ブルーインブルーでしばらく過ごすと、潮の匂いや海鳥の声にはすぐに慣れてしまう。意識の表層にはとどまらなくなったそれらに再び気づくのは、ふと気持ちをゆるめた瞬間だ。 希望の階(きざはし)・ジャンクヘヴン――。ブルーインブルーの海上都市群の盟主であるこの都市を、旅人が訪れるのはたいていなんらかの冒険依頼にもとづいてのことだ。だから意外と、落ち着いてこの街を歩いてみたものは少ないのかもしれない。 だから帰還の列車を待つまでの間、あるいは護衛する船の支度が整うまでの間、すこしだけジャンクヘヴンを歩いて見よう。 明るい日差しの下、密集した建物のあいだには洗濯物が翻り、活気ある人々の生活を見ることができる。 市場では新鮮な海産物が取引され、ふと路地を曲がれば、荒くれ船乗り御用達の酒場や賭場もある。 ブルーインブルーに、人間が生活できる土地は少ない。だからこそ、海上都市には実に濃密な人生が凝縮している。ジャンクヘヴンの街を歩けば、それに気づくことができるだろう。●ご案内このソロシナリオでは「ジャンクヘヴンを観光する場面」が描写されます。あなたは冒険旅行の合間などにすこしだけ時間を見つけてジャンクヘヴンを歩いてみることにしました。一体、どんなものに出会えるでしょうか?このソロシナリオに参加する方は、プレイングで、・あなたが見つけたいもの(「美味しい魚が食べられるお店」など)・それを見つけるための方法・目的のものを見つけた場合の反応や行動などを書くようにして下さい。「見つけたいものが存在しない」か、「見つけるための方法が不適切」と判断されると、残念ながら目的を果たせないこともありますが、あらかじめご了承下さい。また、もしかすると、目的のものとは別に思わぬものに出くわすこともあるかもしれません。
コーウ、と鳥が鳴く。頭上を仰げば、白い海鳥がゆったりと旋回している。 波型の翼を緩やかな風が押し上げる。それは鳥の飛翔を手助けしているようでもあった。風は優しく鳥を抱擁し、海へ、街へと吹き降りていく。 清涼な風を感じた気がして、露店の親父は汗を拭う手を止めた。潮風のように心地良いのに、潮風とは異質な――そう、まるで淡水の清流のような風だ。 「覗いてもいいか?」 眼帯を着けた黒髪の男が立っていた。引き締まった体躯に鋭利な容貌。しかし、赤い隻眼は不思議と人懐っこい。 「らっしゃい、どれも貴重だぜ。何せ土壌が少ねぇからなあ」 「へェ……綺麗だな」 赤に黄色、オレンジ。燦々と輝く太陽のような果実が競うように並んでいる。だが、男が目を留めたのは緑色の果物だった。色鮮やかな果実たちの中で、掌に収まるほどのその実だけが固く青いままだ。 「お目が高いな、兄ちゃん。こいつは俺のイチオシでね」 嬉しそうに話し出す親父を男が楽しそうに見つめている。 「見た目はこんなだが、甘くて美味いんだ。初めてこいつを食べた奴は本当に幸運だったと思うぜ。小さくて青いから最初はだァれも見向きもしなかった。だからこいつは“幸福な偶然”って呼ばれてる」 「いい名だな。十個くれ」 「ヨッ兄さん、太っ腹!」 隣から冷やかしに似た声がかかった。振り返れば、商魂逞しい別の店主が腕まくりしている。 「こっちも見てってくれよ。今朝揚がったばかりの魚さ」 「お、美味そうだな」 「味見してくかい? こうやって串に刺して……」 通奏低音のような雑踏と潮騒の間を風が吹き抜けていく。 「暑ーい!」 少年は網を投げ出して太陽を仰いだ。仲間達も汗と砂にまみれながら網を手繰り寄せるが、掛かったのは海藻ばかりだ。 「ほんとに魚なんか獲れんの?」 「獲れるよ! 隣のおっちゃんが言ってたもん!」 傍らの港は漁船で賑わっている。威勢の良い掛け声とともに下ろされる荷からはきらきらと光る魚が降って来て、少年たちの悔しさに拍車をかけた。 「楽しそうだな。魚獲りか?」 という声とともに涼風が首筋を撫でる。振り返ると、眼帯を着けた黒髪の男が立っていた。市場で魚でも食べてきたのだろうか、口の端に串をくわえている。 「楽しくなんかないやい」 少年は頬を膨らませて空の網を指す。男は果物の紙袋を抱え直して楽しそうに笑った。 「そろそろ獲れると思うがなァ。あの辺りなんか怪しいと思うぜ」 陽光を弾く水面に目を投げ、一点を見つめる。 その時だ。 「あっ!」 声を上げたのは誰だっただろう。 ぴちぴち、きらきら。銀色の光が海面で躍っている! 少年たちは歓声とともに網を投げた。男も一緒になって魚獲りに興じる。銀色の腹を見せる小魚達はたやすく網にかかり、あっという間に手元へと引き寄せられる。 「兄ちゃん、すげーな! 隣のおっちゃんよりすげーや!」 「はは、そうか。可愛い子供らに魚を獲らせてやってくれって海に頼んだのさ」 「へえ?」 不思議なことを言う男だ。だが、人好きのする笑顔の前ではそんな疑問など些細なこと。 「兄ちゃん、その紙袋……あっ、すげー!」 「ん? そんなに珍しい果物なのか?」 「持ってるといい事があるんだ。えっと、せれんでぃっぷ!」 「違うよ、せいれーん!」 「ちげーよ、それじゃ海魔じゃんか!」 わいわい言い合う少年たちの前で男は大笑した。果物の名前なら知っているが、ここで正解を披露するのは無粋だ。このやり取りをもう少し眺めていたい。 賑やかな少年たちの頬を大らかな風が撫でていく。 太陽が水平線に沈んでも街の活気は変わらない。汗の引いた肌を撫で、風は喧騒の酒場へと吹き入る。 「あんたたち、いい加減にしな!」 雷の如き女将の一喝。しかし酔いどれ達はその程度では怯まない。掴み合い、殴り合い、椅子を担ぎ上げ……。争う男二人の真ん中で、女将の愛娘が盆を手に右往左往している。 「いいぞやれやれ!」 「男は腕っ節よォ!」 「随分賑やかだな」 酔っ払いのヤジに混じって涼やかな風が吹く。おや、と振り向いた女将は紙袋と魚籠を抱えた眼帯の男を見た。いつの間に入って来たのだろう。 「何の騒ぎだ?」 「あたしの娘を嫁に欲しいってんで大喧嘩さ。毎日毎日、やんなるさね」 「娘って、あそこにいる白くて細い子か?」 「いい女だろ? ま、あたしほどじゃないけどね」 でっぷりとした腹を揺らして女将は胸を張る。男は「その通りだ」と笑い、威勢良く腕まくりした。ぼきぼきと指を鳴らしながら男たちの中に割り込んで行く。 折しも乱闘は最高潮。相討ち覚悟で両者が拳を繰り出したその瞬間、一陣の風が吹き抜けた。 「……お」 「な、に?」 がっちりと手首を握られ、二人の動きがぴたりと止まる。 「威勢がいいのは結構だがなァ」 黒髪の男はどこか愉快そうに二人の顔を見比べた。 「あの子を見な、困ってんだろうが。本当に好きなら困らせるんじゃねェよ」 「るせぇ、すっ込んでろ!」 「男なら聞き分けろ」 握った手首を骨ごと軋ませる。 「俺は楽しい酒が飲みてェんだ。――な?」 凄みのある笑顔に気圧され、酔いどれ二人はぶつくさ言いながら引き下がる。豪快に笑ったのは女将だった。 「ありがとうよお兄さん。さあさ、仲直りの宴会だ! あんたはちゃんとお礼を言いな!」 豪快な母親に背中を押され、華奢な娘が男の前に進み出た。白い頬がほんのり上気している。 「おやおや、ポーッとなっちまって。このお兄さんに惚れたのかい?」 「お、お母さん!」 「何……だと……」 酔っ払い達は愕然とした。よそ者に看板娘をかっさらわれたと誤解したのだ。絶望を絵に描いたような表情に男は思わず吹き出した。 「畜生、ヤケ酒だ! 女将! ありったけの酒持って来い!」 「つまみもな!」 「そいつァ名案だ」 打ちひしがれる荒くれどもと肩を組み、笑い合う。皆、細かいことは気にしないたちだ。 「良かったらこの魚も使ってくれ。獲れたてだぜ」 「悪いねえお兄さん。おや……そっちの紙袋、もしかして」 小さな緑色の果物に気付き、女将はぱっと顔を輝かせた。 「セレンディピティじゃないか! やだよ、今日はほんとにツイてるねえ!」 「そいつァ良かった」 男は破顔した。 陽気な宴が続く。調子外れの鼻歌が響く。人いきれで汗が噴き出る。 輪の中心に居た男はいつしか奥の席に腰掛け、杯を傾けながら酔っ払い達を眺めていた。 (これだから人間ってやつは愛しいんだ) 慈愛めいた笑みを浮かべる男の横顔を女将の娘が気にしている。 「おーい、おかわり!」 「は、はい」 慌てて給仕に戻ろうとした娘の髪を涼風がさらう。 あ、と振り返ったら、いつの間にか男の姿は消えていた。――来た時と同じように。 街を吹き抜けた清風は防波堤の先端で静かに止まった。 小さな漁船が濃紺の海に出掛けて行く。きらきらちらちら、海面に無数の光が乱反射する。月光のようにも、魚のようにも、海の精霊のようにも見えた。 船を見送るように目を細め、清闇という名の風は煙管をくゆらせる。此処には人間と人間の営みが満ちている。海にも、陸にも。 手にした紙袋の底には緑色の果物がひとつだけ鎮座していた。行く先々で分け与え、残ったのはこれだけだ。 「セレンディピティ、か」 “幸福な偶然”という意味の名を持つ果実には爽やかな甘みが詰まっていた。 (了)
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