「どこへ行くの」 「ロアンを探しに行ってくるよ」 「……僕も行くよ」 だいたい三日に一度の割合で、このやりとりが博物館の扉の前で繰り返される。枝折流杉は展示ケースを磨く手を止め、扉の前で今にも外に出ようとそわそわするロアンに向かって、磨き布を仕舞ってくるから少し待つように言いつけた。 「一緒は楽しいね、ふふ」 掃除用具入れに磨き布とホコリ取りを仕舞い、軽く手を洗って、流杉は博物館の扉へ急ぐ。いつも勝手に外を出歩くのではないかと思ってしまうのだが、一緒に行くよと言えばロアンは必ず、行儀よく待っている。今日も目印の小瓶を首から提げて、待つように言いつけたときと同じ場所に立って、でも扉には手をかけてそわそわと、ロアンはちゃんと待っていた。 「お待たせ」 「行こう、ロアンを探しに」 三日に一度の長い散歩。 ロアンは流杉の手を取って歩き始め、流杉はその一歩後を、見守るようについていく。 ◆ この不思議で長い散歩に付き合うようになってから、僕はロアンのことを深く知るようになった気がする。 「迷子のロアンを探しているんだ、どこかで見かけなかったかな?」 ロアンはいつも、ロアンを探している。ロアンが言うには、ロアンは勝手にロアンから抜け出し、ロアンの形をとってその辺りをうろうろとさまよい歩いているらしい。何故ロアンからロアンが抜け出てしまうのか、どうしてそれはロアンの形となるのか、そもそもロアンがさまよいたがるのは何故なのか……元のロアンは何も知らないし、そもそも興味が無いのか、知ろうとも思い出そうともしない。 僕としてはそれでも構わなかった。どこかへ行ってしまうロアンたちをロアンと探して歩くのはまあまあいい暇つぶしになったし、先に言った通りロアン自身も知らないロアンの謎めいた一面を、ロアンの足取りや行動から知ることが出来て興味深い。とはいえ、そんなロアンが興味を示すのはもっぱら、ターミナルの街並みをゆく生きた人々だけだ。だから僕がロアンのロアン探しについていく必要があるのだけど。 「迷子のロアンを知らないかい?」 「えっと……ロアン、とはあなたのことなのよね?」 「そう、ロアンはぼくだけど、ロアンは勝手にあちこち歩きまわるんだ」 ロアンが僕の手を放してとことこ小走りになるのは、話しかけたい誰かを見つけた合図。買い物帰りと思われるご婦人の手を取って、にこやかに話しかけ始める。だが急に手を取られ、ロアンを知っていない限り意味の通じないことを聞かれたら戸惑うのも仕方ない、彼女は言葉に詰まりながら腰が引けている。 「ロアン、困っているからやめてあげて。……驚かせてすみません」 「ええ? でもロアンを知っているかまだ聞いていないよ。それに、このひとはとても手があたたかいんだ」 「きみのことを知らない人だろ、それなら迷子のロアンも知らない。……困っているって言っただろ」 「そうか……。そうだね、突然ごめんね。どこかで迷子のロアンを見つけたら、ぼくに教えてね」 常に、この繰り返しだ。今回はまだ素直に引き下がった方だと思う。生きたものに触れたい気持ちがどうにも先に立って、尋ねた相手がロアンを知らなくてもお構いなしに手を離そうとしない。ロアンを探すのはたぶんただの口実で、本当はこうやって生きたものと触れ合いたくて、ロアンは長い散歩を楽しんでいるんだろう(事実、迷子のロアンが何かしでかしてしまったり、ロアンが迷子になったのが理由で元のロアンが困ってしまったようなことは、僕がロアンと知り合ってから起きたことがない)。 「ほら、行こう」 「うん。ばいばい、またね」 「……?」 まだぽかんとしているご婦人に頭を下げて、僕はロアンに手を伸ばす。これを拒むロアンではない。ロアンは嬉しそうに僕の手を取り、また迷子のロアンを探す短い旅、長い散歩に戻るんだ。 「今日はなかなかロアンが見つからないね?」 「ロアンも探され慣れてきたのかな……いつもはキミみたいに誰かに触っているから分かりやすいのに」 ロアンが勝手に抜け出てしまった感覚は分かるようで、ロアンは時々どこか、どこでもないところを見つめている。何体ものロアンが抜け出て困るのは、僕ら博物館のメンバーや懐かれた街の人々だろう、ロアンは特に困ることもなさそうな気がする。 どうしてロアンはロアンを探したがるのだろう。 「ロアンはいつも迷子のロアンを探しているけど、たまには帰ってくるのを待ってみれば?」 「ロアンは帰ってこない。いちどどこかへ出歩き始めたら、ロアンは楽しくて戻ってこないと思うよ」 「へえ……」 ロアンは、勝手に元のロアンから抜け出し、ふらふらとさまよい歩く。 そして抜け出たロアンは、元のロアンへ戻ってくることはない。 だから探している。なるほど。 「それに、ロアンは寂しがりやだから」 「? 寂しがりなら、帰ってきそうなものだけど」 「探されたがってるんじゃないかなあ。よくわからないけど」 ああ、と合点がいった。 ロアンはよく、残留思念の宿った遺品や遺物を持ち帰っては博物館に飾りたがる。ロアンが言うには、残留思念は取り込んでロアンになってしまうらしいが、それらが迷子のロアンになって外をふらついているのかと思えば、なんとなく納得出来る。 「だからロアンは遺品を探して持ち帰ってくるの?」 「そうかもしれないね、遺品の思念はロアンになって、自由に歩けるようになるから……迷子になりたがるけど、やっぱり誰かに探されたいんだろうね」 「なるほどね」 そんなやりとりの後、ロアンはまたぱっと僕の手を離した。耳をぴんと立ててとことこと走る先には、美味しいと評判でいつでも行列の出来るクロワッサンの店がある。 「……ああ」 行列の先頭から最後まで、ひとりずつに話しかけるであろうロアンの姿を想像して、すこし頭が痛くなった。今日の散歩は、いつもより長くなりそうだ。 ◆ 「ほら、ロアン」 「だめだよ、まだ皆に聞いていないよ」 「そうじゃない、その子を離してあげて」 「ねこちゃん、痛いー!」 クロワッサンを買おうと列に並んでいた小さな男の子、この子がロアンに興味を示したのがまずかったか。怪訝な顔をせずロアンの話を聞き、手を握られても驚かない子の反応が嬉しかったのだろう、ロアンは彼を行列から引っ張りだして遊び始めてしまった。遊んでいて楽しくなると手の爪が出てしまうのは猫らしいといえばそうなのだが、手を握られている方の子供からしたらたまったものではない。子供が喜んでいるうちは、と静かに見守っていたが、列を離れて自分より小さな子供に本気でじゃれついてしまうのを見ては仕方ない。 「ロアン、痛がっているからやめて」 「えっ、痛かった?」 「痛いよー!」 「あ、ご、ごめんね……」 目尻にうっすら涙を浮かべた子供が、ロアンの手を振り払い行列に戻ってゆく。またやってしまったと気づいたロアンは子供の背に何か声をかけたそうにしていたが、やがて少し沈んだ面持ちで僕の手を取り歩き始める。 「爪を出したのはまずかったね」 「気をつけないといけないね」 ロアンは、人の痛みがわからない。心の痛みとかそういうものではなく、痛覚が理解出来ないらしい。だから力任せに子供を引っ張っても、爪を出して引っ掻いてしまっても、それがどれだけ痛いことなのかがわからない。それを防ぐために僕がロアンのロアン探しにつきあっているのだが、今日は止めるタイミングが少し遅かった。 ロアンは決して悪気があってそうしているのではない、それは僕には分かるし、博物館のメンバーにも通じている。ただ生きているものが好きで、触れてみたいだけ。それでも時々、こうしてやりすぎてしまうから、ロアン探しには僕がいないといけないことが多い。そういえば、一人でロアン探しをしている時にどこだったか誰もいない部屋へ入ってしまったと言っていた。とうとう空き巣のようなことまでしてしまったかとすこし焦ったが、中の中にはちゃんと人がいてその人と話をした、たいそう楽しかったと言っていたからまあ大丈夫なんだろう。 「もうしないように気をつければいいよ」 「そうだね、もうしないよ。次にあの子に会ったらごめんなさいを言わないとね」 「……言わせてくれるといいんだけど」 「だいじょうぶだよ」 ……ロアンは、とても純真だ。 ◆ 「ああ、いたいた」 博物館を出て、人通りの多そうな住宅街、飲食店街ときて、商店街にまで足を伸ばす。今日初めて、鼻をひくひくとさせて何か匂いを嗅ぎつけるような仕草を見せたロアンが、僕の手は離さずにあっちへ行こうと僕を急かす。 「……見つけたの?」 「あそこに居るよ、やっと見つけた」 ロアンが空いた片手で示す先には薬屋がある。暇そうにレジに立つ店番の青年がこちらを見てぎょっとした。同じ姿のロアンが二人も視界に入ったんだ、仕方ない。 「ロアン、帰ろう」 「!」 薬屋にいた迷子のロアンは、元のロアンの呼び声に耳をぴくりと振り向かせ、『見つかっちゃった』とでも言いたげな、いたずらっぽい表情を返して元のロアンの手に触れた。すると迷子のロアンはふっと消え、元のロアンはうんと頷いて僕の手を少し強く握る。 「戻ってきた?」 「戻ってきた、今日はもう迷子のロアンは居ないかな」 「そう」 ロアンが意識せず、勝手に増えて外を出歩く迷子のロアンの足取りや記憶を共有しているわけではないらしい。今のはただ、帰ってきたことに頷いたようだ。 「今のロアン、誰かに触っていなかったけど」 「そうだね、……おや」 立ち去ろうとする僕を、ロアンが引き止める。見れば、ロアンは店番の青年よりも、この薬屋そのものにひどく興味を示しているようだった。壁に取り付けられた棚に積んである錠剤の瓶や、塗り薬のチューブがおさまっているであろう紙箱、粉薬を飲むためのオブラート……そんなものをじっと見つめている。 「薬に興味があるの?」 「薬があると、ロアンは安心する」 ロアンが喉をぐるると鳴らす。どうやら本当に、ロアンは薬を見て安心を覚えているらしい。 「亡霊は薬とは無縁だと思ってたけど……食事もとらないし」 「それでも、安心するんだ」 「……ふうん」 どうして安心を覚えるのかは分からない様子で、ロアンは耳をへたりと寝かせた。聞いてはいけないことだったかな、と思い、気づけば僕は財布を取り出していた。 「安心するなら、買ってあげるよ」 「ほんとう? それは嬉しいな」 とたんに、ロアンが微笑みともに僕に期待を込めた眼差しを向けた。 「いいよ。すみません、この風邪薬と胃腸薬と……あと、絆創膏をください」 ◆ 「ありがとう、これでロアンは大丈夫」 片手で薬屋の紙袋を宝物のように大事に抱え、もう片方の手は相変わらず僕と繋いで、ロアンの長い散歩はそろそろ終わろうとしている。ほんとうは、博物館の皆がそれなりに使う機会のありそうな薬を選んだつもりなのだけど、ロアンがあまりに大事に持っているから、それを言い出せない。まぁ、安心するなら買ってあげると先に言ったのは僕だけれど。 「ロアンは大丈夫、薬があるから」 「そんなに安心? ……亡霊になる前は、病人だったとかかな」 「さぁ?」 そろそろ、博物館の門構えが見えてくる。 今日の散歩は特別長かったような気がするが、きっと三日か四日もすればまた、飽きずに僕はロアンと一緒にロアンを探しに行くのだろう。 ただいま、博物館。 おかえり、迷子のロアンとロアン。
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