「唐突に呼び出してすまねえな」「いえ……」 ターミナルの街角で待っていたリエは、やってきた華月の物問いたげな視線に気づいて苦笑する。「アンタからは同じ色街の匂いがするんだ。俺ほどスレちゃねえけどよ……よかったら付き合っちゃくんねえか、里帰り」「えっ……は、はい、ぜひ!」 さっくり切り出した申し出に、華月は一瞬眼を見張り、何度も頷く。髪に飾った蝶がきらきらと光を跳ねるのを少し眩げに見たリエが、チケットを示して誘う。 行き先は壱番世界、上海だ。 もちろん、リエが生きていた頃の上海とは全く違っている、それは知っている。 だが、黄浦江を挟んで、19世紀〜20世紀の租界時代に建てられた西洋建築が立ち並ぶ外灘から、東方明珠塔がそびえ立ち、リニアモーターカーが走る輝く未来都市、浦東・陸家嘴を一望すると、川向こうに行こうとした仲間のことが、否応なく甦る。 いつか、あそこへ。 光溢れ、餓えることも殴られることもない、未来へ、そう願って。 リエも夢見たことがあった、仲間達と一緒に、東洋のパリと言われたあの猥雑獰猛な上海で、のし上がり生き抜いていく夢を。だが、それも今は幻となり。 右腕と脇腹が、しくり、と痛んだ気がした。「リエ…?」「……行こうか」 心配そうな華月の声に振り返り、リエは茶色に濁った川を進む双龍舟を背中に、人民路から方浜中路へと進む。 ここは昔「上海城」と呼ばれ、租界時代も外国人は居住が許されなかった中国人だけの場所だったらしい。似顔絵や、大道芸、串焼きの屋台、赤や黄色や青で描いた看板の店、八宝粥にいろいろなおもちゃ、とうもろこしに果物を売る屋台、清朝末期の上海の街並を再現したとされる『上海老街』を抜けて、今度は北、「豫園商城」へ向かう。「上海城」をもっと北に辿れば、遠く遥かな時間の彼方では、今は福州路となっている周辺に、華やいでいた時代の徒花、遊郭街もあった。 思いは必然、時を遡る。 ナレンシフや機械やロボットが蠢く場所を離れ、世界の狭間をロストレイルで渡り、愚連隊仲間と駆け抜けたような街並を過ぎ、そして今、目の前に現れたのは、四方が高く吊り上がった瓦屋根、紅色の格子が組まれた白壁の建物だ。「ちょっと腹が空いたな」 ここに入ってみるか、と振り返るリエが指し示したのは、「上海老城隍廟小吃広場」という店だった。賑やかなごちゃごちゃ感に華月が戸惑うのに、大丈夫だ、と招く。時間が少し外れているせいだろう、観光客もやや少なめ、一階も席が空いていた。カフェテリア式のフードコート、カウンターエリアで料理をトレイに載せてレジに並ぶ。春巻き、ワンタン、小籠包、胡麻団子に焼きそばもある。「おいしそう……いい匂い」 温かな湯気が蒸し餃子から上がる。近くにはぜんざいのような甘味もある。 互いに数品選んで席に着き、交換して食べ合いながら、リエは呟く。「あの頃、こんなにたらふく食えたことなんて、なかったな」「……厳しい暮らしだったんでしょう?」「ああ……もっとも、これだけ食えてたら、官警なんて相手にならなかっただろうぜ」 どれも旨い。熱いものはふうふうと息を吹きかけねば食べられない。ひんやりした冷たいワンタン、冷え干涸びたものが当たり前だった時代に、わざわざ冷やして食う贅沢は想像を越えている。「…栄養不足で死ぬ女達なんて、ざらだった」「……病に倒れてしまえば、それきり、ですものね」 華月も思う。これほどの滋養溢れる食べ物が、ほんの少しでもあそこにあったのなら。 二人は料理を一つ一つ噛み締めて味わう。「『弓張月』でも、食えない日があるんだろうな、きっと」 ずずずっ、と蟹のスープを啜ってリエが苦笑した。「怪我や病気に十分な治療が受けられない時も、きっと」 華月も温かな饅頭を口にしながら応じる。 それなのに、なぜ。 問いはおそらく口にすることはないだろう。「ああ……旨かった」 リエが満足の吐息を漏らした。それからふと、思いついたように、「聞いたぜ、太太からお褒めに預かったって。その腕を見込んでひとつ、俺にも宝石を加工しちゃくんねーか」 ここにも宝飾店が幾つかある。「何もかも置いて行こうと思ったんだが、土壇場で未練と欲がでちまってよ。故郷との餞別の証に、カタチある物が欲しくなったんだ」 ごくん、と華月は口の中のものを呑み込んだ。 ここへ来るまでのリエの様子、時代は違えど、上海への想いは十分すぎるほど伝わっている。胸を飾ったギアも世界図書館に返還し、報告書で読んだ、虎を背に負った黒い長衫を身につけて、リエは旅立っていくつもりなのだ。 そのリエの、故郷への餞別を形にする。 鈴の音色。舞い散る菊花。石畳に響く足音。官警の怒鳴り声。仲間の息づかい。血と怒号、悲哀と切望、そして大河の向こうの煌めく都市と、背中に背負う朱塗りの格子、照らす灯火……叶った願いと叶わなかった夢の両方。 できるだろうか。「無理か?」 覗き込むリエの黄金の瞳は、賑やかな店内の光の中で、一際鮮やかで見事な石。「返事は帰りでいい。一息ついたら、もうちょっとあちこち出かけようぜ」「リエ、私…」 華月は、その瞳をまっすぐに見返した。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>華月(cade5246)リエ・フー(cfrd1035)=========
豫園商城は「豫園」と呼ばれる庭園と「湖心亭」のある池と広場を中心に広がっている商店街だ。豫園新路、豫園老街、文昌路、凝暉路とある通り、細い路地が入り組み、多くの商店が軒を連ねている。 黄金色の瞳を瞬きながら店を覗くリエと、買い物客が賑わい混み合う道で雅やかな衣服の華月は、それとなく目立つのだろう、周囲は僅かな距離を置いていく。 空中で建物を繋ぐ広告、釣り下がった赤い提灯、ぎっしりと並べられた品物の数々。 店内の壁の棚一面に器や瓶を並べ、奥のテーブルでお茶をいれてみせている茶葉の専門店がある。京劇の仮面、色とりどりの房飾り、鳥や人を描いた掛け軸、模型や子ども番組のおもちゃを売る土産物店がある。いささか暇そうに店員が品物を眺めているこちらの店は、ショーケースにありとあらゆる色の豆を並べている。 「名物の五香豆だとよ」 「可愛い…」 冷やかしながらあちらこちらを彷徨い歩き、 「何だこりゃ」 「お箸? お箸の専門店みたい」 「箸一つにどれだけかけんだよ」 「でも、いろいろなデザインもあるし……綺麗」 店の全ては覗き切れないだろう。途中で休んでアイスクリームを食べる。 「……旨えな」 「おいしい…」 壱番世界では名の知れた店、並んでアイスクリームを舐めていると、リエの想いはまたインヤンガイに飛ぶ。 きっと二度と手に入らなくなる物も多いだろう。今は気づかなくとも、腰を落ち着けてから、当然のように手に入っていたものがないと、改めて思うものも多いだろう。 それでも元々の世界に生きていたなら、この今いる壱番世界そのものが夢幻のようなものだ。 「行くか」 「ええ!」 いそいそと立ち上がる華月は次々現れる店の品物に目を奪われている。その楽しげな横顔にふと重なる顔があった。 インヤンガイでも、こんなふうに、あちこち連れて回ってやりてえな。 振り向く笑顔を想像してしまう自分が、少しこそばゆい。 「まあ……扇子!」 「こいつぁ、艶やかだ」 華月が思わず入り込んだ店には、顔どころか半身隠すほどの大きな扇子があった。入ってきた二人に盛んに店員が品物を勧めにかかる。 扇子はもともと日本で考案されたらしい。その後、中国に輸入され、両面貼りの形式となり、日本に逆輸入された。 白檀などの香木を細かく切り抜き細工した扇子、鮮烈な赤や青の下地に、桜や牡丹などをくっきり描いた扇子、文字を書き並べた扇子、龍や虎を描いた扇子……並んだ一つを取り上げて、リエがくるりと翻した。しなやかな指先で花びらのように空中を舞わせ、最後はふ、と口許に当てる。朱紅に牡丹の図柄、その上から輝く金色の瞳に、華月の胸にまとまったイメージがあった。 『返事は帰りでいい。一息ついたら、もうちょっとあちこち出かけようぜ』 『リエ、私…』 会話が甦る。 故郷との餞別の証が欲しいというリエに、自分でよければ、と応じた。 上海のことはほとんど何も知らない。お勧めの場所を案内して欲しいと願ったのも、彼が求める装飾品をどんなものにすればいいのか、そこからも考えられると思ったからだ。 豫園商城はリエが生きていた上海にはこのような形ではなかっただろう。見知った場所もほとんどないかも知れない。それでも、リエが興味を示すものを、その視線を追っていけば、望むものが見えてくる。 華月の指し示す店に頷きながら振り向くリエは、心なしか背が伸びたようにも感じる。人民服の胸元に揺れるリエのトラベルギア、それももう彼から外されることになる……母の形見を模したそれが。 『上海に来るのはこれが最後だ。嫌な事も辛い事も沢山あった。でも、どうしてだろうな、嫌いになれねえのは』 道すがらリエが話したことばが、華月の耳の内側で繰り返される。 『壱番世界が滅びちまうかもって聞いた時、真っ先にここが浮かんだ。俺にとっちゃ生まれ育った故郷……未練はとっくに捨てた筈だったんだが……おかしなもんだよな』 決して女性的ではないが、ふとした拍子に、組み敷いて手に入れたいと思わせるような色香を滲ませることがあったリエの顔が、いつの間にか別の色気を漂わせるようになった。花街育ちだからこそわかる、売られる側ではなく、買う側の華、この人なら買われてもいいと女が視線を送る男の気配。 『ここは俺が産声上げた遊郭があった街区だ。今はもうなくなっちまったが、お袋は一人で俺を産んで育てた。気性の強い女で、男を寝取った寝取らないでよく喧嘩になったもんだが』 く、と唇を歪める口許に鋭さが滲む。指差す仕草はたおやかさより、選ぶ方向を迷わない強さを感じる。 『お袋に憧れて男娼になった……その選択を悔いた事も恥じた事もねえ。体を売るのが卑しい商売だとも思わねえ。華やかに着飾って男を誘惑するお袋は、そりゃあ本当の楊貴妃みたいに婀娜っぽくて綺麗だった』 柔らかに蕩ける金色の瞳に、見つめられ奪われたいと願う女が、この先何人も居るだろう。重い過去を背負い切った後ろ姿に、どうしても命を賭けたいと望む男も現れるだろう。 「リエ……綺麗」 「よせやい」 くつくつ笑って、リエは扇子を棚に戻す。店員が口惜しそうに華月を見やる。その目には確かに嫉妬がある。 とびきりの男の視線を浴びる女への羨みと妬み。 いつもなら体が震える怖さを感じるのに、今日はそれを感じなかった。するりと側に近寄ってくれたリエが、自分を守るように歩調を合わせて店を出てくれる。そんな配慮ができるまで、熟した男が何人いるか。 鮮やかな衣服、反り返った屋根に金色の装飾で派手に存在を主張する建物群、賑やかに品物を売り込む店員、光輝をそこここに打ち出しながら、その影の部分、闇の部分がほの見える街。 まったく、上海はリエに似合いの街だ。 閃いたイメージは黒と金。だが、へたに銀を絡ませれば、ただこうるさいだけの飾りになる。 振り向いた扇子店の店員の視線を擦り抜けて、視界に入るのは凝った細工の香木の扇子。細かな図案の華やかさ。 「リエ……宝飾店に行きたいの」 「決まったか」 「でも、外で待ってて」 「…わかった」 リエは軽くウィンクする。 「ここにお袋とダチの墓がある。いい眺めだろ…あんたに見せてやりたくてな」 とっぷりとぬばたまのように暮れた街を擦り抜け、リエと華月は小高い丘に辿り着いた。振り向けば、上海の夜景が一望できる。 香を手向け、花を供えたリエが、吹き過ぎる風に紛れるような声で呟いた。 「ずっとお袋に認められたかった。でも、なんだか吹っ切れた」 顔を上げるリエは微かに微笑んでいる。 「最後まで反りは合わなかったが……あんたが好きだったよ、母さん」 取り出したのはグレイズの形見のハーモニカだった。墓石に凭れかかる姿を不遜ととるか、ようやく寄り添えた親子ととるか。唇に当て、息を吹き込む。ひなびた音色が、少しずつ艶を取り戻して流れていく。 宝石を買い求めた華月は、そのリエの様子をじっと静かに見つめている。 香の煙は死者を導く標だと言う。遥か昔に地上を離れた魂も、こうしている今地上を離れていこうとしている魂も、迷うことなく、留まることなく、次の世界に向かえればいい。 哀調を帯びた旋律は煙と絡み合いながら空へ空へと昇っていく。 ふいにリエがハーモニカを口から離した。 俯き加減の顔は風に乱れる髪でよく見えない。うっすらと赤い唇がためらいがちに動くのが見えた。 「思い出したんだ。お袋が唄った子守歌……赤ん坊の俺を抱いて、母親の顔で笑うお袋」 切なげな、柔らかな笑い声が続いた。 「……馬鹿だな、俺」 掠れた声が囁く。 「漸く気付いた……夢はとっくに叶ってたんだ………」 煙が途切れた。香が燃え尽きた。 華月は思い出す。 この壱番世界では、遊郭の客の滞在時間を線香で量っていたという。一本燃え尽きていく、その間に交わされる逢瀬。 同じようなものではないのか、この命も。 こうして一人立つ間に交わされる、悠久の時間から比べれば、幻のような逢瀬、それが人の絆なのかもしれない。 けれどそれは、かけがえがなく。 同じ時間も二度となく。 袖をすり合って後、離れていく。 リエがふいと顔を上げる。見上げる空に昇った月を、どこか眩しげに目を細めて見た後、華月を振り向いた。 「退屈な話に付き合わせちまって悪い」 くすりと笑った目元は濡れていない。少し掠れた声だけが名残、だがそれもすぐに覇気を宿す。 「あんたはどうするんだ? 元の世界に帰るのか」 「私は…」 ずいぶん長い間口を開いていなかったせいか、華月の声も掠れていた。胸元にいれた宝石をひんやりと意識する。 華月もいつか、どこかの世界へ帰属することがあるのだろうか。 脳裏を掠めた世界に、虚しさと同時に狂おしいほどの切望を感じる。 「そんな縁があれば……そんな縁を自分でつくることができたら、とても素敵ね……」 声に響いてしまっただろうか、この感情が。見返した目に見抜かれるだろうか、この願いが。 リエが一瞬目を見開き、やがてうっそりと目を細めた。 「どうするか決めるのはてめえ自身だが、達者でやれよ。辛くなったら愚痴りに来い……弓張月で待ってる」 返されたことばの自信に息を呑んだ華月に、気づいたのか、それとも気づかないふりをしてくれたのか、リエはハーモニカを握り締めて街を見下ろす。 「あばよ、上海」 俺が生まれ育った……俺が愛した街。 低く穏やかな声が別れを告げる。 求めたのはブラックガーネットとインペリアルトパーズだった。 「……」 華月は額に汗を浮かべながら細工をし続ける。 トパーズを選んだのは、トパーズの語源が「探し求める」………その延長線に幸福があるだろうから。 羨ましい。 自分があるべき場所を護るべき者を見出したリエが。 華月の心の中に踞る昏い感情を映すことばを、今細工物の中に昇華させていく。 羨ましいと思いつつ、願った場所へと帰属できるようにと思う。そういう自分であることをも願う。 「……うん」 宝石を中心に、溢れるように開く花を組み合わせた繊細なラインのイヤーカフは香木の扇子から思いついた。 ブラックガーネットの小粒を下の方に散らすのは夜景とリエの勾玉の陰。シャンペンゴールドよりやや深めの黄金色、インペリアルトパーズは牡丹の扇の後ろから輝いたリエの瞳。全てをまとめる銀細工は勾玉の陽、絡まる上海の路地。 それらが示すのは上海からの声、愛し子を闇咆哮する世界へ放つ祈りの形、それが繰り返し囁いてくれるように、未来を諦めず、人を愛し、己を愛し、そうして鮮やかに生きていけ、と。 願いを叶えていく友に、願いを叶えようとする自分の想いを載せて。 失われる世界の姿を、新たに得る縁に繋げて。 華月の指先が、愛撫するように細工を仕上げる。 出来上がったリエのイヤーカフに、少し小ぶりなイヤーカフをもう一つ揃え……華月は小さく吐息をついて額を拭った。 後日、リエは華月から宝飾を受け取った。 癖の強い髪に隠されて、イヤーカフは普段はあまり目立たない。 けれど、強い風が吹き渡ったのを真っ向から受けた時、それはリエの横顔で猛々しく輝いた、虎の本分ここにあり、と。 もう一つ渡されたイヤーカフにリエは苦笑する。 「お見通しかよ」 どうなることか、わからねえぜ。 大事そうに掌に握り込まれたそれに、華月の中ですとん、と何かが落ちた。 絆を作ろう。 もう一度。 今いる自分、そのままに。
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