蒼い硝子窓を通して、繊細な光の薄衣となって廊下を包み込む。その上をそっと、わけもなく足音を殺して歩きながら、華月は訓練を終え汗だくの身体を引き摺って自室へと向かっていた。 この、遊女たちの覚悟と絶望と生涯を抱え込んだ、美しくも陰湿な鳥籠で、たったひとり日の下を歩く事を赦されている。その後ろめたさが、彼女に物音を立てぬよう自らを戒めさせている。 (私は所詮、ただの使用人なのだから――) この場所を護る職務にも大分慣れてきた。師である老女は相変わらず厳しく、未だに華月を一人前と扱ってくれないものの、少しずつ彼女の成長を認めてくれているようだった。 そっと、持ち上げた左手が耳の上の簪に触れる。冷たい彫金の感触。その片割れを想い出して、すこしだけ、訓練後のざわついていた心が落ち着いた。 「……揚羽、元気でやっているかしら」 右耳に蝶の簪を挿した、儚くも芯の強い、華月の親友。 別れの日、わたしは大丈夫よ、といつものように優しく笑っていた。 不安が心を充たす。彼女を身請けした豪商について、人付き合いの少ない華月の耳にも入るほど、悪い噂が絶えなかった。人を人とも思わない態度、一代で築き上げた財に胡坐を掻いた傲慢な言動。裏では女衒紛いの人身売買にも手を染めているとさえ言われていた。 金で買えぬモノはない。麗蒼楼随一の人気を誇る花魁であった揚羽を、目を瞠るような高額で有無も言わさず落籍した時、そんな事を周りに言い触らしていたらしい。 そして何よりも、門まで揚羽を見送りに出た時の、親子の貌。 思い出すだけでもおぞましい。 黒い髪を結うでもなくなびかせて、小袖だけを身に纏った簡素な出で立ちの揚羽が楼を出て行くのが、吹き抜けの上階から目に入った。 せめて、最後に一目で良いから見ておきたかった。話は出来ずとも。なけなしの勇気を振り絞って彼女の後を追うと、そこで待っていたのは二人の、小太りの男たち。裕福な衣裳に身を包んだ彼らを、使用人と思しき黒服の男たちが囲んでいる。 脚が竦んだ。談笑するその横顔を一目見ただけで、恐怖が背中を伝った。 本当に揚羽や師と同じ人なのかとさえ疑ったほどだ。蛙や蜥蜴のような、独特の冷酷さと光沢がある。 「そこの」 不意に、門扉の前で立ち尽くす華月へ息子が声をかけた。 「……あ、いえ、なんでもない、です」 揚羽の友人であるとも、別れを告げに来たとも言えず、華月は後退って口ごもる。手に持つ槍を見咎められたのか、と背中に隠し、逃げようとする少女の背を男の声は追い縋った。 「待て。名前は何と言う。お前もこの店の女なのか?」 「――違いますッ」 思わず足を止める。何を考えるよりも先に、その言葉だけは噛みつくように否定していた。必要に駆られ、覚悟を持って苦界を生きる彼女たちと、ただ逃げ続けるだけの自分を同じだと思われたくなかったから。しかしそれ以上言葉を続ける事が出来ず、背中に感じる視線のおぞましさに肌を粟立てたまま、手の中の槍を握り締めた。 「若旦那。ソレは遊女じゃァありやせん。ただの使用人です」 「そうか、それなら名を聞かせてくれ。別に構わないだろう?」 楼主の余計な訂正が入り、華月はますます逃げ場を失ってしまった。 名には言霊が宿る――そんな、大仰な話ではないけれど、何故だかこの男に自らの名を知られたくないと、必死に唇を噛み締めて俯く。 「答えなさい、早く」 重苦しい沈黙に、私の顔に泥を塗るつもりか、と楼主が詰るような視線を向ける。普段から世話になっている恩義もあってか、その命令を黙殺する事は出来なかった。 「……華月、です」 それとだけ言うと、楼の中へと逃げ込む。 爬虫類のような不快な視線が、いつまでも背中に突き刺さっていた。 鏡の中の己の、紫の瞳と視線を合わせて手を伸ばす。揚羽の月光のような蒼い瞳を重ね視る。耳の上に挿した蝶の簪をそっと外すと、長い前髪が彼女の顔を隠して、華月は少しだけ安堵を覚えた。 本当は、独りになどしてほしくなかった。 まだこの楼に馴染み切れていない彼女にとって、揚羽を喪うのは心許なかったのだ。 それでも、全てを覚悟した顔で身請け話を受け容れた揚羽を見て、華月には何も言えなかった。 (……あの子は、モノじゃなくて、一人の人間なのに) 確固たる思いは、しかしひとりであっても口にする事は憚られた。 ◇ 萌え始めた青葉を霧雨がささやかに濡らす、涼やかな日だった。 「華月」 毎日の訓練を終えた後、師から珍しく声を掛けられて華月は振り返る。 「楼主様が呼んでいるよ」 その、どこか緊迫した色を湛えた声音に、背筋を嫌な予感が奔った。皺だらけだが精悍な、女性らしさを欠いた顔つきの老女が、ただ気遣わしげに彼女を見ている。初めて見る貌だ。確かに心配されているのだと、それが判って少しだけ嬉しかったけれど。 「……はい」 唇を引き結んで、華月は神妙に頷いた。 「――揚羽が?」 「ああ。久しぶりにお前に逢いたいと言っている」 しかし、呼ばれて向かった先で聞かされたのは、予感とは裏腹の朗報だった。身請けから半年以上が過ぎて、久々の親友との対面に心が躍る。 「あの……でも、一人で?」 「そんな訳がないだろう。若旦那がうちに遊びに来てくれたから、揚羽と旦那様もついてきているだけだ」 ふと過ぎる疑問。それを裏付けするように呆れたような声が降って、華月は拳を握り締める。あの、粘着質な欲の火を燈した目と、蛙の鳴く声のようなぬめりのある言葉を思い返して、背筋が粟立つ。あの親子に囲われて、揚羽は壮健でやっているだろうか。――彼女の事だから、きっと大丈夫だとは思うけれど、やはり不安で仕方がない。 「うちのお得意様だ。待たせないようにな」 「……行って参ります」 急かすような言葉に顎を引いて頷き、華月は身を翻す。蒼い硝子細工の窓から差し込む光の下、廊下を歩く足が重い。 けれど、揚羽の様子を見られるのなら、それで構わない、と思った。 きっと、彼女も喜んでくれるだろうから。その貌を見られれば、それでいいと。 てん、てん、と毬が地面を叩く、軽快な音がする。 長い廊下を歩きながら、華月の耳はそれを聴いていた。どこかで童子が遊んでいるのだろうか。こんな遊郭で? それに合わせて、高く透明な、月光のようにはかない歌声が廊下を静かに充たしている。聞き覚えのある。蒼い蝶のような、聴く者の耳を惹きつけて離さぬ、美しい声だ。 「揚羽、――」 俯かせていた顔を上げ、思わず駆け出そうとした足を止める。ひとひらの違和感が、華月の喉を戒め、足をその場に釘付けにした。 「だあれ?」 部屋の中から、声が聴こえる。柔らかな月光に似た、蒼く澄んだ声。 それはあの時と同じ、しかし全く違う響きを伴った言葉。 立ち尽くす華月の眼の前で、障子が内側から開かれて、黒い髪の少女が貌を見せた。ぱあ、と表情を輝かせる。 「かづき」 息を呑む。 彼女を見上げる、揚羽の蒼い瞳は既に、正気の光を喪っていた。 「きてくれたのね。うれしい」 にこりと、ひとひらの曇りもなく無邪気で綺麗な笑みを浮かべる。――その幼さが、逆に華月の恐怖を煽った。 この楼に居た頃の彼女は、確かに儚く可憐な、月下の華のような美しさを湛えていた。しかしそこには、苦界の中を懸命に生きる太夫のしなやかさと、己が境遇を嘆くでもなく受け容れる強さがあったはずだった。だからこそ、彼女は花魁という立場に在りながら、無垢なまま美しく居られたのに。 それがどうだ。 今、華月の眼の前に居るのはただの、幼気な女童にしか見えない。 「揚、羽……?」 呼び掛けてみても、ことりと首を傾げて微笑むだけ。折れそうに細い首と、毬を抱く両手首に無数の擦過傷を認め、背筋が粟立った。塞がる傍から擦り切られ再び傷口を開かれたような、惨い痕だ。何をすればこのような傷が付くのか、仮にも遊郭という場所で働く華月には容易に想像がついて――首を横に振る。 有り得ない事だ。身を売って生きる太夫にすら、しては赦されない行為の筈だ。彼女たちにだって一定の尊厳は認められている。否、春を鬻(ひさ)ぐという苦を自ら飲む彼女たちだからこそ、尊重されていると言うのに。揚羽にはそれすらない。ただ彼女が手に持つ毬と同じように、玩具か、せいぜい観賞用の華として扱われているのみなのだろう。 彼女なら大丈夫だと思っていた。 どんな地獄でも、彼女なら幸せを見つけ出してくれると――そう思っていたのに。 希望の光を目の前で打ち砕かれて、華月は思わず膝から崩れ落ちていた。震える手を差し伸べれば、幼子の無垢さで微笑んだ友人がそれを取る。 「おや、ここに居たのか」 無遠慮に、揚羽の部屋の扉を開いて、ふと聞き慣れない声が彼女たちに降りかかった。 思わず顔を上げて、華月は瞬間的に、この部屋を訪れた事を後悔する。 揚羽を買った豪商の息子が、其処に立っていた。あの日、華月の背を貫いた粘着質な昏い視線が、今は彼女を真正面から捉えている。 恐怖に全身が震える。しかし片手は無邪気な揚羽に囚われて、逃げる事など叶わない。 「今日はお前に話があってきたんだ」 爬虫類のような光沢をもった、ぎらぎらとした黒目が華月を見下ろしている。男の下卑た欲望。少女にとっては何よりも耐え難いモノ。 「あの日、揚羽を迎えに来た時、俺の心はお前に奪われた」 まるで秘め事のように、至近距離から粘ついた声が華月を呼ばわる。おぞましい、離れてくれ、拒絶の言葉も形にならないほどの恐怖が彼女を支配する。 「一目見た時から欲しかった」 その言葉に、華月は慌てて己の左耳に挿した簪に手を遣る。 かつては向けられる視線が恐ろしく、長い黒髪で貌を隠し続けていたが、揚羽から貰った簪を着用するようになってから、前髪を上げ己の貌を曝して生きて行く事を決めた。――それが、こんな結果を招くなんて。 右耳の上に蝶を挿した揚羽が、おそろいね、とあの時と同じ言葉を口にする。虚ろな声だ。華月の変化を心から喜んでくれた、あの美しい少女の面影は何処にもない。ただ飼い主の言葉に同調する事しか知らない、憐れな人形。 「お前を買うよ」 全身が総毛立つ。 醜悪なまでの劣情を籠めた視線が、華月の足先から頭までを舐めるように這いずり回る。年頃の、若くしなやかな少女の肢体を、男は視線だけで蹂躙する。己を庇うように手を胸元に宛てて、華月は一歩、二歩と足を退いた。 喘ぐように言葉が零れ落ちる。 「何、を……私は、遊女じゃないのに」 「この店に居る以上、売られてきたことに変わりはないだろう? 金を積んだら楼主はあっさりと了承をくれたよ。今日からお前は、俺の物だ」 金で買えないモノはないんだ。 父親と全く同じ事を云って、男は嗤う。わらう。けたたましいまでに鼓膜が鳴り響いている。男の嗤い声が羽音に変わって、耳を埋め尽くす。逃れる事など出来ないのだと、華月を責め苛むように。 師がこれを知ったら、止めてくれただろうか。 彼女はもう年を累ねすぎていた。それが判っていたからこそ華月にあんなにも手を懸けてくれたのだろう。その弟子が、こうして仕事を継ぐ事もなく姿を消してしまう――彼女は、哀しんでくれた、だろうか。 「かづきもいっしょにいきましょう。いてくれれば、わたしもうれしいの」 淀んだ蒼の瞳で、手折られた花は謳う。 その言葉の意味は決して、華月さえ居ればどんな責苦にも耐えられる、と言った覚悟の類ではない。道連れを望む怨嗟に充ちているわけでもない。――せめて、お前ばかり幸せなのが憎いと、そんな敵意を叩きつけてくれたのならどんなにか楽だっただろう。 けれど彼女には何もない。 過去の記憶、幸せだった頃の思い出に手を伸ばしているだけなのだ、この壊れた愛玩人形は。 まるで、目の前を跳ぶ蝶が美しかったから手を伸ばし、そして握り潰す、残虐な童のように。 零れ落ちる涙が頬を伝うのも、それを男の脂ぎった手が拭いとるのも、最早彼女には判らなかった。 いずれは自分も、彼女のようになってしまうのだろうか。 「……嫌……」 翅をもがれた蝶はもう宙を舞えない。 花弁を踏み躙られた花はもう、誇らしく咲く事もない。 「嫌ぁぁあああああああ!!!」 己のものとは思えない絶叫が喉を塞ぎ、絶望が、暗闇を呼んだ。 <了>
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