ターミナルの『夜』―― 夜は、あったほうがいい。ターミナル全体が、安らいだ眠りにつける気がする。 ずっと、そう思っていたのだけれど。 今日は、なかなか眠れない。 なぜだろう。 記憶の海に沈んだはずの、『あのこと』を思い出すからか。 セピア色の風景の中の、『あのひと』を思い出すからか。 何度目かの寝返りを打ったあと、あきらめて外の空気を吸うことにした。 この店の前を通りがかる気になったのは、今が営業時間外だと知っていたからだ。 今なら、おせっかいなギャルソンに、強引に店内に引っ張り込まれることも、待ってましたとばかりに、親しげに話しかけてくる黒衣の司書に困惑することもない。 くつろぐための場所なのだとは、わかっている。 だが、あまりにもにぎやかで、くったくのない笑顔があふれる場には、長居しづらいときもある。 かまわないでほしい。 放っておいてほしい。 そんなときもある。 日中、さんざめく笑い声が絶えなかったカフェは、蒼い夜に包まれた今、まったく違う様相を見せている。 ガラスと鉄骨でできた建物は、緑を閉じ込めた氷の城のような、冷ややかさ。 窓越しに見えるのは、たったひとつ灯されたテーブルランプと、グラスを手に、ひとり何ごとかを考えている店長のすがた。 ほのかな灯りが照らし出すのは、営業時の緊張を解いて普段着になった、素の横顔だ。 声をかけるでもなく、扉の前に立つ。 店長がふと、顔を上げた。
【副題】母なる幻想(ファンタジー) 欠け始めの月が、蒼い夜に戸惑うごとく、所在なげに浮かんでいる。 月齢の設定は、おそらく十六夜(いざよい)。満月や三日月ばかりではヴァリエーション不足ということか。そんな瑣末なことを思うのも、眠れぬ夜の産物だ。 街灯が消え、月明かりに浮かぶ画廊街は、行き交う人影すらない。深い森の奥を彷徨っているような現実感のなさは、たしかにここでは時が止まっているのだと思い知らされる。 足を、止めた。 氷の城めいた硝子と鉄骨の建物が目に入ったのだ。 見覚えがあるようなないような、あれは何の店舗だったろう。それとも誰かの住まいだったか。変わった外観の建物だが、しかし、ひとびとすべてが異形であり異色であるこの街のこと、すぐには思い出せない。 窓越しに、ぽつ、り、と。オレンジいろの灯りが見える。 戯れに、訪ねてみる気になった。もとより目的のある散歩ではない。 強いて言えば、迷える旅人が、不幸な王女がいるわけでもない眠りの森の城の、いばらの門を、ただ、ひとときの休息のためにくぐるような、そんな―― * * 「これはお珍しい。お久しぶりですね、ヴァージニア・劉(ラウ)さま」 「……ここは、カフェの類いか。もう閉まってんのか」 「はい。ですが、よろしければどうぞ」 ふらりと入って来た劉を、ラファエルはカウンター席に誘導した。 スツールに腰掛けた劉は、店内を見回して怪訝な顔をする。既視感があったのだ。それに、どうもこの店長は、劉と面識があるように接している。 「前にも来たこと、あったか? 覚えてねーんだけど」 「料理教室にお越しいただきました。バレンタイン前の」 「……あぁ」 だりーし、うぜーし、と思った、甘ったるい菓子を作るイベントにまぎれこんだときのことを、ようやく思い出す。あのときは、なんと言ったか、あさぎ色のウグイスが担当講師で、やたらお節介に世話を焼かれたのだった。 「夜だと雰囲気が違うから、わからねーや」 「何か、お飲みになりますか?」 「酒をくれ。酔いたい気分なんだ。……夢見が悪くてさ」 「お酒、ですか」 店長はしばらく無言で思案する。 寝酒は身体によろしくないですよ、と、たしなめられるかと思いきや。 「どうぞ」 劉の前に、鮮やかなカッティングのウイスキーグラスが置かれる。 琥珀色の液体が、惜しげもなくストレートで注がれた。 「アイリッシュ・ウイスキーです。蘊蓄は割愛いたします」 意外な気がして、劉は目を見張る。 「もっとこじゃれた酒が出てくると思った」 店長は微笑んで、 「ウイスキーの香りには、森林浴の効果があるそうです」 とだけ、言った。 * * 「昔の夢を、見たんだ」 話してみる気になったのは、何の気まぐれだろう。 ――俺は、クローゼットの中にいる。 「スケルトンインクローゼット……。衣裳棚の中の骸骨、って知ってるか?」 「他人には見られたくない家庭の事情、ということだと認識しております」 「あぁ。どこんちにもある、知られたくない秘密ってやつの隠語だ。母さんは、よく癇癪を起こして、俺をクローゼットに放り込んだもんだ。文字どおりにな」 ――そして俺は、クローゼットの中にいる。 「文字どおり、いつもどおり。その日も母さんは俺を衣装棚に押し込めた。『あたしが生きてる間は、二度とそこから出るんじゃないよ』ってわめいてな。俺はおとなしくクローゼットで縮こまってた。そしたら、強盗が押し入りやがったんだ。笑っちゃうよな」 粗暴で粗野な、野獣を思わせる大男だった。 ぎらついた目は焦点が合っておらず、手には血に濡れたナイフを持っていて、彼がすでに、別の場所で殺戮の饗宴をたのしみ、その余韻に浸っていることが見て取れた。 そのナイフを十字に振るい、強盗は、劉の母親の服を切り裂いた。いや、服だけを切るなどという配慮は望むべくもなく、服とともに、母親の身体も切り裂かれた。 母親は、悲鳴ひとつ発しなかった。 噴き出した血飛沫に強盗が舌なめずりをし、無感動に母親の両脚を押し開き、羊を屠るような凌辱をおこなっても、歯を食いしばったままだった。 いつもの彼女なら、脳髄に沁みる金切り声を上げているはずなのに。 強盗のナイフが、母親の心臓をえぐる。 だが、彼女は黙っていた。 黙ったまま、こと切れた。 強盗は供が削がれたようで、ナイフを放り出し、出て行った。 「俺はそれを扉の隙間からじっと見てた。見殺しにしたんだ」 * * 店長は、口を挟まずに聞いている。 空になったグラスに、ウイスキーを継ぎ足しながら。 * * 「でも……、最近、思うんだ。どうして母さんは俺に助けを求めなかったんだ? 俺は、手を伸ばせば、すぐそこにいたのに」 ひょっとして、と、劉はつぶやく。 「ひょっとして、母さんは俺を助けようとしたんじゃないか。俺を守るために、知らんぷりしたんじゃねえか」 「そうかも知れませんね」 「真実はわかんねえ。残りものの愛に縋りたいだけかもしれねえけどな」 わからない。 あの母親を、愛しているのか、憎んでいるのか。 好きなのか、嫌いなのか、自分でもわからない。 おそらくは、その全部なのだろう。 いやになるくらいどろどろした想いだけが、ぐにゃりと渦巻いている。 「俺は……、怖くて声が出せなかっただけなんだ、本当は。あのとき飛び出してたら、何か変わってたのかな」 「劉さまはもう、飛び出していらっしゃるでしょう」 ――クローゼットの、中から。 すでにグラスは空になっている。 店長は3杯目を注ぐ。 「そうなのかな……? 居候とダチができて、今の気ままな暮らしは気に入ってんだ。一緒に歩いてくれる奴がいるなら、行けるとこまで行くのも悪かねえ」 ――クローゼットの外の世界は、案外広かったみてえだ。 「でもさ、忘れたくはねえんだよな。……マザコンかな」 いいさ別に。 きっと俺は、大人になり損ねちまったんだろうから。 * * 「ジークムント・フロイトという壱番世界の心理学者によれば、マザーコンプレックスというのは、実際に母親から与えられたものが原因ではないのだそうですよ」 「じゃあ、何だよ?」 「物語だと」 「物語?」 「幼いころ、母親が読んでくれたファンタジックな物語には、優しい母も、残酷な母も登場する。その相反するイメージに縛られて、結果、母親に執着してしまうのだと」 「そいつはどうかなぁ」 「ええ。私も、彼の説をすべて支持はしませんけれどもね」 ふっと笑い、劉はぐいとグラスの中身を飲み干した。 「……シケた話をしちまった。何か、カウンセラーみてえだなアンタ」 「いいえ、私は何も。お酒のちからを借りただけですので」 「酒代だ」 カウンターに、ことん、と、非常に精巧な、小さな金属性の玩具が置かれる。 「キャストパズル――知恵の輪ですね」 「頭の体操になるんだぜ? 暇潰しにゃうってつけだ」 「ありがとうございます」 螺旋状に絡み合うキャストパズルを、店長は手に取った。 それは、とても難解な物語を読み解く作業に似ているようで―― ――Fin.
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