初めに、幸なる力があった。 次に、幸なる力によってもたらされた生命があった。 幸なる力にはふたつの顔がある。それは音色と静寂と呼ばれる。 音色と静寂は幾度ものぶつかり合いを経て、するどい熱を持った風の精と、重たく冷ややかに湿った風の精を生み出した。風の精たちはなおもぶつかり合いを繰り返し、彼らのせめぎはやがて大いなる渦を生んだ。 大いなる渦は波となり、渦と波は全てをひとしく平らかにした。 生まれ落ちる生命は渦に生まれるが、すべては渦に飲まれ消えゆくさだめにあった。 それらは流転する虚無であった。 幸なる力は無尽蔵に生命を生み出したが、ただいたずらに費やすばかりであった。 やがて渦の中から、数えてはならぬ数の大いなる獣と、数えることが不可能な数の大いなる竜が生まれた。彼らは幸なる力、流転の前に屈することなく生命を全うしようという意志があった。 だが彼らは争いを携えて生まれてきたため、大いなる獣と大いなる竜の数が定まることはなかった。 大いなる獣は言った。 生めよ、増やせよ、我らの礎を築くため。 大いなる竜は言った。 戦え、あらがえ、我らの志を高らかに叫べ。 大いなる獣と大いなる竜の争いは幾星霜にもわたった。 しかしある時、大いなる獣の子であり大いなる竜の子であるひとつの生命が生まれた。 大いなる獣の子であり大いなる竜の子でもある生命は告げた。 手を取り、身を寄せ、我らはひとつの幸なる力とならん。 大いなる獣は大いなる竜に胎の交わり方を授けた。 大いなる竜は大いなる獣に火と風の御し方を授けた。 このようにして、大いなる渦のさなかにひとつの世界が生まれた。 幸なる力と大いなる渦によってひとしくかき混ぜられた世界には、大いなる獣と大いなる竜の子らが生み落とされた。 大いなる渦はいつか止まる日を迎えるであろう。 そのとき、大いなる獣と大いなる竜によってもたらされた新しい幸なる力が、世界をひとしく平らかにするのだ。 幸なる我らの大地は、流転の止まる日を待っている。 (エトボ紀行口伝 半狼族の古叙事詩より抜粋) ◆ とある辺境の部族から預かった手紙を届けるべく、ユーウォンは届け先である半狼族の一行を探し旅をしていたことがあった。この世界においては珍しいことではないが、彼らは定住の地を持たず、一族郎党の他にジャイと呼ばれる動く灌木の群れを引き連れて季節ごとの移動を繰り返す種族である。 彼らはジャイを仮の住居としており、ジャイは彼らに守られることによって種の命を長らえさせているという関係にある。何十本ものジャイが寄り集まった光景はまるで小さな森のようで、彼らを探し当てたユーウォンはそれをたいそう気に入った。この仕事が終われば特に何の預かり物もなかったため、ユーウォンはしばらくこの半狼族とジャイの群れとともに旅をしてみることにしたのだった。 「おれみたいにヨソから来たやつが一緒に来るのは平気?」 「そんなこともある。多少神経質なジャイが在るかもわからんが、おまえは概ね歓迎されているように思うぞ」 「そっかぁ。じゃあ遠慮無く一緒に行かせてもらうよ」 半狼族の長は部外者のユーウォンにも気さくに接し、次の仕事があるまでのんびりしていけばいいと鷹揚に構えていた。彼らはこの土地に仮住まいを移してからそれなりに時間が経っているようで、次に月が満ちたらまた移動をする段取りは既にユーウォンが彼らを訪ねる前から決まっていたらしい。それでも構わなければ、と長が尋ねれば、ユーウォンは二つ返事でそれを了承した。 「知らないところはワクワクするよ、みんなもそうじゃない?」 「おまえは好奇心が旺盛なのだな」 安住の地を探し旅を続けているのだという半狼族の言葉に、ユーウォンは無邪気に首を傾げたが、そういう考えのいきものも多いことを知っている。それ以上の追求は避け、あいまいに頷いてその話は終わった。 ◆ 「ねえ、山の向こうの話を聞かせて?」 「いいよ。おれが手紙を預かった部族はね……」 一人旅のように、荷や手紙の宛先を探しながら生活するユーウォンの話に、半狼族のこどもたちはすっかり夢中。いつでも旅先での話をねだられてしまう。 「じゃあ、そのヒトたちは山のなかに暮らしているの?」 「そうだよ、山は木もたくさんあるし、川が流れていて、ニンゲンの食べ物はたくさんあるからじゃないかなぁ」 「いいなぁ! わたしたちも山のなかに住んでみたい」 目を輝かせてユーウォンの話に耳を傾けるこどもたちも、やはり安住の地を求めている様子がうかがえる。 「みんなはどこかひとつの場所に暮らしたいの?」 「うん、おひっこしはあんまり好きじゃないんだ」 「そっかぁ。みんなおれの旅の話を聞きたがるから、みんなも旅が好きなんだと思ってた」 「だってユンの知ってるところとわたしたちの知ってるところは違うでしょ?」 いつのまにか略されていた名前に笑みをこぼしながら、ユーウォンはこどもたちの話に興味深げに聞き入る。ユーウォンのように旅人たちがかつて見てきた土地の話を聞くことは、この半狼族にとっては次の移住地を決める大事な情報収集らしかった。 いずれはジャイたちもどこかに根を下ろしたいのだろうか、そんなことを考えながら、ユーウォンはこどもたちの相手をし、自分の中にふつふつと形はなさず湧き上がる疑問に名前をつけられずに、ひとり小さく首を傾げた。 ◆ ユーウォンが半狼族の移動集落に加わってから二十日ほどが過ぎたある日。かねてより、土地を移したら行うことが決まっていた成人の儀についての話を耳にした。 「成人の儀はこの集落に生きるすべてのものが見届けねばならないのだ。よかったら隣に列席を願いたい」 「うん、喜んで。めったに見られないんだろ? 楽しみだなぁ」 老いも若きも、健常な者も、蹇も、もちろんジャイの群れやたまたま加わった旅人も。この集落で生活を共にする全ての者に祝福されることが、半狼族の新成人にまず必要なのだという説明を興味深く聞くユーウォン。特にしなければならないことは無く、ただ儀式の輪に加わり最初から最後まで見届けるだけでよく、後には盛大な祭りが待っているのだそうだ。 「ここ十年ほどは永らえる者が少なくてな」 「そっかぁ……」 この世界の過酷な環境は、生き物には総じて甘くない。 ユーウォンが出会ったどの土地のどの種族も、皆一様に生きることそのものが生きていく上での最も大きな課題だった。食料を確保し、安全な場所で睡眠を取り、知恵を持つ老いた者守り、若いこどもたちを育てる。この半狼族とジャイのように、利害の一致した異種族同士で過ごすのも賢い選択肢のひとつなのだろう。 だが世界は時折、一瞬にしてその顔を変える。たとえば今半狼族たちが歩いているこの乾いた地面が、次の瞬間大きな川になってしまわない保証はどこにもないのだ。半狼族の長が苦々しげに、これまで成人の儀を迎える前に亡くなってしまった若者たちの名を挙げ目を伏せた。 「リガ、ダンゾ、ビージィにユニ……ネロスとロビクの兄弟はまだ五歳にも満たないうちだった」 ユーウォンが見届けるであろう儀式の主役、コニーと名乗った若者は、悔しげな長の横で胸を張り、刺さりそうなほどのまっすぐな眼差しを長に送る。 「死んでいった者たちの魂はジャイに宿り俺たちと共に在る。無念のうちに魂となった者たちをこれ以上流離わせることなく、安らかに眠らせてやるのが俺たちの願いなんだ」 「安らかに……」 ユーウォンは、コニーの言葉を頭のなかで何度も繰り返し、その意味を考えていた。 ◆ とある山の麓、小川のそばを新しい仮住まいとしたその日の夜、半狼族の成人の儀はおごそかに執り行われた。 立ち枯れたジャイの幹や枝を使って作られた打楽器のリズムに合わせ、コニーが焚き火のそばに踊り出る。緋色と青灰色の布をそれぞれ手に持ち、両手で渦を描くように踊るコニーの姿は、この世界の創世神話をあらわしているのだと、ユーウォンは隣に座る老狼に教わった。 __我ら、大いなる獣の子なり __祝福せよ、祝福せよ __世界は新たな力を待ち望む 独特の旋律が添えられた古い祝詞に合わせ、儀式の興奮は高まってゆく。 この世は大きな渦のように力と力がせめぎ合い、それらは新しい命を生み続けかつ奪い続けているのだという。そしてそのようにして続いている世界はいまだ完成には至っていない。かつて生き延びるために大いなる竜と手をとった祖先のように、半狼族は魂を宿すジャイの樹と共に在り、安らかで平らかな世界の完成を待ち望む……それが、半狼族がこの世に生まれた意味なのだと、創世の神話は高らかに歌い上げる。 「(おれはもしかして、この儀式にいちゃいけないのかな)」 新しく知る半狼族の文化に触れることはとても楽しみにしていたが、その成り立ちを知り、実際に目にして、ユーウォンはどこか居心地が悪そうにもぞ、と座り直す。世界の完成、それはここで生きるものの全てをひとしく取り巻く、変化を繰り返す厳しい環境がそうでなくなるということだ。何故だか知らないが、ユーウォンはそれを心の何処かでよしとしなかった。 「(変わらないものは、ないよ)」 世界は、変わり続けている。 それはヒト一人の力でも、共に暮らす集落の力をもってしても、そうやすやすと変えられるものではない。だからこそ変化の中にきらめき、生きようとする命は美しい。 「(わかるけど)」 コニーの咆哮が、仮初の森をざわりと揺らした。 古より続く半狼族の願いも、大いなる渦の前には小さな力なのだろう。 この儀式は美しく尊い。 世界の安定と安寧、その上で安らかに育まれる命と眠る魂。うたかたの夢よりなお儚い悲願を追い求め、いつ散るとも分からない命を輝かせる彼らの在り方を象徴しているようだ。 創世の時代、大いなる獣は大いなる竜と手を取り、新しく幸なる力を求めた。 だが、新しい力はまた新しい渦を生み、また多くの命や思いがそこに潰えてゆく。そのことを、ユーウォンは誰に教わるでもなく、何となく肌身で知っていた。 彼らの願いが、願いのままで在るように。 彼らの命が、どうか最後の瞬間まで強く、強く輝くように。ユーウォンは新たに生まれた半狼の若人に、彼らとは違う祝福の祈りを捧げた。
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