一面に広がる草の海は、いずれも身の丈180をマークしている三人の膝上ほどの辺りで風をうけ波打っている。草の海はヴォロスの一郭に悠然と広がる広大なものではあったが、視界の先には切り立つ岩山の姿があった。 「この海を越えれば、今度は岩と砂の海があるらしいな」 口を開いたのは虚空だった。大きなカバンを背負い、上空に広がる蒼空のように深い蒼眼を細めて視界の先を見据える。涼しげな音を奏で揺れていた草原ののどかな風景からは一転、踏み入ろうとするものの足を打ち砕くようにそびえるその岩山は、そこから向こうに続く新たな大地の入り口でもあるのだという。 「さっきの村の人がそう言ってたもんな。岩と砂の砂漠かあ。俺、ちょっと興味あるなあ」 満面に笑みをたたえ、悠々と腕を組んだ姿勢で蓮見沢理比古は声を弾ませた。虚空が少しばかりげんなりとした面持ちを浮かべ振り向き口を開こうとした矢先、それを制するように先んじて口を開けたのは清闇だった。 「時間があれば行ってみるのもいいかもしれんな」 赤い光彩を放つ左目を眇め、清闇は片手を腰にあてた姿勢で紫煙を一筋吐き出した。 「マジで? 楽しみだな!」 清闇の言葉に理比古の表情が一層明るく輝く。清闇はにまりと頬を緩めると、理比古の肩を軽く叩いた。 ふたりのやりとりを見守っていた虚空は、ひとり、腹の底で深々と息を吐く。 世界司書のもとへ赴き、今回の依頼を受けたところから、虚空の頭を悩ませる今回の一連は始まったといっても過言ではないだろう。 依頼の内容は比較的にシンプルなものだった。なにしろ、『ヴォロスで竜刻を飲み込み凶暴化している魔獣が確認できた。これを鎮め、竜刻の回収を、との事だったのだから。 当初は虚空と理比古のふたりだけでヴォロスの地に降り立つはずだった。理比古を主人と慕う虚空は、理比古にはかすり傷のひとつも負わせまいと心に決め、司書からの依頼を受けたのだ。――だが、司書はさらに言葉を続けた。「もうひとり同行者がいる」と。そうして開いた扉から入ってきたのが清闇だったのだ。清闇は煙管をふかしながら現れ、場にいた虚空と理比古をみとめると「おう」と片手を持ち上げ笑ったのだった。それに対し、理比古は「お久しぶり!」と満面の笑みをもって応えたが、虚空はまさに酢を飲んだような表情を浮かべ、理比古の肩越しに清闇を見やっていた。――三人が顔を合わせるのは、今回が初というわけではないのだ。清闇の顔を見た瞬間、虚空の脳裏を鮮やかに染めたのは前回の対面時における苦々しい記憶の数々だった。 跳ねるような足取りで清闇に近付いていく理比古の背中を見ながら、虚空は力一杯に眉をしかめる。清闇は理比古の腕を軽く叩き、軽い挨拶を述べた後に視線を虚空に投げてよこした。 「おまえ、確か虚空だったな」 親しげに頬を緩め歩みを寄せようとした清闇の動きを避け、虚空は世界司書の部屋を後にするべく早足に足を進めた。 「何泊ぐらいになんのかな。なあ、虚空。司書さんの話聞いてただろ? 鉱石が採れるんだってさ。ちょっと興味あるよな」 虚空が部屋を後にしたのを早足で追いかけてきた理比古が笑った。その笑顔があまりにも穏やかな陽光のようだったので、虚空は思わず足をとめて目を細め、つられて笑みを浮かべてしまった。 確かに、司書はそんな話もしていた。依頼をこなすための現場は岩山であり、その岩山からは鉱石がとれるのだと。その鉱脈から得られるもので生計を立てている村があるのだが、魔獣が荒らぶるようになってからは鉱石を採掘しに赴くこともできず、日に日に生活は困窮しているのだという。 鉱脈から採掘されるものが何であるのかは分からないが、確かに興味はある。採掘されたものを用いた何らかの細工があるのであれば、そしてそれが見事なものであったならば、それを理比古に贈るというのもいいかもしれない。 そこまで考え頬を緩めた、次の瞬間。 「楽しみだなあ、理比古」 司書室に置いてきたはずの清闇がいつの間にかすぐ横に立っていた。反射的に清闇の顔面に裏拳を見舞ってやりたい衝動にかられたが、 「さっさと行くぞ」 そう言って先導し歩き始めたことで、虚空はその衝動をどうにか飲み込んだのだった。 岩山が鋭利に切り立ったものであるように見えたのは、古くから採掘などの手がくわえられ続けてきたためだろう。近くに来て検めてみれば、そこここに口を開けたままの穴があるのが確認できた。ためしにいくつかの穴を覗いてみたが、中には居住地として使われていたのであろう痕跡が見られる穴もあった。岩壁に挟まれるようなかたちで伸びる道の中でも広めに整えられている路地には岩を切り作ったのだろうと思しき敷石が敷き詰められていた。それもおそらくは古い時代からかけて作られ続けているのだろう。敷石は見目にも新旧の違いが見てとれた。 「この先に砂漠があるのかな」 「だろうな」 理比古の言葉に清闇がうなずく。司書が開いた地図によれば、確か砂漠の咲きには大きな河があったはずだ。その河まで行けば、近辺にこちら側とは別の文明がひらけているかもしれない。思いを馳せ目をすがめた清闇の耳に、虚空の声が届いたのは、そのすぐ後のことだった。 「ここか?」 呟きながらひときわ大きくあけられた穴に足を踏み入れた虚空の姿が清闇の視界から消え、今度は大きな爆発音のようなものが空気を震わせたのだった。 明かりもなく、陽も届かない穴の中は文字通りの闇黒で包まれていた。真新しい穴なのだろう、岩を切り出すための道具や生活道具のようなものがそこここに散乱している。だが、進めば進むほど、穴の中は雑然とした色を色濃くしていく。内部の岩は削り取られたというよりは爆風により吹き飛ばされたものであるようにも見えるし、散乱したものはまるで何かから慌てて逃げるときにばら撒いたもののようにも見える。 虚空は足のすぐ近くに転がっていたランタンを拾い上げ、壊れた箇所がないかどうかを確認した後、肩の上に陣取っていたヒンメルに言って点灯してもらった。途端に視界が仄明るくひらく。周囲の様子が見えるようになり、同時に鼻先をかすめた生温かな風に目をすがめる。 ランタンをかざし、前方奥を見据え、そうして次の瞬間、虚空は片腕で鼻と口を覆い舌打ちをした。 視界の奥、かろうじてランタンの明かりが届いているその先に、直径だけで見ても悠に2、3メートルはあるだろうと思しき蛇の顔が突出していたのだ。それもひとつではない。ふたつ、みっつと顔を突き出してきたそれらは、生臭い呼気を吐く三つ首の蛇――否、蛇に似た姿をした魔獣だったのだ。次いで虚空は咄嗟に気付き、鼻と口を塞いで後ずさる。 漂う生温い風は、魔獣の右端の顔から発せられている。ガスによく似た臭気だ。そして、真ん中の顔がゆっくりと口を開く。ぬめりを帯びた舌の上、ちろちろと揺らめく火のようなものが見えた。 「くそっ!」 呟き後ろに飛び跳ねたのと同時に、真ん中の蛇の口から炎を含んだ呼気が吐き出され、空気は一瞬の後に大きな爆風へと変じた。 「虚空!」 先に走り出したのは理比古だった。理比古は段のある足場を飛ぶような足取りで走り、ほどなくして虚空が入っていった大きな穴の傍にまで達した。 穴の中からは激しい熱を帯びた炎が噴出し、しかし反面、その穴を中心とした岩壁は霜をつけた状態で凍りついている。 「こいつは……」 理比古の後ろで清闇がぽつりと落とす。「虚空!」理比古がもう一度声を張り上げた、次の時。 「アヤ」 トラベルギア“涅槃”を構え持った姿勢で虚空が理比古の前に降り立った。 魔獣の三つ首がそれぞれに異なる呼気を吐き出すのを把握した虚空は、吐き出された毒が炎に反応し爆発するタイプのものであるのを瞬時に理解したのだ。穴の中では分が悪いと踏んだ虚空は空気が爆風に巻き込まれるより前にその場を一時退避、噴出してくるであろう炎を避けるため、壁を跳ね登り、魔獣が虚空を追って外界に現れるのを待つことにしたのだった。 「ここは危ない」 いつ魔獣が出て来るかもわからない。もっともいつ何時どこから攻撃されようとも、虚空は必ず理比古を護る自信を持ち得てもいるのだが。 言いながら理比古の腕を引き、場を離れようとした矢先。やはりいつの間にか傍に立っていた清闇が目をすうと細めて笑みを浮かべた。 「あれが件の魔獣ってやつか」 愉悦を含んだ声がそう紡ぐ。理比古は「え!?」と言いながら好奇心をあからさまに表した顔で清闇の視線の先を追った。つられ、虚空もまた同様に振り向き、たった今後にしたばかりの穴の中を検める。氷と黒い炎に燻された穴の奥、魔獣のものと思しき咆哮が響き渡った。 「来るぞ」 清闇が紫煙を一筋吐き出しながら口を開く。 爆発音が轟き、辺りの空気が大きく震えた。岩が崩れ、砂埃が上空にまで吹き上がる。同時に炎が三人の目と鼻の先で爆ぜた。 「アヤ!」 理比古を抱え大きく跳躍して炎から離れた虚空の腕の中で、しかし、虚空は目を丸くして声を弾ませた。 「すごい!」 「は!?」 「大きいね!」 「!?」 理比古があまりにも嬉々とした顔でそう言うので、虚空は思わず肩越しに振り向き主の視線を追い、その先にあるものを見定めた。――そこには、やはり、穴倉を壊し外界へ躍り出た魔獣の姿がある。全長はおそらく30メートルを超えるだろう。三つ首をかまえた大きな蛇――いや、見れば、魔獣の背に一対の皮膜の羽があるのが知れた。広げれば30メートルをも超えるだろう。しかも、 「あいつ、飛ぶのか?」 清闇が隣で口を開けた。横目にその顔を検めてみれば、清闇もまた喜色を浮かべた面持ちでいた。 「おまえら」 虚空が思わず口を開いたとき、再び爆発音が三人の耳をつんざいた。 「しかし!」 涅槃を構え持ち、理比古を後ろ手に庇いながら、虚空は改めて言葉を繋げる。 「あの司書も、このサイズのものをなぜ、たった三人だけのパーティに割り振ろうとする!」 言いながら涅槃を数本魔獣に向けて投擲した。涅槃は魔獣の真ん中の首の目の上に刺さり、魔獣は咆哮をあげて空気を震わせる。天空を仰ぎ噴き上げる炎が空気を赤黒く染めた。 「うわ! 痛かったのかな!? こいつって今、竜刻の影響で暴れてるだけなんだよね? いつもならもっと大人しいのかな」 言いながら、理比古は目を輝かせる。 「かもしれねえな。ところで、この手のヤツを見ると毎回思うんだがな」 続けて口を開けたのは清闇だ。 「首が三つあるヤツってなァ、普段はどういうふうにもの考えてんだろうなァ」 「あ、そうだよね。会話したりするのかな」 「でも繋がってる先は同じなんだぜ?」 「じゃあ腹へるときは同じタイミングでなのかな」 「おまえら!」 のんきに会話を始めたふたりを制するように、虚空がついに声を荒げる。 「お前らもうちょっと緊張感持てよ!」 叫び、再び涅槃を魔獣に向けて射放った。 「なんで俺だけ仕事してんだ! 特におまえ! 少しは手伝え!」 虚空が指差したのは清闇だった。清闇はしばしぽかんと口を開けて虚空の顔を見据えていたが、ほどなく頬を緩めにやりと笑みを浮かべる。 「手伝ってるぜ?」 言いながら煙管をぷかりと吸う。次いで吐き出した一筋の煙が、長くしなやかな鞭のような形状を模っていた。口から煙管を離しそれを軽く振るう。パァン、と、甲高い音を鳴らし足場としている石を叩き壊した。 「鞭か!」 理比古は感心したように目を輝かせる。 「悪いな。竜刻は吐き出してもらうぜ」 清闇はそう言って再び煙管を動かした。紫煙から変じた一振りの鞭はしなやかに動いて空気を裂き、右端の首に絡み付いて締め上げる。 「吐き出す? 吐き出すってことは、こいつ、飲みこんじゃったのかな?」 鞭を絡めとり笑みを浮かべている清闇の顔に目を向け、理比古が首をかしげた。 「たぶんな」 「じゃあこいつを殺さないと取り出せないのか?」 「どうだろうな」 「イヤだよ! 村の人たち言ってただろ? この魔獣、元々はすごくおとなしいヤツだったんだって。今はちょっとおかしくなってるだけなんだよ。殺さずにどうにかできないかな!?」 理比古はそう言って悲痛な表情を浮かべ、心配そうに魔獣の姿を見つめる。 魔獣の眼を狙い涅槃を構え持ったばかりだった虚空が、理比古の声を耳にして動きを止めた。 「どうにかなんないかな、虚空!」 そんな虚空にすがりつき、理比古は今にも泣き出しそうな顔をする。 「おま、またそんな無茶振りを」 言って小さなため息を落とし、しかし虚空は構え持った涅槃から攻撃の色を打ち消して目を細めた。 魔獣の首は、今やひとつを残し動きを封じられている。残るは左端の首。氷を吐き出す首だ。残された首は他のふたつを気にかけるでもなく、ちろちろと冷たい呼気を吐き出そうと構えている。吐き出す呼気は空気を白く染めていた。 「どうにか……って言ってもだな」 この魔獣が竜刻を飲み込んでいるのなら、それを吐き出させるより他に術はない。――おりしも、今、首ふたつの自由は奪っている。残る首はひとつ。うまい具合に導くことができれば、残るこの首が竜刻を吐き出してくれるはずだ。 「やってみる価値はあるんじゃねえのか?」 虚空が考えていることを察したかのように、清闇がささやくような口ぶりで告げる。虚空は小さな舌打ちをひとつして清闇を睨みつけ、それから理比古の顔に目を向けて口をあけた。 「俺とこいつとで首を押さえる。 アヤ、あいつが竜刻を吐き出すように促すことはできるか?」 虚空の目がまっすぐに理比古の目を射抜く。理比古は深くうなずき、虚空の目を見つめ返した。 「まかせて。……すぐに終わらせる」 言うが早いか走り出した理比古を、魔獣の残る首が追う。氷結の呼気を噴出した魔獣は、しかし、その次には投擲された涅槃数本によって動きを制されていた。 魔獣によって崩され足場を悪くした鉱山を走ることは容易ではない。が、理比古は何ら気にとめるでもなく軽々と足場を越え走った。 魔獣の腹のどこに竜刻があるのかは判らない。けれど、少しでもはやく、魔獣を元の大人しい姿へと戻してやりたいとも思う。 魔獣は首を制され焦りを覚えたのか、あるいは怒りのせいだろうか。 皮膜の羽を広げ空を目指して飛び上がろうとした魔獣の腹に、理比古が掌底で衝撃を与えた。 魔獣が咆哮をあげる。空気が一層大きく震え、岩壁のいくつかがその振動を受けて大きく砕けた。 竜刻を吐き出した魔獣は一変し大人しい生き物へと戻り、まるで礼を述べるかのように、三つ首すべてがばらばらな動きで頭を下げた。まるでお礼を言ってるみたいだね、と、理比古は笑いながら魔獣の腹を撫でる。先ほど攻撃をくわえてしまった箇所だ。 「ごめんな。痛かったよな」 言いながら腹をさすり続けてやっている理比古を見据え、清闇は再びのんきに煙管をふかす。 「理比古。約束通り、行ってみるか? 砂漠へ」 なんなら俺が背中に乗せてやるから、砂漠向こうにある大河を見に行ってみるのいいだろう。そう続けて述べた清闇に、理比古が表情を輝かせたのは、まるで当たり前の結果のようだった。虚空がそれを止める隙も与えずに、理比古は「清闇を一緒に遊びに行く」ことを決めてしまったらしい。 虚空は中身の詰まったカバンを再び背負いなおし、腹の底で深々としたため息を吐いた。魔獣の三つ首が虚空に甘え添うように顔をすり寄せてくる。 気が付くと、理比古は竜化した清闇の背に乗り、上空めがけて飛び上がっていた。 「アヤ!?」 「虚空もおいでよ! 砂漠を超えて、向こうの河に行ってからお菓子を食べよう!」 「荷物はお前が持てよ。あと、お前は砂漠を走って越えろ」 言い残して高々と笑い飛び去っていった清闇の後ろ姿を、虚空はしばし呆然と見送っていたが、すぐに我に戻り悪態をつきながら走り出そうと構えた、その時だ。 魔獣の三つ首すべてが、虚空の足もとに寝そべるようにして首をたれた。そして何事かを言いたげな表情を浮かべ、虚空の顔を覗きみている。 「……乗れってのか?」 まるで独り言を落とすかのような語調で。 魔獣は虚空の言葉にうなずくように首を動かした。 「そうか」 言って、虚空は魔獣の背に飛び乗る。 「悪いな。……あいつを抜かしてバカにしてやろうか」 魔獣の首を叩きながらそう言うと、魔獣は応えるようにそれぞれの首で咆哮をあげた。 ヴォロスの空に舞い上がる。岩山の壁に落とされた魔獣の影は一息に小さくなった。 「行け!」 虚空が口を開くと同時、魔獣は速度をあげて岩山を越えた。 前方に理比古を乗せた清闇の姿が見える。 虚空が、砂漠の向こうを流れる大河のことを思い、その顔に満面の笑みを浮かべていた自分に気がつくのは、もう少し先に進んだ後のこと。今はただ、広大な砂漠の上に、速さを競い合うようにして飛ぶふたつの影があるばかりだ。
このライターへメールを送る