「やあヴェスナ」 文字通り手紙を胸に抱いて孤児院を後にしたヴェスナは、ものの五分もしない内に呼び止められた。何故かいつも後ろから掛けられる、頼りなくも誠実そうな声は、安心もするけれど。他に用がある時は、正直言って疎ましくもあった。「……あらロラン、また来たのね。毎日私のお尻ばかり見てて飽きないの?」 ヴェスナは手紙をうしろ手に隠しながら振り向いて、男の習慣を皮肉った。「酷いな。僕は唯、」「冗談よ。それで?」 早速ばつが悪そうな彼の様子に少々意地悪が過ぎたかと反省し、今度は屈託の無い笑顔で用件を問う。大体予想はつくのだけれど。 彼女の態度にロランは安堵したらしく、竦めた肩を並べて歩調を合わせる。「全く、君にはかなわないな。もうすぐユビキタスだ。今年の予定は?」「去年と同じよ。孤児院の子達と過ごすわ。皆楽しみにしてるし、それに」「『ジェドの家だから』、かい? なあ、ヴェスナ。その……彼はもう」「言わないで」 聞きたくない、そんな事。 だが、ロランは前に立ちはだかるようにして、尚も食い下がった。「君だって知ってる筈だ! ディナリアに往くって事は、つまり」「聞きたくない!」 ヴェスナは声を荒げて遮った。遮らねばならなかった。皆まで言葉にしてしまうと、彼が、ジェドが、本当にもう戻らないような気がして。 幼馴染のジェドは、経営難の孤児院を援助すべく志願兵となった。 唯でさえ異業種より高額な給与は、ディナリア往きが決まると、更に跳ね上がった。幸か不幸か、その意味が判らぬほど、ヴェスナは無知ではなかった。 かくして孤児院は救われ、代わりにヴェスナの側からは――ジェドが消えた。 彼は、活躍しているのだろうか。そんな日など永久に来なければいいと思う。 いっそマキーナに怯えて、逃げ帰ってしまえばいいとさえ思う。 そうすれば、幾らでも甘えさせてあげられる。抱きしめてあげられる。 でも、その可能性が万に一つも無い事を、ヴェスナは知っていた。 子供の頃から、ジェドは誰よりも勇敢だった。 年下で背も小さかったくせに、ヴェスナの事を守ると一方的に約束された。 あれから幾年も過ぎて、上背を抜かれて、すっかり逞しくなって。 その事に一抹の寂しさを覚えた矢先の出来事だった。「……悪かったよ。だけど僕は唯、君の幸せを願ってるだけなんだ。君はいつも誰かの為に尽くしてばかりいる。神様とか、孤児達とか、……あいつとか。立派な事だけど、偶には自分を労わってもいいじゃないか! 聖雪祭くらい他の奴に甘えたって神はお目溢し下さるさ。例えば僕にだって――」「ロラン。気持ちは嬉しいけど、私は……」「やっぱり、僕じゃ駄目かい?」「ごめんなさい」「いいんだ、判ってた。前聖雪のナターシャのチケットが一枚、街角のゴミバケツ行きになるのは残念だけどね。それじゃあ、もう行くよ」 ロランの姿が見えなくなってから、ヴェスナは再び手紙を胸に抱いた。 少し前、ディナリア軍は前哨基地の設営に成功した。戦死者も出たらしいが、その中にジェドの名前は見当たらなかった。なら、この手紙は届く筈。 彼は、約束を覚えているだろうか。どちらでも構わない。唯、「私は唯、貴方の幸せを願っているだけなのに……」 ヴェスナは先のロランと同じ言葉を呟いて、ノアを覆う無機質な空を見上げた。 ***** カンダータには、そのものクリスマスと良く似た行事がある。 『聖雪祭』あるいは『ユビキタス』と呼ばれるこの祭事は、一なる神の加護が雪の形を借りて、遍く総ての人に降り注ぐと謂われている、当地の宗教に因んだ特別な日なのだそうだ。 とは言え、今時は堅苦しい儀礼的な面がなりを潜め、もっぱら単なるお祭りとして認知されており、それ故に信心の深浅問わず普及してもいる。 日頃は忌むべき厳寒の象徴でしかない雪を――そのものが地下都市に存在しなくとも――この日だけは誰もが祝い、家族と共に過ごすのだ。 さて。 ささやかながら、この度、本国からディナリア軍への労いとして、聖雪祭に因んだ救援物資が送られる事になった。内訳は豪華な食料や酒などの嗜好品。軍事設備には些か不似合いなヨルカの木の模造品に煌びやかな飾り付け。そして兵士達に宛てられた手紙など。多くは、先の戦果を聞きつけたノア市民有志の働きかけと、それを承認した議会の心配りによるものである。「と言うわけで。折角なので、君達も一緒に騒いで来て下さいよう」 ディナリアと言えば対マキーナの重要な軍事拠点として、いつまた危機的状況に陥るとも知れぬところだが、ならばこそ、このひと時を彼らと共に祝い、楽しんで欲しい――チケットをひらひらさせる世界司書、ガラの口上は、概ねそのような趣きだった。「メリー・ユビキタス……でいいのかな? ガラには判んないです。アレ?」 *****「くそったれ」 突然の炸裂音。衝撃波と血煙と吹雪が、冬の匂いと共に俺達を吹っ飛ばした。 真っ先に爆発したのが通信兵だと気付いたのは、一旦死を覚悟した直後。 続けて班長がとっくに絶命しているのが見えた。どっちも殺ったのは妙にずんぐりした風体の、でかい人型。ウォーリア……否、ジェネラルクラスか? 残る一人は――目を離している隙に小さな子供程の人型に抱き付かれて、次の瞬間バラバラに弾け飛んでいた。小さい奴も一緒に消し飛んだが、同型のマキーナが少なくとも三体、ジェネラルの足元に居るのが認められた。 俺は――結論から言うと、逃げた。 最初に飛ばされた場所が雪の積もった岩場だった事、その一帯の地形は既に把握していた事が幸いして、とりあえず身を隠すのは難しくなかった。 何故こんな事になったのだろう。 この荒天さえ、視認に頼るマキーナから身を隠すにはうってつけの、いわば一なる神の加護だった筈だ。 俺達の任務は橋頭堡周辺地区の哨戒。目的は今後拠点となり得るポイントの探査、及び先の交戦以来沈静化しているマキーナの動向調査。隠密機動性を重視し、編成は軽武装の四名。敵遭遇時における選択肢は殲滅か全滅。但し、「うまい事撒けたら帰ってもいい、ってね」 出来るわけがない。出撃前、誰かが笑い飛ばした。だが、為さねばならない。情報を持ち帰らなくてはならない。本音を言えばこの場で仇を討ってやりたいが、生憎ウォーリア以上のマキーナに通じる武器は持たされていない。遣り合っても犬死するだけだ。今は帰還する方法を考えよう。 しかし懸念事項もある。俺は足を見下ろした。「……だんだん痛くなってきやがった」 右足が爪先の一部とふくらはぎがごっそり抉れている。最初の爆発に巻き込まれたに違いない。火傷が無いのが不可解だが、今はそれどころではない。 この場をどう凌ぐか、どう生き残るか。寒さのせいで満足に血も出ないのは、この際好都合とみるべきか。だが、何れにせよろくに動けない事に違いは無い。「どうしたもんかな」 全くついていない。ユビキタスだと言うのに。 そういえば、ユビキタスだ。孤児院の皆は元気だろうか。お節介焼きの幼馴染は、相変わらず小言ばかり言っているのか。ロランは……まあいいか。「ヴェスナ――」「謎の破裂音を最後に、哨戒中の班から連絡が途絶えた」 橋頭堡からの通信は、ロストナンバー共々聖雪祭を楽しんでいたディナリア軍に、痛々しいほどの沈黙と、それに伴う耳鳴りをもたらした。
この世で最も憐れむべきものは、誇り高き兵の魂である。 今日ここに私が立っていると言う事は、多くの兵士を死地に追いやったと言う事実に他ならない。後世に私の功績が語り継がれるのだとすれば、尚更だ。 人類は歴史書に私を記す時、それを紐解く時、彼らの事を忘れてはならない。 食事前などは、一なる神と共に英霊の名を呼び、感謝すべきである。 ――指導者ゴーリィ 建国に際しての訓辞より―― ***** ディナリア橋頭堡より、現在南西50km地点。天候は(ヴェスナ) 前聖雪から聖雪祭に掛けて真西からの強風を伴う為、地表の徒歩移動は困難。 マキーナの活動は現時点において不気味なほど鎮静化している。 荒天につき、人類は比較的(ヴェスナ)に捕捉され難いと思われる。 ***** 「ジョークのつもりでスキットルにラム酒入れてきたけど……本当に遭難救助犬やるとは思わなかったわ」 臼木桂花は、正規軍御用達の外套を羽織りながら、足元に座して待機するセクタンのポチに「ねえ」と同意を求めるように一瞥する。 「ああ、防寒着もう一つ貸して貰える?」 「本当に行くのか」 「見ての通りよ」 哨戒班の通信が途絶えて、未ださほどの時間は経っていない。 だが状況が絶望的な事ぐらい、ノアの鼻を垂れた子供でも理解できる。 当直の兵士は考え直すよう、何度も説き伏せようと試みた。 「おたくらは戦友だが、ディナリア軍所属でも無ければ、傭兵として来たわけでも無い。彼らの安否確認に身体を張る程の軍事的理由は?」 肩を竦めて首を振る兵士に、得物を確かめていたロウ ユエが頷く。 「確かに俺達はディナリア軍所属でも無ければ、今回は傭兵として派遣されたわけでも無い。が……もし逆の立場なら、君は――いや、よしておこう」 酷な質問だった。彼の顔を見れば判る事だ。 「たった四人で何が出来る」 哨戒班と同じ人数。 ならば彼らは何故――ロウに疑問が浮かぶも、今度は口に出すのも止した。 「私は治療と、あとは口出すだけ。他の連中は――」 「…………」 「けっ」 桂花の言う他の連中こと、ハルカ・ロータス及びヴァージニア・劉は、既に支度を整え待機している。ユエも併せ、腕の立つ顔ぶれだ。 「つまりそう言う事。いくわよポチ」 桂花も予備の外套を小脇に抱え、セクタンを連れて兵士に背を向ける。 「しかし!」 「信号が途絶えた地点一帯の地形を教えてくれないか。それと、」 食い下がる兵士を遮り、ユエは『作戦』へ向けての情報開示を求める。 ***** 哨戒班の任務は装甲車両にて次期拠点候補の巡視及びマキーナの索敵。 各候補地では降車し、(ヴェスナ)を以って地形を細密に把握する事。 戦闘発生時はマキーナの殲滅か、班の(ヴェスナ)を以って処理する事。 ***** 通夜同然の一室を後にした旅人達は、足早にハッチを目指す。 「良くある話……だな」 ユエの故郷でも、如何なる世界であろうと戦が存在する限り。 「いつだって死ぬのは最前線の兵士だ。軍記物の片隅にほんの一行で語られる、名も無き死だ」 ハルカも、元は使い捨ての名も無き誰かだ。だから黙っていられなかった。 「だが、感情に流されて貴重な人員をこれ以上危険に晒す事は出来まい。殲滅か全滅か……もしもの時の取り決めも、こうした状況では仕方の無い事」 「俺は、出来る事なら減らしたい……彼らの死を」 「水を差すようだけど、あの貧弱な装備で奇襲されてるのよ。現場近くで隠れられなきゃ間違い無く後者。全滅でしょうよ」 「だとすりゃ無駄足んなるな。何なら、あんたは残ったっていいんだぜ?」 「つまんない冗談言わないで。それでも行くんでしょ、アンタは」 「丁度外の空気が吸いたくてよ? ついでにちょっとぐらい散歩も悪くねえ」 「ならとっとと行きましょ、”散歩”」 桂花と劉の応酬に、ユエ、ハルカが思わず口元を緩める。 劉はばつが悪そうに視線を逸らし、「うぜー」と毒づいた。 外に出たかったのは事実だ。気紛れに参加したユビキタスの宴席は、しかし劉にとってはみじめで息の詰まる過去を思い出させるだけの場でしか無かった。 挙句、今となっては痛々しい静けさが支配するところなど。 ブリザードの只中だろうが殺戮機械の温床だろうが、ここよりは未だましだ。 「奴らの索敵能力は最低1km基本は視覚。基地から出てくのも戻るのも見られるわけにはいかない、OK?」 やがて出口が見えて来ると、桂花が徐に既知のデータを確かめる。 「じゃ、どうすんだ」 「彼に任せてみよう」 両手を投げ出す劉をユエが諭す。 その視線の先はいつしか立ち止まり、何事かに集中するハルカだった。 先にユエが得た情報。哨戒班の通信消失地点。周辺の地形。 危機に瀕した者が居れば、テレパシーで精神の揺らぎが感知できる筈――。 「――見付けた」 ハルカの意識の向こう、まるで人気の無い不毛の大地に、滲む心。 ***** 隠れてからの爆発音。装甲車はやられた後。 50kmの暴風凍土を逃げ切る事は不可能。 身体が固く、手足の指先に激しい痛みを伴う。一次凍傷の可能性。 だが抉れた右足は少し様子が異なる。黒ずんでいる。 患部は何かで覆うべきだが、そんな物資は無い。 夜なのに明るいのは(ヴェスナ)のせい。当たり前の事。 俺達は(ヴェスナ)を捜していた。 ***** 「でも、微弱だ。……誰かを呼んでる風にも感じたけど、すぐ消えてしまった」 「消えた……?」 「って事は」 意識を失いでもしたか。さもなくば――、 「ストップ、先に確認させて。マキーナとは戦るの?」 桂花が流れを断ち、問う。皆に――特にハルカに。 「殲滅する」 後顧の憂いを断ち、ディナリア軍の負担を減らす為に。 「は? おい何言ってやがる――」 「まあ待て」 「……っ、何だってんだ」 当然とばかり応えたハルカに劉が喰ってかかろうとするも、ユエに制された。 桂花は眉ひとつ動かさず、相手の目を値踏みするように見詰める。 「生存者は?」 「救出する」 「決まりね。私達は兵隊さんのテレポートで基地外に移動。大体の位置はたった今把握したみたいだから、同じくテレポートで現場付近に移動して生存者の捜索。誰か生きてれば最優先事項は救命措置と安全確保。その後、領主さんと兵隊さんがマキーナを殲滅。二人が戦ってる間、劉と私は生存者の延命措置と護衛、状況に応じて参戦か移動にシフト――こんなとこかしら」 「了解だ」 「任せてくれ」 「……だりー」 瞬間移動の間際、桂花はハルカを見てごちた。 「意外と欲張りなのね」 「……俺が? まさか」 自他共に認める程の無欲な青年は、思いもよらぬ感想に奇妙な感覚を覚えた。 ――昔むかし、この世には良いものと悪いものが混じり合っていたので、神が良いものだけを集めて人間と、悪いものだけを集めてマキーナをお創りになった。 そして神は「マキーナがいなくなればこの世は良いものだけになるので、頑張ってやっつけなさい」と人間に仰せになった―― ガキの頃、この話を聴かされて思ったね。どうしてわざわざマキーナなんか創ったんだ、って。悪い物からも何か生み出す意味があったのか、って。 ……畜生! もしも本当に神様がおわすってんなら、そいつはどうしようもないクソったれ野郎だ! 今から眉間に一発ぶち込んでやる! 絶対にだ! ――ある兵士の死に際―― ***** 荒れ狂うと喩えるのさえ生易しい。殴る様な風雪。うるさいし不快だ。 常人ならば満足に歩めもすまい。俺もまた、ただの人だ。 ――あんた、治せんのかよ。どう見繕っても凍傷だぜ、これ。 代わりなんて幾らでも居る、使い捨ての駒だ。 ――指先は簡単だが、右足はこのままでは難しい。 救援は望めない。なのに温かい。 ――何ならいっぺんぶった切っちまうか。 久し振りの温もり。 ――ふむ、それなら再生出来るな。 「助けに来たわよ」 ヴェスナ? 「外れ」 女? ミズカ兵長、なわけないよな。誰だ? 聴いたような声。柔かい。 「あ? ンだ起きちまったのかよめんどくせー」 「仕方無い……少々痛い思いをする事になるが」 痛い? ――痛っ! 「この程度我慢しな。この後に比べりゃまだマシな方だぜ」 「しっかり締めておかないと血が出過ぎてしまうからな」 何? 「よく押えとけよ」 「さっきからやってるわよ」 「こっちも問題ない」 「やってくれ。斬った瞬間を見計らう」 おい、まさか……。 「そのまさかさ。――いくぜ」 やめろォっ! ***** 5ヤードも無い雪渓の底。白壁に挟まれ、入り組んだそこは、迷い込んだ風雪が絶えず暴れて薄い粉雪を舞い上げている。にもかかわらず、今、五人の傍には焚火が燈り、風に煽られる様子も無い。どうも黒衣を纏う男の仕業らしいが、ジェドにはありがたくも不可解な光景だった。 「まだ痛むか?」 「……いいや」 「何よりだ。自分の名前は言えるか?」 「ジェド……、ジェド・モロゾフ上級歩兵」 ジェドは黒衣の男の問いにどこか憮然としながら、焚き火に照らされた雪上で無惨に転がるそれ――ほんの数分前まで彼に繋がっていた――を眺めていた。 今、彼には前と全く変わらない、右足が備わっている。ズボンの膝下ごと断たれてしまった為に剥き身だったものの、先程までジェドを後ろから羽交い絞めにしていた女性が外套を巻きつけてくれていた。傍に子犬がちょこんと座っている。 (そうだ。この女は、確か) ジェドは先の前哨基地設営作戦における彼女の活躍を思い出した。 ならば先程ジェドの足を(手段は不明だが)容赦なく斬り飛ばした柄の悪い男も、その直後(原理は不明だが)ジェドの足を元通りに直した黒衣の男も、その間ジェドの両腿をがっちりと押さえ込んでいた男も、例の傭兵なのだろう。 「何かの任務の途中か?」 「それも外れ。私用――ああ、そう”散歩”の途中。でしょ、劉?」 「しつけー女だな」 女性の声に、柄の悪い男が咥え煙草のまま「うぜー」と悪態をつく。 「散歩?」 「詳しい話は後だ。まずはお互い生き延びるところから――」 ――わんっ、わんわんわん。 「ポチ?」 飼い主らしい女性が、戦場に不似合いな吼声に眉根を寄せ、他の者達へ目配せする。それを受けた男達の眼光は皆、険しいものへと変わっていた。 「ハルカ」 「往こう」 「よし。ではふたりとも、手筈通りに」 「ええ」 「へーへー」 黒衣の男は尚も鷹揚なそぶりの仲間へ何事か確かめ、自身がハルカと呼んだ青年と肩を並べ、吼声の向けられた――ジェドが逃げて来た方へ身を翻す。 「ちょっと待て。たった二人で何する気だ?」 「殲滅する」 「殲滅って……あ、おい! だったら俺も」 「駄目だ。外傷はほぼ完治したとは言え、あんたが相当量の血液を失った危険な状態である事に変わりはない。だから連れて行けない」 ハルカは機械的なような、感情を出しあぐねるような押し殺した声で拒む。 「しかし!」 「わかんねー奴だな。足手纏いっつってんのさ」 「……っ!」 「ちょっと劉、苛めるのもほどほどにしなさいよ」 「ンだよ、ほんとの事じゃねーか」 「……くそったれ」 劉の突きつけた現実は仲間の仇討ちを願っていたジェドを打ちのめし――一方で、幾許かの冷静さを取り戻すのに一役買ったらしい。とは言え明らかに気落ちした若い兵士を、女は見かねたか、 「やれやれね。ああ――そういえば領主さん」 少し面倒臭そうに小さく溜息してから、黒衣の男を呼び止めた。 「……どうした?」 「彼に渡すもの、あったんじゃない?」 「そうだったな――モロゾフ上級歩兵」 「ジェドでいい」 「ならばジェド。これを」 領主とやらは雪風に白い髪と黒衣を揺られながらも、涼やかな面持ちでジェドの元へ歩み寄ると、身を屈めて小奇麗に折り畳まれた紙片を差し出した。 「これは……」 「君宛の手紙だ。本当は哨戒班各員の分を預かって来たのだが……」 手渡す折、真紅の眼差しが僅かの逡巡に揺れたのは気のせいか。 だが、ジェドにはその理由が誰よりも判る。故に、改めて事実を明言し、彼我の間の確たる認識として、それを共有せねばならなかった。 「――……とっくに死んじまったよ」 「……残念だ」 吹雪が手紙を執拗に煽った。一人生き延びた男を惨めだと嘲るように。 領主は立ち上がり、再びジェドへ背を向ける。 「だが、君は生きてる。だから生き延びろ」 向い風に逆らい、その事を示すように一歩一歩、雪を踏み締める。 やがて黒衣が隣へ戻ってくると、ハルカがジェドに半身を向けて、言った。 「俺達はその為に来た」 次の瞬間、二人の男は白塵の旋風と消えた。 「じゃ、後は――劉、あいつらがここに来れないように巣を張ってよ!」 「言われるまでもねえ」 劉は女に一瞥もくれず仲間達が消えた方角に両手をかざし、何かを描くような所作を幾度となく繰り返す。時折筋のようなものが火に照ってきらりと走る。 「何、してるんだ?」 怪訝に問うジェドに、劉は尚も手を動かしながらティップスを開始した。 「俺の『糸』は自在に硬度を変える。使い方によっちゃ最強のダイヤモンドカッターになるってわけさ」 「さっき俺の足を斬ったのも?」 「ご名答」 ジェドは間の抜けた顔で目を瞬かせるのを余所に、劉は仕上げとばかり握り拳をつくる。ふつりと糸の切れる音が、風に呑まれていった。 「で、今そいつを張り巡らせたとこだ。わかったら向こうには近付かねーこった。右足以外も切り刻んで欲しいってんなら止めねーけどな」 「思ったより多いな」 ユエは、言葉とは裏腹に歯牙にも掛けない調子で感想を述べた。 二人が瞬間移動した先には、恰幅の良い人を模したような大柄な影と、それを取り巻く子供大の人形二十体ほどがカタカタと蠢き、横殴りの青暗い風雪に霞む。小型の方は、おそらく視覚を司る水晶体が青白い光を放ち、その形状から、どこか笑っているようにも見える。異様な、光景だ。 「問題ない」 しかしハルカもまた、意に介さぬといった面持ちだ。 「ふむ。してどう攻める」 ユエが問う間に大型の腹部がじわっと青白く発光し、次第に広がる――ハルカとユエは八の字を描いて跳び、前方から地面の雪に迸る氷の筋と光を避け――更にハルカは地面すれすれを文字通り矢の如く飛行し、真正面に突っ込んだ。 「――だと思った」 少し呆れながら、ユエもまた雪塵を蹴って前方へ駆け出す。 小型の群れが、やけにスムーズな足運びで進軍して来た。 ユビキタスの夜、親にねだった玩具を見つけた、子供のように。 「後は酒でも飲んでなさい、怪我人」 手紙を開きもせず、差出人の名を見つめるジェドに、桂花がスキットルを投げてよこす。ジェドは思わぬ不意打ちにも動じずに問題なく受け取ると、今度は焚火の揺れる様を映して紅く光る鏡面をぼんやりと眺め始めた。 「…………」 「景気良くいきなさいよ。今夜はユビキタス、なんでしょ?」 「……ああ」 言われるまま、蓋を開けて煽る。 「で、誰? ヴェスナって」 「ブフォッ」 「ちょっと! もうっ汚いわね」 だが、続く一手は想定していなかったらしい、桂花の追撃にジェドは咳き込む。 唾液とラム酒にまみれたスキットルに、眉をしかめた桂花の顔が映った。 「ゲホッゲホッ、あんたが妙な事言うからっ、」 「だって、何度も呼んでたじゃない。ヴェスナ、ヴェスナって」 「別に。誰だっていいだろ」 ジェドは不貞腐れた声で応えながら、もう一口ラム酒を傾けた。顔が少し赤らんで見えるのは焚火のせいでも酒気を帯びたせいでもあるまい。 彼の視線が相変わらず封筒に注がれたままなのを、劉は横目で認めた。 「……聞かせろよ」 「な、何だよ二人して」 「今夜はユビキタス、なんだろ? なあジェド」 あからさまな態度を取るジェドに、劉はわざとらしく強調して促す。 すかさず桂花が「真似しないでよ」と苦言を呈すが、こちらはスルーした。 「あんたの話が聞きたい」 「…………」 「いい暇潰しになるでしょ? どうせ領主さんと兵隊さんがマキーナ倒さない限り私達は動けないんだから。それにこっちはうっかり飲み損ねてしらふなの。少しぐらいサービスしたってバチは」 「ああ判った判ったよ話してやるよ!」 根負けしたか酒で気が大きくなったか、ジェドは遂に観念した。 遠く、立て続けに爆発音が鳴り響く。 ”ユビキタス”とは偏在を示し、即ち『一なる御方』の事を意味します。 雪は地上のあらゆるところに降り、実り無き大地たらしめているものですが、やがて『我ら』は地下を拓いてそこに糧を得る叡智を授かるに到りました。 雪は聖なる試練であると同時に、大いなる御加護に違いありません。 雪は総ての『人々』の元へ訪れ、彼らを慈しむ事でしょう。 ――聖雪礼讃節―― ハルカは空を射抜き爆煙をかいくぐる。 視界が戻ると眼下にはこちらを見上げる小型がまだ十五体。三体は今しがた仕留め、二体はユエが作り出したとみられる空間の歪に巻き込まれて大破した。 そして大型のマキーナ。見た目以上に頑丈で念動や発火程度では大したダメージを与えられず、また見た目に反して移動速度が速く、そもそも容易には捉えられない。更に―― (来る!) 距離をとれば両腕と胴体、頭部、併せて四基のレーザーが縦横無尽に放たれた。 ハルカは瞬間移動を繰り返し、絶えず軌道を変えながら放射され続ける光線を巧みに避ける。本来当てるべき標的が消えた事によってそれを被った小型がたちどころにびきびきと凍て付いて動作を止め、次の瞬間爆発した。 (冷凍線? それに小型はどんな攻撃を受けても爆発するのか) 小型は邪魔だが、いちいち相手をしていては大型に狙い撃ちされる。 (先に大型を叩く!) ハルカは大型に狙いを定め、分子分解で一気に片を付けるべくその目の前にテレポートした――頭頂に掌を当て集中しようと試みるも、 『いかん、退け!』 (!?) ユエの警告が脳内に木霊したかと思えばキュンと音がし――同時に伸ばした腕へ小型が一体しがみ付く。続いて脚に、胴に、肩に首に頭に腰、左手足首顔にと組み付き、宛ら天敵の死骸に群がり埋め尽くす小虫の様相をなす。 「くっ……!」 「ハルカ!」 ユエが声を張り上げた時は既に最初の爆発音が鳴った後――すぐさま第二第三第四の誘爆が起こり、大型諸共、巨大な爆炎に飲み込まれた。 (あいつら大丈夫か?) 劉は轟音に眉をひそめる。何かあればハルカから思念が来る筈だが。 「だからな――ヒック。あいつはいつまで経っても俺を子供だと思ってるんだ。何をするにもいちいち指図に小言、無視すりゃ説教食事抜き、ヒック」 「それさっきも言わなかった?」 桂花は組んだ腕で頬杖を突きながら実に面倒臭そうに適当な相槌を打つ。 どうもジェドはあまりアルコールに耐性が無いらしく、スキットル一瓶空けただけですっかりできあがってしまった。 始めのうちは絵に描いたような身の上をぽつりぽつりと話していた。 両親は共に軍人で彼が幼い頃にマキーナに殺された事。 ヴェスナは自分より後から孤児院に連れて来られた事。 最初は塞ぎ込んでいて気に掛けているうちに打ち解けた事。 気が付けば姉貴ぶってすっかり頭が上がらなくなった事。 それから、孤児院の子供達や院長でもある老司祭の事。 後は――先の言動のような、とにかく他愛の無い内容ばかり。 「しょうがないでしょ実際子供なんだから」 酒の弱さを指したものなのか、桂花はまさしく子供を見る目でジェドを見る。 「うるせえよ――ヒック」 「育ててくれた恩を命で報いるなんて矛盾もいいとこだわ。まっとうな大人だったらもっと上手に凌ぐと思うけど?」 (けっ。それが出来てりゃ苦労しねーっての) 劉は内心で密かに悪態をつく。 「……ヴェスナと同じ事言いやがって。あんた絶対俺より年上だろ」 (つまりそのヴェスナも年上なわけか。さぞかしめんどくせー女なんだろーな) 「失礼ね、女を指差して年増扱いしないでよ! これだから若い男は」 「あんたこそいい年して誰にでも気安く密着してんじゃねえよ!」 「密着? 何の事?」 「さっき俺の事羽交い絞めにしただろうがっ」 「ああ――……そう言う事。別に? 主人以外どうでもいいわ、違う?」 「そういう問題じゃない!」 ジェドは明らかに上気を越えて赤面しながら吼えた。 育ちのせいもあるのだろうか、態度の節々からうぶで奥手な事が窺える。 「……ばっかじゃねーの」 「何よ劉、聞こえたわよ!」 「ったくうるせー、いちいち金切り声出してんじゃねーよ」 はらからが燃え上がる様を残された幼子達が見上げる中、ユエの隣に、 「はあっ、はあっ、」 「生きてたか」 現れたハルカは仲間を連れて、更に瞬間移動で雪渓の上へと退避する。 高熱が嵩んだ故か、下では未だ爆発が繰り広げられている。命からがら逃れてきたハルカは、顔面から右腕に掛けて酷く焼け爛れていた。 「無茶をするからだ」 ユエは厳しい面持ちで異能の力を発現し、ハルカの身をたちどころに癒す。 「…………すまない」 対するハルカは叱られた子供の顔で、下を向いた。 「本当に気をつけてくれ。助けに来た者が命を落としては笑い話にもならない。とは言え、大型の方も流石にこれでは――」 「――いや、まだだ」 「……!」 ハルカの応えにユエは真紅の眼を凝らす。硝煙と陽炎の向こうに――僅かに黒ずむのみで外装に乱れひとつ無い大型の姿が揺らいでいた。 「伊達ではない、か」 「どうすればいいと思う?」 最前の注意が効いたらしい。ハルカはユエに意見を求める。かつての命令されなければ動けぬ彼を知る者であれば、その進歩にさぞや驚くだろう。 「残り五体……小型はこちらが引き受けよう」 「その隙に俺があいつを……――ユエ、あれを!」 ハルカが視界の隅、ジェド達の居る側にカタカタと向かう三体の小型を認める。 「伏兵か……!」 『気をつけろ。そっちに小さいのが三体向かった』 「劉!」 ハルカの声が頭に響き、桂花が眼鏡越しに見開いた眼を劉の眼鏡に向ける。 「どうした?」 「お客さんさ。立てるか酔っ払い」 劉は雪を数度蹴散らして焚火を消し、然るべき方位へ身構えた。 「あ、ああ」 そして爆発。何れかが巣にかかったか。 だが今の衝撃で網に穴が空いたかも知れない。 「ならやるこたひとつだ。俺らが遊んでるうちにケツまくりな」 「そうはいくか! 俺だって皆の仇を」 「駄目よ。哨戒班三人の命と私達の行動を無駄にする気?」 「なっ」 「ついでにそのまま引退したら? そのザマじゃこの先も足手纏いになるのがオチだろ。尻拭いする方の身にもなれよ。俺は二度とごめんだ」 ジェドは旅人達の物言いに憤るも、返す言葉が見付からず立ち尽くす。 「何、だと……!」 「俺は……あんたが羨ましいけどね」 劉は背を向けたまま、語気を和らげて、ぼそりと本音を言った。 「羨ましい?」 「待っててくれる奴がいんだろ。それに孤児院のガキども――家族もいる」 ユビキタスと聞いて劉が思い出すのは、幼き日のクリスマス。 折り合いの悪い母と二人きりの息苦しい夜。 その母も他界して、とうとう劉は独りになった。だから――、 「早く行っちまいな。ホントに大事な物を見誤んなよ」 「…………」 どこまでその想いを量る事が出来たのかは判らない。だが、少なくともこの悪ぶった男の言葉は、思いの外若い兵士の胸を打ったらしい。 「――すまない」 ジェドは右足に外套を纏った奇妙な状態で、懸命に走り出した。 「お優しい事」 彼の背を見送りながら、桂花は劉のすぐ後ろまで歩み寄る。 「言ってろ。んな事よりあんた少しは戦えるんだろーな」 「私の豆鉄砲がマキーナに効くわけないでしょ前に試したわよ」 「ホントに口だけかよ」 「最初にそう言ったじゃない」 「……だりー」 二人の視界に青白く光る眼が飛び込む。 ハルカが光線を誘って飛行を続ける――彼を追う冷槍は常に今一歩すんでのところで標的に当らず、僅かにその頬や衣服の裾を凍て付かせるのみ――そして徐にハルカの姿が消えた。 「こっちだ」 声に振り向き幼子達は一同が囲う輪の中央にその姿を認めて次々とハルカ目掛けて跳躍する――が、触れる間もなくハルカは雪に消えて。 視認すら叶わず無為に折り重なる小型マキーナの群体が姿勢を立て直すより早く――崖の上から飛来する異能の主は紅眼の視線でそれらを射抜き、諸手をかざす。 「その程度か」 最上部に伏せた固体の頭部がべこんと窪む。更に肩口が巨大な鉄球で殴打を浴びたようになり、下敷きになっている個体群もその衝撃で潰れ、肢体が千切れ飛ぶ。続き、不可視の理力に左右から折り畳まれ、上から穿たれ、その度に人形達はがくがくと痙攣する。 「――潰れろ」 直後、がらくた山に着地したユエはひと蹴りして退き――背後で爆発が起きた。 「次」 着地した異能者は仲間の居るであろう側へ構え直すが。 其方を見た時には既にハルカに捉えられた大型マキーナが粒子から塵芥と化し。 「……は、無いか」 その永久不在が、確かめられた。 力を使い過ぎて崩れ落ちるように座り込むハルカの元へ、ユエは駆け寄る。 いつしか風は止み、粉雪は、綿雪へ――。 『そっちは大丈夫か』 『ええ無事。三体とも片付けたわ』 『良かった。ジェドは?』 『一応逃がしたんだけど、もういいでしょ。迎えに行ってあげて』 『わかった。ユエと一緒に班員の遺品を回収してから行くよ』 『よろしく』 「あんたは一匹も潰してねーだろが」 「援護射撃したじゃないの。ねえポチ」 ――わんっ。 「けっ」 「ふん――」 桂花と劉は互いにそっぽを向き、けれど共に雪降る夜空を見上げていた。 ふわり、ちらり、カンダータらしくもない、優しげな。 桂花は最愛の夫を想い。劉は――、 「そう言や」 「何よ」 「……別に」 「真似しないでって言ったでしょ!」 「してねーよ」 「したじゃないの」 「してねーっての」 「……!」 「…………!」 桂花とやり合いながら、思い出すのはターミナルで留守番している居候の顔。 ――今の俺には……帰りを待っててくれる奴がいたっけな。 お元気ですか。ちゃんとご飯食べてる? 風邪引いたりしてないわよね。 見送りに行かなくてごめんなさい。 あんなに大喧嘩したの、お母さんの形見の指輪をジェドが隠した時以来だね。 そのうち本当に無くなっちゃって……。覚えてる? あの時貴方が言った事。 私は一日だって忘れられなかった。約束したわよね、一生守ってくれるって。 それなのに、いきなり従軍するって言い出すんだもの。だから怒ったのよ。 大体何よ、守るって。一方的に約束された方の身にもなってよ。 でも、止めても無駄なのはわかってた。 昔から一度決めた事は絶対曲げなかったものね。院長先生の言う事さえ聞かなかった貴方が軍人だなんて、今でも信じられないけれど。もう、止めません。 きちんとやり通して、必ず帰って来て下さい。いつまでも、待っています。 それと――シャスリーヴァ、ユビキタス。 ――ヴェスナ・エレシコワの手紙――
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