遠くから近づいてきた細身の青年の姿が、次第次第に大きくなる。三十歳前後、舞う風に乱れる茶色の髪をそのままに、『エメラルド・キャッスル』の入り口で待つ華月、ジョヴァンニ・コルレオーネ、吉備 サクラのもとへやってくると、立ち止まって頭を下げた。「お待たせいたしました、皆様」「それで…ヴァネッサさんのお返事は」「ドームでお待ちです」 ほ、と華月が安堵の溜め息をついた。少なくとも、会うことは拒まれなかったわけだ。もっとも、この先の方が実は難問だ、と顔を引き締める。 どうぞ、ご案内します、と青い瞳を瞬いたイルナハトに、サクラがそっと近寄った。「あの」「はい?」「あなたが見えない護衛の方ですか?」「……今はもう見えているかと」 それに私は護衛ではありませんし。 戸惑ったようにイルナハトが瞬きし、何を思い出したのか少し顔を赤らめる。「もし、よければ」 サクラが思い詰めた顔で相手を見上げる。「お尋ねしたいことがあります……構わないでしょうか」「私に、ですか?」「ヴァネッサさんにも」「それは」 主にお尋ね下さい、とイルナハトは応じ、小さな声で付け加えた。「私の全ては主のものですので」 アリッサと会う時はここを使うのだろうか。 いつかの細工物をヴァネッサに届けたときとは違うドームに招き入れられて、華月は周囲を見回す。 丸くて白い天井の下辺は、金色の蔦が絡まる長方形がぐるりと取り囲み、その中に様々な花が咲き乱れている絵が描かれている。中心には絡み合うように咲く百合の花束、そこから吊られた小ぶりなシャンデリアから光が注ぐ。床には凝った図柄の絨毯が敷き詰められ、そこここにクッションを置いたソファと椅子、テーブルが配置されている。壁は天井と似た装飾で飾られているが、黄金の蔦が囲む中心に宝石の花が開いている。 どこを見てもこうるさいほどけばけばしく派手な部屋の奥に、これもまた複雑な織柄のソファが一脚、端にどう見ても違和感のあるマントヒヒ柄のクッションが置かれているのに片手を載せて、ヴァネッサが座っている。 今日はフル装備だ。つけ髪やボリュームアップの飾り物で大きく結い上げ、クジャクの羽根のように煌めくエクステを付けた髪。濃く瞬く睫毛に、くっきり引かれたワイルドローズ色の口紅は、光を弾く緑の瞳に拮抗する。白い柔らかそうな肌には金、エメラルド、ダイヤにルビーを使ったネックレス、エメラルドの大きさはうずら卵ほどもある。組み合わされた大粒の真珠のネックレスも逸品、黄金の縁取りで飾られた緑のドレスは彼女の動きにつれて、紫、紅、金などの光を放つ。トラベルギアの『ヘヴンリー・テンプテーション』は右手に、ドレスの下で組まれている脚はヒールの爪先の黄金色がわずかに見える程度、下へいくほど深みが濃くなるドレスは立てば床に裾が引きずるのだろう、とろりとした風合いで下半身を覆っている。 眩い部屋に負けず劣らず、いや部屋の何よりも飾り立てたヴァネッサは、傲慢な表情に薄笑みを浮かべていた。「再び、参りました」 先日贈ったネックレスはどうなったのだろう。 一瞬頭をよぎった疑問を振り払い、華月は頭を下げる。「用件は?」「貴方を…」 ごくり、と唾を呑み込む。「お誘いしたくて」「忙しいわ」 ヴァネッサはにべもなく断った。「妖精郷にも手が必要なのよ」 とんだ遺産だけれど、と紅の唇が冷ややかに続ける。「でも、あの」 今日は『あの時』のヴァネッサとは違う。通された部屋も彼女の服装も、これが『公式の訪問』であり、プライベートで応じる気はないとはっきり表明している。 けれど、華月は引く気になれなかった。 脳裏に過る顔は心地よさそうに風に吹かれている。あの時の安らかな気配を頼りにもう一度口を開く。「あの日のように」「…」 ヴァネッサが目を細めた。「0世界を私と一緒に歩いてみては下さいませんか。0世界にも見事な装飾品や、息を呑むほど美しいものが一杯あります。それを貴方と一緒に見て回れたなら……とても……嬉しい…です」 動かない表情に尻すぼみになる声を必死に張る。「この部屋以上に美しいものが?」「……はい」 華月がぐっと歯を食いしばるのを、ヴァネッサがじっと見つめている。 す、とジョヴァンニが脚を踏み出す。それぞれが美を叫び立てる部屋の中で、澄んだアイスブルーの瞳が、青年のもののように爽やかに笑みかけた。「レディをエスコートする栄誉に浴せるなら本望じゃ。マダム・ヴァネッサ、どうかこの老いぼれ騎士の手をとってくれたまえ」 ぱむ、と『ヘヴンリー・テンプテーション』で自分の膝を軽く叩き、ヴァネッサはジョヴァンニの顔を見返す。「嘘つきね……老いぼれと名乗るには、まだ数百年必要だわ」 それで、と今度はサクラへ視線を移す。「わ、私は」 あなたにお尋ねしたいことがあって。 サクラはきゅ、と唇を引き締めた後、ほとんど挑むように続ける。「イルナハトさんにも」「……イルナハト?」「思し召しのままに」 問いかけるようなヴァネッサの声に、背後に控えていた青年は静かに頭を下げる。「……では」 ヴァネッサが小さく息を吐いた。「同行しなさい」「かしこまりました」「では!」 華月ははっと顔を上げる。確かに今、ヴァネッサはイルナハトに『同行』を求めた、ということは。「見せなさい、この部屋より美しいという、あなたの世界を」 立ち上がり、顎を上げて見下ろす風情のヴァネッサに、華月は大きく頷いた。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>華月(cade5246)ジョヴァンニ・コルレオーネ(ctnc6517)吉備 サクラ(cnxm1610)=========
ターミナルをヴァネッサ・ベイフルックが行く。世界図書館が揺らぐ時でさえ、『エメラルド・キャッスル』から出て来なかった彼女が、黒髪を翻しながら紫の瞳で微笑む華月に振り返られ、不心得者がいれば、すぐさまその黒檀の杖で叩きのめすだろうジョヴァンニ・コルレオーネが穏やかに側に寄り添う後ろで、興味深そうにターミナルを見回すイルナハトと肩を並べて、時折何か言いたげな表情で彼を見上げる吉備サクラという、いささか不思議な一行とともに。 「まずは……ここです」 「……『レディ・ビクトリア』ね」 「ご存知でしたか」 華月はヴァネッサの応えに一瞬目を見開き、すぐに微笑んだ。 「ご存知ないはずは、ありませんね」 「どうぞ、マダム」 華月が開いた扉を押さえ、ジョヴァンニがうやうやしく中へ導く。戸惑ったように一瞬ためらったイルナハトが戸口で立ち止まり、静かに頭を下げる。 「ここでお待ち致します」「わ、私も」 イルナハトのことばに被せるようにサクラが言い放ち、ゆっくりとヴァネッサが振り向いた。イルナハトを見つめ、サクラを見やり、再びゆるやかに頭を巡らせる。 「好きになさい」 華月を先導に、ジョヴァンニを従えて、きらきらと眩い店の中に入っていくヴァネッサの後ろ姿をサクラは眺める。 「……どうして一緒に入らなかったのですか」 同じようにぱたりと閉められたドアを見ながら、イルナハトが尋ねてくる。 「イルナハトさんこそ」 「私は主の影ですので」 「影なら付き従うものでしょう」 「影は主を守るものです」 「……ヴァネッサさんに何か起こると思ってるんですか」 「店の中なら問題はないでしょう」 ビクトリアなら安心です。 「今度はあなたが応える番ですよ」 促されて、サクラはやはり閉まった扉を見つめながら口を開いた。 「あの、皆さんの回りたいところの後で良いです。自分でもうまく言葉にまとめられないので」 ためらい、唇を引き締め、一つ頷いて続ける。 「でも、イルナハトさんが人前に出て来れるようになって、そしてヴァネッサさんが部屋にマントヒヒ柄のクッションを置いて、イルナハトさんに護衛の同意を求めてるのを見たら、頼めるかなって思いました………そうです、私、お願いがあります。ヴァネッサさんとイルナハトさんに」 「…私に?」 あまりにも意外な申し出だったのだろう、思わずと言った仕草でイルナハトが桜を振り向く。 「あの…妖精の庭に行きませんか。私、ヴァネッサさんとイルナハトさんに、子どもたちが移住した虹の妖精境を見てほしいです」 「妖精の…庭…」 イルナハトは考え込んだ表情になる。 「ダイアナ様の、ですね?」 「子供たちの移住のお手伝いをしたので、あそこが今どんな様子か分かっています。これは、今から私達や貴女が手に入れられる未来の1つだと思います、そうヴァネッサさんに伝えたいんです」 「未来……」 イルナハトの声が一層戸惑った。 「……」 華月は久しぶりに訪れた『レディ・ビクトリア』の店の中を、目を細めて眩く見回した。 光と色が溢れる空間、煌めきの洪水に呑み込まれそうになる。 世界ごとの展示スペースには前よりも品数が増え、品質が上がったようだ。 壱番世界のブランド品コーナーには虹色のファイアを見せるスフェーン、エメラルド・キャッツアイ、大粒のダイヤモンドがある。ヴォロスの宝石コーナーにはドラゴンアイズ・サファイア、虹色真珠、琥珀蝶にフェアリーピンクダイヤが並んでいる。ブルーインブルーの真珠コーナーには天然月光貝のパールとサンタマリア・アクアマリンが、インヤンガイの玉石コーナーには艶やかな黒光石と鮮やかな紅色の牡丹蜜石が、モフトピアのキャンディジュエリーコーナーには、また新たな色と香りのキャンディジュエリーが増えたようだ。 名前は知っていたが、それほど煩雑に訪れたわけではないのだろう、ヴァネッサは興味深そうに、一つ一つの石を見て回る。石だけではない、既に装飾品として完成されているものもあり、時折、棚に並べられたビロードの上の『作品』をじっと眺めている。 「あら…」 店の奥の小区画に居た女性が振り返る。手をついていた小さなテーブルの上には、ペンダントやイヤリング、ピアスなどに加工できる金属と工具、様々なリボン、クリスタルの造花などが広がっており、席についていた少女達が熱心に屈み込んで何かを作っている。アクセサリー教室のようだ。 「いらっしゃい、華月さん」 ヴァネッサに気づいてはいるだろうに、まず華月に声をかける度胸、ビクトリア・ティタニア、さすがに二つ名『幸運のビクトリア』を持つ女性だけある。 「こんにちは、ビクトリアさん。今日は、あの」 「…いらっしゃいませ、ヴァネッサ様」 長身でグラマー、鳶色の髪に紫の瞳の美女はしとやかにヴァネッサに会釈した。 「お気に召したものはございましたか」 ちらりと視線を動かしたヴァネッサがわずかに瞳を細める。 「今眺めているところよ」 時間潰しにはちょうどいいわ。 突き放した声に華月は少しおろおろする。熱心に宝石を見て回ってくれていたから、何か気に入った装飾でもあったかと思ったのだが、退屈だったのだろうか。 「品数が増えたようね」 だが、ヴァネッサは扇でインヤンガイの棚を指し示した。良く見ると、そこに玉石だけではなくて、半透明のカットされた宝石がある。 「お気づきですか」 ビクトリアがテーブルに少し待ってね、と声をかけて近寄ってきた。 「インヤンガイの魂離石ね」 ヴァネッサは石の表面を扇でそっと撫でる。と、カットされた宝石が見る見る澄み渡って、黄金色の輝きを放った。 「これほど大きなものを手に入れるのは大変だったでしょう」 「ええ、少し無茶をしました」 ビクトリアは悪戯っぽく微笑んだ。 「私は宝石を仕入れるためによく異世界へ行くのだけれど、いつかご一緒しません?」 「……この子を連れていってやりなさい」 ヴァネッサにいきなり扇でさされて、華月はぎょっとする。 「この子は細工師なの。もっと美しいものを見せてやらなくては、腕が伸びないわ」 「あ、あのっ」 華月は思わず口を挟む。 「何かヴァネッサ様にお勧めの宝石ってありますか」 「そうねえ」 ヴァネッサの返答に一瞬口を噤んだビクトリアは、 「美しいもの……それは、宝石そのものの美しさもさることながら、どの宝石にも秘められた物語があり、それこそが美しいのではないかしら、貴女の瞳のエメラルドが悲哀をたたえているように」 ちかり、とヴァネッサは瞳を光らせたが、 「よく動く口ね」 言い捨てて歩み去っていく。機嫌を損ねたか、と不安そうに瞬きする華月に、ビクトリアが苦笑しながら話しかける。 「心配しなくていいわ、いつもあんなものよ、あの人は」 それより、華月さんこそ、欲しいものは見つかった? にこやかに微笑みかけてくれる相手に、銀細工加工用として選んだ小ぶりの牡丹蜜石、それに蝶が数頭羽を寄せ集めたようなイヤリングを差し出す。 「ああ、牡丹蜜石はこのサイズならお買い得だと思うわ。そうそう、華月さんには、これをおすすめしようと思っていたの」 三日月と雪の結晶を重ね合わせたペンダントトップが、華月の手のひらに乗せられる。透かしが美しいチャームは、銀製の花びらを十枚以上重ねた繊細なつくりだ。その横に、三日月型にカットしたラベンダー翡翠があしらわれていた。そのやわらかな紫色は、どこか、華月の瞳に似ている。 「ラベンダー翡翠(ジェイド)は、『賢者の石』を胸に宿す、旅人そのものだとも言われているの。あなたが、どんな経験、どんな出会いからも、真理をつかむことができますように」 「ありがとう…ございます」 ビクトリアの心遣いが嬉しく、喜んで受け取りながら、華月はジョヴァンニが寄り添うヴァネッサを見やる。 この店で、彼女は何を選ぶのだろう。それとも、何も選ばないだろうか。 「マダムには釈迦に説法じゃろうが、他人が持ってくるのをただ座して待つより、自ら足を運んで選ぶ方が甲斐もあるというもの」 ジョヴァンニは見事な金細工のネックレスを手に取ってみるヴァネッサに囁く。 「私に自ら宝石探しをしろと言っているように聞こえるわ」 そういう意味なの、とヴァネッサは冷ややかに尋ねる。 「個人の流儀は様々じゃがの、不平をぼやいて時間を空費するより目利きの店主と話しつつ審美した方が有意義かつ充実した時を過ごせるのでは……と、これは儂の持論じゃて」 さすがにジョヴァンニは年の功、ヴァネッサの冷たい対応に揺さぶられることもなく、同じように見事な銀細工を取り上げながら、話を続ける。 「時にマダム、質問がある」 「…」 ヴァネッサは金細工をさらりと落とし、ジョヴァンニの銀細工を眺めた。 「儂はダイアナの日記を読んだ。何故嫁ぎたてのダイアナをいびっておったのじゃ?」 老紳士の指先で弄ばれるように輝き流れる細工物の光を、ヴァネッサは無言で眺め続ける。 「勘違いしないで欲しいが責めるつもりはない。もう過ぎた事じゃ。ただ……」 ジョヴァンニはアイスブルーの瞳を静かに上げた。そこに飾られている宝石は何もない。細工物もない。そこにはただ、どこからか入る光が、きらきらと眩く乱反射しながら壁に幾つか浮かび上がっているだけだ。 「女の孤独を知る同士、助け合い労わり合えていたらあの悲劇は防げたのかもしれぬと思うと残念でならん」 「……」 ヴァネッサもまた、同じ光の乱舞を見つめた。その視線に気づいて、ジョヴァンニはゆっくりと隣のヴァネッサを見やる。悲哀をたたえたエメラルド、そうビクトリアに例えられた緑の瞳が、静かに大きく見開かれ、壁の光を受けて輝いている。 「儂も最愛の伴侶に先立たれた。孤独な余生を耐え抜けたのは側近や家族の支えがあったればこそじゃ」 「……あなたは孤独を楽しむことはなかったのね」 ヴァネッサは低い声で応じた。碧緑の瞳が揺れて波打ち、ついにはその光ごと零れ落ちるかと思われたが、それは幻、ゆっくりと伏せられ閉じられていく瞳は、微かに笑んでいく唇と対照的だ。 「同じ孤独を抱えていたのかも知れないわね。けれど、たとえ私が慰めようと、彼女を満たすことはなかったでしょうよ」 淡々とした声音は光の海に紛れるほど微かに響く。 「自分の孤独を誰かが癒すべきだと感じている女と、自分の在り方が孤独と呼ばれるものなのだと感じる女では、相容れることはなかったわ」 逝ってしまった夫のせいでも、ラウルのせいでも、ましてや、ターミナルの誰かが背負うものでもないのよ。 くすり、と唐突にヴァネッサが笑い、華月が振り返る。 「純真なのね、ジョヴァンニ・コルレオーネ。あなたの奥様はそんなあなたを愛したのでしょう? 日記とは、書き手の個人的見解、ということではなくて?」 ああ、これはいいわ、とヴァネッサが手にしたのは繊細な細い鎖で繋がれた幾つものエメラルド。レースで編んだ花模様のような細工の中に散る朝露のようなダイヤモンド。 「わたくしは、一人で生きる者、なの」 時間が流れる、その姿をじっと眺めて生きるように定められた。 「それを哀しむ必要はない」 ヴァネッサは選んだアクセサリーを胸元に飾ってみながら、付け加えた。 「そう、華月が教えてくれたわ」 『レディ・ビクトリア』から出た一行が、次の場所に赴こうとする時、待ち構えていたサクラがトラベルギアの鍵の形をしたネックレスに素早く触れた。一瞬、周囲の景色が歪んだように揺らめき、続いてはしゃぐ子ども達の声が溢れる。 『ヴァネッサ様! こっちです!』『見て、ヴァネッサ様!』『ヴァネッサ様、大好き!』 口々に呼びかける満面の笑顔の子ども達、周囲は虹の妖精郷のようだ。 だが、その幻はイルナハトが息を呑んでいる間にすぐに消えた。立ち止まっていたヴァネッサが歩き出すのに、サクラが慌てて追いすがる。 「あの、あの!」 「…」 「貴女に関する報告書は何度も読み返しました。半分嫌がらせかもしれないけど、公式の訪問の場にアリッサにプレゼントさせたマントヒヒクッションを置く貴女は、他人と繋がりたい方だと思います。貴女が手を差し伸べれば、これはいつか必ず貴女の手に入る風景です。子どもたちからの親愛の情は。イルナハトさんに護衛の同意を求めるほど、貴女は細やかな方です、ヴァネッサ様。だから…子供たちにこれから何度も会いに行っていただけませんか」 今にもヴァネッサに飛びつきかねないほどの勢いでまくしたてられた声を背中に、ヴァネッサは立ち止まらない。 「ヴァネッサ様!」 「……」 「ヴァネッサ様、お願いです!」 幻覚が必要ならば、何度でも使います、だから。 「だから」 ひんやりとしたヴァネッサの声が応じて、サクラは立ち止まる。同時にヴァネッサが背中を向けたまま、彼女に問いかけた。 「……わたくしにはわからないのだけど」 「はい?」 「子どもたちは、自分に興味のない相手に対しても、無限に親愛の情を向けるのかしら」 「……」 「わたくしが他人と繋がりたい者だとして、それが子ども達であるとどうして考えたのかしら」 「…私は」 「サクラ」 くるりと振り向いたヴァネッサは、まっすぐにサクラを見る。その唇に浮かぶのは奇妙な微笑だ。 「妖精郷には出向くわ、あれはわたくしのものだから。けれど、子ども達はわたくしのものではない。ましてや、あなたのものでもない。彼らは彼らの望むものを求めればいいのよ。それに自分をあてはめるつもりはないわ」 あなたは一体何の役割を演じようとしているのかしら。 「わたくしは、この現実で十分」 それに、と歩き出しながら肩を竦める。 「あのクッションは、単なる嫌がらせよ」 アリッサにもそれは伝わっているはずだけど。 一行が最後に向かったのは、新世界図書館の空中庭園だった。 天井から溢れる光、四季の花が咲き誇り、鮮やかな緑が溢れている。 「ここは、ドンガッシュとロストナンバーの皆で作ったんです。私自身も建設にあたって、緑との調和がとれた建物がいいとアイディアを出しました」 華月は螺旋階段を上がった植物園を示しながら伝える。 新しい世界図書館は、世界樹旅団と共に歩む未来の象徴。ならば緑を取り組んだものがいいと思っての提案だった。 世界は、絶えず変化し続ける。 「あなたの部屋も確かに美しいけれど……私はこの場所を、美しいと思います」 皆で作り上げた新しい一歩の為の場所だから。そして、光と緑溢れるこの光景を、人々の笑顔を美しいと感じるから。 「ヴァネッサさんはどう思いますか…?」 彼女の後ろで、イルナハトは物珍しげにきょろきょろと周囲を見回している。その様子は、『エメラルド・キャッスル』に居る時より数段生き生きしており、しかも、ふと気づいたようにヴァネッサをみやる瞳が、明るい光と風に舞う後れ毛を見つけたのだろう、蕩けそうな色で揺れる。 幸せそうだ、と華月は思った。 「…よかった」 小さく呟きながら、もう一度ヴァネッサを見ると、彼女にジョヴァンニが話しかけていた。 「どうじゃね。ここから見下ろす景色はまた格別じゃろう」 誇らしげに示すジョヴァンニの頬も、陽射しのせいか淡く紅潮している。階下には行き交うロストナンバー達の姿がある。 「皆が皆、人生の半ばで道に迷った身の上。それでも歩みを止める者はない……… 儂から貴女へ、そして諸君らへ。ささやかな贈り物じゃ」 ジョヴァンニの黒檀の杖が一振りされると、空中庭園から図書館ホールへ、淡雪のように溶けて消える薔薇の花弁の花吹雪が舞った。 階下から歓声が上がる。手で受けて寄り添う恋人達、笑顔を弾ませて見上げる顔の中には、よく見知った友人達もいる。 華月もサクラも、思わず見惚れて手を差し伸べた。 舞い落ち損ねたのか、花弁がひらひらと一行の周囲にも舞い上がり、舞い落ちる。 「この情景を美しいと愛でず何とする?」 ジョヴァンニのことばは、花吹雪や空中庭園、陽射しや緑の鮮やかさを指しただけではなかっただろう。 突然自らの世界から切り離され、明日をも知れぬ命となって闇の航路を漂いながら、ようやく辿り着いたこの世界図書館。依頼や様々なイベントを通じて知り合い分かり合い、時に背中を向け合ってもまた、互いの信頼を育てていく仲間。哀しみを支え合い、喜びを確かめ合って築いた絆を、破壊されたあのトレインウォー。そして、それを越えてまた、新たな世界を新たな絆を結び合った象徴でもある、この新生世界図書館。 ここには破壊と創造、喪失と獲得、そして、何度千切れても結び直していく人の絆そのものがある。 「あるいは真に尊く価値ある物は、決して手で掴めぬ物なのやもしれん」 黒檀の杖を小脇に抱え、ジョヴァンニもまた花弁を受ける。 「……」 ヴァネッサは先ほど買い求めたばかりの繊細なネックレスを外した。 「ヴァネッサ様……っ!」 何を感じたのか、イルナハトが駆け寄る前に、ヴァネッサはそのネックレスを引き千切る。弾け飛んだ宝石が空中に飛び散り、一瞬の煌めきとともにどこかへ消え去っていくのを、華月は呆然と見た。 「一体……何を…」 「あなたは緑を満たし、ジョヴァンニは花を降らせ、サクラは子ども達を笑わせたいと願った……それと同じことよ」 今のわたくしにあるのは、宝石だけ。 「けれど、せっかくのネックレスを」 「そうね、他に外せそうなものがなかったから。このネックレスを投げては誰かが怪我をしそうでしょ」 始めからつけていたネックレスに触れ、ヴァネッサは続ける。 「ビクトリアには謝っておくわ。真に尊く価値ある物にしたくて、壊してしまった……と………」 ふいに。 ヴァネッサが表情を失った。 「ヴァネッサ様」「ヴァネッサさん?」「マダム?」「ヴァネッサ様?」 残る四人の声に、ゆっくりと瞬きをする。 やがて、誰もが思いもつかなかった出来事が起こった。ヴァネッサが顔を覆い、俯く。 「ラウル…」 呟きはくすくす、と小さな笑い声を伴った。 「なんて時間の無駄遣いなの」 「…ヴァネッサさん…大丈夫ですか」 おそるおそる華月が側に近づく。警戒したように顔を上げるイルナハトに、そっと笑ってみせると、相手は不安そうにヴァネッサを見やる。 「…大丈夫よ、華月」 のろのろと顔を起こす寸前、何かが煌めいてその指先から零れ落ちたように見えた。だがもちろん、上げた顔に、その雫の気配はない。 戸惑う四人を見渡し、空中庭園と、まだ空中に舞う花びらを見つめ、ヴァネッサは今まで聞いたことのない優しい声で告げた。 「宝石探しを依頼するわ」 「え?」 呆気にとられる華月に眼を細め、 「あなた達、ロストナンバーに、この先、何度でも」 「は?」 戸惑うサクラに頷き、 「あらゆる世界、あらゆる場所に向かってちょうだい」 「マダム」 ジョヴァンニに微笑み返し、イルナハトを見つめ。 いつも通り尊大な口調でヴァネッサは付け加えた。 「私の願いを満たしなさい、ロストナンバー」
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