――この都は、夏がよく似合う。 それは、オウ大陸の帝都メディオラーヌムの住人となったその日から、シルフィーラが感じていたことだ。《始祖鳥》終焉の地といわれる霊峰ブロッケンを起点に、いくつもの街を貫いて、とうとうと流れるヴェルダの大河は、皇帝の夏の離宮《朝露の塔》をぐるりと抱き込むように蛇行して、海に至る。 澄み切った河に沿い、この地特有の、時間帯により色が変化する向日葵が咲き乱れるさまは、シルフィーラに与えられた館の窓からも鮮やかに見えた。 春先のやさしい光景がひときわ美しかったヴァイエン侯爵領とはまた違う、強靭でまぶしい魅力を持つ土地柄だ。 軍人皇帝ユリウス=ジギスムントもまた、灼熱の太陽が照り映える戦場を、砂塵にまみれながら軍馬で駆け、采配を振るうのがよく似合う男だった。 ヒトの帝国において、最高指導者とは、前線に立つ軍司令官のことだ。帝国の内実は決して一枚岩ではなく、内乱や反乱の可能性は常にある。また、皇帝位は元老院の承認によるものであるため、うるさがたのお歴々を取りまとめる政治力も必要とされる。 皇帝はすぐれた軍人であると同時に、すぐれた政治家でもあることを求められている。ユリウスは、歴代皇帝のなかでも傑出した名君であるとの評判は、ヴァイエン候ラファエルのもとで暮らしていたときから、当の侯爵より聞いていた。 そういう皇帝であるならば、後宮の女に対しても、あまり惨い仕打ちはしないだろう。 その心づもりはあったにせよ、養親であり婚約者でもあった侯爵の意に背いて翼を落とし、ヒトの後宮へ送られるからには、相応の覚悟はしていた。 しかし当の皇帝の対応は、予想を大きく上回る丁重なものだったのである。シルフィーラは「侯爵家の息女」としての身分で迎えられ、遇されたのだった。 * *「ヴァイエン侯爵家の姫を歓迎しよう。ご実家には及ぶべくもない無粋な土地柄で、誇れるものはといえば、ヴェルダの大河の恵みくらいのものだが」 黒髪の偉丈夫は、響きのよい低い声音でそう言った。ヴァイエン候よりはいくつか、年かさであるようだ。まなざしは非常に鋭いが、その深緑いろは、相対するものの心を安定させる力を有している。 ほっと落ち着き、地が出る。もともとシルフィーラは、そんなにおとなしい娘ではない。「……あの。ヴェルダ鮎は今が旬で、ことに若鮎は身が柔らかくて美味と聞き及びました」「これはお詳しい」「不躾で申し訳ありません。わたしも、養父と弟も、鮎が好物でありますゆえ、自然と貴国のことがらにも習熟しておりまして」 そうでなくとも、敵国の情報収集をするのは当然であろうからな、と、皇帝は愉快そうに笑ってから、おもてを引き締めた。「ヴァイエン候とそなたの弟御は、災禍に巻き込まれ行方知れずとか。心配であろう」「それは……、はい。ですがわたしはもう、巣立ちましたので」「あらかじめ言っておくが、無理強いするつもりはないのだ。これはオディール女王の要請により成立した話。我から女王に申し立てをすれば、そなたを実家に帰すことなど造作もない」「ご配慮ありがとうございます。されど、こちらに赴いたのは、オディール陛下のご命令に加えまして、わたし自身が選択したことでもありますので」「翼を落としたこともか」「そのほうが自由になれると思いました。迷いを断ち切り、自分の足で歩きたかったのです」「面白い。……じつに面白い姫だ。トリの王国に、そなたのような娘御がいようとは」 皇帝は何度も頷く。「よくわかった。翼を断とうと、足をもごうと、そなたの意志、そなたの行動力を封じるなどできぬことがな」「恐れ入ります」「ならば、この地に滞在し、我と皇太子の話相手になってもらえるものと思って宜しいかな?」「はい――わたしでよろしければ」 * * 驚いたことは他にもあった。 皇帝の後宮は、その名目で、皇帝個人が直接管理できる場所となっているのだが、実質は、戦災被害をこうむった女性たちを、出身や身分、年齢さえも不問で保護する施設として機能していたのだった。 後宮の老婦人が同じく後宮の幼い少女と遊び、ときには教育を施している場面を見るにつけ、シルフィーラは、本当にここは「後宮」なのかと目を疑ったものだ。 しかも彼女たちは、その意志で、いつでも後宮を出て行くことができる。メディオラーヌムの貴族と結婚したものもいれば、経歴を見込まれ、武具商に勤めることになったものもいる。 皇帝の弁によれば、この施設は「元老院対策」なのだそうだ。皇帝陛下におかれましてはひとりでも多くの健康な男子を成し給うことを、それが国家の礎となりましょう、と、口うるさい老人たちは、後宮に関する費用になら予算決済が甘い。それを逆手に取っての、被災者救援であるようだった。「……シオン!? 来てくれたの? ……あ」 皇太子アルフォンスは、シルフィーラを見るなり息を呑んだが、しかし、すぐに誤解に気づき、うつむいた。「シオンは、ここにはまいりません。ご希望に添えませんでしたこと、弟のぶんまで、お詫び申し上げます」「うん……。それはいいんだ。ただね」 皇帝と同じ、黒髪と緑のひとみを受け継ぎながら、しかし、戦場の似合わぬ繊細なおもざしの少年は、じわりと涙を浮かべる。「ぼく、シオンに会いたい。会って謝りたい。謝って許してもらえるなんて思わないけど、それでも」「シオンは、アルフォンス殿下を責めたりはしないと思います」「それでもだよ……。シオンにひどいことした。ひどいこと言った。友達でいたかっただけなのに、離れたくなかっただけなのに」「わたしと友達になれば良いではありませんか」 シルフィーラは微笑んで、アルフォンスの涙を拭う。「ここだけの話、シオンはお調子もので気まぐれで、見境なく『おまえが一番だ』みたいなことを言うんですよ。信用しちゃいけません」「シルフィーラは」 アルフォンスは泣き笑いの表情になる。「もう、侯爵やシオンに、会いたいとは思わないの?」「そんなことはないですよ。彼らが大切なひとたちであることには、変わりありませんので」 ――ですが、じつのところ、さほど心配はしていないのです。 どことも知れぬ不思議な世界で、みどりに満ちた硝子と鉄骨の建物のなかで、異世界のひとびとと、楽しげに談笑している。 なぜか、そんな情景が思い浮かぶので。 * * メディオラーヌムの後宮が、いささか異色な様相を呈しているにせよ、では、妖艶な寵姫たちが華やかに妍を競う局面はなかったかというと、さにあらず。 皇帝は、皇妃アデーレがアルフォンス皇太子を成して亡くなってのち、未だ新しい妃を迎えてはおらず、また、皇太子も病弱で繊細な気性とあっては、野心を持つ女たちは後を絶たぬ。もし、皇帝のこころをとらえることができたなら、自らが皇妃となれるかも知れぬのだ。 ゆえに、トリの王国出身の、美しい白鷺の娘が、翼を落として後宮の住人になったというしらせに、妙齢の女たちはおだやかではなかった。まして皇帝は彼女を非常に気に入り、「侯爵家の姫」として手厚く遇し、後宮の敷地内に専用の館まで建てているのである。 しかも、皇太子も、彼女を姉のように慕い、親子そろってその館を訪れているというではないか。 よって、「女のいやがらせ」は日常茶飯事であった。 館の門扉まえに、むっと、生臭い匂いが立ちこめている。 魚の死骸が、山積みにされているのだ。 確かめにいったシルフィーラ付きの若い侍女は、小さく悲鳴をあげる。「ひどいことを……!」 シルフィーラはつかつかと魚の死骸に近づき、一匹ずつ検分する。「これはメディオラーヌム鮎。これはヴェルダウグイ。それにこれは……、桜鱒。どれもこれもヴェルダ河の至宝として珍重される食材ではありませんか」「あの……。シルフィーラさま?」「塩焼きやフリッター、新鮮なものならそぎ造り」「はい……?」「どの魚もわたしの好物なのです。これを献上してくれた村人の好意を踏みにじり、こんな馬鹿馬鹿しいことに消費するとは。七回転生し、七回とも地獄に落ちるがいいわ」「あの」「まだ痛んでないものがあるわね。佃煮や酢締めにできそうならそうして。痛みが激しいものは花壇の肥料に」「かしこまりました」 * * ことの次第を聞いた皇帝は、ひとしきり笑い転げた。「奥むきのことは、取るに足らぬつまらぬものと思っていたが」「取るに足らぬ、つまらぬことです。陛下のお耳に入れるのもどうかと思いましたが、ご報告までに」「いやいや、面白い。ヴァイエン候はそなたと暮らして、さぞ日々が楽しかったであろうな」「せめてそうであったらと、今は願うばかりです。候の重荷だったのではないかと、それだけが心のこりで」「ゆえに、《迷鳥》の謎を、自分で解きたいと――?」「はい。ですので」「地下図書館の鍵だ」 宝石で象眼された、ずしりと重い鍵を、シルフィーラは受け取った。「知ってのとおり、いにしえの書が多くおさめられている帝国管理の図書館ではあるが、その書に目を通したものは尋常ではなくなる、という噂がここ数百年、ひとり歩きしていてな。研究熱心な文官すら近寄らぬ始末だ。だが、そなたなら、大丈夫であろうよ」 * * 無名の司書の『導きの書』に一連のことがらが浮上したのは、ロック・ラカンに、フライジングの依頼はないのかと詰め寄られてからすぐのことだった。「お待たせしましたぁ、ロックさーん。フライジング行ってくれない? これこれこーゆーわけで、シルフィーラたんが地下図書館調べたいらしいんだけど、何となく心配だから護衛に」「辞退する」「え〜!?」「それがしはあの娘の翼を落としたのだぞ? まして今はヒトの皇帝の寵姫。オディール女王陛下に仕える身が、そのような場に同行できるものか」 去り往く漆黒の翼を見送って、無名の司書は途方に暮れる。 と、入れ違いで、ラファエルとシオンがやってきた。「今しがた、ロックとすれ違いましたが、フライジングに何か異変でも?」「あのおっさん、じろっと睨むだけで何も答えないでやんの。おいこら、無名の姉さん! 何でおれたちに声かけないんだよ!」「いや〜。ちょっと、こう、女性として、シルフィーラたん寄りなんですよあたし。皇帝ステキよねー。あたしも後宮に入りたーい」「仰っていることが、わかりかねますが?」 シルフィーラの現状を聞き、シオンとラファエルは、しばし、物思いにふける。「……姉貴、わりとうまくやってんじゃん。たくましいよなぁ」「なんということだ。メディオラーヌム鮎とヴェルダウグイと桜鱒を粗末にあつかう心ないものが後宮にいようとは。七回転生し、七回とも地獄に落ちるがいい!」「そこに怒るのかよ! つうか、似た者親子だよなあんたら」「皇帝陛下は、シルフィーラの意志を尊重くださっているようだ。それが、私との違いなのだろうな」「あー、そういうことなら、帝国地下図書館探索は姉貴にまかせて、まるっと手を引く?」「いや心配だ。手出しはせずとも物陰で見守るくらいは許されるだろう。それに、皇帝陛下には一度ご挨拶に伺わねば。シルフィーラによくしてくださって」「話がややこしくなるので、今回、おふたりはお留守番でお願いしますね〜」 とっくにややこしくなってんだけどね、と、発行したチケット二枚を手に、司書は周囲を見回した。
ACT.1■Message フライジング行きのロストレイルが出発するまで、あと少し。 ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノと相沢優は、閉店後のクリスタル・パレスをともに訪れた。 「無名の姉さんから聞いたよ。ジュリエッタと優が行ってくれるんだってな」 「おふたりとも、この度は本当に……」 ラファエルは言葉に詰まる。 ジュリエッタはボイスレコーダーを、そっとカウンターに置いた。 「これは?」 「メッセージを吹込んでほしいのじゃ。店長殿もシオン殿も、シルフィーラ殿やアルフォンス皇太子に伝えたいことがあろう」 「俺たちが、伝書鳩になりますよ」 「ありがとう、ジュリエッタ」 「ありがとうございます、優さま」 「それと、別に用意してほしいものがあるのじゃ」 ジュリエッタは、シオンに向き直る。 「厨房に乾燥ハーブの在庫はあるかの?」 「あ、うん。何種類かは。でも、なんで?」 「厨房で説明しようぞ」 ジュリエッタは頼もしく立ち上がり、シオンを手招きして厨房に向かう。 ラファエルは、じっと考え込んでいた。 ボイスレコーダーのスイッチは、まだ入っていない。 「フライジングから戻ってきたら、もう一度ここに来ますよ。シルフィーラさんたちがどんな様子だったか、伝えに」 優はゆっくりと話す。穏やかに、気遣うように。 「……ご足労をおかけいたします。どうぞ、道中お気をつけて」 言って、ラファエルは息を吸い込む。 ようやく、伝えるべきことばが、決まったようだった。 ACT.2■Fragrance 事前に聞いてはいたものの、真夏のメディオラーヌムは、太陽の眩しさが尋常ではない地だ。 それでも空気はさらりと乾燥しており、べたつく暑さではない。 夏の離宮《朝露の塔》は、ヴェルダ河から吹く風の通り道だ。正門を抜けてすぐに目に入る大きな噴水も、涼しさを伝えてくる。庭園には夏菩提樹が何本も配置されており、木陰に入ればすうと汗が引いていく。 「これからどうしよう? 正面から面会を求めてみる?」 「さすがに、おいそれと後宮には入れてもらえぬだろうのう」 ふたりはあらかじめ、この地に住まうひとびとに準じたいでたちをしていた。 ジュリエッタは良家の令嬢ふうのヘッドドレスをつけ、もともと細い腰をコルセットでさらに絞り、金糸で縁取られた薄水いろのドレスを着こなしている。優は、若草いろのチュニックに革のベストとブーツを合わせており、そのまま街なかに溶け込んでもおかしくない、若い画家とでもいった風情であった。 正門前は、ものものしい兵士たちで警護されている。なんらかの名目がなければ、後宮はおろか、この離宮のなかには入れまい。 「皇帝か皇太子に、事情を説明することができればいいんだけど」 すぐに会うことは難しいだろうな、と思いながらも、優は、相手の警戒心を解く笑みを浮かべ、兵士に話しかけてみる。 「こんにちは。暑いですね。おつとめご苦労さまです」 「暑いね。でもメディオラーヌムはまだ過ごしやすいよ」 「先だって、立て続けに内戦に駆り出されたときは、日射しを遮る樹木ひとつない荒野を行軍したからな。いやいや、思ったよりも早く収束して良かった。陛下のおかげだな」 まだ若い兵士たちは世間話に応じてくれた。内戦が一段落したとあって、彼らの表情も少し和らいでいる。 「皇帝陛下は、今はどちらに? 離宮でおくつろぎなんですか?」 「いや、皇太子殿下とご一緒に、先ほど外出なさったようだ。なんでも、ご寵愛のシルフィーラ姫のために花を――」 「おい、やめておけ。陛下の沽券に関わる。戦場では鬼神のようなあのかたの、何ともいたたまれないお顔を拝見したろう」 「たしかに」 兵士たちは苦笑して、口をつぐむ。とりあえず、皇帝と皇太子は外出中であるらしい。 ジュリエッタが小声で耳打ちをした。 (わたくしに考えがある。潜入しようぞ) (後宮に?) (後宮にじゃ) (どうやって?) (わたくしは戦災被害者で、優殿は難儀しているわたくしを救い、ここまで連れてきてくれた街の画家という設定でどうじゃ?) 「……あの」 しとやかにドレスの裾をつまみ、ジュリエッタは兵士たちの前に進み出る。 「皇帝陛下に、お目通りをお願いしたいのじゃ」 「あ、貴女さまは」 「ど、どちらの姫ぎみで?」 兵士たちはまじまじとジュリエッタを見つめ、気品に圧倒されて声を上ずらせる。 「わたくしは、実は、内戦のおり……」 そこまで言ったとたん、兵士のひとりが、「そうでしたか!」と大きく頷いた。 「もしや、ノイエラグーネ選定候のご息女ではありませんか? 選定候と奥方が自刃なさったのち、お姿が見えなくなったので、陛下もたいそう心配なさっていたのです。選定候は内戦の首謀者ではあるが、ご息女に罪はないのだから、と」 * * 陛下がお戻りになるまで、こちらでお待ちくださいと通された部屋は、さいわいなことに後宮にほど近い一室だった。 ふたりはすぐに部屋を抜け出した。後宮の建物群から中庭を隔てて、瀟洒な館がひっそりと建っている。おそらくはあれが、シルフィーラの住まいであるのだろう。風が通るように、窓は大きく開いている。 シオンに作ってもらったハーブポプリの袋を、ジュリエッタは取り出した。より香りが立つように、袋の口を大きく広げる。 「厨房で用意してたのって、それだったのか」 「うむ。シオン殿は当時からハーブの調合に詳しかったはず。ならば器用な彼のこと、姉ぎみのシルフィーラ殿にも、友人であった皇太子にも、それぞれにこういったプレゼントをしていたのではないかと思っての。聞いてみたら、まさしくそうであったゆえ」 ――これはシルフィーラ殿のために調合したレシピ。この香りがシルフィーラ殿のもとに届けば、わたくしたちを信じてもらえよう。 ラベンダーとユーカリ、ローズマリー。加えて、ロサ・ダマスセナの華やかな香りが、風に乗る。 開放された館の窓へと、吹き抜ける。 窓に、ほっそりとした人影が見えた。長い髪がしなやかに翻る。 「……シオン……? シオンなの? まさか、そんなはず……」 澄んだ声音が響き、ひとりの女が館から走り出てきた。 華奢な身体に纏っているのは、光沢のある白絹のドレス。白に近い銀髪と金の瞳は、シオンと瓜二つだ。 (あれがシルフィーラ殿じゃな。一目でわかる) (そっくりだね) しかしその背には、シオンが有しているような翼はない。背中の開いたドレスから、かつての翼の痕がわずかに、雛鳥の羽根ほどの大きさで見えるばかりだ。 「あなたがたは……、先ほど知らせのあったノイエラグーネの……?」 しかし彼女は、ふたりを見て誤解に気づき、丁重に頭を下げる。 「失礼しました。お持ちのポプリの香りが、弟が調合したものとよく似ておりましたもので」 「これは、たしかにシオン殿が作ったものじゃ。シルフィーラ殿」 「はじめまして、シルフィーラさん。ずっとあなたにお会いしてみたかった。ラファエルさんが感謝している、あなたに」 「……あ」 ポプリを渡され、シルフィーラは双眸を見開き、両手で口もとを覆う。 * * 館の応接間で、ボイスレコーダーは、なつかしい彼らのことばを伝える。 ――よー、姉貴。元気? まぁ元気だよな。おれ? うんまあこのとおり。 姉貴さぁ、もうちょっと猫かぶっとけよ。皇帝に無茶振りしすぎて後宮から叩き出されんなよぉ? そのうち、ヴァイエン候と一緒に挨拶に行くわ。 じゃ、またな。 ――シルフィーラ。 きみの消息を確認して安心している。きみも、私たちのことは心配しなくていい。 ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノ嬢や相沢優氏のように、親身になってくださるかたがたに、私たちは恵まれているのだから。 この異境で思うこともいろいろある。 ただ保護し庇護するだけでなく、もっと、きみにしてあげられることはなかったかと。 それでも、きみが私のもとを巣立ってくれたことを、今は誇りに思う。 * * 「俺たちのいる世界で、ラファエルさんは、『クリスタル・パレス』っていうカフェの店長さんなんです。シオンさんはそこに勤めるギャルソンで。緑がいっぱいのお店で、メニューも豊富で、料理も美味しくて」 「あのかたが……、料理や給仕などをなさっているのですか? 信じられない」 「ヴァイエン候邸では違ったんですか?」 「ものごとの『役割』に厳格なかただったので、厨房のことは専門の料理人にまかせるべきだと。ああ……、でも」 シルフィーラは記憶を探るように、頬に手を当てる。 「厳格過ぎるのが仇になって、武装財務官職の部下のかたがたとの関係がうまくいかなくなったと胃を押さえてらっしゃったとき。『ちょっとした軽食や飲み物を差し入れすれば、なごやかな雰囲気になるのではないですか?』と何気なく言ったら、『そうか』と、いきなり、ご自身で作られたことがあって」 「料理人に命令するんじゃなくて?」 「真面目なかたなので……。『こういう場合は自分で作らねば意味がない』と」 「……そういえば」 優はふと、ラファエルに初めて会ったときのことを思いだす。 たしかあれは、秘密のビーチでの、水上カフェだった。 ――故郷では、今とまったく違う、なんと申しましょうか……、ストレスの多い職に就いておりましたので……。 お客様の笑顔が拝見できるというのは、恵まれた環境だと思っている次第です。 「そうですか。少しは、肩のちからが抜けてらっしゃるのかしら」 優のことばに、シルフィーラは楽しげに笑う。 * * 「そろそろ皇帝陛下と皇太子殿下がお戻りだと思うので、ご紹介しますね」 シルフィーラにいざなわれ、館の門扉まえに出たときだった。 何やら、すさまじく大量の向日葵を束ねた塊が、ふたつ並んで、近づいてくる。 「足元に気をつけてくださいね、父上」 「……我が、花などを摘み、このように抱えて運ぶなど」 「シルフィーラ! ほら、向日葵。部屋に飾りたいって言ってたから、たくさん摘んで来たよ」 「似合わぬことは気が引けてならぬ。戦場にいるほうがよほど気楽だ」 「父上、もっとちゃんと抱えてください。落としちゃいますよ」 それが、前が見えないほどに、腕いっぱいの向日葵を抱えて歩いていた皇太子アルフォンスと皇帝ユリウスであることに気づいたときには、少々、遅かった。 「わ」 「……!」 何ごとかと見つめる優とジュリエッタに、真っ正面からぶつかってしまったのだ。ばさっばさばさっと豪快な音がして、向日葵は盛大に散らばった。 「ご、ごめんなさい」 自分がぶつかった相手が誰なのか確かめる前に、アルフォンスは謝った。 年のころは、14、5であろうか。繊細な顔だちの色白の少年だ。父親とあまり似てはいないが、黒髪と深緑いろの瞳は受け継いでいるようだった。 「こんにちは。これ、部屋に運べばいいのかな?」 「うん……。あの、誰?」 向日葵を拾い集めるのに手を貸す優を、アルフォンスはまじまじと見つめる。 「これは、ご無礼を。大事ないかな?」 尻餅をついたジュリエッタを、ユリウスは力強い腕で助け起こす。 「どちらの姫であられるか? もしやノイエラグーネ選定候の」 「私も最初はそう思ったのですけれど。……ご紹介いたします。ヴァイエン侯爵とわたしの弟の友人でいらっしゃる、ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノさんと相沢優さんです」 * * ――よう、アルフォンス。久しぶり。 こんなふうに話すのって、すげぇ照れくさいし、何をどう言っていいんだかわかんないだけど。ジュリエッタがどうしてもっておっかなくてさ。 まあ、なんだ、その……。あんま、気にすんな。おれも、気にしないことにするよ。 いやぁ、ここにいるとさぁ、「細けぇことはいいんだよ」が合い言葉になっちゃって。 またそのうち、ちゃんと話に行くよ。 ――ユリウス=ジギスムント皇帝陛下。ヴァイエン侯爵ラファエルと申します。未だ戦場で相まみえたことはありませぬが、ご勇名はかねがね。 養い子のシルフィーラが思わぬ厚遇をいただきましたようで、感謝に堪えません。 聡明な娘ですが、私の教育が行き届かなかったせいか、思い切ったことをしでかすときもあるでしょう。あらかじめお詫び申し上げます。 近々、ご挨拶に伺わせていただきたく存じますが、今は、ジュリエッタ嬢と相沢氏に名代をお願いしたままにて、失礼いたします。 ACT.3■Party シオンのポプリを受け取り、メッセージを聞き、アルフォンスは肩を震わせている。 「シオン。……よかった」 「ヒトは……、いや『ひと』は、己の生き方を貫くために別れなければならないこともある。そなたが自分の道を見つけ、前に進んでいくことこそ、シオン殿の望みではなかろうか」 静かに、毅然と、ジュリエッタは言う。 「如何に遠くにいようとも、友人であり続けることはできようぞ」 アルフォンスはこくりと頷いた。 「しかし……、シルフィーラ殿たちの話を聞くにつれ、未だ過去に囚われているのは女王陛下だけということか」 自身がその目で見て来たことを、ヴァイエン侯爵領の《風待ちの森》で何が起こっていたかを、あますところなくジュリエッタは伝えた。そして女王オディールは、彼女にとってもこの世界にとっても大いなる災厄を呼ぶかも知れぬ《もの》を手にしていることを。 「あのおびただしい《迷卵》はただごとではない。どこか自然の摂理が歪んでいるとしか思えぬ」 「そのようですね」 シルフィーラは目を伏せる。 「ジュリエッタさんのお話をお聞きして確信が持てました。《迷宮》の異常発生は、オディール女王が《それ》を手になさってから頻繁になった。この符合を考えますと」 「――女王の迷いを《それ》が増幅させているのやも知れぬのだな」 ユリウスが断じた。 「おいたわしいことです。わたしは迷いを絶ったというのに、このままではあのかたが《迷鳥》になってしまう」 「先日、俺はロックさんたちと迷宮へ行きました」 優もまたシルフィーラに、自身が遭遇した事例と、同行者のことを伝える。 「ロック……、ロック・ラカンのことですか? あのかたをご存知ということは、……そうですか。彼も今は、異境の住人なのですね。あのかたにも、私は謝らなければ」 「ロックさんに?」 「あのかたは、ご自身の職務に忠実に、ためらいもなく私の翼を切り落としました。ですがシオンはそれを拒み、逃げた。そのことが、迷いのなかったあのかたにも、新たな迷いの苦しみを与えてしまったのではないかと」 「俺が赴いたのは『痛み』の迷宮でした。他の迷宮もそうだったけれど、どの迷宮も負の感情に満ちていました。《迷鳥》は、世界の負の形なのだろうかと、考えたりもしました。でも俺にはシオンさんや貴女が負の存在とは思えない」 「ありがとうございます」 「俺はまだ、《迷鳥》のことについてはなにもわかりません。ただ、《迷卵》を誰かが保護し、愛情を注いで育てれば、それは《迷鳥》ではなくなるのかも知れない。そんな仮説を持っています」 「それは、とても優しい仮説ですね。あなたはとても優しいかたなのね」 「……そんなことは」 「優しいと言われるのは、いや?」 「なにか違う……、気がして」 「優しいひとほど、そういうものよ。ご自分の優しさを隠そうとするの。ラファエルさまも、そうだったもの」 「ときに、シルフィーラ殿におかれては、地下図書館を調べに行かれるとの由。わたくしたちも同行させてはくれぬか? ことは世界に関わる事態ゆえ」 居住まいを正し、ジュリエッタが申し出る。 「よろしければ皇帝陛下も皇太子殿下もご一緒に」 優が真剣な表情を向ける。 「皆で協力して調べましょう。人が多い方が効率的です」 「ふむ。そなたの言うとおりだな」 ユリウスがゆっくりと頷いた。 ACT.4■Labyrinth 真夜中のメディオラーヌムを、異色の一行が赴く。 閉ざされた地下図書館へと。 だが。 「……これは、何としたことだ」 何ごとにもあまり動じぬ皇帝が、うめいた。 その場所に、地下図書館はなかった。 彼らの前に広がっていたのは、巨大な空洞だったのだ。 まるで巨人の手にでも無造作にえぐられたかのように、ぽっかりと、あっけなく。 「あれを」 皇太子が、空を指さす。 羽音が、聞こえた。 闇のいろの羽根が、夥しく振ってくる。 孔雀だ。 真っ黒な孔雀が、羽ばたいていく。 霊峰ブロッケンの方向に、消えていく。 ACT.5■Replay ラファエルさま。ご無沙汰しております。 不実な元婚約者にて、また、親不孝ものにて、申し訳ありません。 優さんから、貴方が私に「感謝」くださっているとお聞きし、如何にも貴方らしいと思いました。 どうか、ご自分を責めないでください。女王陛下のご命令がなくとも、いつか私は、貴方のもとを巣立たなければならないと思っていました。 駆除されるはずだった《迷卵》を保護し、ご自身の立場をあやうくしてまでも、私とシオンを育ててくださったことを、あらためて感謝いたします。 ……ただ。 もう少しだけ、せめてもう1年でいいから、貴方と一緒にいたかった。 その想いは、オディール女王陛下も同じなのではないでしょうか? おそらく、近いうちに異変が起こります。 詳細は、ジュリエッタさんと優さんから、お聞きくださいませ。 * * 「シルフィーラさんは、とても素敵なひとですね」 優が、ぽつりと言った。 ――Fin.
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