【花菱 紀虎編】 ――さて、困った。 するってぇと、若旦那はその高津神社で一目お会いしただけの娘さんが忘れられねぇ。 頭から離れねぇってんで、食事も喉を通らねぇ、昼も夜も眠れねぇってんで、患いついちまったわけですかい。 へぇー! やっぱアレだね、若ぇってのは素敵なもんだね。「からかってもらっちゃ困りますよ……。 たしかにあの方とは茶店で言葉を交しただけの仲だ。 でもねぇ、あれからというもの、その娘さんの顔が夢に現に浮かんでは消え、浮かんでは消え。 こう話している間にも、瞼を閉じればその娘さんの顔が……」 分かった! そりゃアレだろ、夜に川べり歩いてりゃ柳の下にその娘さんがいて、よく見ると誰もいねぇ。 提灯の明かりをぼうっと見てるってぇとその娘さんの顔がちらちら。 夜中に便所へ行きゃ、娘さんが下肥の中から覗いてるってこった。違うかい?「幽霊みたいに言うんじゃないよ。 でもねぇ、くまさんの言う通り、たしかにあちこちで顔をお見かけする。 こうして寝込んでいるだろう? 天井の木の節を数えているとそこに娘さんの顔だ。 欄間に掘られている天人様の顔がその娘さんに見える、 床の間の掛軸、あそこで綱渡りをしているたぬきの顔がその人の顔に。 病気が治らんかと思って浅草にお参りにいけば、仁王様の顔までが娘さんの顔に見える。 ……さっきからおまえさんと喋ってるでしょう? そしたら、おまえさんの顔が……、だんだんとその娘さんに……」 気持ち悪いね、若旦那。 あんたの思い人ってのはこんな髭もじゃで色の浅黒い熊野郎じゃねぇでしょう?「顔もよく覚えてないんで、そう言われたらそんなような気も……」 こりゃ重症だね。 分かった分かった。じゃあね、あっしがその娘さんを探してきますから。 何か手掛かりはねぇんですかい? え、料紙(メモ)を渡された? 何て書いてあったんです?「せをはやみ」の五文字? へぇ、こらぁ何かの暗号ですかねぇ? 崇徳院の歌? あー、なんだねぇ、学のあるお人は色恋しようってのにもこんなのがいるなんざ大変だねぇ。 ミ☆ ミ★ ミ☆『崇徳院』は端折らなければ30分程もかかる大ネタである。 神社へお参りにいった若旦那が茶店で少し話をしただけの娘さんに一目惚れをしてしまうというものだが、ほとんど手掛かりがない。 肝心の若旦那は恋煩いで寝込んでしまっているので、日頃、商売のつきあいがある熊五郎がその娘さんを探して走りまわるというものだ。 唯一といっていい手掛かりは、娘さんから手渡されたメモにあった「せをはやみ」の五文字だけで、他には何の情報もない。 仕方がないので「せをはやみー、せをはやみー!」と唸りながら街中を歩いてまわる熊五郎が主役の古典落語のひとつである。 落研の演目の中では最上級生ですら演る事をしぶる程の困難なネタであり、 普段、怪談噺を中心に演じる花菱紀虎には珍しい滑稽噺ではある。だが紀虎は今回、高座の出し物としてこの『崇徳院』を選んだ。 なぜ自分がこの噺をしようと思ったのかはうまく説明できない。 恋しくて恋しくて寝床も喉を通らず、飯に入っても溺れかけ、風呂を食っては朝まで唸る、などという経験はないのに、 ふと「そういう気持ちってどんなものなのだろう」と思ったのがきっかけだった。 何度目かの上演が終了し、習慣のようにトラベラーズノートを開く。 楽屋にしまわれては一日が終わるまで取りだすことができない。そこで手荷物と一緒に持ち歩いているというわけだ。 ――宛先。0世界、音琴夢乃。 そう思い浮かべて、記憶の中を顔をノートに託してエアメールを送信する。 書いた文字は「やあ」の二文字だけ。 数秒して、送信に失敗したことを知らされる。携帯メールでいうなら「着信失敗」だった。 名前を覚え間違えたかも知れない。これは携帯のアドレスを交換しておくべきだったか。 そんな事を考えて、頭をふる。 日頃からバカ話をしている同級生の連中の「アドレス交換に持っていくテク」「約束の仕方」「待ち合わせ場所」「デートの約束への持っていきかた」なんていうものを ほんの少しだけ真面目に聞いておけばよかっただろうか。 そして、さらに頭をふる。「いや、0世界でまた遊ぼうって約束しただけだ。そんなデートっていうほどのデートじゃない、デートじゃない」 約束、といってもゆびきり。 嘘ついたら、指を詰めて、拳骨で万回殴打した上で、針千本飲ます。 古典落語によればとても大切な、それも罰を伴う契約だ。 証文こそ交していないため、熊野で鴉が三羽死ぬようなこともないだろうが。 そんな事を考えていたら、いつのまにか時間も経過していたらしい。「紀虎さーん、出番でーす」 気がつけば出囃子が鳴っていた。「しまった、最後のネタ繰りができなかったな」 ぼそっと呟き、頭の中で一度だけ崇徳院のネタを素早くなぞる。 さて、行こうかと目を開けた瞬間、トラベラーズノートに不意に文字が浮かび上がった。 ―― 覚えてる? ―― 私だよ。今度遊びにいくね。 ―― 約束、覚えてるよね? その文字列に覚えがあり、差出人は何度エアメールを送っても届かなかったはずの相手である。 出番前の緊張で、頭が軽いパニックを起こしていると、舞台袖から「紀虎さーん」とお呼びがかかった。遅いと急かされているのだ。 はい、と返事して高座へ歩き出す直前、紀虎はお茶子に腕を引っ張られた。「違いますよ、最後の講演はコスプレしながらって言ったでしょ? あ、コレ、荷物ですか? 楽屋に持っていっておきますね!」 そういえばそんな打ち合わせをしていたような、しなかったような。 頭の整理ができないまま、トラベラーズノートはお茶子に取られてしまい、紀虎はサンタ帽に白い漬け髭をつけられたまま茫然と高座へと向かった。【音琴 夢乃編】 秋風小夜更けて。 壱番世界の日本、誰もが御存じの通り十月末にハロウィン商戦が終わると一気にオレンジは赤へと塗り替わる。 夢乃のスケジュール帳にクリスマスの予定はない。 アルバイトでもいれようかと思っていた矢先に、携帯にメールが入る。 from 里内理恵 Title:クリスマス、暇? 合コンしない? 本文: やっほー。暇だったらクリスマスに合コンしない? 予定してた子が彼氏できちゃったってドタキャンしたのー! まだまだクリスマスには程遠いこの時期にドタキャンもあったものではないが、 悪意もなく、隠す気もない人数合わせである。 確かこの前は行く気になったのだが。『ごめんねー。先約があるんだよー』 なんとなく、そんな気にならなかったので無難な返信をかけた。 さすがにこれで本当に暇だと都合が悪いかも知れない。 別に気を使うつもりもないのだが、夢乃の性格上、不用意に敵を作る事は避けておきたい。 少なくともこの合コン話は気が乗らないだけなので、すっかり忘れている自信がある。 不用意にクリスマスの話題をふられて「ひまだよー」と言いかねない気がして、 しかも、その対策を練っておく程の段取りを組むのは、こちらも自分では不可能な気がする。 どうしようかなー、なんて考えていると再度、着信。 from 里内理恵 Title:あー、さては 本文: こないだのノリコちゃんといい感じになったんだな? あ、言うの忘れてたけど、ノリコちゃんから携帯のアドレス欲しいって連絡があったぞー。 もう他の方法で交換したのかな? 幸せなクリスマスを送れそうで何よりだ。おごってくれるならアイスがいいな! ―― ノリコ? 夢乃の頭をノとリとコの文字がぐるぐるまわる。 そんな相手に覚えがない。中学時代にそんな名前の同級生がいたような気がするけれど。 思わず携帯電話のメール欄を確認するが、ただでさえ少ないメールアドレス帳にそんな名前はない。 もちろん、受信メールボックスにそれらしい着信もない。 ついでにスケジュール帳にもそんな記載はない。 しばらく迷ってから、里内の勘違いだろうという事にして済ませる。 わざわざ問い合わせるのも、なんとなく気が向かなかったのだ。 ミ☆ ミ★ ミ☆ ふと思いついたきっかけは、ぼーっと眺めていたテレビの番組だった。 どうやら古代文明の予言によると今年、世界が終るとかで緊急特番が組まれるらしい。 緊急特番の予告がなぜ二週間以上も前から宣伝されるのかつっこまない程度に夢乃は大人だったが、 その内容を見て、ふと、「ああ、紀虎くんが好きそうだな」と感想をいだいた。 ちょっと連絡をとってみようかな、と思ったけれど、携帯のアドレスも交換していない。「ねえ、大福屋のしずくさん。紀虎くんのいるところ、わかるかなー?」 セクタンのしずくが大袈裟に腕組みし、頭をヒネるポーズを取る。「むむむむ」「こいつぁ難題だぁ」「あっちかのう、こっちかのう」と夢乃がポーズに合わせてアテレコしてみるが、 最終的に、しずくはこてん、とコケて寝てしまった。「だめかー。うーん、ぼく人探し苦手なんだよねー」 例えば。 里中に連絡して、メールアドレスを回してもらい、 2、3人を経由すれば相手、花菱紀虎のところまで行くかも知れない。 でも。 そんな器用に他人を利用できる性格ではない事を知っている。「よーし、それじゃ」 トラベラーズノートを開き、文字を並べる。「ええと、壱番世界。花菱紀虎くん」 顔を思い浮かべて、言葉をつづる。 ―― 覚えてる? ―― 私だよ。今度遊びにいくね。 ―― 約束、覚えてるよね? ぼくだよ、と書いた方が分かってもらえるかも知れないが、 なんとなく、文面で一人称を「ぼく」にするのは抵抗があった。 程なく、送信に失敗にした事が分かる。「……あれ、どういうことかな、大福屋さん」「イチバンセカイニ イナインジャナイカナー?」「あ、そうだね。じゃあ、次は……。ええと、0世界。花菱紀虎くん」 大福屋しずくの台詞ももちろん夢乃のアテレコである。 左手でぶにぶにとセクタンの体をなでまわしながら、右手で文字をつづる。 今度は送信に成功したらしい。 だが、今度は返信がない。「あれれ。お返事がないね」「コマッタネー」「うーん。じゃあ、明日は予定ないから今から0世界に遊びに行っちゃおうか」「イコウイコウー」 夢乃は大福屋しずくを両手で抱え上げ、突然の0世界旅行を決意した。【そして、0世界へ】 セクタンの、つまりは大福屋しずくの能力で夢乃は紀虎の位置を大ざっぱに把握する。 紀虎のセクタンである「まんじゅう」を追いかけて、大福屋が位置を示し、夢乃はその方向に向かって歩くだけだ。 さて、気が気でないのは紀虎の方である。 合コンで出会った仲間(ロストナンバー)と一夜だけ盛り上がり、 また再開しようとしてみれば、エアメールは届かない。 その相手から、どこかで話したような内容のメールが着信した。 その話は今度会ったらその相手、つまりは夢乃に語ろうと思っていたとっておきの話なので、彼女が知っているはずがない。 しかも、今、紀虎はサンタの格好で噺の真っ最中であり、トラベラーズノートとにらめっこできる状況ではない。 ――瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川のー! 噺の言葉に心がのらない。 ――ええ、瀬をはやみぃ。瀬をはやみぃ。娘さん、どこだぁー? 夢乃はセクタン、大福屋しずくの誘導でひたすら歩き続ける。 辿りついたターミナルの賑やかな繁華街、その一角でちょっとした舞台をやっているらしい。 色々な出し物をやっているようで、チラシがどんどん手の中に飛び込んでくる。「ええと、大道芸、曲芸、アロマテラピー講座に、詩吟。 お笑いライヴ、セクタンのラインダンス、どっちも料理Show、辻試合、かー。面白そうだねー、しずくさんー」「オモシロソウダネー」 夢乃の気を引くような楽しそうな催し物が目白押しである。 このままでは夢乃はターミナルで楽しい一日を過ごしてしまい、紀虎に会えないままだ。 ――瀬をはやみぃ! 高座で紀虎の声がひときわ大きくあがった。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>花菱 紀虎(cvzv5190)音琴 夢乃(cyxs9414)
夢乃の散歩は大抵が真夜中である。 ネオンのついた繁華街も、街灯すら乏しい裏路地に月明かりが注いでいても、夢乃が気紛れに歩く先は闇の薄絹に覆われていた。 今、彼女が歩いているのはそれと対極の昼の世界。 活気のある街中の賑やかな喧騒も、道端で欠伸をしている猫も、夜の世界に比べると少し空々しい。 屋台の呼び込みに試食用のうさぎ型に剥いたリンゴを一口貰い、大きな球の上でいくつものお手玉を披露する大道芸のピエロに拍手を送る。 賑やかな雑踏で、微笑を浮かべながら街中に溶け込んで、それでもどこかでこの賑やかな世界と自分の間に風が吹き抜ける隙間を感じつつ、クリスマスムードに沸く雑踏を歩き回る。 案内役の大福屋しずくも適当にうろうろしているので、それはそれでいいのだ。 興味のペン先をあっちへ向け、こっちへ向け。 大きなツリーが見えたので、そっちへいこうかなと思ったらしずくさんが別の道へと駆け出したので追いかける。 ―― えー、せをはやみぃ、せをはやみぃ。他に手がかりはねぇもんですかねぇ? 若旦那ー!! 「どっかで聞いたことある声だよねー?」 足元で立ち止まったセクタンを抱き上げて路地を抜け、声の元を探して歩く。 行きつく先で、大きなイベント用のテントの中に檜櫓の立派な舞台に朱色の毛氈、舞台袖には極太寄席文字で「さんた寄席」の文字。 舞台上で正座をしているのは、これまた真っ赤な服に白い飾りをまとったサンタクロース。 その主役以外はすべて和風なのに、舞台の主役だけはコーラ様式の洋風というミスマッチが面白くて夢乃はくすくすと笑った。 「良かったら見ていってください!」 「うーん、落語……? って、ちゃんと聞いたことないなー。近所のおじいちゃんが好きだったっけー」 「いいからいいから! 今の演者さん、噺、うまいよ!」 元気な呼び込みに誘われて、ついでにしずくさんが先に飛び込んでしまったので、夢乃はテントの中にある手近なパイプ椅子に腰掛けた。 サンタさん――、もとい若旦那が一目惚れした娘さんを探す役割のくまさんが、長屋に帰ってきたらしい。 その娘さんを探し出すためのヒントは「せをはやみ」と書かれたメモ一枚。それじゃ探しようがないからと他にないのかあれこれ聞き出している。 ―― そうだねぇ。綺麗な髪に、綺麗な目がふたつ。その間から少しだけ下にいったところに鼻がひとつあって、鼻の下には口ひとつ。鼻と口の間に、鼻の穴がふたつ。 ―― あたりめぇじゃねぇですか。かなわねぇなぁ、まったく。 ―― 他に、特徴なぁ。 「あれ、サンタさん。なんかこっち、見てる? ……よねー? しずくさん?」 返事をしないしずくさんを胸に抱き、夢乃は小首をかしげる。 舞台上のサンタクロースとよく目があう。そんな気がした。 ミ★ ―― 若旦那の説明じゃ、ちーっとも見つかりませんよぉ。あっしにゃ、まだそれが人間かタヌキかも分かっちゃいねぇんですから。 ―― 失礼なことを言うんじゃないよ、娘さんはそりゃあ美しいお人でしたよ。目と目があったその時にあたしの体に電流が走ったんです。 ―― 昼に食ったってぇウナギのせいじゃねぇですかね? え? 違う? ウナギなんて食ってねぇ? 嘘だぁ、じゃなんで掴みどころのねぇ話ばっかするんです? ―― 冗談言っちゃいけませんよ。そうだねぇ、その娘さんはねぇ……。 考え込むしぐさを取った時、視界の端に夢乃の姿が映り紀虎の心臓がどくんと鳴った。 次に、何十何百とネタを繰り返し練習した自分に紀虎は心から感謝した。 若旦那のノロケを混ぜっ返すクマさんの額に、若旦那の扇子がぴしりとあたる。 伸ばした手と扇子の先に見えた顔。 とたんに紀虎の心臓がどくんと跳ね、頭の中はすぅっと冷え、息を吸うのも吐くのも何かが痞えて、スポットライトとサンタ服に包まれていてもなお体中の鳥肌が立ちあがり、熱くもないのに冷や汗が流れ、喉の奥からチリチリと熱を帯びる。 それでも、言葉は途切れさせるわけにはいかない。顔にも出せない。 もしも頭の中から記憶を取り出して演じる噺だったなら、ここで言葉に詰まっていただろう。 そうならない自分に。己の脳が予想外の出来事で一瞬にして沸騰しても、噺が止まらない程に練習を積んだ自分に感謝した。 (あそこに! あそこに夢乃さんがいる! 夢乃さんが見えてる! 夢じゃないよな? 欄間の掛け軸も天井の節目もないけど、遠目に見えるポスターの顔も最前列のお爺ちゃんの顔も夢乃さんに見えない。 ってことは、やっぱりあそこに座っているのは夢乃さんだ!! あそこに夢乃さんが見えてるのに会えないぃ!) 噺の最中に余計なことを考えるのも、気持ちを高ぶらせるのもご法度だ。 それは噺に不意の失敗を運び込む。 (俺、なんで……? 俺、なんでこんなところにこんな格好で座ってんの!? せめてこの恰好じゃなかったら……とか今更言ってもしょうがないし。 まんじゅうは夢乃さんのセクタンに知らせらるよう頑張って……!) 舞台袖で暗幕に手を添えて紀虎を見守るセクタンのまんじゅうに視線を送りアイコンタクトを計る。 ―― しかしだね、若旦那。そんな一目見ただけの娘さんを探せといわれても無理ですよ。もっとこう、具体的な手がかりはねぇんですかい? (俺は……、うん、俺はここを離れる事はできないから! 一度高座に上がったからには終えるまで下りられない。俺自身そんなこと許せないし……) 自問自答を繰り返し、紀虎は覚悟を決める。 (とりあえず、ネタで気付いてもらえるようにしよう!) 演じながらの脚本アレンジ。しかも、噺は途中まで終わって、ぶっつけ本番。 多少の齟齬は仕方ないとしても、聞き手に違和感が残らないレベルでの調整を行いつつ、脚本を入れ替えるのだ。 具体的な手がかり、と言われた若旦那は「人が集まるところへ行けばいい」と提案をする。 だが、今日だけは紀虎のアレンジで、若旦那はくまさんに床屋や風呂へ行けという前に、一目ぼれをした娘さんの事を一から思い出すのだ。 それに合わせ、紀虎は夢乃と最初に出会った時のシーンを脳裏に描き、なるべく精緻に追いかける。 ―― あたしがその娘さんと出会ったのは高津神社の茶店。そこで仲間とお酒を飲んだんですが、その時、その娘さんの中にね。えー、あるべきものがないってぇのかねぇ。この世のおヒトじゃない、天女じゃないかって程のお方がひとり。あたしゃそりゃもう驚きましたよ。 ―― その娘さん、頭に「ゆ」ってつきませんか? ―― おおお、クマさん。さすがだね。そうそう、そんな名前の……。 ―― 幽霊! ―― くまさんもしつこいねぇ。ええ、お夢さん、と言ったかな。その娘さんはね、目元と口元にホクロがありまして、優しい雰囲気でねぇ。おっぱいなんかも大き……。げほげほっ。 (違う! そんなところはどうでもいい!!) ―― へへっ、蒸せてやんの。若旦那も男だねぇ。 ―― バカなことを言っちゃいけませんよ。ほら、いいから人の集まるようなところ、床屋とかお風呂さんとかで「せをはやみ!」って言いまわっておいでなさい! ―― へぇ~い!!! ……えー、まぁた追い出されちゃったよ。えー、瀬をはやみぃ、せをはやみぃ! お、風呂屋だ。ちょっくら行ってみっかね。 ミ☆ 「お夢さんだって、しずくさん。……どしたのしずくさん?? サンタさんだよ? ……あれ? あれえ? 紀虎くん!?」 セクタンの視線を追って、思わず凝視した舞台上の演者。 舞台の上と、観客席の隅なのに、何度も何度も目があう気がしていた。 気のせいかも知れないけれど、サンタの帽子に隠れた瞳に見覚えがある気がする。 「ね、しずくさん。紀虎くんって落語やってたからお話し上手なんだねーえー。ぼくにはとても無理だなー。あんな場所に立てないし話せないよー」 ころころと変わる表情も、抑揚をつけた喋り方も覚えがある。 合コンの席で紀虎が夢乃に語りかけてきた時の、魔法のような言葉の羅列、呪文のような噺の詠唱。 抵抗する気すら起こさせずに、するすると物語が夢乃の頭に飛び込んできたあの感覚だ。 でも。 紀虎は今、夢乃を含めてはいるものの、この客席に座っている全員に語りかけている。 心に響いてこないわけじゃない、頭に飛び込んでこないわけじゃない。 ほんの少しだけの距離感。舞台と客席とかそういうことじゃなくて。 「あれれ、なんだろねー? しずくさん」 うまく言えないがどこかぽっかりと胸に穴があいて風が吹き抜けていくような気がして、隣に座っていたセクタンを持ち上げて抱きしめる。 ―― おぉぃ、床屋さん。頼んでいいかい? ―― ……そりゃまぁこっちは商売だからやれって言われりゃやらねぇこともねぇけどよぉ。そんなに短くなっちまった頭のどこを切れってんだい? ―― 短けぇかぁ。そーだろうなぁ。オレぁね、今朝からあちこち走り回って風呂屋を七件、床屋は二十件目だ。もう切るとこねぇか? いっそ眉毛でも……。 ―― あんた、町中の床屋や風呂屋まわって、その「せをはやみ」ってやつ、言って回ってんのかい? 見上げたもんだねぇ。 「ね、しずくさん。ちょっとイタズラしてみようかー」 舞台上の紀虎をじっと見つめる。 そのまま、どこかで目があうチャンスを待って――実際、そのチャンスは十秒と待たずに訪れ――にこりと笑顔を浮かべてみる。 小首を傾げた夢乃の視線は、白いおヒゲに隠れた紀虎の視線とぶつかった。 周りにいる大勢の観客の中のひとりと、その観客を夢中にさせている高座の上の演者との、一瞬だけのアイコンタクト。 軽く、しずくさんの手を持って振ってみる。 ―― オレにゃ、そういうホレたハレたなんてわかんねぇけどよぉ。どっかにいねぇもんかねぇ、えー、せをはやみぃ! こんな床屋だけどせをはやみぃ! ―― こんなで悪かったな、しっかし、なんだね。まるでおめぇさんがその娘さんにホレたみてぇだね。 ―― そりゃもう、その娘さんを探しだしゃ長屋二棟に田んぼと着物がついてくるって寸法よぉ。うちの女房なんざオレに走り回らせるためにわらじ焚いてメシ編んでるぜ。 ―― あべこべだね、こりゃ。あ、でもよぉ、もしかしたらその娘さんも若旦那に会いたがってるかも知れねぇな。なんてったってその「せをはやみ」を渡したんだろ? ―― そりゃそうだね。しっかし、お夢さん、少しでいいから待っててくれねぇかなぁ。すぐに、すぐにでも飛んで行くからよぉ。 夢乃に語りかけられたのかと思うほどに、真に迫った言葉だった。 どきん、と夢乃の胸が高鳴る。 やがて、高座上のくまさんは床屋を出て、次の風呂屋へと向かう。 思わず息を止めて聞き入ってしまった自分に気付いて、夢乃は深くゆっくりと息を吐きだした。 「ふわー。すごいね、紀虎くんって」 聞いているだけで、なんだか落ち着かないような、気恥ずかしいような。 待っててくれと言われて、逃げ出したくなるような、そんなそわそわ感が止まらない。 舞台の上では、くまさんがついに十件目の床屋へと入る。 首から上のどこにも切る毛がないからと、いっそ植えてくれないかと言い出したところで、新しい登場人物が現れた。 急いでいるから早くやってくれねぇかと頼むその人物に、くまさんは快く順番を譲り、聞くとはなしにその人物の話を聞く。 ―― 実はね、うちの主人の娘さんが恋煩いで寝込んじまってねぇ。高津神社あるだろ? あそこの茶店で出会った男が忘れられねぇってさ。 ―― ……あァん!? ―― 人知れず育てた思いの丈、娘さんにゃあ重すぎて倒れちまった。今朝、とうとう白状させたところがその男だ。でも、どこのどいつかわかんねぇ。 ―― ちょ、ちょっと待ってくれよ。その娘さん、男を捜す手がかりはなんか言ってなかったかい? ―― ほら、そこだ。娘さん、つい舞い上がって、ぽーっとしちまってね。思わず、料紙(メモ)に崇徳院さんの歌を書いて手渡した。たしか、せをはやみ―― ―― 捕まえたぁぁぁぁぁ!!!!! ―― うわぁぁ、な、なんだなんだ。おい、暴れるな! おい、うわっ、硝子にヒビが! 危ねぇ、危ねぇって!! 大立ち回りのシーンに入った頃、夢乃は静かに席を立った。 賑やかな場面なので自分が立ち上がっても会場の人の気を散らすことはないだろう。 探していた紀虎くんもみつけたし、舞台の上にいるのならお返事が帰ってくるはずもない。 待っていようかとも思ったけれど、たぶん、夢乃の学校の学園祭のように、仲のいい友達と打ち上げしたり、片付けしたりと忙しいはずだ。 「えへへへー、ねぇしずくさんー。紀虎くんと偶然あえたねー」 セクタンの脇の下を抱え、高いたかーいと空に掲げる。 催し物のテントから出る時、一度だけ振り返って、舞台の上で笑いをかっさらうサンタさんに(見えないだろうけど)微笑みかけて、外へ出る。 呼び込みを続けていたお茶子さんから「ありがとうございましたー!」と元気な声がかかった。 「こちらこそ、ありがとうねー。じゃ、しずくさん。帰ろうかー」 無意識にポケットに手をいれ、壱番世界の自宅の鍵を手に取る。 ちゃりっと金属音がして、鍵についていたキーホルダーが手の中に転がり込んできた。 取り出してみると最近自作したばかりのキーホルダーは、鎖が絡まっている。 適当に解きながら、紙粘土製の黒縁眼鏡黒髪サンタ人形を見つめて、ふと気付く。 「ああ、紀虎くんに似てるんだねー、これ」 じっと見つめていると、ついさっきまで見ていた舞台の上で頑張っていた紀虎の姿を思い出す。 「これ、紀虎くんに渡して欲しいなー」 「あ。差し入れですね。わっかりましたー」 笑顔で受け取った呼び込みの人にお礼を言い、今度こそ夢乃はロストレイルのホームへと足を向ける。 来る時に通ってきた繁華街の喧騒は、より一層、盛り上がりを見せていた。 ミ★ ―― おいコラ。くま公! 硝子が割れちまったじゃねぇかどうしてくれるんだ! ―― ああ!? こいつに娘さんの居場所を聞いて、若旦那の所に連れてきゃ、ご褒美がたんまりもらえるんだ! ―― だからってうちの硝子が割れちゃかなわねぇじゃねぇか! ―― がたがた言うんじゃねぇ、硝子だな? 分かった! 「割れても末に 買わんとぞ思う」 紀虎が最後の口上を述べ、深々と頭を下げると舞台袖で出囃子が鳴り響く。 静かに立ち上がった紀虎は舞台の端まで歩くと、もう一度お辞儀をして、舞台袖へと降りていった。 と、同時に走り出す。 楽屋前の廊下を走り、お茶子に「食事いってきます! 次の高座、一回だけ飛ばしてください!」と声をかけ、テントの外へと走り出す。 「あ、紀虎さん。さっき、かわいい女の子がこれを……あ、あれ?」 呼び込みをしていた仲間の声すら耳に入らず、0世界の繁華街をひた走る。 「まんじゅう、がんばって! しずくを探すんだ。あっち? あっちだな。分かった。お夢さん……じゃない、夢乃さん、どこだーっ!?」 セクタンのまんじゅうの後を追い、草履のままで繁華街をひた走る。 やがて、街の片隅で野良猫と見詰め合っている小さな背中が見えた。 夢乃が手を差し出すと、野良猫は不意に逃げていく。 「あー、行っちゃったねー。ね? しずくさ……ひゃぅ!」 振り向いた夢乃の顔に覆いかぶさる感じがして咄嗟に小さな悲鳴をあげる。 手で剥がしてみると、ぶよぶよしたセクタンは夢乃にひしっとしがみついていた。 「ええと、見たことあるような。あ、そっかー。きみ、まんじゅう」 「まんじゅう!!」 紀虎の呼び声に振り向いた夢乃はふんわりと微笑んだ。 「あははー、会えたよー。ね、会えたよー。しずくさんー。紀虎くんだねー」 じんわりとした嬉しさが夢乃の頬を緩ませる。 「え、ええと。夢乃さん。その、せっかく会えたんだし……って、そうだ。ちょっと時間作ったんで一緒にごはんとかどうですか? せっかくお祭りなんで適当に見て廻るとかも……。あ、それよりもプレゼントとかしたいな。クリスマスプレゼント。あ、あの夢乃さん。時間ありますか?」 「紀虎くんのサンタさんだねー。うん。それじゃあどこか行こうかー」 「ええと、カフェとかイタリアンなら目ぼしい所をピックアップしてありますから」 「調べてあるんだー、紀虎くんさてはマジメさんだねー? でも、せっかくお祭りだし、ぼくと一緒に探そうよー」 「え? あ、喜んで!」 サンタの格好のままの紀虎を引っ張り、夢乃はさっきの猫が去った方へと見当をつけて歩き出す。 「何を話したらいいかな。こないだみたいな話と、さっきみたいな……」 「あははー。うん、色々面白いお話聞かせてねー。それより、アドレス交換しよ。エアメール、旅行してると分からなくて不便だし」 圏外表示のままの携帯を取り出し、赤外線でお互いのアドレスを交換して画面を操作し確認する。 プロフィールの名前欄に表示された花菱紀虎の文字。紀虎。 ふと「ノリコちゃん」が誰か分かってしまった夢乃は小さく笑い出し、困惑する紀虎に向けて、携帯の赤外線送信口を向ける。 「ぼくの携帯アドレスはねー」 そう言い出した夢乃は、まだくすくす笑い続けていた。
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