステの視線をうけてふわりと笑った。日頃接することのないタイプの顔立ち。あどけなさの残る、けれども決して下卑たものではない色気とが混在するその見目に、アステの心が打つ早鐘は次第に速度をあげていく。 それからヌール・ジャハーンの住むアパートメントまで、ふたりは色々な話を交わした。その中でもアステが語る新聞記者としての話――さらに言えば、アステが素人ながら探偵を真似た仕事もしているのだと明かしたことに、彼女は特に強く関心を示した。 霧の街には数多くの犯罪者がまぎれ込んでいる。その数には勝らないのかもしれないが、探偵という看板を掲げる者も少なくない。中でも名の知られた探偵も数人存在している。ヌール・ジャハーンは無邪気な笑顔を満面にたたえ、焦がれる相手の名を落とすような口ぶりで告げた。 インゲルハイムっていう探偵がいてね。 その先に続いた言葉は、彼女が見せるどこか夢見がちな表情に、称することすらままならない、言い知れない感情に捕らわれたアステの耳にはひとつも届いてはいなかった。ただ、両手で抱える仔猫の腹が再びぐにゃりと歪むのを、わずかに指先に感じていた。 ヌール・ジャハーンの住むアパートメントは大通りを外れた裏路地の奥にあった。枯れた草のような髪を掻きながら面倒くさげに出てきた大家は、アステが自分の名をフルネームで口にした途端、態度を一変させる。大家はヌール・ジャハーンが仔猫を飼うのを快諾したのだ。 父親の威光はこんなところでも適用した。複雑な部分もなくはなかったが、今はそんなことよりもヌール・ジャハーンが喜ぶ様を見るのが嬉しくて、アステはそこで自覚したのだ。 ――これが恋なんだ そうして、その好意が向かう先にいる相手もまた、アステに向けて同じ気持ちを抱いているに違いないのだ、と。 それから毎日アステはヌール・ジャハーンの部屋を訪ねた。アパートメントに住む他の女たちはどれも娼婦の服と化粧で身を飾っている。アパートメントの大家がそれを斡旋しているのだということは、アステの調査によって難なく知れた。 ともかく、アステは毎日ヌール・ジャハーンを訪ねた。女たちは皆揃って怪訝そうな顔でアステを見ていたが、大家だけは始終満面の笑みでアステを迎えてくれる。しまいにはヌール・ジャハーンの部屋の合鍵を作ってくれたほどだった。感謝の意を伝えると、大家は父親に好いように伝えておくれと言って、安い酒のビンを口にした。 ヌール・ジャハーンがなぜこんな環境の部屋に住んでいるのか。それは考えても分からなかった。ただ、彼女の父親はやはり霧の街の外からやってきた漁師で、仕事のためにこの街を訪れ、それを相手にしていた娼婦と出会い、しかしそのまま再び郷里へと戻っていった男らしい。娼婦の娘として生を享けたなら、この劣悪な環境の中に身を置かなければならないのも道理なのだろう。そう考えれば得心もいく。 アステは思う。それなら自分がやるべきことはひとつだ。 ヌール・ジャハーンが身を置く環境の悪さが、万が一にも彼女の身に悪意を剥くことのないように。彼女が悲痛な目に遭うことのないように。――そのために、アステは、彼女から目を外すことのないようにしなくてはならない。常に彼女の傍にあって、彼女を守り続ける存在でなければならないのだ。 権力を笠に着るに着るというのも、たまには悪くはない。ヌール・ジャハーンのアパートメントに向かうアステの足取りは毎日とても軽かった。 「最近、私が留守にしてる間、誰かが私の部屋に入ったりしてるみたい……」 ヌール・ジャハーンの元には毎日欠かさず足を運び、姿を見せている。彼女の部屋も毎日長時間見つめている。彼女がいつも何時ぐらいに目覚め、朝食をとり、何時ぐらいにどこへ出掛け、誰と会い、何時ぐらいに部屋に戻っているのか。毎日欠かさずに確認しているのだ。その自分の目の届かない間に、彼女が危険にさらされているのというのか。 「大丈夫だよ。ぼくがついてる」 怯える彼女を力強く宥めるように、アステはそう言ってうなずいた。 ヌールジャハーンは、それでもまだどこか怯えたような顔で、結局最後までアステの顔を見返すことはなかった。 それから二月ほどが過ぎたある日。 いつものように足取りも軽く彼女の元を訪ねたアステは、アパートメントに住まう汚らしい娼婦のひとりに声をかけられた。本来ならば言葉を交わすのも厭うような相手だ。 「ヌールなら仕事中さ」 「仕事?」 眉をしかめ、アステは女を一瞥する。ヌール・ジャハーンの名が出てこなければ、足を止めることすらなかったのに。 「夕べからずっとかかりっきりでね。ひとりでいっぺんに三人も相手するなんて、あたしらじゃとても」 喉を鳴らしながら笑う女に、アステは血が遡るのを覚える。引き攣れたようにして笑う女を壁に押しやり、そのまま何度も何度も、何度も何度も女の頭をレンガ壁に押しやった。ぶぢぶぢ、ぶぢゅという潰れた音がして、女は何かくぐもった声を発し、赤黒い血の混じった泡を吹き出し崩れ落ちる。倒れた女のやわらかな腹を蹴飛ばしてから、アステはヌール・ジャハーンの部屋へと急いだ。 アパートメントに着くと、幾度か目にしたことのある男が三人、アパートメントから出てきて、アステをすれ違った。彼らの顔を思い出す。ヌール・ジャハーンが出掛けた先で顔を合わせていた男たちだ。 大家からもらった合鍵を手に、もう幾度となく踏み入ってきた彼女の部屋のドアを開ける。 ヌール・ジャハーンはそこにいた。 部屋の中には生臭い空気が充ちていて、ベッドはもとよりシャワールームやキッチンや――あらゆる場所に、男女の営みの痕跡が生々しく残されている。 鼻を押さえ、部屋に入る。仔猫がどこかから走ってきてアステの足をくぐり、部屋の外へと飛び出して行った。 乱れたベッドの上、未だ赤く火照った裸体を横たえたままのヌール・ジャハーンがいた。酒に酔っているのだろうか。……あるいは薬物なのかもしれない。いずれにせよ、とろんとした目でアステを見とめると、彼女は唇を半分開き、両手を広げ、豊かな乳房を誇示するかのようなポーズを作ってみせた。 アパートメントを後にしたアステは、あの仔猫だろうと思われる猫を路上の端に見つけた。新たなあるじ候補でも見つけたのだろう。哀れを誘うような鳴き方で、誰とも知れぬ者の足にすり寄っていた。 いまだ手の中に残る感触を思えば、アステは自らの下半身に疼きが走るのを覚える。 シーツで首を絞め、苦しそうにもがく両手の上に膝を乗せて押さえた。ヌール・ジャハーンの口が泡を吹き、やがて両目が大きく見開かれ、当て所もなく移ろった後に白目をむいた。大きな痙攣を見せていたがそれもやがて小刻みになり、ほどなく――彼女は生命活動を終えた。 手の中の残滓を頬にあて、アステはうっとりと夢見心地で街の中を歩く。 潮の気配を含み粘ついた霧が街を包む。やがてアステの姿をも呑みこんで、霧はゆっくりと濃さを深めていった。
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