自分の能力を活かした職業というものを模索した結果、エダム・ブランクが辿りついたのは客の望む幻覚を見せるというものだった。これが生業となるかは未だ予想出来ないが、その昔他人から勧めてもらった職でもある。 すべては試してみることから。 そうして自分の店を持ったのがついこの間のことだ。 小さな、必要な機能以外備えていない質素な店だった。 商売を始めるには準備が必要だ。しかし悪く言えば世間慣れしていないエダムにとってそれは難しいことだった。 まず必要なものがわからない。 幻覚を見せる、というシンプルな仕事内容。幼少期から手足を使うように幻覚を操ってきた身からすれば、この体があるだけで成り立ってしまう。 ならば客の視点に立って考えてみよう、とイメージした結果、粗末な部屋にイスとテーブルが仲間入りした。「……ふむ、何か足りませんな」 ある日それでも物足りなく感じ、ふと自分が幻覚で捕らえてきた人間たちの様子を思い返す。 エダムの幻覚には種類がある。よく使うものは大きくわけて2つ。 対象者の意識を保ったまま幻覚を見せる方法と、丸々トリップさせて本体は意識不明にする方法。 他者を苦しめていた頃は後者を多用していたが、これを行なうと体の自由が利かなくなるため人によってはその場に倒れ込む。よくて棒立ちといったところだ。 ベッドか。 幻覚の犠牲者ではなく客として扱うなら、安全も考慮しなくてはならない。 そう気がつきエダムは十分な大きさのベッドを注文したのだった。 今日も気まぐれに開店する。 さて、どんな幻覚を求めた客が訪れるのだろうか?
その日の客は大きな翼と太く立派な尻尾を持っていた。 勇ましい外見に反しておどおどとした瞳を店内に向け、出入口前で逡巡すること数分。その姿は店の窓からよく見えていた。エダムはそうっと出入口に近づき、扉を開けると彼を招き入れる。 彼……幽太郎・AHI/MD-01Pは突然扉が開いたことに驚いた様子だったが、手招きされどこか嬉しそうに店内へと入っていった。 「この店の商品はご存知ですかな?」 『幻……ヲ見セテクレルンダヨ、ネ?』 幽太郎がじっと見つめてそう答えると、エダムは「そうです」と頷いた。 『僕ネ、前ニ別ノ店デ夢ヲミタンダ……』 それは御面屋という店だった。エダムも耳にしたことがある。 面を通じ、人々に様々な夢を見せる店。方法は違えどこの店と似た性質を持っていた。 しかし、今はもう店も店主の男もいない。 なくなったと同時に、幽太郎もまた夢を見る機会を失ってしまった。 『御面屋サン……居ナクナッチャッタ……、デモ、僕、ソレデ気ガツイタコトガアルンダ』 「と、いいますと?」 『僕ハ幸セナ夢ヲミテ、イツカ現実デ同ジ幸セヲ掴ミ取ルンダッテ思ッテタ……ケド、ソウ思エタノハ、アノ店ヘ行ケバイツデモ夢ヲ見レルッテ気持チガアッタカラナンダ』 小さな飴を食べて、そして見た夢はとても暖かく優しいものだった。 お父さんやお母さん、そして友達との幸せな夢。 しかしその夢は優しすぎた。もう一度見れば覚めることが出来ない気がした。現実ではなく夢でいいや、と満足してしまうのではないかという不安感がつきまとい、幽太郎は悩んだ。 そして辿りついた「現実でも掴み取る」という目標の底にも夢の残滓が残り、結果的に幽太郎にとっての甘えの一因になっていたのだ。 『デモ、ソノ夢ヲ消シタイワケジャナインダ。タダ、モウ一度ダケ会イタイ……』 夢の中の愛する人たちに。 エダムは頷き、横になるよう勧める。 ここから先幽太郎と話すべきは自分ではなく、幽太郎の中に居る人々だ。 夢の中の故郷は過去の記憶のない幽太郎の想像に基づいて作り上げられていた。 幻覚もそれに倣っている。 幽太郎がおずおずと目を開けると、少し離れた木の下に懐かしい顔がいくつも見えた。翼を両手のように広げ、逸る気持ちを抑えながら幽太郎は近寄る。 『ミンナ……!』 腕と翼を目一杯使って彼らを抱き締める。温かい。皆呼吸をし、鼓動を鳴らし、生きてそこに立っていた。 母が柔らかい笑みを浮かべて幽太郎の頬を撫でた。 「どうしたの、泣きそうじゃない」 『僕……僕……!』 ぎゅうと強く抱き締め、頬を寄せる。母の髪の香りがした。 これから生きていく未来に悔いが残らないよう、感触のひとつひとつを丁寧に覚えていく。母の、父の、友達の温もり。生きている証。幽太郎を見る瞳の温かさ。 幽太郎は訊ねようと思っていたことを口にした。 『此処ハ本当ノ僕ノ未来ナノ……?』 問いに母は何かを答えようとして、それを喉に詰まらせたように息を区切った。 悩んだ様子で言葉を探している。その様子は迷う幽太郎によく似ていた。 やがて答える前に笑みをひとつ浮かべ、幽太郎の頭を撫でる。 「違うわ。此処は幽太郎の空想の世界」 目には涙が浮かんでいた。 「本当の故郷の事は私も知らないわ……アナタのお母さんの事も……」 「オ母サン……」 「だけどね、ここはあなたの心が生んだ世界なのよ」 今度は母から幽太郎を抱き締める。 「幽太郎が優しい心を失わない限り、私たちはいつでも幽太郎と一緒。あなたの傍に居るわ」 だから…… だからいってらっしゃい、幽太郎。 『……イッテキマス!』 その一言に沢山の気持ちをこめて、幽太郎は優しくかけがえのない家族たちに頷いた。 ● ジューンは店へと続く道を歩みながら今までのことを思い返す。 最初にエダムと出会った時、彼は完全に敵だったが――戦争が終わった後、救助してみればエダムには未来への可能性が残っていた。 それでもどちらの場面でもジューンには「エダムを殺す」という道があった。その中で選んできた選択肢。もし今後同じ場面に遭遇しても、きっと自分は同じものを選ぶだろうとジューンは思う。 腕もそうだ。 エダムには片腕がない。それを斬ったのは同じロストナンバーで、そうせざるをえなかったからだ。 つまり自分が彼の腕を奪っていた可能性もある。だからこそ隻腕になったエダムをジューンは気にかけていた。 「お邪魔します」 店に入るとすぐそこに店主は居た。 「いらっしゃいませ、久しぶりですな」 「エダム様、開業おめでとうございます。エダム様にお願いしたい事があって参りました。どれがお好きか教えて下さい」 「ふむ?」 ジューンはバスケットから珈琲や紅茶を数十点取り出し、にこりと笑う。 これらを試飲していただきたいのです。そう言うとエダムは快く引き受けた。 「このようなものは贅沢品だった故、気の効いたことを言えるかはわかりませぬが……」 「楽しんでいただければそれでいいのです。それに……幻覚から戻った方には、日常に戻ったことを香り込みで知らせるスイッチがある方が宜しいかと思いまして」 「たしかに。香りは人の心に影響を与えますからな」 「エダム様にも取り扱いやすいサーバーとセットにして、後程お届けに上がります」 そんなに良い物をもらっていいのかとエダムが問うと、ジューンは緩やかに頷いた。 「開店祝いです」 床にぺたりと座り、ジューンはエダムを見上げる。 「幻覚は……マザーと私以外存在しないセブンズゲートの散策を」 「わかりました。しかし床で宜しいので?」 「はい、私の体重を支えられる一般家財はありません。私もエダム様のお部屋を壊したくありませんから」 「なるほど。では――」 何気ない仕草で挙げられる左手。 それを目で追ったか追わないかの間に周囲の景色が消え去り、代わりに近代的な景色が広がり始める。 いつの間にやら目前にエダムは居らず、児童施設の看板が見えた。 本来ならセブンズゲートには人間やアンドロイド、ロボットが居るはずの景色は静まり返っている。それでもマザーの気配を感じ、ジューンの体から緊張が抜けた。 施設に入り、机を指先でなぞる。ありふれた机だが記憶に深く刻み込まれた手触りだ。子供たちの玩具や、廊下の続く距離、自然と目が向く時計のある柱。どれもこれも懐かしかった。 「次は……」 無重力地帯に足を向ける。そこは文字通り重力が存在していない。 人とは違う重量をしているジューンもふわりふわりと宙を漂った。 スカートを押さえて着地し、食料プラントやA-R施設群、宇宙港などを見てまわる。目に、心に焼き付けるように、じっくりと。 宇宙港には人が居ないにも関わらず、巨大な宇宙船が泊まっていた。 思い出の場所を繋ぐ道すら愛おしく、全て見てまわったジューンはぐるりと一回だけ周りを見、胸に込み上げる思いを抑えるようにぎゅうと裾を握った。 「ありがとうございますエダム様……もう充分です。誰も居なくてもこれ以上は……」 懐かしい場所。 愛しい場所。 ――ここには二度と、帰れない。 もしここで子供たちに会ってしまったら、きっと自分は耐えれなくなる。そう感じジューンは幻覚を解いてもらった。 「辛いもの、でしたかな」 「いいえ……」 辛くなかったと言えば嘘になる。しかし後悔はない。 「ありがとうございました……申し訳ありません。お祝いは今日中に届けさせていただきます」 一礼するとジューンは店を後にした。 故郷の景色を、しっかりと胸にしまって。 ● 「エダムさん、こんにちはなのですー。開店おめでとうなのです」 昼下がりのある日、エダムが視線を足元に向けると真っ白な少女が立っていた。 「これはこれは……ようこそ。顔を合わせるのは久しぶりですな」 エダムはインヤンガイで騒動を起こした際、初めてこの少女シーアールシー ゼロと出会った。 その時のことを詫びるとゼロはことりと首を傾げた。 「ゼロは気にしていないのです」 「申し訳ない。……ですが、感謝しているのですよ。あの時お嬢さんが力の使い道について言ってくださったからこそ、今こうしております故」 そうでなければこんな幻覚の使い道を思いつくことはなかっただろう。 店内に入るとゼロは大きな袋を置いた。大きさに対して軽いらしく、置いた際に軽くバウンドする。 「何でしょう?」 「開店祝いなのです。これと、これと、これ」 枕とお香と香炉。 しかも枕は三つもある。それにエダムが目を瞬かせているとゼロはどこか得意げに言った。 「ゼロ特製安眠謎枕、普段用とお店用と予備の三つなのです」 「これはありがたい……生来夢見が悪いものでしてな、活用させていただきましょう。こちらのお香は?」 「落ち着くお香なのです」 曰く、謎お香なのだという。何の香りかは不明だが効果はばっちりらしい。 香炉も火が不要なタイプで安全に配慮されていた。エダムはその小さな気遣いが嬉しい様子で祝いを受け取る。 ゼロの希望した幻覚は実際にあったことだった。 完全トリップに備えベッドに横になり、幻覚が頭の中を包む感覚に身を任せる。 まどろみから、まどろみへ。 夢と現実の狭間にたゆたうゼロは周りの景色が店の中から明るい世界に変わっても、そのままふわふわと意識を漂わせていた。 最初に知覚したのは瞼越しに感じた虚数夢太陽の輝き。 瞼の中で弾ける美しい光にほんの少しだけ覚醒し、また沈みかける。 このまどろみはこの世界では大きな意味を持っていた。ここは夢の中の記憶と、現実の経験が等価な世界。まどろみ漂うことは世界を見てまわることとイコールだ。 ゼロは言葉の吸収を感じた。 永久夢想都市の傍を通り過ぎる際、揮発文字綿飴とゼロが呼ぶものが蒸散しゼロの中へと入っていく。 揮発文字綿飴は人々の思索思惟思考瞑想からまろびでる塊だ。それを内に取り込んだゼロは知る。この世界の様々な物が、自分の知る物とは異なる物、違う名で呼ばれていることを。 次に見えてきたのは色とりどりの、まるで幽霊のような人々。彼らは言葉を様々な方法で溢れさせていた。 ゼロはそこで知恵となった揮発文字綿飴を得て知識を吸収した。知識とは知る喜び。それに失う恐怖が寄り添っていた。 にゃあにゃあという声に振り返れば、そこには猫的裁判所。 猫が日々裁判を繰り返し、それでもお昼寝は忘れない場所だった。懐かしさと、前に抱いたのと似た興味が湧き上がる。 「……マタタビなのです」 ゼロは綿飴ではなくマタタビを得た。そこから得たのは「常識」。裁判所で高い位置に漂うものだ。 常識の取得に伴い対価を支払うということを学ぶ。 お代はゼロが昨日見た夢の欠片。すいと綿飴に混ぜると銀色に変わり、ふわふわと大きく膨らんでいく。とても素敵だとゼロはそれを眺めた。 その気持ちを体で表したくなり、次にゼロは体の動かし方を学んだ。 どう動かすかという知識はあったが、実際に起きて動かすとなると話は別だった。夢の中なら自由に動ける。しかし目覚めるとそうはいかない。 最終的に上手く動かせるようになるまで数ヶ月を要してしまったが、ゼロにとって悪い時間ではなかった。 色んな体験と経験を順番に再体験していき、ぱっと景色が元に戻る。 それはゼロが満足したことを現していた。 「不思議な場所でしたな……」 「ゼロが覚醒した時流れ着いた世界なのです」 「あそこで様々なことを学んだのですな」 「けれど、得られなかったものもあるのです。ゼロの名前はこっちに来てから得たのです」 色んな場所へ行けば色んなものを得ることが出来る。 ゼロはこれからもまどろみ、そして漂うように歩き回るのだろう。 ● ルンの興味対象ははっきりと分かれていた。 エダム・ブランクという人間に興味はあるが、幻覚には興味がまったくない。例えそれが彼の体の一部と言っても過言ではない力であったとしても、だ。 そんな興味を持っているエダムが店を構えたと聞き、馳せ参じたのが今日の午前のことである。 「エーダムエダム! 家を持った! おめでとう!」 開口一番快活な口調でそう言ったルンはテーブルの上に三つのものを置いた。 エダムは礼を述べながら目を瞬かせる。 「これは……猪、ですかな?」 「そう! 夢浮橋で獲ってきた。鞣して毛皮にしてある、暖かいから使え」 「仕留めるのは大変だったでしょう、宜しいので?」 こくんとルンは力強く頷いてみせる。 「独立する、家を建てる、皆でお祝い。周りが手伝わない、家出来ない。みんなが認めて、家出来る。お前はここに、認められた。だから家……店? 出来た! お祝い!」 「相変わらず独特な価値観をお持ちだ……ありがたく戴きましょう、風邪の予防になりそうですな」 ルンは毛皮の隣に置いた茸を指差す。 「これはヴォロスの茸。街の人と採った!」 「ふむ、立派な茸ですな。こちらは……?」 ルンはエダムの視線の先にある箱を持ち上げ、眩しい笑顔を向けた。 「アイスクリームケェキ! エダム、アイス気に入ってた。これもきっと気に入る」 「それは美味しそうだ……ケェキというものをあまり見たことがありませぬが、自分は菓子が嫌いではないということがわかりましたからな。美味しくいただきましょう」 受け取るエダムの姿を眺めながら、ルンはずっと気にかかっていたことを訊いてみることにした。 「エダム、もう依頼、受けないのか?」 「……と、申しますと?」 「他の世界、いかない?」 ルンは彼が店を持ったと聞き、この0世界に根を下ろすのかと思った。 エダムはゆるゆると首を左右に振る。 「店が落ち着いてからになりますが、また仕事は請けてゆくつもりですぞ。こちらは謂わば副業ですからな」 「そうか……」 少しほっとした様子でルンは頷いた。 「ところで今日はどんな幻覚をご所望ですかな?」 「幻? なんで?」 「な、なんで?」 思わぬ返答だったのかエダムは一瞬肩透かしを食らったような顔をした。 「ルンは、行きたければ、行く。自分で見に行く。見たいもの、別にない」 「なるほど……行動派だ」 「ルンは死んだ。死んで神さまの国に来た。だからここで、神さまの役に立つ。死人が戻る、有り得ない」 エダムは彼女のこの「勘違い」が気になって仕方なかったが、それを正すのは自分の仕事ではないと思っていた。そもそも正すことが良いこととは限らない。なんだか自分の死人扱いされているようで奇妙な気持ちになることはあったが。 「幻、何でもできる。叶う望み、叶わぬ望み。手放せなくなる人も不払いも逆恨みも。あしらいは、考えた方が良い。エダム。自分の安全、考えてるか?」 「ええ……実力は伴っておりません故、不安はありますが、幸い今は儂を好意的な目で見てくれる者が多い。そう不味いことにはなりますまい」 エダムは窓の外を見る。 「己の身の安全を考えながら人と接して、親しくなれるかというと……そう上手くはいきませぬ。敢えての無防備さも必要なのではないか、と思うのですよ」 この世界はどこか殺伐としている。 しかし戦いだけしか存在しない訳ではないのだ。 「だから大丈夫、お気遣い痛み入ります」 ルンはエダムが死にたがっているのではないか、幸せを望むことに気が引けているのではないかと危惧していた。初めに見た時に受けた印象が強かったのだ。 しかしエダムは一度も死にたいと口にしたことはないし、過度に思いつめたこともなかった。 ああ、もう大丈夫なのか――とルンは理解する。 「わかった。じゃあ……エダム! ルン、エダムの見せたい幻を見せてほしい!」 「儂の選んだものでよいので?」 「いい!」 それではヴォロスで見た石の迷路と自然の景色でも――。 ルンは目を瞑る。人が選んだ景色は面白い。路地の先にどんな景色が広がっているのか考える楽しみに似ている。 幻覚に包まれながら、ルンの口元には笑みが浮かんでいた。 ● コタロ・ムラタナは店に訪れるまでに見たい幻覚を決めていた。 幻覚には良いもの悪いものがある。コタロが望むのは後者。配慮も何もない、都合のいい夢ではない幻覚だ。 その希望を伝えるとエダムはじっとコタロの双眸を見た。 「本当に宜しいので? 悪いものを見ずとも、わだかまりを解ける方法はあるかもしれませぬぞ」 「いや、これがいい。……これでいいんだ」 意思の変わらぬ様子を見、エダムはひとつ頷く。 「不躾な問いでしたな。その覚悟に応えましょう」 ゆらゆらと一瞬視界が揺れる。しかし周りの景色が変わることはなく、代わりにさっきまでそこになかった――居なかった者が姿を現した。 金髪を結わえた女性だ。姿を認識すると同時に名前が脳裏に浮かぶ。 「……サクラコ」 忘れようにも忘れられない名前。忘れろと言われても忘れぬ名前。 激情とも言える感情に引き攣ったサクラコの口が動いた。 「何故……」 無理やり動かされた唇が戦慄き、震えた声で彼女は問う。 コタロは夢で何度も何度もそう問われてきた。そしてその度答えなかった。 「何故、何故なんだ」 「…………」 今も決して答えない。答えたところで何にもならないことを知っている。全て言うには遅いことだし、もしその時言っていたとしても結果は変わらなかっただろう。 サクラコの片手にはボウガンが提げられていた。 ボウガンを握る手の平に力がこもるのが見て取れる。現実と夢で見たより距離が近い。 「答えろ! お前には答える義務がある!」 まるで悲鳴だった。怒気と、そして求める答えの中に少しでも納得出来る理由があるのではないかという期待が入り混じり、感情の波となって口から放たれている。 「なんで、――コタロ!」 叱責する親のように答えをせがみ、サクラコは名前を呼ぶ。 その足が一歩、また一歩と近づいてきた。現実でのサクラコはこんな足取りで近づいてはこなかった。これは幻覚だ。幻覚だからこそ、ここが戦にまみれた世界でないからこそ、コタロが抵抗をしないからこそサクラコは近づき、握った拳でコタロの胸を叩く。 この拳が攻撃目的ではないのは一目瞭然だった。 「コタロ、答えろ……!」 「…………」 「私には答えることすら出来ないのか!」 幼馴染を傷つけ裏切ったのだ、と改めて自覚する。口を固く引き結び表情には出さないが、コタロの背中を走った悪寒が胸に溜まって冷たい澱みを作り始めた。 彼女の傷はもう癒せない。もし癒せてもそれは自分の役目ではない。 彼女の目に光るものを見て、コタロは思わず目を閉じそうになった。しかし見ておかなくてはならない。目をそらして成るけじめがあるだろうか。 ひとしきり彼女の言葉に耳を傾けた後、コタロは乾いて張り付いた唇を開けて言った。 「ごめん」 「……コタロ」 後悔はある。未練もある。コタロは師と呼ぶ人を殺し、幼馴染を裏切った。それはきっとコタロの長い人生に爪痕を残し続けるだろう。幸せの最中に居ても罰のようにノイズを混じらせ続ける。 サクラコに何かを伝えるべきだったと、何度思っただろうか。 過去にしたかったことを未来ですることは出来ない。 過ちは過ちのまま正すことすら出来ず、ましてや癒すことが出来るはずもなく残り続ける。 コタロはそれを全て抱えて生きていく。これが彼の決めた覚悟だ。 「ありがとう」 そしてサクラコに別れを告げること。 それがコタロの――自己満足で勝手な、けじめだった。 だから、別れの前くらい本心を伝えようじゃないか。 「……お前は、俺の誇りだ」 サクラコの顔は憑き物が落ちたかのようだった。きっと自分もだろう。 がしゃんとボウガンが落下した音と共に幻覚は掻き消えた。 エダムに礼を述べるとコタロは椅子に腰を下ろした。何年分も疲れた気がする。 少しでも落ち着くようにとエダムが香炉にお香を入れる。 その背を見ながらコタロは迷い、口をつぐみ、また迷いを繰り返した。あまりにも迷っている様子にエダムの方が気がつく。 「如何されました」 「いや……これは、その、故郷での教えなのだが」 そう前置きを挟むことでコタロは少し落ち着いた様子で言う。 「……力そのものに、善悪はない。ただその意味は、使い手の心にこそ、左右される」 知力も武力も魔力も、どの力も使い手次第。良いものになるものは悪いものにもなる。 コタロは目をそらさず続けた。 「……お前の力は、俺にとっては、善きものだった」 エダムは軽く目を見開く。 「ありがとうございます。……いいものですな、自分の力を善きものと認めてもらえるのは」 そっと頷くと、コタロは小さく笑った。 ● これはまた初々しいカップルではないか、とエダムは思った。 その日来店したのはアルド・ヴェルクアベルと飛天 鴉刃のふたり。直前まで手でも繋いでいたのだろうか、店内へ入るなり鴉刃はさっと手を隠した。 「おじゃましまーす! 鴉刃に見せたい場所があって来たんだ、ふたり一緒って大丈夫?」 「いらっしゃいませ、もちろん大丈夫ですとも」 「やった! それじゃあ……こういう時ってやっぱり寝た状態の方がいいかな?」 「完全にトリップするならばその方がいいですな。しかしベッドが……」 もそもそとベッドに入り込むアルドが「ん?」と首を傾げ、鴉刃がはっとする。 この店にはまだまだ気遣いが足りない。ベッドがひとつしかないのだ。 「何か問題あるかな?」 だが恥ずかしいことと気付いているのかいないのか、アルドはきょとんとしていた。 「ほら鴉刃、早く早くっ」 「あ、ああ……」 隣に寝るよう腕を引かれ、鴉刃もベッドに潜り込む。なるほど、いらぬ心配だったようだ。 「失敬。それではいきましょう、場所は――」 「僕の故郷!」 視界が歪み始める。最後に見た愛しい恋人の顔にアルドは言う。 「……“故郷”で会おうね、鴉刃!」 鴉刃はアルドの故郷とはどんな所なのだろう、と考えを巡らせながら目を開く。 今まで考えたことはなかったが、たしかに彼の生まれて育った場所がどんな所かは見てみたい。 それにあのアルドの張り切った姿。よほど見せたいのだなと笑みが浮かぶ。 「む?」 目を開けると真っ白だった。まだ幻覚にかかりきっていないのかとも思ったが、違うようだ。空気からは水気のある匂いがする。 「霧か。なんと濃い……アルド? どこだ?」 「鴉刃っ!」 アルドが近寄り、肉球で包むように鴉刃の手を取る。至近距離でやっと姿が見えた。 「びっくりした? この森はこれが普通なんだよ」 そこでアルドはごほんっと演技がかった仕草で咳払いをすると、少し胸を反らせた。 「霧深き森、ヴェルクアベルへようこそ!」 「なるほど。霧深き森……ん? ヴェルクアベル?」 ぴくりと耳を動かし、鴉刃はアルドを見つめるように見る。 「アルド、お前の姓も確か……。もしや領主か?」 「うん。まあ領主でもあるけど、僕の世界には出身地名を己の姓にする風習があるんだよ」 そのためここに住む猫族はそのほとんどがヴェルクアベル姓を名乗っているのだ。 「普段は外敵や人間を遠ざける為に、猫族の魔導師たちが霧の結界を張っているんだ」 アルドがぱちんっと指を鳴らすと、あんなに濃かった霧が嘘のように晴れた。 突然開けた視界に目を擦り、鴉刃は周りに立ち並ぶ木々に「森だな」と得心する。 「しかし……領主の息子であったか」 初耳である。軽く空を仰ぎ鴉刃は嘆息した。 「もしかして嫌だった?」 「いや、気後れするわけではないが。そういうものに惚れられるな、と思ってな」 よくわかっていない様子のアルドの頭を撫でる。 「……お前に告白された時に話したであろう、女性と交わった経験がある、とな」 その相手が高官の娘だったのだ。今のように身分差があることにアルドがなるほどと頷く。 先ほど口にした通り気後れしているつもりはないが、なかなかどうして縁があるなと鴉刃は感じていた。 そこでふと浮かんだ考えに鴉刃が気をとられた瞬間、背伸びしたアルドが頭を撫でる。 「僕たちの間に身分差は関係ないよ。そうでしょ?」 にこりと笑うアルドに鴉刃もつられて口元を緩めた。 この森には竜族も住んでいたらしい。覚醒後のことはわからないが、アルドがここに居た頃は実に多種多様な種族が日常を過ごしていた。 「でも鴉刃みたいな和風のヒトは少なかったかな」 「西洋寄りの文化のようだな」 「うん、名前だって漢字は少なくて――あっ、ちょっと寄り道していい?」 集落まであと少し、というところでアルドが鴉刃の手を引き脇道へと入る。 何事かとついていくと驚くほど大きな湖の前に出た。これで潮の匂いでもしようものなら海と見間違えていたかもしれない。 「この森の中で一番大きな湖なんだよ、その名も月詠湖!」 「ほぉ……なかなか立派な湖ではないか。水も澄んでいる」 泳ぐ魚の影に目を細める。 「満月の宴がある時は、この湖の近くで大きな火を起こして、皆で詠ったり踊ったりするんだよ」 「満月の宴、か。風流良さそうであるな」 ぴくりと鴉刃の髭が揺れた。宴という響きにどこか心を弾ませているように見える。 「いい所でしょ? 僕はまぁ、ここで何度か危ない目に遭っちゃったんだけど……」 「危ない事、か。大方、溺れかけたのであろう? 宴が開かれるということは危険もなさそうだ、考えられるとすればそれぐらいであろう」 アルドの尻すぼみになった言葉に鴉刃は笑う。 その予想が当たっていたかどうかは本人たちのみぞ知る、である。 集落に着くと見知った猫族の面々がいつものように過ごしていた。 アルドはきょろきょろと辺りを見、一人の猫族を指差す。 「いたっ。あそこにいる灰色毛皮に赤い目の、ちょっとふっくらしてる猫族が僕のお父さんで、この森の長だよ」 「あれが、お前の父親か。確かに面影があるな」 外見から血の繋がりを感じて心が温まる。 「へへ、でしょ? お父さんは昔の戦争を終わらせた英雄の一人“霧の獣王”で、そして……吸血鬼なんだ」 父もアルドのように血を渇望していたはずだ。 しかしアルドの記憶の中に、渇望に苦しむ父の姿はない。 「お父さんはどうやってあの渇望を抑えてたんだろう。聞きそびれちゃったな……」 「血の渇望については……帰ってから聞けばよかろう。それまでは、私ので良ければいくらでも吸うが良いでな」 「うー、また鴉刃には迷惑かけちゃうけど……その時は、ヨロシク」 「……流石に貧血になる程度に吸ったり、喉元を噛むのは駄目であるぞ?」 ぺこりとお辞儀するアルドにそう冗談っぽく言い、鴉刃はもう一度アルドの父を見る。 領主どころか英雄の1人の息子だった。どうにも不思議な感じがする。 「私など、どこの馬の骨だと言われそうであるな」 「そんなことないよ! ほら、鴉刃。2人で会いにいこう?」 笑いを含んだ鴉刃の言葉を真正面から受け取ったのか、アルドがくいくいと手を引く。 またちらついた考えに少し逡巡し、鴉刃は頷きながら答えた。 「あぁ。……アルド、次の機会があれば私の故郷や元の恋人も、お前に見せたいと思う。いいか?」 「鴉刃のも見せてくれるの?」 「アルドのことを沢山見せてもらった。今度は私のことも見てほしい、と思ってな」 尻尾をぴんっと立たせてアルドは嬉しそうに頷く。 「うん、楽しみにしてるよ!」 ● ユーウォンは翼を畳んで興味深げに室内を見回す。 「たまたまお店の前を通りかかってさ。面白そうだったから、入ってみたんだ」 「娯楽になりえるなら喜ばしいことですな。本日はどんな幻覚をご所望で?」 エダムの問いにユーウォンはしばし考える仕草を見せ、答えた。 「おれは今まで見たことも聞いたことも想像したこともないものがいいなぁ」 「ということは、何かの再現や見知ったものを見たいという訳ではないということですかな」 「そうそう。エダムさんは、今までに普通じゃ見ないようなモノ、見たり聞いたりしたことなかった?」 今度はエダムが考え込む番だった。 人の記憶から幻覚を見せたことは数あれど、自分の記憶を元に幻覚を見せたことは数えるほどだ。先日のルンに対する幻覚で久しぶりに見せたくらいだ。 「たとえば依頼を受けた時に見たものとか……あとはちょっと珍しい風物とか、そんなんでもいいな」 「前者は比較的見るのに苦労するような光景を目の当たりにしたことはありませぬからな……後者は、ふむ、儂の故郷の祭りならば該当するか」 故郷の? とユーウォンは首を傾げる。 たしかエダムは故郷を追われてはいなかっただろうか。そんな場所の幻覚を見せて辛くはならないのだろうか――そんな危惧が雰囲気に出ていたのか、エダムは口の端に笑みをのせた。 「大丈夫、儂の数少ない故郷の良き……いや、マシな記憶ですからな。見ていただけると嬉しい」 「それじゃあ見せてもらおうかな。あっ、それと!」 ユーウォンは早速幻覚を見せようと動きかけたエダムを制し、いそいそと訊ねる。 「エダムさんは、自分の作った幻を人と一緒に見られないの?」 「調整すれば見れますぞ」 「じゃあ一緒に見ない? あと……おれも見せたいなって思うとっておきの景色があるんだ。一緒に見てくれたらうれしいな」 「ほほう、それは楽しみですな。どのような景色で?」 「見てからのお楽しみ!」 あの壮大な光景をまた見ることが出来たらいいなと何度も思った。 そして今日、その光景をまた見るなら――誰かと一緒がいいなぁ、と思ったのだ。 エダムの故郷の祭りは村中を色とりどりの布で飾り付け、黒い衣装を着た人々の行列が向かいの森へと入り社に供物を捧げるというものだった。 色の溢れた村は現世を、黒衣は神に仕える者を表しているのだという。 まあ儂の黒衣は別物ですがな、とエダムは肩を竦めた。 ユーウォンは当時の彼が木の上から眺めていたその光景を見た後、隣の枝に座っているエダムに視線をやる。 「道の脇に並んでる小さい櫓みたいなのはなに?」 「古くよりこの行列は悪霊に狙われると言われておりましてな、その道中を見守っていてもらおうという意図で設置された小さき神用の櫓です」 「小さき神?」 「まあ……いわゆる妖精のようなものですな」 さて、とエダムは立ち上がる。 「ではそろそろ次にゆきましょうか」 「うん、口で説明しなくても伝わる?」 エダムが頷いたのを見てユーウォンはほっとする。先ほどまで見えていた幻覚は掻き消え、代わりの幻覚が膜を貼るように広がってゆく。 そこはユーウォンが覚醒する前に見た、一番壮大で雄大な景色を一望出来る場所だった。 朝日にその身を透かせた氷が谷の間をゆっくりと流れてゆく。氷がぶつかり、軋む音が谷に響いてこだましていた。 「大概のニンゲンにはちょっと見られない眺めでしょ?」 「たしかに。自然の力強さに繊細さが垣間見える……良き景色ですな」 砕けた氷が白く散る。 そのたびひんやりとした空気の濃度が増すようだった。 ユーウォンが心の中で大事にしまってあったのも頷ける、そんな光景にエダムは目を瞠る。 「……人と共に見るというのも、いいものだと学べました」 そんな感想にユーウォンは満足げに翼を広げた。 ● その後ユーウォンにアドバイスをもらい、ベッドの前にカーテン付きの仕切りを取り付けたのが今朝のことだ。 が、カーテン選びのセンスがなかったのか保健室もどきに見える。これは改良が必要だと考えていると、不意に扉が開いた。 「久しぶりだなエダム。店始めたって聞いて冷やかしにきたぜ」 「これはこれは……このような冷やかしなら歓迎ですぞ」 エダムが初めに感じたのは珍しさ。店を訪れたのは縁のあるファルファレロ・ロッソだった。 「っにしても、ほんとに何もねえな」 「これでもマシになった、と言ったら笑われますかな」 そう言ったら笑われてしまった。……やはり改良が必要である。 「それよりここは幻覚を売りもんにしてるんだろ。俺にもひとつ寄越してもらおうか」 ファルファレロにエダムはひとつ頷く。 「――ええ、なんなりと」 割れた食器や何日も前の新聞が半分塞がった視界に入った。 腫れ上がった片瞼が鈍痛を訴えるのも構わずに辺りへ視線を走らせる。 部屋に灯りはなく、窓から射し込む嫌らしい蛍光色だけが部屋を照らしていた。 その先に見えるのはベッドに力なく横たわった母親の青白い背。 「………」 ふらつきながらファルファレロは立ち上がる。立っても低い視点は少年のものだ。 闇に浮かび上がる裸身がとても寒そうに見えて、しかし震えもしない身体に不安を感じながら手を伸ばす。 あと少しで肌に触れる、というところで自然と手が止まった。 前は――この幻覚の元になった記憶では、次の瞬間世界が拒絶に染まったのだ。 あの時母親はファルファレロに自分を汚した男の姿を重ね、跳ね起きてすぐ歯を鳴らしながら何度も何度も何度もごめんなさいと謝った。乾いた唇が割れて血が流れ、涙で化粧が哀れなほど崩れた頃ようやく正気に戻り、ファルファレロの知る母親の顔でこう言ったのだ。 お前なんか生むんじゃなかった、と。 けれど。 「……お袋」 ファルファレロはそっと、慈しむように背中を撫でると母親に毛布をかけた。 生まれて初めて自分を拒まなかった母親。 これが偽物だとファルファレロはよく知っている。甘い、与えられたら与えられただけ享受してしまうような甘美な幻覚だ。 今まで偽物なんてくそくらえと思ってきた。 けれど今はもうそれでいいのだ。 偽物を認められず、心のどこかでずっと誰かからの肯定を求めて生きてきた。求めても得られないことに狂い、叫び、まさに生き地獄という日々を過ごしてきた。元凶になりそうなものは全て自分の手をべったりと汚して屠ってきたが、それで満たされることは終ぞなかった。そんな自分は、そう、今ここに立つ「子供」のままだったのだ。 暗闇に包まれた部屋で膝を抱えて座る子供のままだった。これっぽちも大人ではなかった。 「なあお袋、今も俺は生きてるぞ」 そろそろけりをつけてもいい頃合だろう。長い時を自分は生きてきた。もう大人になる時間だ。 「……ファルファレロ」 久しぶりに母親の声を聞いた。 忌むべき意味の込められた名を呼ぶ声に、棘はない。 目を見開くファルファレロの前で母親は体を起こし、倒れ掛かるように彼を抱いて撫でる。大人になる彼に、餞別を与えるかのように。 ファルファレロもか細い背に腕を回して囁く。 「Buona notte……おやすみ」 おやすみ、お母さん。 おやすみ、小さな自分。 きっと自分は生き方を変えないだろう。そんな器用には育っていない。 心を改めることもないだろう。今までの人生が物語っている。 だからせめて暗闇の中の「子供」を悼もう。 その眠りが、安らかなものであるように。 ● そろそろ店仕舞いを、と表に出かけたところで眼帯をした少女の姿が目に入った。 客だろうか、看板を確認した後エダムの前へと歩み寄ってきた。 「幻覚を見せるお店と聞いて興味を持ちました。まだ受け付けていますか」 「ええ、大丈夫ですぞ」 店内へ招き入れ、イスを勧める。少女はドルジェと名乗った。 「自分の意識は保ったままでよろしいですか。完全に幻覚に入り込むのは……少し怖いので」 「問題ありませぬ。では幻覚の最中動き回らないようご注意を、いくら広大な地を前にしても部屋は部屋なので」 「わかりました。……では、宜しくお願いします」 育ての親でもある師匠が亡くなった後、ドルジェは魔物の狩りに出ていた。その頃の記憶だ。 魔物には賞金がかかっており、大きく強ければその額も上がる。その日の相手は大型に分類されるものだった。 身も竦むような大きさの魔物がドルジェの矢で地に沈む。 「なんという素晴らしい弓の腕だ……頼む、子供たちの護衛になってくれないか」 そんな時かけられたのがこの言葉だった。 無意識に眼帯に触れる。この下に隠された金色の瞳は故郷では忌むべきものとして扱われていた。 深く人と関わるのは怖い。しかし生きるためには金が必要なのだ。 ドルジェは頷き、そして双子の護衛――下僕となった。 双子は男女の美しい子供だった。とはいえドルジェよりは少し年上で、優しく、ドルジェのことを恐れず受け入れてくれた。 そう、この目を見られるまでは。 金色の目を見た双子の性格は面影がないほど歪み、ドルジェは想像を絶する虐待を受けることになった。 それでもしばらくは我慢をしていたのだ、耐えていればまた元の優しい二人に戻るかもしれない……と。だが虐待はエスカレートするばかりで、ついには命の危機すら感じるようになった。 そうしてドルジェは2人の命を奪うことで、生き延びたのだ。 でも幻覚の中の2人は違う。 狂気に身を委ねることなくドルジェに笑い掛け、少年少女から大人の男女へと成長し、貴族として大成し幸せな日々を送る。 ドルジェはずっと隣でそれを見守っていた。 2人の幸せは自分の幸せ。そう言っても過言ではなかったように思う。 「もういいです、止めてください」 2人の主人の笑顔が残像のように消え、現実味が戻ってくる。 ゆっくりと息を吐いて背もたれに体重を預け、ドルジェはしばし余韻に右目を細めていた。 「エダム様、お聞きしてもよろしいですか」 「ええ、なんなりと」 温かな紅茶を淹れ、ドルジェに差し出しながらエダムは頷く。それを見届けドルジェは言った。 「このお店に来るお客様が何を求めてやってくるのか。彼らはどんな気分で帰って行ったのか。……エダム様はお客様にどのような気持ちになって欲しくてこのお店を開いたのか」 「これは順番に答える必要がありますな」 向かいのイスに座り、ドルジェの顔を見る。 「お客様の求めるものは様々、ですな。ここは学習塾のように明確な目標を据えて訪れるような場所ではない。求めるものは人それぞれ、幸せな記憶を見たい者、それを他者に見せたい者、あえて苦行とも言えるような幻覚を見たい者、過去にあったことを改竄した光景が見たい者……」 そう、それは人の夢の数とも似ている。 幻覚を見た後に何かを得られる者も居れば得られない者も居るだろう。だが少なくとも、前者はとても晴れ晴れとしていたような気がした。 人を雁字搦めにするしがらみはなかなか消せるものではない。なのに人によってはこうした小さなきっかけで綺麗に消え失せることがある。 「それを見るのは悪い気がしませんでした。この力を何かに使えれば、と開いた店ではありますが……今は他者の小さな助けになれば、と思っておりますな」 幸せな幻覚はきっかけになる。 苦しい幻覚もきっかけになる。 幻覚をこういうことにも活かせると知った自分は、幸せである、と言えるのではないだろうか。 「私も、もしかしたらありえたかもしれない幸せな未来……そんな夢が見たかった」 ドルジェは紅茶を口に含んで飲み下す。 「でもあまりに現実離れしていると逆に虚しい気持ちになるんですね……気が付きませんでした。私はこのお店を利用するには不適合な客だったようです、申し訳ありません」 「謝ることはありませぬ。この店を始めた理由は先ほどの通り。適合不適合はないものです。それに、虚しさと虚しい理由に気付くというのはとても大切なことだと思うのですよ」 如何ですかな、と問われドルジェは珍しく微笑みを見せた。 「もしエダム様ならば…どのような幻覚を見たいと考えますか?」 最後の問いを投げかける。 「事実は小説より奇なり――今は現実だけで満足しておりますな。しかし強いて言うならば……」 エダムはほんの一瞬考えた後、口を開いた。 「……皆様の目にしてきた様々な光景が見たい。面白きかな、絢爛豪華な旅よりも贅沢でしょう?」
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