公然の秘密、という言葉がある。表向きは秘密とされているが、実際には広く知れ渡っている事柄を指す。秘密とはこの世で最も脆いもののひとつ、それを打ち明け共有出来る友を持つ者は幸いである。胸に抱えた秘密の重さは人に話してしまえば軽くなるものだし、更には罪悪感を連帯所有することで深まる絆もあるだろう。 ……さて。あなたはそんな、誰かに打ち明けたくてたまらない秘密を抱えてはいないだろうか?それなら、ターミナルの裏路地の更に奥、人目を避けるように存在する『告解室』に足を運んでみるといい。 告解室、とは誰が呼び始めたかその部屋の通称だ。表に屋号の書かれた看板は無く、傍目には何の為の施設か分からない。 ただ一言、開けるのを少し躊躇う重厚なオーク材のドアに、こんな言葉が掲げられているだけ。『二人の秘密は神の秘密、三人の秘密は万人の秘密。それでも重荷を捨てたい方を歓迎します』 覚悟を決めて中に入れば、壁にぽつんとつけられた格子窓、それからふかふかの1人掛けソファがあなたを待っている。壁の向こうで聞き耳を立てているのがどんな人物かは分からない。ただ黙って聴いてもらうのもいいだろう、くだらないと笑い飛ばしてもらってもいいだろう。 この部屋で確かなことは一つ。ここで打ち明けられた秘密が部屋の外に漏れることはない、ということ。 さあ、準備が出来たなら深呼吸をして。重荷を少し、ここに置いていくといい。
一人がけのベルベットのソファ。 猫足のサイドテーブルに水差しと小さなグラス。 基本的にはそれしか用意されていないこの場所だが、今日は格子窓の向こうで待ち受ける者の好意で小さな花籠と焼き菓子が置かれ、水差しの中身はレモンを浮かべたアイスティーに変わっていた。 「……綺麗ね」 「気づいてくれる人が来てくれて嬉しいわ。よかったらお菓子も召し上がってね」 ベルベットのソファに腰を下ろし視界に入ったサイドテーブルの上の気遣いを口にすると、格子窓の向こうからは歳若い……おそらくは華月と同じくらいだろう……少女の声が穏やかに響く。 「ありがとう……あの」 華月は軽く両手を合わせてから水差しのアイスティーをグラスに注ぐ。中の氷が擦れ合ってからんと軽やかな音を立て、グラスに落ちた薄い琥珀色とガムシロップの透明が混ざり合う部分はすりガラスごしの午後の日差しを反射して時折きらりと輝いた。それは理由もなく美しくて、とても自然なことで、まるで、あの子たちと同じで。 「……」 言葉に詰まる。 喉の奥から出てきそうで出てこない醜い感情が、このアイスティーを口にすることも遮っているように感じられ、華月はしばしグラスを手にしたままそろりと視線を彷徨わせた。 「あっ! 温かいほうがよかったかしら」 「! いいえ、違うの……あの、ごめんなさい。いただきます……」 向けられた好意にはっと顔を上げ、また思い出す。 自分と彼女がどんなに手を伸ばしても届かなかった、無垢な幸せの色を。 今からの懺悔には、宛先も祈りも無い。 ただどこにも置いておけない、昏い塊と目を合わせる為の独白だ。 サイドテーブルにグラスを置き、知らないうちに震えていた手をぐっと握りしめ、華月は言葉を選び始める。 ◆ 私、先日……初めてモフトピアを訪れたの。 花を持ち帰って欲しいっていう、依頼があって……。本当に幸福な、夢のような世界だったの。どんな世界なのか、アニモフってどんな種族なのか……文献や報告書を読んでも、うまく想像が出来なかったのだけれど、とにかくとても綺麗な世界だったの。アニモフたちも無邪気で、純粋で、可愛らしかった。 それなのに、私は……あの子たちを妬んでしまったの。何も悪いことなんかしていないのに。幸せそうで、無邪気で、人から悪意を向けられるなんてこれっぽっちも思っていない、私を信じきったような姿で……それが辛かったの。だから、駅前であの子たちが歓迎してくれてたのに、私、逃げてしまった。おかしいわよね。 「……分かるわ。慣れないことってびっくりするもの」 ……そうね、私もきっと驚いてしまったのだと思うわ。でも、それだけじゃ済まなくて……だって、私の故郷、私が在った場所とはあまりにも違ってて、どうしていいのか分からなくって。 住む世界が違うって、こういうことなのよね。文字通りだけど、私とあの子たちは本当にそうなんだって肌身で感じたの。でも思ってしまった。 羨ましいって。 羨ましくて、妬ましくてたまらなかった。 私と揚羽が持てなかったもの、持ってはいけなかったものを全部、最初から持ってて、何の疑いもなくにこにこ笑って、それを私にも向けてくれるあの子たちが。 ……欲しかったの。 揚羽に、あげたかったの。 どうして? どうしてこんな時に目にしてしまったの? もう手に入らない、もうあげられない、今になって……。 どうしてあの子たちは……辛いことなんか何も知らずに生きていけるの? 幸せになりたくて、色んなことを諦めて、何でも耐えてきた揚羽と私がそうじゃないのはどうしてなの? ……私も、揚羽も、あんな風に幸せに生きてみたかった。 あの子たち、ずるいわ……。 分かってるの、そういうものなんだって、私とあの子たちは違うんだって。だけど、頭で分かってても心がちっとも追いつかない。 私に優しくしてくれたあの子たちを憎らしく思ってしまう。 こんな自分の醜さが、苦しいの。 苦しいのに、妬む気持ちが止められないの……。 ◆ 「苦しいのに……」 狭窄した喉に指をかけて、無理にずるりと吐き出したような、いびつで、黒くて、どうすることも出来ない、どこに置いておくのも具合が悪かったこの気持ち。あの駅前で、アニモフたちがただ無邪気に在るあの場所で、どうしても言葉に出来なかった思い。 無意識で歯を食いしばっていたことに気づき、それをほどこうと華月はグラスを口に運んだ。一文字に強く結ばれ張り付いた唇を、甘やかなアイスティーが優しく潤してくれる。 「今も、羨ましい?」 「ええ……とても」 羨ましい。 自分と彼女が持てなかったあれが、これが、それが。 欲しくてたまらない。 アニモフたちだけじゃない、きっと他の誰かとも比べてしまうのだろう。それがどんなに意味のないことか、どんなに醜く虚しいことか、そして自分を苦しめ続けることなのか華月は分かっている、とっくに分かっているのだ。 「アニモフみたいになりたいって思う?」 「思うけれど……」 思うけれど。その続きに相応しい言葉は見つからない。 ただ、汗をかいたグラスをぎゅっと握りしめる華月の手は、もう震えてはいなかった。誰にも言えなかった、自分でも言葉に出来なかった気持ちが、やっと顔を見せてくれたから。 「なりたいって思うなら、またここに来ればいいわ」 「……え? ここに?」 告解を受ける者が突然してみせた提案の意味が分からず、華月は伏せていた顔を上げた。つられてぽかんと開いた口が脱力しているのが自分でも分かる。 「そう、だから、うまく言えないけど……妬ましいって思う自分が嫌いでしょう?」 「ええ……好きにはなれないわ」 「だから誰にも、友達にも言えなくてここに来たんでしょう。嫌な自分を好きな人たちには見せたくないから」 「……そうね、そうかもしれない」 この街で出来た友人や、一緒に冒険に出かけた仲間たちの顔が華月の頭をよぎる。こんな風に妬ましく思うかもしれないなんて、彼女らや彼らには知られたくない。でも、思うことは止められない。こんな気持ちが自分の中に在ると、今日ここで認めて言葉にするだけでも辛かったのに。 意味のない比較と嫉妬を繰り返して、一体何が手に入るだろうか。自分が何も持っていないことをより深く知ってしまうだけで、この醜い心が膨れ上がるだけではないのか。 「だから、こうなりたいって沢山言いにくればいいと思うの。願い事は言葉にしないと叶わないのよ」 羨ましい。 ああなりたい。 だけど、なれなくて妬ましい。 それでも、なりたい。 幸せに。 妬むことも、願うことも、止められない。 そしてそれを持て余してしまうのなら。 「ね?」 「……そう、ね」 手にすることの出来なかったものが、華月にはあまりにも多すぎた。だからこそ、今から手にすることが出来るものも同じだけあっていいはずだ。それと同じ数だけ、この醜い気持ちと向きあわなければならないのだろうけれど、ここはそれを受け止めてくれる。醜いものを、醜いままに。願いを、願いのままに。 告解室は今日も、心からはみ出た誰かの声を預っている。
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