その村は、もうすぐダムに沈むことになっていた。 時代遅れのダム建設、それでも地元議員の威信を賭け、地域復興事業の切り札となったそれを、回避するためには三十数戸の声はいささか小さすぎて……。「ヒロ、いつ引っ越す?」「もうすぐ。夏休み入ったら」 山からの清水が流れる川で、小学生ぐらいの子どもが二人、足をつけつつ水の中の揺れるスイカを眺めている。「マサは?」「夏休み終わり前。街のヒサシが来る、ゆうけえ、それまでは家におって、ヒサシんとこと一緒に肝試しして」 それが最後や。 マサは放り上げるように呟いて空を見上げる。 生い茂った草木、濃い樹木。蝉やクワガタやカブトムシ、それらを求めて走り回ったこの山も、夏が終われば水の底に沈んでしまう。「こんこさん、どうすんのやろ」「さあなあ、イイヅカんとこのおじいが、罰当たりゆうてたけど、何でもホンシャんとこが来て、よそへ移すゆうてた」「……なあ、マサ、こんこさん、お稲荷さんやろ、よそへ移せるん?」「俺知らんわ」 マサはごろりと寝そべって目を閉じる。 こんこさんはこのもう少し上にある稲荷で、四つばかりの赤い鳥居の向こうに、小さな祠があって、境内では夜店が出たこともあった。「ツチノコ、逃げたかなあ」「あんなもの、嘘たれじゃい」「そやかて、マサ」「ヒロかて、せんにこんこさんでお化け見たゆうたけど、ありゃ、古い幟やったやけ」 からかうマサにヒロは首を振る。「そんなことない、キミシマんとこのおばあが、こんこさんはレイケンあらたかやてゆうてた。おばあ、昔こんこさんでベッカイ封じたゆうたぞ?」「けけけっ、キミシマおばあ、五百年生きとるちゅうし」「あれほんまかなあ」 ヒロは首を捻る。「キミシマんとこはもう誰も生きとらん、嘘たれまくってもわからんわ」「おばあ、これからどうしよんのやろ」「山に帰るゆうとったぞ」 おばあこそバケモンじゃ、と肩を揺すって笑うマサに、ヒロがそっと尋ねる。「……ヒサシんとこと肝試し、て、川沿いのバケモン屋敷行くんか」「おうよ」 マサはにやりと笑って、引き攣った顔のヒロを見上げる。「どうせ沈むんや、最後に『カワシマくん』の正体、見たる」「なあ…やめとけへん?」 ヒロがそっと首を振った。「『カワシマくん』、逢うたら背中にくっつきよるんやで、このまま沈んだらええやろ」「あほ言え」 マサは起き上がる。「俺は『カワシマくん』見たことないんや、正体見届けたる。それより、ヒロ、大滝壺の『鳴き龍』、どうなったんや」「ああ、あれ」 ヒロはいきなり大人びた顔で肩を竦めた。「もう大滝壺から引き上げた。吊り下げた壺を縛ってた綱が切れそうで、往生しとった。古い壺やったで。これぐらいの」 とヒロは両手を、丸く円に囲う。「壺で蓋がしたって、そやけど、底は穴が開いとった。引き上げたまま、うちの庭に置いてある」「はあ? 何やそれ」 マサは不服そうに唇を尖らせる。「イイヅカのじじい、嘘たれよって。あれは大滝壺の主が鳴く声や、沈めた壺に『鳴き龍』が封じてあるゆうたくせに。お前かて、代々『鳴き龍』を護ってる家とかゆうてたくせに」「僕かて知らんかった。あの壺の穴に水が通って、鳴き声みたいな音がしてたんかもなあ」「……つまらんなあ」 マサはどさりと再び寝そべる。「こんこさんも、『カワシマくん』も、『鳴き龍』もぜんぶ期限切れや。みんなみんな水の底、や」「……蛍もいんようになるんかな」 ぽつりと呟いたヒロにマサは顔を歪める。「蛍の生息場所も限られています、ひょっとするとここの蛍は来年はいなくなるかもしれません。最後の蛍をしっかり観察しておきましょう、やろ。ウズシロせんせが夜に見回りやりよるし、一緒に見て来いや」「………マサ」「あん?」「……もう会えへんのかなあ、僕ら」「……知るけ」 ヒロもごろりと寝転がって、目に痛い青空を見上げ、「………はよ、大人になりたいなあ……」 辛そうに唸って、両手を顔にあてた。 「ヘンリー&ロバート・リゾートカンパニー」は「異世界への旅」を行うことで、一人でも多くのロストナンバーに、外へ出る機会を与え、お互いの交流や、それぞれの旅の目的への意識を高めさせることを意図している。 今回のツアーは壱番世界だ。「水没する村の最後の夏休み、か」 ロバートは企画書を捲りながら頷く。「最後だからと、あちらこちらから人が出入りしているみたいだね。既に引っ越して空き家になった家もかなりあるようだし、一晩限りなら似たような家が増えても、不思議の一つで済みそうだ」「この、大滝壺の『鳴き龍』だけど」 ヘンリーが悪戯っぽい笑顔になる。「村のお年寄り達の中には、大雨の時に滝壺から飛び上がる龍の姿を見た者がいるらしいよ。ダムに沈むとなると、龍神は黙っていないだろうから、天に帰ってもらうという『お帰り』の儀式を行うらしい。代々滝壺の守護をしていた家の子ども、小学校の女の子らしいんだけど、巫女舞いのようなことをするんだって」「じゃあ、それにも人の出入りがあるわけだな」 ふむ、とロバートは企画書を閉じ、一つ頷いた。 その日に合わせてツアーを組もうか。=============!注意!パーティシナリオでは、プレイング内容によっては描写がごくわずかになるか、ノベルに登場できない場合があります。ご参加の方はあらかじめご了承のうえ、趣旨に沿ったプレイングをお願いします。=============
見上げると、眼が痛むような青空だ。真っ白な雲が眩しく光を跳ね返している。 「…夏だなぁ」 坂上 健はさらさらと流れる沢に足を浸す。側の籠にはまだ真っ赤に熟れたトマトや西瓜が冷やされている。ぱきっと小気味いい音をたてる胡瓜を勢いよく噛みながら溜め息をつく。 自分の居住県と祖父母の居住県の警察官試験、それに皇宮護衛官の試験まで受けてみた。護衛官は完膚なきまでに落ちた…狭き門だから仕方ない。祖父母の居住県の結果通知はまだ来ない。だから自分の居住県の2回目に申し込んだ。 「試験と依頼でこの夏全然遊んでなかったもんなぁ…今日で取り返すぞ」 大きく川の水を蹴り上げる。後で巫女舞いを見に行ってみよう、そう思いながら、陽射しに目を閉じる。 その近くの山の中を、川原 撫子がひたすら歩き回っている。 「コタロさん…今何してるでしょぉ…」 この前のカンダータの依頼から落ち込んだ様子だったから、気分転換に誘ったけど、そんな気分では、と断られてしまった。 「私がもっと頼れる相手だったら話して貰えたんでしょぉかぁ…っ」 ツンときた目と鼻を乱暴に擦って歩くスピードを上げる。何をしていいか分からないからひたすら歩く。 笑う子ども達が走っていく先には、脇坂 一人と仁科 あかりの姿があった。 「すげえな、お前、細っこいのにあんなすぐ蝉捕まえられんのか!」「俺にも、俺にも!」「はいはい、順番、ちょっと待って」 一人は網を振った瞬間に、すぐ側を擦り抜けようとした鬼ヤンマを確保した。 「田舎育ちだから結構得意よ。でもカゴに入れる時は虫は自分でお願いね、怖くて触れないの。猪なら殴れるけど」 「イノシシ、殴るんかお前!」「すげえ!」 何が凄いのかわからないが、凄い凄いと騒ぐ子ども達、その先頭に立って「次はあっちだよ!」とどこへやら走り込んでいくあかりに苦笑する。 「かっちー! ほら見て!」「すげえ、でっけえ!」 それほど待つまでもなく駆け戻ってきたあかりは、黒光りするカブトムシを指で挟んでいた。ちょっと身を引きながら、 「お塩とお絞り持ってきたわ。そろそろおやつ、頂きましょうか」 「あああー、さっきの兄ちゃん、胡瓜全部食ったっっ!」 沢の籠にはトマトと西瓜しか残っていない。一人は大判のハンカチを敷き、腰を降ろす。手渡したトマトを受け取り、あかりはじっと川を眺めている。 「もう、ここ、なくなるんだよね」 集落が、沢山の人の思い出が水の底に沈んでしまう。 「せめて、思い出だけでもずっと一緒に連れていけたら良いよね……」 かぷっ、とトマトにかぶりついたあかりが、冷たああい、と肩を竦める。 「…寂しいわね」 一人も切り分けた西瓜を子ども達に渡してやりながら、山の上の方を眺めた。 つい先ほど、『こんこさん』に参ってきた。お邪魔します、出来れば今後も村の人達を見守って下さいね。そう手を合わせながら、まるで地元にいるみたいに落ち着いた。 「きゅうりーっ、もらってきたああーーっ!」 「ありがとーっ、西瓜切ってあるよーっ!」「すげえっ!」 何がすげえんだよこら、そういうお前だってすげえすげえって言ってたくせに。 げらげら笑い合う子ども達の声が空と山に響き渡る。 赤い鳥居は木製でいささか危うい状態だ。鳥居の奥には小さな祠、そこには蓋をされた賽銭箱が置かれている。 祠を中心に、螺旋を描くようにキミシマおばあを探しているのは、十体の旧校舎のアイドル・ススムくん達、全員少しずつ違う格好で、パーカーを深く被ったり、サングラスをかけたり、タオルを巻いたりして顔は隠している。 キミシマおばあの普段の居所を聞いて、一人が直行したのだが、キミシマ家は鍵もかけずに開けっ放し、おばあの姿はなかった。 どうしてキミシマおばあを探しているのかと聞かれたら、ススムくん達はこう答えたはずだ。 「言語技能持ちのロストナンバーの可能性もわっちらのような人外の可能性もあるわけでやんしょ? 子供らが心配しておばあを山へ探しに行ったりしないよう、一緒に街に行くと言って貰えたらと思いやして」 だがススムくん達が麓まで降りた頃合いで、ゼロは祠の前で空を見上げていた。 「そんなところで何をしているのです?」 ゼロの問いに答えぬまま、和装に白い足袋でちょこんと鳥居の上に正座する老婆。ゼロはゆっくりと巨大化して相手を覗き込んだ。 「おばあさんこんにちはなのです。ゼロはゼロなのですー」 赤い鳥居に正座した老婆と真っ白いだいだらぼっちのような少女の顔が並ぶ。異常な光景だが、老婆は頓着せず、村を見下ろした。 「沈んじまうね」 細い川が蛇行しながら田畑を横切る。川沿いに藁葺きの崩れそうな古い家があり、陽射しが傾いた中、わいわい騒ぎながらその家に向かう道を進む一行がいる。離れた場所には滝が水煙を上げていて、村人達が紅白の幔幕を張り巡らし、小さな舞台を囲んでいる。 唐突に老婆は鳥居の上とはとても思えない滑らかさで立ち上がった。 「どこへ行くのです?」 「ダムができれば、また戻るさ」 「あなたはキミシマおばあなのです?」 ゼロが尋ねた時には既に遅く、ぽぉん、と老婆は鳥居を蹴ってまっすぐ上に飛び上がった。両手の袖で口許を隠す、見下ろした瞳が笑っている。急いで無制限に大きくなろうとしたゼロは、突然周囲から飛び立った烏に視界を奪われる。 あほぅあほぅあほぅ。あほぅあほぅあほぅ。 周囲の烏があんまり騒ぐものだから、ゼロは仕方なしに小さくなりつつ、老婆の消えた朱色の空を見上げる。雲がピンクに、紫に、オレンジ黄金薄黄色に、灰色と青に入り交じりながら、天空を華やかに染め上げる。 「じゃあ、君らはこっからお化け屋敷に行くのかあ」 ティーロ・ベラドンナは道に迷った外国人観光客の顔で大きく頷いた。それを見た子ども達がひそひそと囁き交わしている。 「どこのやつじゃ」「知らん、いつの間にかおったし」「日本語ぺらぺらやぞ、おかしないか」 「おっさん!」 中の一人が太い眉を寄せてティーロを見上げる。なかなか不敵な面構えだ。 「目的は何じゃ。俺らに何の用があるんや。返答によっては警察呼ぶぞ」 そのシャツを、背後に隠れた子どもの一人が、マサ、止めとけ、怒らしたらどうするん、と引っ張る。仲間内が不安がっているのに、一人交渉役を買って出るあたり、相手の気概に嬉しくなる。 「オジサンも連れてってくれる?」 「は?」 「面白そうだろ。それに……残念だな。ここが水の底になるなんてな。オジサンの故郷も、海と緑が綺麗なところでさ。思い出しちまうよ」 「ふん……なら来いや、腰抜かすなよ」 「ありがとう! 嬉しいな!」 にこやかに差し出した手は軽く無視されるが構わない。もし万が一、危険なことがあれば、子ども達を守るつもりだ。 川沿いのバケモン屋敷に来るまでに、もう一人、ロストナンバーが加わった。 「お化け屋敷探検なんて子供騙しね。子供だからいいのかしら? ふふ」 唇を綻ばせるゴスロリ美少女、東野 楽園に、マサはあからさまに眉を寄せる。 「何や、こいつ、ヒサシ」「ごめん、マサ」 『カワシマくん』に興味あるんやて。 ヒサシと呼ばれた少年が慌て気味にマサに説明する間、楽園は澄ました顔で待っていた。 「たまには童心に返って遊ぶのも悪くないわね」 川沿いの屋敷は、藁葺き屋根に腐り落ちた半開きの扉、夕焼けの光の中に佇む薄暗い塊と化して雰囲気満点だった。 「マサ…今日はやめとこか…」「ええかげんにせえよ、何人女連れてくる気や」 不安がるヒサシを振り返り、マサは苛立つ。 「こんにちはなのです。ゼロはゼロなのですー」 楽園の側に対照的に真っ白な少女を見遣って、 「こんなことなら、ヒロかて連れてきてやったらよかった」 ぼそりと唸ったマサに楽園はふふふ、と小さな笑い声をたててすり寄る。 「こんなところ、埃でドレスが汚れちゃうわね」「嫌やったら来んでええぞ」 腰の引けたヒサシを促し、他にも数人の子どもを引き連れ、マサは楽園に外へと顎をしゃくる。 「女は外で待っとけ」「ねえマサ」 頓着しない楽園は進み出した相手の耳元にそっと囁く。 「貴方そのヒロという子が好きなのでしょう。だったらさっさと告白してしまいなさい。こんな所で油売ってる場合?」 「巫女舞いのヒロ見てから物言えや……俺に釣り合うかよ」 ぼそりと唸ってマサは冷ややかに楽園を見る。 おそるおそる入り込んでくる子ども達を見遣って、奇兵衛はくつくつ笑う。破れかけた障子を走る人影。紙で仕切って部屋数を増やし、壁を反転させるように子ども達をあちらこちらへ散らせてやる。 「うわああっ!」「おばけおばけっ!」 青い顔で走り回る子ども達に紛れるように、二人のロストナンバーがしっかりと手を繋いで部屋を回っていく。 「び、びびってなんてねぇよ! 暗いのが苦手なだけだかラぁ!」 真っ黒な影が降り落ちたり冷たい風が渡るたびに悲鳴じみた叫びを上げているのはキアラン・A・ウィシャート。普段のダンディさは跡形もなく、暗いのが全く駄目なのに、外は秋間近とさえ思えるほどの釣瓶落とし、見る見る闇に沈み込む屋敷に全身鳥肌をたてている。 「ぉ、お、おい! ティア、こえーだろ? お父さんともっとしっかり手ぇ繋ごうぜ!!」「うん、わかったわ、キアラン!」 離れかけた手を握り直したのは巫女姫ティリクティア、お化けはこわいけど、ここで負けてなんかいられないわ、とドキドキしつつ次々と部屋を回っていく。「ティ、ティア? もうぼちぼちいいんじゃないかな探索はほらもう……ぎゃあああああっっ!」 魂消るような悲鳴を発したキアランは涙目になりながら、いきなりふわりと紙切れとなって消えた子どもの姿に顔を伏せる。その紙切れがひらひらと漂ったかと思うと床を這い、そのままぐうっと自分達を覗き込むに至っては、さすがのティリクティアも悲鳴を上げる。 「おい、『カワシマ』っ!」 別方向から気張った声、ぐじゅぐじゅになった畳の上に仁王立ちしたマサが、しがみつくヒサシを庇いながら吠える。 「正体見せえ! どうせここも沈むんじゃ、最後ぐらい勝負しろ!」 「……ということですがねえ、どうしましょうか」 奇兵衛はゆったりと背後を振り返り、紫の瞳を瞬かせる。その光に射すくめられたように、ぼんやりとした人影は小首を傾げた。薄汚れた開襟シャツに半ズボン、裸足の痩せこけた手足、ぼこりと開いた四つの穴のような目と鼻、見る者が見れば、戦時中か戦争直後の餓死した子ども、そうわかるが、奇兵衛にとってはただの不安定な念の塊だ。しかも、この村が沈むまでも保つかどうか。 もっとも、恐怖や思いがあれば、人ならざる者は幾らでも蘇る。異世界の同胞カワシマくんの為に。子供達に思い出を。去る夏と村に、餞を。 「せっかくですから、ご一緒に参りましょうかね……そうれ」 「ぎゃああああああっ!」 仁王立ちのマサの前に『カワシマくん』が一気に迫り、マサの背後に居たヒサシ達が遁走、あるいは腰を抜かすその中で。ぐっと歯を食いしばったマサが、 「『カワシマ』っ、お前なんか屁ぇみたいなもんじゃ! さっさと成仏してまえ、水に呑まれたら逃げられへんやろが、あほがあ!」 大音声に奇兵衛は少し目を見開く。おや、ならばこの子は『カワシマくん』の正体を暴くというより、水底に沈む居場所を案じてもいてくれたのか。 「楽しんで…持っていって…連れていって下さいねェ…」 囁きながら『カワシマくん』の背中を押してやろうとしたが、そこにやってきた楽園が素早く投げた鋏の衝撃か、あっという間に霧になって消えてしまう。 「レディを驚かすなんて失礼ね。刺されても文句は言えないわ」 「すげえっ、『カワシマくん』を退治しよった!」 おっかなびっくりついてきていた子どもが歓声を上げる。 ちょうどその時、遠くからどぉん、と太鼓の音が響き渡った。 「……ヒロ」 弾かれたようにマサが振り返る。 「ゼロが記念にサービスしてさしあげるのですー」「うっわああっっ」 『カワシマくん』が出たああ、と走り出してきた子ども達は、別種のとんでも事件に出くわしていた。子ども達を掌にむくむくと大きくなっていくゼロに、悲鳴か歓声かわからぬ声を上げながら、薄墨から紺色になる空に持ち上げられたのだ。 どぉん。また太鼓の音。どぉん、どぉん、どぉん。 「あっちが巫女舞いの舞台なのです?」 「お、お前っ、何者なんだようう!」 泣き泣き叫ぶヒサシに、ゼロは顔を近づけ、にっこり笑った。 「ゼロは途轍もない遠方から来た旅人なのです」 滝壺の近くに、四阿を利用した小さな舞台がしつらえられていた。張られた紅白の幔幕、滝の前には祭壇があり、引き上げられた壺と果実が盛られた台がある。 どぉん、どぉん、どぉん、どぉん。 か細い笛が鳴り、それに従って、四阿の方から赤い袴に白い直垂を身につけたヒロが現れた。金色の飾りのついた冠を被っている。数十個の鈴を束ねたような鳴りものを打ち振りながら舞台の中央まで進むと、そこで一旦歩を止めた。壺と祭壇に向かってうやうやしく一礼、そのままゆるやかに両手を振り上げ、鈴を鳴らす。 しゃああん。しゃああん。 「本当でも本当でなくても、その方が素敵だなって思います」 吉備 サクラは持って来たスケッチブックを広げ、作る服の意匠のモチーフ探し、巫女舞いの姿や周囲に飾られた花の配置などを熱心に写している。 「なんだかしんみりするよね…」 花菱 紀虎は唇を軽く噛んで舞台を見つめる。 自分の故郷ではないけど、少し胸が痛む。 「ダムは必要なのは分かるんだ。その為に沈んだ村を皆忘れてるし忘れようとしてる。だからせめて見ておこうかなって」 眺める視線の先には白い水煙を上げる滝がある。 「竜のいる滝。そうやって滝を大事にしてきたんだね」 天に帰る竜。俺にも感じる事が出来ればいいんだけど。 同じ名前だ、これはぜひお話ししたい! そう考えた金町 洋は、巫女舞いが始まる前にヒロと逢っていた。 『声がする時間に規則ってないのかな…いかんいかん、ついこういう考え方しちゃう。けど、気になるじゃないですかー、真相。ヒロちゃんはどう考えてる?』 ヒロは改めて考え込み、 『あたし、見たことあるん』 『龍を? ほんとっ?』 『そやけど、自信ないんや。滝壺からまっすぐ上がる、白い煙みたいもん、見ただけやし……誰も信じてくれへんよ……マサかって』 昔から続くものって、思想技術関係なく根っこがあるんだ。受け継ぐ者の中にも根ざして、引き継がれていく。武術もそうだよ。だからきっと、こういうものにも、きっと根っこがあって、ヒロちゃんの何か力になってると思う。大丈夫! 深いところで支えになるから! 請け負った洋に、そうやろか、とはにかんで笑った。 「ご年配の方にもう少しお話聴いてこよっ」 洋は三々五々集まり始める村人の中に紛れていく。紛れているのはもう一人、パーカーを着てフードを被ったユーウォンだ。 「壱番世界にも龍がいるって、ホントかなぁ。見てみたいなぁ。滅多に見られないみたいだけど」 ユーウォンは紛れもなく龍だし、見つかれば大騒ぎになる。フードの奥から青い瞳を見張って、巫女舞いを眺め、人波を眺め、その奥にある滝や滝壺を見透かす。 「この世界の龍とニンゲンの関係って、不思議だね。龍にいて欲しいけど…龍の都合に合わせるのは嫌ってことかな?」 本当は滝の裏や滝壺を色々詮索したいけれれど『さよならしたくない気持ち』を大事にしたいから、後でこっそり、ちょこっと覗くだけにしようと思っている。 しゃあん、と高らかに鈴が鳴ってヒロが四阿に戻っていく。かわりに出て来たのは娘達、色とりどりの浴衣と額に結わえつけたのは面長の女性の面、どぉんどぉんどどどぉん、と鳴る太鼓に合わせ、滝を振り返り壺を招くような仕草の振り付けを繰り返す。今頃は洋が聞いていることだろう、これは娘舞い、先の巫女舞いは龍を呼び出し護りに感謝し、娘舞いにて共に暮らす日々を演じ、最後にもう一度巫女舞いを行って、龍と人との縁を切り、天に戻ってもらう意味合いがあるのだ、と。 「巫女舞いとってもキレイ! あたしも踊りたくなっちゃった! 歓声を上げて飛び込むのは臣 雀、浴衣姿に同じような面を額に結わえて飛び入り参加、見よう見まねで元気一杯飛び跳ねて踊っている。 つい先ほどまではしんみりと、これがこの世界の舞いなのね、これが最後の舞いなのね、と見つめていた華月も手を打って笑う。「さ、誘ってくれてありがとう」とおずおず告げた華月に「一緒に行く方が楽しいよ、ね!」と屈託の無い笑顔で返されて、ついついてきてしまったが、確かにこれは楽しい。巫女舞いと違っておどけた仕草も混ざっていて、それがまた雀のキュートさによく似合う。 と、雀が隅の少女の元へ駆け寄っていった。何事だろうと華月も人を擦り抜けて近づき、次の舞台までの息抜きなのか、薄化粧を落とさないままのヒロが、直垂だけを脱いだ姿で立っているのに気づく。 「ねえ、そのマサって子が好きなんでしょ? このまま離れ離れになっちゃってほんとにいいの?」 雀は早速ヒロと仲良くなったようだ。無邪気に聞かれて、ヒロが見る見る赤くなった。 「あの、でも、あたしのこと、マサは女やと思てないし」 「華月さんもなにか言ってあげてよ、恋愛道の先輩として!」 「お姉さんも好きな人、いるん? その人、お姉さんのこと、好きなん?」 いきなり振られた話に華月は硬直した。 「す、すすすすすすすきって」 ヒロは熱心に華月を見つめる。姿形は確かにまだまだ幼いが、それでも瞳に籠る熱には覚えがあるし、熱が駆け巡る体の切なさも今ならわかる。 「……鷹頼さんとは身分が違うし、想いは叶わないと思っている」 口にする名前は何と甘やかなことか。人を好きになるということは、何と我が身を揺らめかせ華やがせるものか。 「けど、私はあの人が好き。好きだと言う気持ちを大切にしている」 「好きだと言う気持ちを…大切に…」 ヒロが呟いたとたん、どぉん、と再び太鼓が鳴った。娘舞いが一気に引く。はっとしたようにヒロが身を翻して四阿の中に駆け込んでいく。 「もしよかったら告白のお手伝いするよ! なんでも相談してね!」 「…うん!」 振り返りながらヒロは嬉しそうに微笑んだ。 どぉんどぉん。ヒロが再び舞台に現れる。今度は冠がなく、手に鳴りものもない。白くて半透明の薄い布を両手に、ゆっくりと円弧を描いて回る。闇の中で音をたてて落ちる滝を背景に、その滝の水を引き寄せ舞い上がらせるような動きだ。 巫女舞いをぼんやりと眺めながら、ジャック・ハートは振舞われた酒を静かに呑む。 終わるために人が集う。準備をしに人が集まり何事かを成し又は何事も成さずに消えていく。 散り集い散り離れる。 共有する時間に意味はあったのか。 終わりに突き進むことに意味はあるのか。 終わりに向けて整う舞台や村を見ながら、酒に濁った頭でぼんやりと考え続ける。思考が虚ろな調子で口から零れる。 「人は動ける。努力すりゃ道は繋がるし、なけりゃあっさり閉ざされる」 そう、確かに子供には言える。でも自分には…? 離れたところで、同じように舞いを見ながら、身じろぎもせずジューンは考えている。 真空の中で求められる合理性と信仰は乖離している。宗派毎に相反する価値観は人を縛る。 思考の偏重が異生命体との無用な衝突を産むが故に、外宇宙に接するセブンズゲートでは宗教に基づく一切が公的教育項目から外される。 信仰とは、暖かく守られた重力の揺り籠の底でしか許されぬ思考形態だ。真空では素朴な祈りよりも合理的な思考と行動が全てを救う。 それでも。 「ここの人々の信仰が何に根差した物か、私はとても興味を感じます」 「雅でありながら躍動的な舞だ。故郷の雨乞いの儀式を思い出すよ」 イルファーンは人混みの背後から舞いを眺めながら嬉しそうに微笑む。気分の高揚そのままに、篝火が置かれた薄闇の中、少女の姿に化けて踊り興じる。指先の熱、足下への重力を感じながら伸び上がると、甘い吐息が自然と漏れた。 「気持ちいいな…大気が人の熱で潤っている」 人を愛するイルファーンにとって、目に見えぬ存在に向け人が踊り祈るさまは極上の供物にも思える。 「これは僕からの贈り物だ。天に龍を還す夜、少し位不思議な事が起きてもおかしくない……この地を守ってきた人々へ、ささやかながら感謝をこめて」 掌を握って開くと、そこに葦笛が現れた。息を吹き込み、滝壺の水を魔法で龍の形に練り、天へと駆け上がらせる。 どよめきが起こった。龍だ、龍が戻った、天へと、ほら! 「空気が澄んでいて霊力に満たされてるな…。綺麗な霊力のたまり場みたいになってる」 設楽 一意は川沿いで立ち止まった。離れた滝壺では、少し前に大きなどよめきがあがった。何でも龍が現れたらしい。これほどの清冽さなら、本物の龍ではなくとも、汚れと無縁の大きな気の塊が固められていることはあるだろう。 「今時珍しい場所だよ…けどもうすぐなくなっちまうんだな」 今のうちに霊力補充しとくか…式にもいいしな。 こうやってなくなっていくものへの諦めってどうやったらつくんだろうな、そう思う。諦めたくない気持ちと諦めたら楽になる気持ちと。その狭間でぎりぎりと捻られていくような苦痛。 「俺はどうしたいのか少し悩む時間をくれよ…」 その横を通り過ぎていくのは、タンクトップに半ズボン姿、今回はスカイ・ランナーではなく、風鳴ケイタとしてツアーに参加している。 「夏の終わりと共に消える村、か。似てるな、故郷と…」 小さく呟いたケイタに、さっきから興味津々で見ていた一人が、おそるおそる鋼の義肢について、これはなに、どうしたの、と尋ねてきた。 「これかい?…俺も、夏の終わり頃に故郷が亡くなってね。それに抗い続けた代償がこれだよ」 子どもを見下す視界の端を、すうっと淡い光が通り過ぎていく。 「…ホタルを見るのは5年ぶりか。故郷が亡くなってから5年。亡くなる前は毎年見てたけどね」 冷たいものを噛み締めたような顔で口を噤むのに笑み返す。 「俺は今も覚えてるよ、賑やかな夏の日々を」 おぼつかない足取りでやってきたジャックが、川面を微かに光りながら動いていく蛍の前で立ち竦む。酒を呑んでいた十三が大振りな器に酒を注ぎ、ジャックに渡そうとして、その上を飛ぶ蛍を見つめる。 「こんな自然の綺麗な村がなくなってしまうなんて…私の故郷にもダムがある。きっと昔はこんなことがあったんだ。仕方ないのかもしれないけど、寂しいな…」 司馬 ユキノは許可を得て村を撮影してきた。朝霞に煙る古い祠、真昼の陽射しを跳ねる田んぼ、夕焼けを背景に影絵となる山、夜闇に揺れる野草の小さな花々。 故郷がなくなってしまうなんて、きっと私だったら耐えられない。感情移入してしまった涙ぐむユキノに、ウズシロせんせが、はは、と柔らかな声で笑った。 「ダム建設はね、一人二人の意見で決めたわけじゃないです。昔このあたりは大水で数百人もの死者が出た。水害で村一つ潰れた場所もあります」 行き交う蛍が鮮やかに見えるほど、周囲には灯がない。 「こんな山奥だとね、行政の手は届かない。交通の便も悪くて、お産をするにも命に関わってしまう。住み続けてくれる医師もいない、高齢化して田畑も自助では限界がある。今はここにたくさん子どもがいるように見えるでしょう? けどね、三分の二は村外から見納めにやってきた者の子どもです。ここで住んでる子どもはもう、十人もいない」 静かに話すウズシロせんせの目はじっと蛍を追い続けている。 「ここにしかいないと思われる生き物も一杯います。ダムができれば種が絶える。それでもね、そういうことを理由に人は自分達の安全を放棄しないんです」 いつかは代償を払うのかもしれない、ならば自分のその眼で、失おうとするものを見定めておくのは一つの覚悟かも知れない。 「あ、蛍でやんス!」 妖怪だからと人気のないところに、鍛丸と一緒に佇んでいた流渡が嬉しそうに指差した。 「あっしの世界では、あっしは魚が跳ねる音と季節外れの蛍が正体だそうでやんスよ? だから、あっしは消えたんデ」 あっさりと言い放ちながら、流渡はつい、つい、と飛ぶ蛍を目で追い、ひくひくと鼻をひくつかせる。 「にしても、いい水でやんスねェ。あっしどもの仲間もいるかもしれないでやんスねェ………きっとすぐにいなくなるンでしょうが」 涼やかな流れの音、さっきまで繰り返し聞こえていた太鼓の音も聴こえなくなった。村は静かに少しずつ、眠りの中に入り込んでいくようだ。 「ここはあっしたちの世界とは勝手が違うんデしょうが、仲間の事覚えていてくれると嬉しいんですがねェ」 「儂の故郷もだむとやらの底に沈んでしもうた。そういう意味ではこの村は故郷に似ておる」 川沿いに座った鍛丸は、とろとろと優しい音をたてて流れる川面を見つめる。 「儂は結局、だむに沈む前の最後の故郷を見んかった。父上や母上、先祖や皆の墓があったのにのう。故郷の思い出捨ててしもうたんじゃ」 諦観と思慮が声を深くする。 「あの童たちは、そんな後悔などして欲しくないのう。ちゃんと故郷の事覚えていてほしいがのう」 ついい、と光の筋を引きながら近づく蛍は、交差し飛び交い、また離れていく。 「ヒロ」 巫女舞いが終わった後、据え置かれたままの壺の側に立っていたヒロは、ふいに声を掛けられて飛び退った。 「誰っ」 「……終わるものに意味がないのなら………目に映らぬものは無いというのなら」 何故、人は生きるの? 人には想う心はないの? ぐ、と奥歯を噛み締めたヒロが目を見開いてしだりを見返す。 「…終りは節目、新たな旅立ち……想いは見えずとも確かに在る」 「…で、もっ…離れたら終わりや…っ、今さら何言うても、何にもならへんっ」」 押し殺したような声を漏らして、ヒロは首を振った。 「……ここに生きたものたちの想い……あなたの想い」 しだりは壺に近寄った。虚ろな壊れた壺、祭儀の場所に打ち捨てられて、その形の意味さえ奪われた象徴。だがしかし。 「全ては今ここに在り、これからはあなたの心に在る」 しだりが壺を指差し、次にヒロを指差した瞬間、ぽつり、と突然水滴がヒロの頭を叩いた。いきなりの大雨。無数の小さな手で気づけ気づけと叩かれるような感覚に雨宿りすることさえ忘れて頭を抱えて踞る、その視界の中。 「…あ…っ」 目の前の少年が消えた、と同時に巨大なうねる水流のような、青く輝く体がまっすぐ一気に天へと突き立った。 「りゅ………ひっ!」 目を奪うほど鮮やかな龍、さっきも滝壺から真っ白な流れが天へ迸った、そう思い出したヒロは、真横から響いた轟音に身を竦める。 ごぉおおおおおおおおおおお!!! 「きゃ、あああああああっっ」 先に飛び立った龍達に呼ばれたように、壺から凄まじい音を響かせて緑がかった灰色の水柱が立ちのぼった。みしみしと震えた壺が勢いに耐えかねて砕け散る。 「マサ…っっ!」「ヒロ!」 悲鳴を上げたとたんに応じた声に振り返る。 「龍が居た!」「俺も見た!」 駆け寄る、抱きつく、抱き締め合う。 龍が居た龍が居た龍が居た。あたしの心の中に、確かに龍が居た。ならば。 「マサーーーっ、大好きーーーっっっ!!!!」 叫ぶ声に硬直した相手がおかしくて、ヒロは弾けるように笑った。
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